ユニオン
バージニア州
ラングレー
インビエルノ海軍の提督が教え子に一時の別れを告げていた時、ユニオンの中央情報局本部施設では1人の少女が目を覚ました。
例によって、気分は最悪。
"あの時"死ねていたら、今よりも格段にマシな気分だったに違いない。
しかし彼女は生き残ってしまい、それ故にこんな朝を迎えなければならなかった。
こんな事になるのなら、さっさと自害でもしておけばよかったのに。
過去の自分を呪うのは簡単だが、同じ状況で同じ立場にいたとしても違う結末を選べるとは思えなかった。
彼女はまさか自分自身がフリーズしてしまう事なんて考えもつかなかったし、あの時は本当にしてやられたと思ったのだ。
だからきっと今の彼女があの時あの立場にいても、結果は変わらなかったろう。
「………今日の
コンクリートの無機質な天井を見上げて、彼女はそう漏らす。
昨日投与された薬剤は彼女に苦痛以外の何物ももたらさなかった。
腕や背中には大きなアザがあり、筋肉は未だ痙攣している。
手の指の先は全て包帯に覆われているし、その巻き方は雑そのものだ。
まるで"誰もお前のことなんか構やしねえ"と言うかのようだし、実際にもそう言われた。
ここの連中は彼女の事をモノとして扱っていたのだ。
そんな彼女の予想では、今日もそんな1日がまもなく始まろうとしている。
安物のベーグルとコーヒーを持った当直士官がやってきて、何も言わずに置いていくのだろう。
何人かの当直士官は哀れみの目で彼女を見たし、その他の者たちはベーグルやコーヒーに唾を吐きかけて彼女に渡した。
…もうどうだっていい。
彼女は早く楽になりたかった。
こんな無機質なコンクリートに囲まれて惨めな最期を迎えるとしても。
その期間はできるだけ短い方が良いし、だからこそ歳というものを取らない自分の身体を呪い続けている。
今では、彼女の希望はただの一つしかなかったのだ。
"KAN-SENは歳を取らない、でも死なないわけじゃない"
やがては無機質なコンクリートに囲まれた部屋の無機質なドアが開いて、本日の来客が姿を現した。
しかし彼女は今日やってきたのがいつもやってくる迷彩服の当直士官とは違う、スーツ姿の男である事を見て目を丸くする。
どこからどう見ても政府機関の人間にしか見えないし、もう政府の人間と直に話すことはないだろうと思っていたからだ。
政府機関の人間の背後には、見慣れた迷彩服の当直士官がいた。
正直、彼女は政府の男が同伴している事に感謝している。
彼女の覚えている限りでは、
30分後、彼女は尋問室にいて、久々に温かなベーグルとインスタントではないコーヒーを楽しんでいた。
政府機関の男は彼女がベーグルとコーヒーの朝食を食べ終わるまでの間彼女に一言も話しかけはしなかったし、急かすような仕草も見せなかった。
KAN-SENのチカラを封じ込めるという特別な拘束着に身を包む彼女には目もくれずに、目の前の書類に集中しているようだった。
本日の当直士官のクソ野郎相手にはたった一言だけ話してはいたが。
「くれぐれも丁重に扱え」
あのクソ野郎が気に食わないような顔をしつつもこの男に従わざるを得ない様子を見るのは久々の愉悦だったが、しかし、それだけで彼女は気を許す気にはなれない。
ユニオン政府の人間など、誰も信用するものか。
彼女はユニオン政府から受けた長年の扱いで、その想いを心に刻みつけていた。
「…………気は済んだかね?」
男がようやく口を開いたのは、彼女がコーヒーの最後の一滴を飲み下した時だった。
彼女にとって時間はいくらでもある。
これが最期になるかもしれない温かな食事を楽しみながら男を待たせたところで、彼女の良心が呵責を感じるはずもない。
「………ふふふふっ。…それで、政府の人間が今更私になんの用?」
「提案がある。君が"乗る"なら、私は君をここから解放できる。」
「………ぷッ!あははははッ!!あはははははははッ!!私もバカにされたものね!そんな戯言、信じるわけないじゃない!!」
「なら君の勝手だ。また元の生活に戻ると良い。」
「脅したって騙されないわ、このクソ野郎!これも実験の一環だってわけ?長年憎悪を燃やしたKAN-SENに、温かいもてなしと希望を持ち掛ければどのくらいでオトせるか、とか?馬鹿馬鹿しい!…本当にアンタ達は救いようのない馬鹿ね!」
「………」
「何とか言ったらどうなの?」
彼女の言葉に男は何も言い返さず、代わりに黙々と先ほどまで目を通していた書類を彼女に見せ始める。
白黒写真とはいえ、それらは被写体が何であり、どうなっているかを鮮明に映し出していた。
その写真をまともに見てしまった彼女は顔を硬らせる。
次いで写真から目を背け、冷たい床に温かな朝食を撒き散らしてしまった。
男はその様子を見てさえ、冷静に話を続ける。
「………空軍が新型兵器を試したがっている。実験場まで手配済みだ。それは破壊をもたらさずに、敵の施設を奪取するための兵器だそうだ。…参謀本部はその兵器が本当に有効かどうか試したがっている。特にKAN-SENに対して有効かどうかデータが欲しいらしい。」
「クソ野郎ッ!!アンタ達は本物のクソ野郎よ!!」
「問題は世論だ。15年前太平洋で行われた実験で、空軍は世論からとてつもないバッシングを受けた。KAN-SENを実験に使うとは何事か、とね。だから現役艦はもちろん予備役艦を使うわけにもいかない。ところが君はどうだろう…君は船籍を抹消された存在だ。いなくなっても誰にもわからない。」
「アンタ達のやったことは許されないッ!!…アンタ全員ッ…おぶえええええッ!!」
「そうだな、許されない。だが、今のままでは君もいずれこうなる。……"彼女達"はかなり苦しんだ。どんな治療も効果はなかったそうだ。…私が君なら、話だけでも聞こうと思うがね。」
彼女は相変わらず吐瀉物を撒き散らしていたが、やがて吐瀉物として吐き出せるものも無くなってしまった。
彼女は息を荒げながら、しかし男の言う通り話だけでも聞くしかないと言う事を悟らざるを得ない。
「………いったい、どんな提案だっていうのよ…」
「ハンス・ルートヴィヒ少佐を覚えているかね?」
男が口にした名前を聞いて、彼女は自身の瞳孔が開くのを感じた。
覚えていないわけがない。
あの、戦時昇進を重ねた、まだ顔立ちにあどけなさの残る青年の事を。
彼女は彼と共に戦い、過ごし、あと少しで指輪にまで手が届くはずだった。
それが終わりを告げたのは、まさに"あの時"。
それも最悪の結末を迎えたのだ。
「……覚えてないわけないじゃない。アイツは私を売ったのよ?」
「そうか、なら話は早い。」
「アイツがどうしたの?…戦後、アンタ達が戦犯として処刑したはずじゃなかったかしら?」
「ルートヴィヒ少佐はまだ生きている。」
「………は?」
彼女の声には怒りとも憎しみとも取れない、それらの感情を足して何倍にもしたかのような黒々しさを含んでいた。
「戦犯として処刑したという話は公式発表用のカバーストーリーに過ぎない。ルートヴィヒ少佐は君を売った後、サディア経由で南方大陸へと渡った。手引きしたのは我々だ。」
「…………そこまで腐ってるとは思わなかったわ。あなた達狂ってるの?…もし狂っていないのなら………」
「私達が狂っているのかいないのかなど、どうだって良い。我々は君が北方連合の手に渡る事を危惧していただけだ。勿論君の身を案じて、ではないがね。」
「………」
「20年前君を裏切った男は南方大陸で伸び伸びとやっていた。ところが中東某国の情報機関"猟兵グループ"が奴の居場所を突き止めてしまった。猟兵グループは戦犯を探し回って殺してる。あの戦争での復讐と言わんばかりに、な。」
「ざまぁないわね。」
「少佐は今頃亡命先のプラタを飛び出して、インビエルノとの国境線で転げ回っていることだろう。」
「それがどうしたの?…まさか私にアイツを助けろって言うわけじゃないでしょうね?」
「ああ、勿論だ。インビエルノには我々の駒がいる。共産主義者どもに対抗するために必要な人間だ。彼は今少々厄介な問題を抱えていてね。君のようなKAN-SENがいると非常に助かるそうだ。」
「あら?私を再武装させるつもりなら、アンタ達に砲口を向けるかもしれないわよ?」
「君の現役時代からこの20年でユニオン海軍の戦力は更に大きく拡充した。君は南方大陸の海軍と張り合うことはできても、もうすでに我々の敵じゃあない。」
「………」
「それに…もし君がこの提案に乗るなら、インビエルノの駒には少佐を確保させる。…我々が言える立場ではないが、彼は君をここに連れてきたような存在だ。20年の鬱憤をぶつけたくはないかね?」
できることなら、目の前のアンタの首からへし折ってやりたい。
そうは思いつつも彼女はもうすでに提案に乗ろうかとしているところだった。
それは猛烈な復讐心がなせる技であり、彼女はこの20年間の苦境をもたらした原因を許すつもりはなかったのだ。
「………わかった。アンタの提案に乗るわ。」
「賢い選択だ。」
「でも条件がある。私が南方大陸に向かうのは、アンタらの飼犬がアイツを確保してからの話。…あの裏切り者は存分にいたぶってやるわ。」
「分かった、すぐに手配させよう。…おめでとう、これで君も晴れてここを出られる。君には新しい船籍と名前が与えられるが、それはもう用意してあるから安心したまえ。今日から君の名は………………」