インビエルノ
秘密警察本部
男は苦痛に耐えていた。
そうでなければ娘が死ぬ。
彼は秘密警察の、つまりは元は重犯罪者の尋問官相手にこの数日間を善戦していた。
彼らは言う。
"お前が必要な情報を吐かずにくたばるなら、この娘は母親と同じ目に遭う"と。
娘の母親は生きたまま硫酸に焼かれて死んだ。
男は憎悪に燃えていたが、しかし、娘まで同様に失うつもりはなかった。
尋問官達は男への暴虐を楽しんでいる様子だった。
爪を剥がしたり、睾丸を焼いたり、苦痛と見做せば片っ端から手をつけている。
だが、そんな尋問官達が今日この日、男が尋問室に入ってから初めて姿勢を正したのには驚いた。
もっとも、その理由がここまで過酷極まる尋問を耐え抜いた人間への敬意ではないことは確かだったが。
尋問官達が姿勢を正したのは、一重にその職を与えた人間が尋問室にやってきたからだった。
「…私は…きっと君を讃えたほうが良いんだろうと思う。」
尋問官達の大ボス、即ち、秘密警察長官のウゴ・オンディビエラは例によって仕立ての良いスーツを着て男の前に現れた。
その向こうには目に涙を浮かべる幼い娘が、猿轡を噛まされて座らされている。
娘はもう10日間も父親への残虐な仕打ちを目にしているのだ…硫酸に焼かれた母親の、酷い亡骸のすぐ横で。
しかし、秘密警察長官は、その歪な家族団欒を眺めてからこう言った。
「素晴らしい。いい家族じゃないか。…互いが互いを思いやっている。」
オンディビエラは娘と母親の亡骸の背後に立つ。
そうして、男の方を向いて話を続ける。
「この娘は…君のために、凄惨な拷問から目を背けていない。もう10日間も、人間がよく痛む場所をズタズタにされているのを見続けている。そして…」
オンディビエラは男の方を指差す。
「君もまた素晴らしい父親だ。これほどの凄惨な拷問にも関わらず、娘を助けるために…気を失うこともなく…拷問に耐えている。なぁ、そろそろ…私も君の頑張りには報いてやらねばならないと思い始めて来たんだ。」
オンディビエラは再びゆっくりと歩き出し、男の目の前までやってきた。
もし10日前なら男は唾を吐きかけたろうし、暴れもしたはずだ。
だが、この10日間は彼からはあらゆる闘志を奪い尽くしている。
秘密警察長官は疲れ切った男に顔を近づけて、囁くようにこう言った。
「…もし……もし、君が、我々に役立つ情報を吐くんなら………あの可哀想な娘は解放しよう。」
男は精一杯、この冷酷な長官を睨みつけていた。
それでも、この10日の出来事と娘の命という条件は、彼の理性に魅惑的に働きかける。
この吸血鬼の欲している名前の青年は、10日もあれば逃げ延びるだけの知恵はあったはずだ。
男はもうすでにその時間を十分稼いだように見える。
だから彼は、精一杯、後悔を滲ませていると感じられるような声で、こう答えた。
「………マルチネス…くそ!………マルチネスだ!奴が俺たちの連絡役だ!」
「ふぅん…マルチネス。そうか、よく分かった。実に賢明な判断だ。」
ウゴ・オンディビエラは男の返答には納得したようだったが、男が思っていたのとは真逆の対応をする。
彼が指をパチンと鳴らすと、すぐに男の背後から防護服に身を包んだ男たちがやってきた。
その男達は、彼の妻が焼け死んだ時と同じ容器を持っている。
「おい………おい!約束と違うじゃないか!どういうことだ!」
「いいや、約束通りだよ。私は"役に立つ情報"と言ったんだ。例のマルチネス君は…先々週にスタジアムで処刑されてる。君の情報に初めから価値などない。」
「…なっ………なら、なぜ……なんで…」
「うん、まあ。こんなものは…ただの"お遊び"だよ。」
オンディビエラはそう言うと、微笑みを浮かべて尋問室を後にする。
背後からは怨嗟に塗れる男の怒号と、あどけなさの残る少女の絶叫が追ってきたが…絶叫の方はすぐに鳴りを潜めてしまった。
ウゴ・オンディビエラは執務室に戻ると、葉巻のケースから一本を取り出して火をつける。
別に香りを楽しんだりはしない。
これはもはや形骸化したと言ってもよい悪い趣味であり、その意味はほとんど失われている。
彼がまだ葉巻の香りを楽しめていたのは、彼の家族が狂った労働者どもに嬲り殺しにされる前の話に過ぎない。
彼にとって共産政権は有害な存在でしかなかった。
せっかく上手くいっていた工場も、連中の支離滅裂な政策のせいで行き詰まったのだ。
労働者どもは、その理由をあろうことか四苦八苦して彼らの給与を調達していたウゴに向けてしまった。
ウゴは今までの人生全てを、根本から否定されたような気がした。
家庭も仕事も分け隔てなく、その価値観から理想に至るまでの全てを。
こうなるともう、彼は復讐を決意せずにはいられなかった。
アルバロ・セルバンデスに登用されてから、彼の人生は復讐によって彩られてきた。
報復への報復。
報復によって報復を成し、報復に報復を重ね、大きな血の池を拵えることこそを、自らの人生の目標とした。
だから躊躇なんてものは、最初からなかったのだ。
彼からすると、アルバロもライリーもまるで"分かっちゃいない"。
アイツらにも信念というものがあるにはあったが、ウゴのそれと比べると実に軽々しく思えた。
特にライリーなぞ、あんな大馬鹿者でも情報局員になれるのかと訝しんだ事の方が多い。
あの大馬鹿者は明らかに誰かの作意を受けて操られていたが、当人と来たらウゴやアルバロ、それにアドリアン・セルバンデスを操っている気になっていたのだから。
ただし、そんなライリーにも評価できる点がある。
それはアドリアン・セルバンデスという"
アドリアン・セルバンデス…ちょうどアルバロと知り合った時、彼はまだ5歳で、牧場が大好きな男の子だった。
当時はまだオンディビエラの一家も安泰で、将来には明るい展望があった。
あの間抜けな国王陛下にはウンザリさせられることも多かったが、それでも共産主義者どもに比べれば遥かにマシと言える。
まあ、とにかく、アドリアンのことは昔から知っていた。
そんなアドリアンをユニオンの手先にするという計画をライリーから打ち明けられた時、何の躊躇いもなく同意したのも覚えている。
アルバロは色々と、余計な事を考え過ぎていた。
彼は表向きにこそ傀儡を装っていたが、心の内ではこの国を愛していたのだから。
貧困層への最低限の配慮は忘れず、13家族とは戦い、国家をどうにか長年の植民地経営型経済から脱却させるべく、決められた枷の中で精一杯もがいていた。
その姿勢には感動を誘うものすらあったが、ウゴは同意しなかった。
彼の目的はあくまで報復だったのだから。
あの労働者どもを見れば分かる。
この国の国民共には、19世紀型の植民地経済こそふさわしい。
ウゴは報復の相手を、家族を嬲り殺しにした労働者達だけではなく国民全体へと向けていた。
自らの手で共産政権を選んだくせに失敗し、その皺寄せを特定の人間に押し付けようとした愚民共。
奴らに幸福など万年早い。
そんなものは、俺の手で握りつぶしてやろう。
だからこそ、ウゴにとってはアルバロが邪魔だった。
アドリアンがユニオンの"完璧な"操り人形になるというなら、彼にとっては好都合。
ウゴは思う存分復讐を継続できるし、邪魔は入らない。
その実、アルバロがくたばってから暫くは上手くいっていたのだ。
アドリアンは国民の事など微塵も考える事のない完璧な"傀儡"だったし、ウゴは錦の御旗を手に入れて、大手を振って殺戮のかぎりを尽くした。
ところが最近になって邪魔が入りつつある。
あの、忌々しい、お節介なユニオン大統領が寄越しやがった、3人の"
それがなによりも屈辱的で、なによりも我慢できない。
特にあのタマンダーレ。
あの大魔女はアドリアンに完全に取り入っている分、排除は難しい。
ところがその魔女はプラタに逃げた共産ゲリラ共に情報を流しているという確信が、ウゴにはあった。
それでも魔女がアドリアンのパラノイアを上手く防御に用いているせいで、あの女の排除は不可能に近い…ややもすると、自身が先に排除される可能性すらあるだろう。
一方、ウゴの方にも強みがあるにはある。
あのクソッタレの魔女は恐らく未だにウゴの正体を見抜けてはいない。
ユニオンがウゴに与えたコードネームも、そして、ウゴ自身の目論みさえも。
ウゴは思考を研ぎ澄ませてから、もう一服葉巻を吸い込んで煙を吐き出す。
そうして無線機を片手にとり、プラタで
魔女の頼みの綱は袋小路に追い込んだ。
あの記者共の内の1人がKANSENである事を、ウゴは意図的にアドリアンに伝えなかったので、あの魔女もこちら側が記者の正体に勘付いていないと推測した上で行動したに違いない。
まったく、とんだ"甘ちゃん"だ。
これさえ成功すれば、アドリアンはウゴへの信頼を深めるだろう。
魔女共を排除するのはまだ難しいが、いずれは可能になるはずだ。
とにかく、今は待つだけなので、ウゴはゆっくりと葉巻を燻らせる。
ユニオン大統領閣下が何を考えてるかは知らんが、クソライリーが自殺を図ろうが知ったこっちゃない。
中央情報局の資産、通称"オクロジャック"は奴がいようがいまいが動き続ける。
少なくとも、ユニオンの連中はその辺をまったく分かっちゃいない。