「あの……歌織さん、琴葉さんは何をしているんですか?」
その日の夕方。
琴葉の提案もあって、早めにレッスンを切り上げた歌織と星梨花は、プロデューサーと連れ立って訪れていたピアノバーで首を傾げた。
二人の視線の先には、フローリングを磨く為のモップを持った琴葉の姿がある。
彼女は丁寧、丹念に床を磨き、ホコリの溜まりそうな死角をくまなく探し、忙しく動き回っている。
だが。
「ん? ……あー、あー! んん? あぁー!」
不可解なのは、時々立ち止まっては、天井の隅だったり、正面の壁だったり、年季の入った木枠の外窓だったりに、張った声を出す後ろ姿だ。
この仕事を依頼してきたマスターは、奥の従業員控室でプロデューサーと進捗状況の確認をしており、フロアにいるのは三人だけだ。
歌織が星梨花の問いに、ちょっと引きつった調子で答える。
「さ、さあ……。琴葉ちゃんの事だから、何か思うところがあるんだろうけど……」
「はぁ……。さっきまで落ち込んで……いましたよね?」
「うん……。それが、外でプロデューサーと話して戻ってきたら、『歌織さん、星梨花! レッスンを切り上げて、現場の掃除へ行きませんか!?』って言いだした時は、びっくりしたけど……」
「目が輝いていました……。何と何が、どうなって、掃除になるんでしょう……?」
「プロデューサーさんも面食らってたよね……」
そんなことを言い合いながらも、歌織と星梨花も雑巾とモップを手に、店内の掃除を行う。
意図が分からないまま、来ては見たものの、実際に現場の環境を見られるのはありがたいと歌織は思う。
社長と小鳥が来ているというだけあって、上品な雰囲気の店だ。
まず、扉。
手に吸い付いて離れも良いノブの金属質。
人いきれの中、静かに佇む別世界への入り口。
それを開けた後、視界に広がる薄いオレンジの照明と、カウンターに並ぶグラスが訪問者を出迎える。
バックバーのウイスキーボトル達には、銘の入ったラベルが貼られており、歌織の知っているものも散見できた。
値の張るものもあるが、置き方としてはバックバーの隅に、小さな華として据えてある程度で、目につくボトルは気軽に手に入れられる銘柄が多い。
来るもの拒まず、去る者追わず。
そういうスタンスのマスターなのかも知れないと、歌織は思う。
だからこそ。
「うん、お掃除のし甲斐がある」
思わず、雑巾を持つ手に力が入る。
作業を進めていると、元から目立った汚れがほとんど見られないことに気付き、「ここで歌うのだ」という未来がプレッシャーを伴って、現実味を帯びて来る。
「ん……しょ!」
見れば、星梨花は星梨花で、モップでの床掃除に余念がない。
根が真面目だし、色々な世界を知りたくてアイドル業界へ踏み込んだという動機もある。
目新しいものに触れられるのが、楽しいのだ。
「うん……私も頑張らないと!」
気を吐いて、歌織も掃除を進める。
身体を動かして汗が滲み、熱を持った鼓動が心地よくなってきた頃、星梨花が歌織へ話しかけた。
「あの……歌織さん」
「ん? なあに?」
「最近、思うんですけど大人の人達って、みんな琴葉さんみたいに頑張る人ばかりなんですか?」
「え?」
驚いて、首を傾げる星梨花の顔を見る。
そこにあったのは、純粋な好奇心だ。
琴葉の頑張りを見て、同じ高みを見たがっている様な子供っぽい冒険心が見て取れる。
歌織は頬を掻く。
「うーん、琴葉ちゃんは特別、頑張り屋だと思うかな」
「でも、レッスンをしていても、わたしにもそうなれと歌織さんは言いません」
「強制することじゃないからね。押し付けになっちゃう」
「押し付け……ですか?」
星梨花は呟きながら、天井へ向かって、「あー、あぁー」と声を張っている琴葉の背中を見る。
相変わらず、意図が分からない。
だが、押し付けられてやる行動にも見えなくて、やはり首を傾げるしかなくなる。
歌織は苦笑した。
「……これは、何かされるかなーって感じね」
「そう、ですね……。うぅん……」
予想ができなくて、星梨花は知らず知らずのうちに唇を尖らせる。
その横顔に、子供っぽい負けず嫌いの性格が見て取れて、歌織は、また苦笑した。
「こう見えて、星梨花ちゃんも頑固なのよね……」
そして、「ふふっ」と悪戯っぽく笑う。
「私も負けていられない……かな?」