タマンダーレは彼女の腿に後頭部を乗せて眠る独裁者の寝顔を軽く撫でてみる。
その表情は少しばかりの安堵と、同じくらいの不安を奏でていた。
彼がどうして"こう"なったのか…その理由は明白だ。
牧場を夢見ていた少年が殺戮者になった原因を、彼女は知るどころか作ってしまったのだから。
彼はきっともう元には戻れない。
タマンダーレ自身がその命をかけてみたところで、アドリアンが再び牧場主を夢見るようになるとは到底思えなかった。
しかし…だからこそ、彼女は諦めるわけにもいかない。
大戦の後重桜で三笠に教わったことを、彼女は自らの信条の中に組み込んだ。
そして今度は彼女はその信条を夫たるアドリアン・セルバンデスにも組み入れようとしている。
きっと彼は抵抗するし、受けつけようとはしないだろう。
その事は容易に想像できる分、彼女には周到な準備が求められた。
そして、それ故に何を犠牲にしようとも、彼女は絶対にやり遂げるつもりだった。
「…アドリアン………大丈夫よ、すべて私に任せておいて。」
ライリーが自殺を図った事は、アドリアンのだけでなく彼女の障害物をも取り除いたことを意味した…少なくとも、障害物の内の一つを。
元の彼を知るだけに手放しで喜べたものではないにしろ、彼女にとっては大きな前身と言える。
ただし、ライリーの存在だけが彼女の計画の阻害要因だけではない。
彼女の目の前には大きな壁が3つもあるのだから。
一つはユニオン本国。
現情勢下では、スプルースはきっと彼女の計画を支持しない。
これはもう彼女個人ではどうしようもないことだが、しかしこちらには希望がないわけでもなかった。
ユニオンの放送局はまるで終末の時来れりと言わんばかりに東煌の問題を騒ぎ立てているが、もしユニオンと北方連合の首脳達が世界の終わりを見たくはないのであれば互いに譲歩をしあって終結に向かうのは想像に難くない。
タマンダーレの見解は決して楽観ではないだろうし、現に東煌の緊張状態は既にピークを超えていると言っても良かった。
アドリアンが強硬手段でプラタの掌握を急ぐのは、彼自身もまたこの流れを感じ取っているからに他ならない。
二つ目の壁。
これはオイゲンの助言で気づいたことだった。
タマンダーレがアドリアンを"解放"しようとしているように、恐らくはアドリアンもまた彼女を"解放"しようとしている。
きっとアドリアンはこう考えているのだろう。
「タマンダーレは血塗られた男の側に立っているべきじゃない。」
…"全部終わったら、思いっきり平手打ちをしてあげる"、タマンダーレはそんな事を考えながらもう一度アドリアンの顔を撫でてみる。
そうなったら彼女は喜んで彼からの平手打ちも受けるつもりだった。
お互いに大切な事に気づけずに、つい夢中になっていたのだから。
タマンダーレにとって、その責め苦は相手に一方的に向けられたものでもない。
しかし、第三の壁…これは前途の二つよりも遥かに強大で、故に彼女には慎重かつ賢明な立ち回りが求められる。
以前からその存在には気がついていた。
これもまたオイゲンとのやり取りで気付かされたと思うと、彼女とその夫を保護した事はまさに吉と出たと取るべきだろう。
そうでなければ彼女はその正体には至ることもなかったはずだ。
…"オクロジャック"。
ユニオン側が送り込んだ、ライリーの内偵。
アドリアンに十分な理由を担保とする信頼を受けているし、そしてその信頼を受ける理由こそが、"オクロジャック"が内偵になった理由でもあるのだろう。
つまるところ、彼女はアドリアンを欺きつつも"オクロジャック"の影を警戒しなければならない。
やりきれる技量に自信はないが、やりきるという固い意思には自信があった。
ただし問題は…もし"オクロジャック"が彼女の予想通りの人物ならば…ライリーの意思に関わらず、その職務を全うするということだろう。
…………………………………
プラタ
旧海軍物資保管所
「情報の通り、秘密警察はまだこのあたりに注目してはいないようだね。」
アマンダは双眼鏡を除き、旧海軍の施設にあまり警備の人員が割かれていないことを見てとった。
とはいえ、それは杜撰というにはあまりに固められたものだったが。
施設の正門にはちゃんと銃座が据え付けてあり、Mk21機関銃を構える陸軍兵は警戒を怠っていない。
戦車はないがプラタからの鹵獲品と見られる装甲車が施設内を巡回していて、マウント上のM60機関銃の射手も職務を怠っているようには見えなかった。
しかし、アマンダの部隊もただ消耗を重ねてきたわけではない。
プラタのゲリラ組織と一時的に協力したことで、特に装備面において劇的な改善が見られた。
それに彼女についてきたゲリラ達はインビエルノやプラタの軍隊と何度もやりあってきた歴戦の戦士達。
この基地を一時的に制圧して、アルジェリーを逃し、離脱する。
何のことはない、十分やれる。
それでも彼女達が未だに生い茂る草の中から身を動かさないのは、沿岸偵察を行なっているアルジェリーと他の仲間からの情報を待っているからだ。
かのユニオンの名将はこう言ったという。
『"急ぐ"とは何らの事前偵察も兵站準備を行わずに作戦行動を起こすことをいう。こんな作戦では始めるまでは早くとも結局終わるまでに長くかかる。』
少なくともアマンダは、この金言をないがしろにはしなかった。
やがてゲリラに守られたアイリス人夫婦が彼女達の下まで這ってくる。
夫の方は汗だくになって息をつくのもやっとの様子だったが、妻の方は幾分しっかりしていた。
彼女はアマンダの傍まで来ると、横から状況報告を行う。
「…結論から言うと、行けると思う。沿岸の陸上防衛部隊は大した火砲をもっていないわ。高射砲が数門と、それよりも少ない軽榴弾砲しかない。艤装が手に入るなら、大した問題にはならないはず。」
「了解。…施設の内部に小型艇があるのも見つけた。あまり大きくはないけど、輸送船もいる。そっちに乗り込んで、隠密に行くって手もあるけど?」
「旧鉄血公国海軍を舐めないで。相手があのルートヴィヒなら襲撃を受けた基地から発進する船舶に、疑問を持つくらいの能力は持っているはずよ。そのまま"はいどうぞ"なんて、なるわけないでしょう?」
「なるほど。となると、やっぱり強襲しかないわね。」
「勝算はあるの?」
「それは寧ろこっちが聞きたい。セルバンデスの海軍が周到な包囲網を狭めてきても、アンタが対応できるのかどうか。」
「…正直なところ、セルバンデス政権側が切り札のKANSENを繰り出してきたら、私達は終わりよ。奴の手元には3人もいるんでしょう?」
「ええ。でも心配しないで。情報源によると、その内1人は常にセルバンデスと共にいなければならないし、1人は身重、そして、もう1人は戦場がトラウマになってる。」
「本当に?」
顔を顰めるアルジェリーに、アマンダはにべもなく応える。
「…ええ。」
「あなたの情報源には一度会って見たいわね。」
「残念だけど、それはできない。アンタ達には海軍の封鎖を突破し次第、国に帰ってもらわないと。中継地は決めてあるの?」
「正直、味方は少ないけど…なんとかするつもりよ。」
「期待してるわ。それじゃ………」
そこまで言うと、アマンダは双眼鏡を仕舞い込んで後ろの仲間達の方を振り返る。
「襲撃を始めましょう。目標はあの施設、素早く制圧して、彼女を送り出して、さっさと帰る。…無茶はなしよ?いいわね?それじゃ、迫撃砲に連絡して。」
率直に言えばアマンダ自身にさえ、今回の襲撃には不安が残る。
それは彼女達自身の安全というよりかは、彼女達によって送り出されるアルジェリーの安全の問題だった。
この襲撃が無駄に終わるのは、まず間違いなく、彼女達がセルバンデスの海軍の手にかかって死ぬことだろう。
情報源はその心配はないと断言していたが。
しかし、相手はアルジェリーすらその名前を知っているほど有能な指揮官らしい。
ファーストレディはいったいどんな魔法を使ったというのか?
…アマンダには想像もつかない分、今はタマンダーレを信じる他なかった。