ドラゴンクエスト5~リュカの生きる道~   作:KENT(ケント)

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16話

16話

 

 

 

 

 

「リュカ!」

 

 苦痛の声が思わず漏れる。

 一本の槍が、リュカの杖に伸びた。杖の強度が勝ったか、槍は杖に突き刺さることはなかったが、衝撃がリュカにも伝わる。殴り飛ばされたように、リュカは後方に吹っ飛んだ。そのおかげでと言うべきか、リュカを貫いていた槍が抜ける。

 背中から落ちたリュカは息を詰まらせながらも、上半身を起こした。それだけで激しい痛みがリュカを襲い、思わずうめく。身体が強張る。血がマントに染み込んでいく。

 リュカの視線の先には、己を貫いた氷の槍が、床からこちらに向かって斜めに何本も突き出ている。それを伝う赤いものは、言うまでもなく自分の血である。

 氷に全身を串刺しにされたザイルの姿が、ふとリュカの頭に浮かぶ。同じように赤い血が氷を美しく伝っていた。ザイルも同じように痛かったのだろうか。リュカは思った。いや、自分は生きている。ザイルは死んでいる。ザイルの方がもっと痛かったに違いない。

 氷の槍の壁の向こうを見通す。そこに氷の化身は立っていた。青い炎を纏っているかのように、彼女の身体から冷気と魔力が入り混じったものが立ち上る。顔のひびが消えている。ふくらはぎも恐らく治っているのだろう。彼女に表情はない。

 リュカは痛みを堪えて、杖を支えに立とうとしたが、膝ががくんと折れた。膝を着くも、身体を倒しはしない。

 

「よくもリュカを!」

 

 ベラの杖から炎がほとばしる。瞬く間に氷の化身に迫った炎は、彼女が何気なく身に纏っている冷気に触れた瞬間、掻き消された。

 

「うそっ!」

 

 ベラが驚きの声を上げる。氷の化身はリュカから目をそらさない。

 氷の化身が、光を纏った手のひらをこちらに向ける。間を置かず、氷塊が発射された。

 射線上の氷の槍の壁を粉砕し、破片のきらめきを抜けてそれは飛来する。リュカは倒れこんでかわすことしかできない。壁に着弾したのだろう、轟音とともに館が揺れる。床に血がなすり付けられる。それだけでリュカは苦痛の声を漏らす。

 己の周囲を渦巻く冷気を、リュカは感じた。咄嗟に杖を床と己の間に割り込ませた瞬間、再び全身を氷が貫いた。思わず悲鳴を上げる。

 杖を挟んだおかげで、心臓や頭は無事だった。おかげでリュカはまだ生きている。だが、それもたいした慰めにはならない。両腕、両足、腹……至るところを貫通する氷の槍に、リュカの身体は宙に持ち上げられているのだ。自重で少しずつ槍が深く刺さっていく。

 

「リュカッ!」

 

 ベラが悲鳴を上げたのが聞こえた。

 激しい痛みがリュカを襲う。だが、痛いとか苦しいとかそんな思いよりも、危機感が頭を支配していた。氷を伝う血とともに、生命力までも流れ出していってしまっているような、危うい感覚。痛みに歯を食いしばり、身体を強張らせているはずなのに、脱力感が同時に襲う。己の身体が己の制御下を離れていく。ヤバイ、リュカは焦っていた。早くこの状況をどうにかしなければならない。どうにかしなければ死ぬ――そう思った途端、背筋から脳天へ、氷よりも冷たいものが走った。

 空中でいい的のようになっているリュカを、のん気に鑑賞する趣味もないのだろう。氷の化身が再び放ったヒャドが、リュカの腹に迫る。

 そのとき、ベラが飛び出してきた。

 

「ううっ!」

 

 氷の弾丸が、ベラが身体の前で交差させた腕を打ち、彼女は弾き飛ばされた。壁に激突し、ようやくその動きを止めたベラは、腹を押さえて背を丸め、うめいている。

 

「無駄なことを」

 

 もう一発放たれたヒャドがリュカに激突した。

 

「ガッ!」

 

 リュカを貫いていた氷はへし折れ、リュカは吹っ飛ばされた。そして壁に叩きつけられ、

床に落下する。

 腹からのどへと込み上げるものを感じながら、リュカはなんとか身体を起こそうとする。もはや闘争心からのものではない。単なる防衛本能だ。だが、身体は動こうとしてくれない。どうにか顔を相手に向けるのが精一杯だった。

 

「許さない……よくも、よくもリュカを」

 

 よろよろと起き上がったベラが荒々しく魔力を杖に纏わせ、炎を放った。不規則にうねりながら氷の化身に迫る炎は、やはり掻き消される。

 

「なんで! なんでよ!」

 

 癇癪を起こしたようにベラは叫んだ。

 ソロが駆けた。冷気のベールを越えて、飛び掛かる。迎撃しようと振るわれた裏拳を見極め、逆にその腕に噛み付くソロ。全身の毛が白く染まっている。

 その腕が半ばから砕け、ソロは腕とともに落下する。その瞬間、氷の化身はソロを踏みつけた。恐るべきことに、すでに腕は修復されている。

 ソロが吼えた。毛を逆立てて、牙をむき出しにする。

 

「マヌーサ!」

 

 ベラの杖から放たれた光が、氷の化身の顔に直撃する。霧が纏わりつくように、氷の化身の視界を塞いだ。

 

「無力とは罪だ」

 

 氷の化身がベラの方へ腕を横に振るう。そうして生じた吹雪が、ベラに吹き付ける。

 身体を両腕で庇うようにしながら、ベラは身体中を切り裂かれる。

 

「ならば、せめて弁えるべきだとは思わないか?」

 

 倒れこむベラを冷たく一瞥し、冷然とした声を響かせる。そして、彼女は足下のソロに視線を移す。

 ソロを踏みつけている足の下の床が光った。その直後、ソロの下の床が瞬時に盛り上がり、何かが砕ける音がした。足と床とに挟まれ、急激に圧されたソロは、その身体を氷の床にめり込ませ、ぐったりと脱力する。彼女が足をどけると、床がひび割れているのがわかった。

 

 

 

 

 

 魂というものが、生き物には宿っているらしい。生命と心をつかさどるものだそうだ。リュカにはいまいちイメージがわかなかったが、要するに生き物にとっての根源的なものなのだろう。魂なくして、生物は生物足り得ない。

 そんなものの存在を、リュカはあまり真剣に信じてはいなかった。だが、それも今日までの話だ――なぜならリュカは今、魂を目にしている。

 もはや痛みも苦しみもない。ふわふわと不思議な空間をリュカは漂っていた。ここはどこだろう。氷の館のはずだ。

 黒く重たい雲の渦のなかを、リュカは進んでいた。己の意思でではない。身体が勝手に宙を流れていく。この雲は、行くべき道を浮かび上がらせてくれているのだろう。だからこそ迷うことはない。

 不思議とリュカは穏やかだった。ここはどこだろう。そんな疑問が頭をよぎるものの、ここにいることへの不安も抵抗もない。辿り着くべき場所があるのだ。リュカはそう確信していた。そのためにこの流れに身を任せることに、何の疑問もあるはずがなかった。

 やがて、暗いこの景色のなか、道の先に一点の光を見た。あそこが目指す場所だ。それをリュカは何故か知っていた。勝手に身体が近づいていく。ゆっくり、ゆっくりと。焦らされているような気分だ。

 だからこそだろうか、やがてその光に相対したとき、リュカには他のものが目に入らなかった。他のものになど価値はない。ただ、この光だけが全てだ。この光のなかに全てがある。全てを前にして、それ以外のものはなすすべもなく無に帰す。

 魅了されたように、リュカは光を見つめた。いくら見つめても飽きることはない。瞬きもなく、見つめ続けた。

 永遠にも思えるほど見つめ続けていたリュカに、わずかな欲が芽生えた。触れてみたい――それは許されない。リュカはどうにか自制した。

 だが、一度その芽生えに気付いてしまったら、欲は膨れ上がる一方だ。リュカは耐えた。耐えに耐えた。少しくらいなら構わないはずだ。恐る恐る手を伸ばした。

 指先が触れた。ビクリと電流が走ったようにリュカは震えた。何かが流れ込んでくる。暖かい何かが。

 リュカは唐突に理解した。この光は魂だ。生命の源流だ。

 体内を常に巡っている血流を体感することがないように、細胞の呼吸を感じることがないように、リュカは今まで感じたことがなかった。魂の脈動を。魂を源泉とする、生命の雫の循環を。

 なぜ今まで気付かなかったのだろう。これは生物にのみ与えられた恵みだというのに。こんなにも明らかに全身を巡っているというのに――例えるなら、それは魔力にも似た流れだった。

 

 

 

 

 

 リュカはパッと目を開いた。どうやら意識を失っていたらしい。どれくらい時間が経ったのだろう。己の身体の下には、血溜まりができている。

 ソロもベラも倒れている。ソロの傍らに氷の化身は立っていた。

 ソロが身じろぎし、うなりながらゆっくりと顔を上げた。

 

「子どもであろうとキラーパンサーか。その闘争本能はなかなかのものだ」

 

 意識を取り戻してからというもの、当然のごとく激しい痛みが蘇ってきていた。だが、それは構わない。それはつまり、感覚が戻ってきているということに他ならないからだ。

 リュカは体内を巡る流れを感じ取ることができていた。随分と弱々しい。

 この流れは、生命力と言ってもいい。簡単に言うと、この流れが充実していれば、身体は活性化するというわけだ。今のリュカの体内の流れが弱々しいのは、重症を負っているからだろう。

 逆に言うならば、この流れをある程度コントロールすることができれば――。

 腰周りに流れを集中させようとする。ゆっくりと、少しずつだが、流れの濃度が変化していく。腰周りの濃度が増し、それ以外の部位の濃度が下がっていく。

 リュカは徐々に上半身を起こしていく。頬を汗が伝う。痛みに顔が歪む。

 氷の化身がソロに青白く光る手をかざす。ソロがギラついた視線を返す。

 至近距離で発動したヒャド。目にも止まらぬ速さで迫るその氷塊を、ソロは恐るべき反射神経を発揮し、横に飛び退いてかわした。そして素早く方向転換し、氷の化身に襲い掛かる。床にソロの爪跡が残された。床に着弾したヒャドが、床を砕く。氷の欠片がキラキラと舞う。

 ソロの爪が氷の化身の胸に三筋の跡を刻んだ。

 

「くっ!」

 

 氷の化身の右腕がソロの首をつかんだ。宙吊りにされたソロはもがく。

 胸の傷が修復する。

 大きく咆哮したソロの身体がぼんやりとした光を放った。彼女が心なしか仰け反る。空気が弾けるような音とともに、ソロの身体の表面を撫でるように白く輝く帯が走る。

 ジュッと何かが蒸発するような音がした。彼女はビクリと反応し、思わずといった様子でソロを取り落とす。彼女の右の手のひらから雫が垂れる。

 

「……少々驚いたぞ」

 

 彼女は口元を歪め、己の手のひらを見つめる。そして胸を張り息を吸い込むと、一気にソロに向けて吐き出した。

 ソロは爪を床に食い込ませ何とか耐えようとするが、激しく毛がなびき、氷のつぶてに身体を打たれ、やむなく後退する。

 ようやくリュカは上体を起こし終えた。今度は下半身に流れを集める。ゆっくりとだ。この速度がリュカの限界だった。

 片膝を立て、立ち上がろうとする。そのとき、上半身がガクリと折れる。肘を突いて倒れこむのはどうにか防いだ。さらに足に力を込め、杖を突き、リュカはフラフラと立ち上がった。壁にもたれて、どうにかこの体勢を維持する。手から溢れた血が杖を伝って床を濡らす。荒く吐かれた息が、白く染まって宙に消える。

 リュカは右腕に流れを集中した。

 

「お前……なぜ立てる?」

 

 氷の化身が眉間にしわを寄せ、リュカに視線を向ける。

 リュカは壁から背を離し、杖の頭を壁に軽く押し当てた。それだけでも限界に近い。倒れこんでしまう前にと、リュカは迅速に事を進める。

 杖を持つ手が緑色に光る。その光は杖を浸食していった。大気が流れだす。心地よい風を感じながら、リュカは呪文を唱える。

 

「バギ」

 

 杖を媒介に解き放たれた魔力は、壁との接地面から壁に沿って放射状に広がった。次の瞬間、魔力は風へと変質し、爆風にも似た力を無差別に周囲に撒き散らす。

 吹き飛ばされたリュカは、人形のようになすすべもなく、だが狙い通りに氷の化身へと一直線に飛んでいく。

 

「なっ!」

 

 滞空時間は短い。すぐに倒れこむものの、氷の床のおかげで速度をほとんど落とさず敵に迫る。

 リュカは流れを集中させた右腕を、床に叩きつける。今までに出したことのない力で床を打った反動で、リュカの身体は跳ね上がる。そして、目前に迫った氷の化身へと右腕を突き出す。

 

「ガハッ!」

 

 腹に吸い込まれた杖は、彼女の身体を真っ二つにへし折った。

 それでもリュカは止まれない。床に身体を叩きつけられ、身体のコントロールが利かないまま、反対側の壁に激突する。激しい衝撃に息が詰まる。意識が飛ばなかったのが不思議なくらいだ。骨が折れたかもしれない。そうリュカは思いつつ、そんなことが些細なことのように思えるような痛みに襲われていた。

 だらりと力の抜けたリュカは、もはや動く気力もない。勝った。これでも死なないのなら、不死身なのだ。だとしたら勝てない。どちらにせよ終わった。リュカはそう思った。

 べったりと身体に張り付く氷の床。冷たい、それはわかる。だが、それを苦痛と感じない。自分は氷の一部なのだ。そう思えるほどに、冷たさに忌避感がない。氷の温度が変わったわけではない。ならば、己の体温が氷に近づいたのかもしれない。

 

「お……のれ……。おのれ……」

 

 搾り出すような声が、リュカの耳に届いた。リュカは動かない。

 腹から下を失った氷の化身は、それでも生きていた。ほふく前進をするかのように両腕で這い、少し離れたところに落ちている下半身のところへ向かう。

 

「死んでなるものか……。やっと……私の世界が手に入ったのに……死ぬわけには……」

 

 怨念のこもった言葉が空気中をさまよう。

 縋りつくように下半身を抱えると、断面同士を合わせる。接合しようとしているのだろう。だが、一向にくっつく様子がない。

 

「ああ……なぜだ……」

 

 絶望に打ちひしがれた彼女に、小さな影が差す。

 恐る恐るといった様子で顔を上げる彼女。そのとき、彼女は何を思っただろうか。死に際に、絶望の底で、地獄の殺し屋の異名をとる存在の殺気を浴びた彼女は。

 もはや声はなかった。目を見開き、口をだらしなく開け、彼女は微動だにしなかった。

 ソロが大きく口を開いた。鋭い牙がずらりと並んでいる。開けたまま彼女に顔を寄せる。そして、何の躊躇もなく、まるでそうするのが当然であると言わんばかりに、彼女の顔面にかじりついた。

 まさに氷を削る音がした。

 残された彼女の頭部は異様だった。顔面の部分だけが抉り取られ、三日月のような形を残していた。

 ソロはさすがに食する気にはなれなかったのか、氷を食べてもおいしくはないと思ったのか、吐き出した。もはやそれが顔だったとは、誰にもわからないだろう。大小様々な、ただの氷の欠片だった。

 彼女の身体に水滴が浮かぶ。水滴はみるみるうちにその量を増した。氷が溶けるにしても異常な速度で、彼女の身体は崩壊の一途を辿る。やがて水音を立て、唐突に全てが水となって床に広がった。

 意識が朦朧とするなか、リュカは頬に暖かいものを感じた。緩慢に視線を向けると、ソロが舐めている。情けない鳴き声を漏らしながら、何度も何度も舐めている。心配してくれているのだろうか。起き上がって撫でてやりたかったが、それはかなわない。

 身体の下が濡れている。その理由は、考えるまでもなく血だまりだとリュカは思った。それは間違いではない。だが、実は床自体が濡れており、また壁も天井も水滴を浮かべていることにリュカは気付いていなかった。

 

「あれ、ここは……」

 

 不意にベラの声が聞こえた。

 

「そうだ! あいつは?」

 

 キョロキョロと辺りを見回し、リュカのところで目を止める。驚愕の声を上げると、ベラは慌てて駆け寄った。

 

「ちょっと、リュカ、大丈夫!? ボロボロじゃないの!」

 

 ベラはリュカに触れようとして、躊躇ったように手を止めた。ど、どうしよう、などと呟いている。

 

「リュカ、頑張って! すぐに村まで連れて帰るから。そうすれば回復魔法をかけてもらえるから」

 

 そう言って、ベラは慎重にリュカの身体を抱いた。ベラにとって、リュカを抱き上げることも重労働なのだろう。力んだ声を漏らしながら、それでもその胸に抱えた。血がベラの身体を汚す。

 ポタリと垂れてきた水滴が、リュカの頬を打った。それをきっかけにしたかのように、次々と雨のように水滴が降ってくる。

 

「え、なに?」

 

 ベラが見上げる。

 壁にも水が幾筋も滴っている。床も、水をまいたように濡れてきた。これは、まるで氷の化身の身体が崩れ去ったときのような現象だ。

 

「まさか……氷の館が……」

 

 崩れていく。ただの湖であったこの地は、氷の化身の手によって凍りつき、館が建った。氷の化身を失った今、再びただの湖に戻るのは必然だったのかもしれなかった。

 崩壊は加速する。川が流れるような豊かな水音が鼓膜を震わせる。

 ちょっとした滝のように、水が降ってくる。崩れた天井の一部が――氷の塊が――落下してくる。リュカたちとは離れた位置に落ちたそれは、床を砕いて下の階へと消えていく。ざぶん、と深い水に落ちた音がした。このままではリュカたちも沈むことになる。

 

「きゃあっ!」

 

 大きな氷の塊が、今度はリュカたちのすぐ傍に落ちてきた。悲鳴を上げて、ベラはリュカに覆い被さるように身体を丸める。こんなときでも彼女は花の匂いがした。

 

「あっ、そうだ! フルート! フルートは!?」

 

 ベラが叫んだ。

 氷の化身は上の階から降りてきた。ならば、上の階にあると考えるのが合理的ではないだろうか。そう思ったリュカは、そう搾り出した。あっ、とベラは見上げた。

 天井は――すなわち上の階の床は、半分くらいがなくなってしまっている。上の階への階段も、もう随分溶けてしまっている。

 

「……仕方ないわ。フルートは後で探しにきましょ。今は一刻も早く村に戻らないと」

 

 どこか吹っ切れたようにベラは言った。リュカを抱く手に力がこもる。

 とは言ったものの、ベラはどうやって村に戻るつもりなのだろう。リュカはそんなことをぼんやりと思った。もう時間の猶予もない。ベラは自分を抱えるだけで精一杯だ。

 彼女はリュカを抱いて立ち上がると、ふらふらと歩き出す。下への階段へ向かっているようだ。大丈夫なのだろうか。下への階段がどうなっているのかは、ここからは見えない。

 

「大丈夫よ、リュカ。あなたは必ず助けるわ。だから安心して」

 

 あなたを死なせるわけにはいかない、そう、うわごとのようにベラは言う。リュカはふと思い出した。彼女も決して無傷ではないのだ。それどころか、さっきまで意識を失って倒れていた身なのだ。己を抱く腕にも、傷がいくつも刻まれている。リュカの胸の内に不思議なものが生まれた。暖かいなにかが。

 そのとき、リュカは見た。前だけを見ているベラは気付かない。頭上から氷塊が落下してくる。

 

「ベラ!」

「えっ?」

 

 ベラが気付いた。彼女は甲高い悲鳴を上げた。逃げる時間などない。

 リュカは咄嗟にバギを放とうとした。死にたくない。そして、ベラも死なせてはならないとリュカは思った。

 だが、一瞬で魔力を練り上げることはリュカにはできない。腕も上がらない。

 そのときだった――

 

「へ?」

 

――激しい炸裂音が響き、氷塊が消え去った。ベラが間抜けな声を零す。

 

「大丈夫かい? ……大丈夫そうじゃないな」

 

 野太い声がする。

 視線をそちらへ向けると、大きな金槌を担いだ男がいる。背が低く、横幅は広い。むさ苦しいひげ面だ。

 

「宿屋のおじさん?」

 

 ベラが素っ頓狂な声を上げる。

 

「オイオイ……敵はもういねぇのかヨ。つまんねぇナ」

 

 カタカタと笑う声。ギラつくナイフを片手に、骸骨が辺りを見回している。

 

「おーい! あったわよ!」

 

 上の階に妖精が立っているのが見えた。その手には、笛のようなものが握られている。

 リュカとベラの頭に、ぽん、と暖かい手が乗せられた。

 

「もう大丈夫じゃ。ようやったのぅ」

 

 暖かな声で、老人が微笑みかけてくる。

 

「さあ、お前もおいで」

 

 老人はソロに声をかけると、ソロはおとなしく寄ってくる。

 右手でリュカの頭に触れ、左手でソロの頭に触れた老人は、淡く白い光を纏った。

 

「リレミト」

 

 その呪文とともに白い光は膨れ上がり、リュカたちを飲み込んだ。視界が白一色に染められる。そして次の瞬間、光が消え去ると、リュカたちを包む景色は一変していた。

 崩れ落ちる氷の館。その外観をリュカたちは眺めていた。高々と水しぶきを上げ、湖の底へと館は沈んでいく。湖面が激しく波打つ。

 老人の魔法――リレミトにより、リュカたちは湖岸に脱出していた。

 傍で唐突に白い光が生じた。その光はすぐに消え去り、代わりにそこには、エルフ、ドワーフ、骸骨の三人の姿があった。宿屋で出会ったあの四人組がここに揃った。

 老人がリュカに手をかざした。

 

「ベホイミ」

 

 白い光がリュカを包み込む。温かい。同時に痛みが薄れていく。

 

「これでは完全には治らんじゃろう。随分と血を流していたようじゃからな。しかし、一先ず安心してよいぞ」

 

 老人の言葉は、リュカを包み込んでいるかのようだった。

 身体のダルさは消えないが、痛みは完全に消えていた。傷も塞がったようだ。

 老人は、ソロとベラにも同様の魔法をかけてくれた。礼を言うベラを見習って、リュカも礼を言う。

 

「ベラ、あんたなかなかやるじゃない。まさか、ホントに犯人を倒しちゃうなんてさ」

 

 エルフが口を開いた。

 

「ルナ? なんであなたがここに?」

「そこの坊やがね、フルートを取り返しに氷の館に向かうって言ってたから、ちょっと気になってね。本来妖精の問題なのに、人間の、しかも子どもに丸投げするってのもね……」

 

 リュカと目が合ったそのエルフは、ウインクを飛ばしてくる。

 

「私はすぐにやられちゃって……。全部リュカとソロのおかげよ」

 

 ベラはエルフにそう答え、リュカを抱く腕に力をこめた。彼女の腕は細く、しかし力強かった。

 

「もうちょっと早く来ればよかったゼ。おっさん、テメェがトロいから出遅れたんダ」

 

 ナイフの腹でドワーフの頬をペシペシ叩く骸骨。

 悪い悪い、と苦笑いを浮かべ、頭をかくドワーフ。

 

「まあ、何はともあれ無事で良かったわい。さあ、早く帰ろうではないか。お主らには休息が必要じゃ」

 

 老人はキメラの翼を取り出した。白い光が溢れ、一行の姿は空に消え去った。

 

 

 

 

 

 氷の館は完全に崩れ去った。湖面にいくらか氷塊が漂っているものの、それも直に溶けて消えるだろう。湖が元の落ち着きを取り戻すには、もうしばらくの時間が必要だ。

 だが、元と全く同じというわけにはいかないだろう。湖は、不本意にも内に抱くことになったのだ。氷の化身の成れの果てと、ザイルの亡き骸を。

 

 

 

 

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