ユニオン
バージニア州ノーフォーク近郊
「あの頃、私はまだ若かった。KANSENとしての任務にようやく慣れてきた頃かな…だけど父が落選した時のことはよく覚えているよ。…意外かもしれないが、父はその敗北を予期していたようだった。…ふふっ…と、いうよりはもうやめたかったのかもしれない。」
オイゲンは温かな暖炉の前で"2代目の"エンタープライズを目にした時、なんて母親似の娘なのだろうと思った。
真っ白な肌に、華麗なプラチナブロンド。
優美な物腰に、凛とした態度。
間違いない、この娘はあの"グレイゴースト"の血を引いている。
母親の艦名を世襲するのに相応しい風貌をしているし、現にその艦歴は母親に負けず劣らずの華やかな戦歴に彩られていた。
彼女は今も現役の身だが、見た目は変わらないだけで彼女よりもだいぶ歳を重ねているオイゲンに対して敬意を持ってくれていることを、同席しているヨアヒムも感じている。
窓の外には雪が積もり始めていた。
スプルース大統領の肖像写真…海軍時代から州議員、知事、大統領までの政治家時代、そして大切な家族との写真の数々…が飾られるリビングで、オイゲンとヨアヒムは温かなココアを両手にエンタープライズと話している。
スプルースも先代エンタープライズも亡くなった今、革命後のアドリアン・セルバンデスの行方を知るものは彼女しかいない。
「……エンタープライズさん」
「エンプ、と呼んでくれ。その名は母のものだ。最も、私の娘もそう呼ばれるようになるだろうが…」
エンプが窓の外を見てはしゃぐ小さな女の子に目を向ける。
この子も祖母や母親に似て、整った顔立ちに美しいプラチナブロンドをしていた。
微笑ましい光景はさておき、オイゲンとヨアヒムには尋ねなければならないことがある。
「では…エンプさん。あなたに、こんな事を聞きたくはないのですが…」
「……父からあなた達のことは聞いている。」
「え?」
「いつもその事で悔いているようだった。…あの選挙で負けたのは当然だと、繰り返していたよ。」
「エンプ、聞きたいのは私たちのことじゃない。…アドリアン・セルバンデス。お父さんの党があの年支持率を大幅に失う原因になった、あの独裁者のことよ?」
エンプはオイゲンに視線を投げかける。
その顔があまり良くない思い出に触れた事を意味していた。
父親の挫折なんて光景は誰も見たがらないはずだ。
しかしエンプには記憶の底からその光景を引き出すだけの勇気があった。
「…アドリアン・セルバンデス……」
「ええ。言いにくいんだけど、お父さんはその男の名前に加えて、セイレーンについても何か言っていなかったかしら?」
「………ああ、それも覚えてる。あの嫌味な中央情報局員のことも。父は…あの情報局員の事を言うたびに顔を顰めていた。でもそれはあの男が嫌な奴だったからじゃない。」
「………」
「父はやろうと思えば、あのライリーとかいう男を排除できたと言っていた。でもそうしなかったのは、国益のためだったとも。あの頃はそれでいつも悩んでいたんだ。父が自己嫌悪に陥るたびに、母が側に立って宥めていた。」
「…いいお母さんね。」
「大戦中、母は父と共に戦っていた。だから、父が自分でも許せないような決断を下さなければならない場面に遭遇する事を理解していたんだと思う。」
そっと目を閉じるエンプの脳裏には、かつての父母の姿が浮かんでいるに違いない。
スプルースはライリーと違い、ドッペルゲンガーを作って逃げるような真似はしなかった。
大戦の英雄らしくまっすぐ立ち向かったのだ。
しかし彼の根っからの正義感は、大統領という何よりも国益を保証しなければならない職務に就いた時、度々耐えきれなくなったのだろう。
しかもそれが大戦の時に仇敵とした、セイレーンの手を借りなければならないものだと知っていたのだから。
「…ライリーはセイレーンのことを知っていたと思う。だけど…」
「無理もないわ。東西が"壁"で隔てられていたあの時代、お父さんは大統領として国を守らなければならなかった。それが何よりも優先される事だもの。」
「違うんだ!」
突然エンプが声を張り上げたので、オイゲンとヨアヒムは仰天する。
窓辺に寄っていた女の子も思わず振り返ったが、母親の様子を見て首を傾げたようだった。
エンプはその両目から涙を流していた。
それはまず間違いなく、最も思い出したくない事を思い出したからだろう。
「父はッ…父は大戦直後からセイレーンの干渉に気付いてた!それどころか…取引すらしたんだ!」
「「!?…」」
エンプが放った衝撃の言葉に、オイゲンは言葉を失った。
しかし、決して歴史書には記されることはないであろうその内容を聞き逃すつもりもない。
肩を震わせながら語るエンプの声に、オイゲンは耳を傾ける。
「………父の言うには……大戦末期には、ユニオン政府の中枢にすら"奴ら"が入り込んでいた。」
「セイレーンが?」
「いいや、北方連合の工作員だ。当時の大統領はそういった工作員に気づかず善良な仲間と見做していたが、父や多くの軍人がそれに危機を募らせていたんだ。当時の軍人達は新しい時代を肌で感じ取っていた。ユニオンと北方連合が睨み合う時代…新たな形態の戦争が始まる時代を。」
「………」
「大戦の末期には、形勢は北方連合に有利だった。父は軍事クーデターまで考えていたが、ユニオンでは到底受け入れられるものじゃない。散々悩んでいた父に、セイレーンが忍び寄った。」
「セイレーンは…お父さんに何て?」
「奴らは父に、"取引"を持ちかけたと。当時の大統領とその取巻きをどうにかする代わりに、奴らは父にも協力を求めた。父の望みは祖国の安定、セイレーンの望みは世界の安定。どちらも通ずる物が多かった。…そこで……父は………取引に乗ってしまった、乗らざるを得なかった。そうでなければ北方連合に負けてしまう。世界中の赤化は止められなくなる。…だから、父と仲間の有力者達はセイレーンの干渉を受け入れた。大統領が代わると、その下で"レッドパージ"を始め…やがて父のグループが政権を取り持つようになっていった。」
スプルース提督は生粋の愛国者だった。
国を愛する軍人だった。
アズールレーンに北方連合が加入した時、時のロイヤル首相はこう言ったいう。
「勝利のためなら悪魔とも手を組もう」
大戦の只中ですら、アズールレーンは一枚岩とは到底呼べない状態にあったのだ。
そして戦争の終わりが見えた時、スプルース提督はその先にある光景を絶望と捉えたのだろう。
提督は生粋の愛国者で、国を守るためにはセイレーンの介入が必要だった。
ならば提督は個人的な感情など押し殺して悪魔とも手を組んだはずだろう。
彼をライリーと同じように責めるわけにはいかない。
国を愛する軍人なら、誰が同じ選択をしてもおかしくないからだ。
「…その…エンプさん。お父さんの決断は、仕方のなかった事だと思います。」
きっとオイゲンは自分でその事実を認めるわけにはいかない。
だからこの台詞はヨアヒムが口にした。
ヨアヒムも間接的に被害者ではあるが、彼の母親はそのせいで…スプルースとセイレーンの取引の一環の結果として…中央情報局に何年も囚われた。
ただしオイゲンもその辺を全く理解していないわけではない。
その証拠に、彼女はヨアヒムに続いてこう言った。
「確かに、私は中央情報局に捕らえられたけど…同時にお父さんに救われもしたわ。」
「いや、あなたの亡命を手助けしたのはライリー」
「あの男だけでそんな芸当はできないわ。少しキツい言い方になるけど、お父さんは政情不安の見込めるインビエルノに強力な重巡級を残しておきたくなかったんでしょう。」
「………」
「でも、それ以上に。償おうとしてくれたんだと思う。」
「……!」
エンプがさっと顔を上げる。
オイゲンは自分より1世代下のユニオン海軍最大の切り札たるKANSENに、意地悪をぶつける気はなかった。
それどころか感動し、感謝している。
彼女とて、祖国のためとはいえ父親の"負の遺産"を背負わされた人間と面会するのは勇気が求められる決断だった事だろう。
オイゲンはそのあたりをキチンと理解していた。
それに、何と言ってもエンプはオイゲンの経験とは無関係なのだから。
「…とにかく、これでハッキリと分かったわ。"きっと"…だけれど、お父さんがあの時インビエルノから脱出させたのは私達だけじゃない…そうね?」
「ああ。あのガス攻撃があってから、父の次期選挙での敗北は目に見えているようなものだった。…正直、辞任に追い込まれると思っていたけど」
「その期間で、お父さんは救えるだけの人間を救おうとした。」
「……父とライリーは中央情報局の資料を何枚か書き換えた。アドリアン・セルバンデスは遭難なんかしちゃいない。」
そういうと、エンプは予め用意していたと思わしき一冊のファイルをオイゲンの方に差し出した。
見ると表紙にはスプルース大統領のものと思われる筆跡でサインが書かれており、恐らく、そこに彼女の求める真実が記されている。
だがオイゲンは、差し出されたファイルを見つめながら一人息子にこう言った。
「ヨアヒム。このファイルはあなたが取るべきよ。」
「え?母さん?…もしかして、老眼?」
「なっ!…はぁ、そうじゃなくて。ここに書かれている情報を読めば、全てがわかるはずよ。…何故私がこんなに手間暇かけて、アンタにあの独裁者の事なんかを調べさせたかも。」