ドラゴンクエスト5~リュカの生きる道~   作:KENT(ケント)

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番外編 ザイルの話

番外編

 

 

 

 

 鼓膜を引き裂くような爆発音。空間が揺れる。パラパラと天井から降り注ぐ岩の破片。洞窟が崩れ落ちなかったことは、不幸中の幸いと言っていいだろう。

 一体何が起こったのか、痛みに悶えるザイルにはわからなかった。ただただ苦しみだけが頭を支配しており、他の何者も、そこに立ち入る余地がなかったのだ。

 意味をなさない叫び声を上げながらのた打ち回っていたザイルは、いつしか動きを止めた。彼の精神が限界を超えてしまったのだ。

 身体の前面が例外なく焼かれていた。特に酷いのは顔だ。醜く焼け爛れ、どこが目でどこが鼻なのか、よく見ないとわからないほどだった。

 それでも彼は生きていた。

 彼が目を覚ましたとき、痛みは相変わらずあった。だが、それでも気を失う前よりは多少痛みが引いていたのかもしれない、物を考える余裕が生まれていた。もっとも、あまりの痛みに叫び、のた打ち回るのは変わらなかった。

 迂闊だった、ザイルはそう思った。己を襲ったのはスピニーとかいう魔物の起こした爆発だ。オレンジ色のトゲトゲ野郎が爆発物であることは、有名な話だ。ザイルも当然知っていた。なのに、なぜ自分はあんなに無防備にスピニーに顔を近づけてしまったのだろう。

 単なる好奇心だった。スピニーにトゲは何本あるのだろう、なんて下らない疑問を晴らしたかったにすぎないのだ。そして、ちょうどうまい具合に眠っているスピニーを見つけてしまったのがよくなかった。眠っているからといって、なぜか安心して近づいてしまったのだ。

 後悔のあとザイルを襲ったのは、恐怖だった。明らかに深刻な症状、治まる気配のない痛み。静まり返った洞窟内部。ひんやりとした地面。ザイルは気付けば膝を付き、うずくまっていた。

 静かな足音が聞こえた。空耳だと思った。こんなところにいったい誰が来るというのだろう。

 間近に気配を感じ、ザイルはうずくまったまま視線を少し上げた。何者かの茶色い靴のつま先が見えた。

 

「生きとるようじゃな……」

 

 随分と、久しぶりに人の声を聞いたような気がした。

 ザイルは、渾身の力を込めて、相手の顔を見上げた。深いしわが刻まれた、いかめしい顔だ。随分と年をとっていると思われたが、一方で、がっしりとした体つきからは若々しさを感じられる。

 

「同じドワーフのよしみじゃ」

 

 そう言って、彼はザイルを担ぎ上げた。

 目から涙が零れていた。そして、ザイルの意識は再び遠くなっていった。

 

 

 

 

 

 目を覚ましたとき、ザイルはベッドに寝ていた。

 身体中に圧迫感がある。視線を下ろすと、全身に包帯が巻かれていることに気付いた。

 ツンと鼻をつく薬のにおいが周囲に満ちているようだった。顔をしかめると、痛んだ。

 

「具合はどうじゃ?」

 

 パッと身体をそちらへ向けると、あの老人がいた。

 ザイルはうめいた。

 

「急に動くな。まだ傷など全く癒えておらんじゃろう」

 

 若干涙目になって、ザイルは頷いた。

 

「……ここは?」

「わしの家じゃ」

「そりゃあそうだろうけど……」

 

 見回すと、ここは洞穴のような部屋だった。薄暗い。天井も壁も床も、全て土だ。薬のにおいの向こうに、土のにおいが隠れていたことに気付く。

 細々した器具が雑然と置かれているが、最も目を引くのが、どっかり置かれた古臭い釜だ。何やら怪しげな雰囲気を醸し出している。

 

「当分、おとなしくしとれ。重症じゃ」

「……当分って、どれくらい?」

「当分じゃ」

 

 怒ってるのだろうか。そう思わせるほど、老人の顔はいかつい。

 

 

 

 

 

「包帯を変えんとな」

 

 数日後、老人は突然言った。

 タンスの引き出しを開けては閉じ、また別の引き出しを開けては閉じ、それを何度か繰り返して、彼は包帯を引っ張り出してきた。

 

「ねえ、じいさんって薬師とかなの? オレの治療をしたのもじいさんなんだろ?」

「薬師ではない」

「じゃあ、なんなの?」

 

 ここで目を覚ましたあの時以来、ずっと部屋に満ちている薬のにおいは、自分の傷に塗りつけられたものだろう。

 

「なんでもよかろう」

 

 釜から嫌な色の液体を器にすくい、それと包帯を持って老人はこちらへ向かってくる。

 

「起きろ」

「……なんだよ、それ。薬……なんだよな?」

 

 ザイルは身体を起こし、器のなかの液体を覗いた。鼻が曲がるほど強烈なにおいが漂ってくる。

 

「それ以外になかろう」

 

 老人は、器と包帯を置くと、ザイルに巻かれた包帯をするすると解いていく。解かれた包帯の内側には、粘ついた液体が付着している。本当にこれで治るのだろうか。ザイルは不安に駆られた。

 しかし、あらわになった自分の身体を見て、考えが変わった。結構治っている。もちろん完治には程遠い。だが、あのとき洞窟で見た自分の身体と比べれば、歴然の差だ。

 包帯が全て取り去られ、ザイルは圧迫感から解放された。さわやかな風に吹かれているような気分だ。

 

「拭き取ったほうがいいんかのぅ……」

 

 ぼそりと老人は呟いた。拭き取るとは、おそらくザイルの身体にまだ付着したままの薬のことだろう。

 

「……あのさ、勘で治療してないよね?」

「この薬は、いろいろと薬草を煎じたものじゃ。これを塗っておけば、間違いはあるまい」

「ちゃんとした薬師はいないの? それか、回復魔法が使える人とか」

「探せばおるじゃろうな。だが、頼めん」

「なんで?」

「……ここはエルフたちの統括する村じゃ。ドワーフは肩身が狭い」

「まさか、ここって妖精の村?」

 

 ザイルは目を見開いた。

 老人は頷いた。

 

「へー、じいさん変わってるなぁ。ドワーフなのに妖精の村に住むなんてさ」

 

 妖精の村とは呼ばれてはいるが、その実、エルフたちが実権を握っている村だ。同じ妖精であるドワーフは、あまり妖精の村には住んでいない。元々ドワーフは、山や洞窟など、岩や土に囲まれた場所を好む。わざわざ肩身の狭い思いをしてまで、妖精の村に住もうと考えるドワーフはまれだ。

 結局、薬は拭き取っておくことにしたらしい。老人は、解いた包帯の綺麗な側で、ザイルの身体を拭いはじめた。

 

「いててッ! もう少し優しく拭けよ!」

「我慢せい」

 

 身体を拭き終えると、今度は顔を拭きはじめた。チョンチョンと優しく拭く。訴えが通じたようで、何よりだ。

 まだ残っているような感覚はあるが、老人はとりあえず拭き終えたと思ったらしい。包帯を床に放ると、今度は薬の入った器を手に取る。

 ザイルの身体に薬を垂らすと、包帯を巻いていった。

 

 

 

 

 

「痛みはどうじゃ?」

「顔はちょっと……でも、他は大丈夫」

「……顔が一番重症だったからな」

 

 何日も経ったある日のこと。怪我はほぼ治ったようだが、まだ顔はなんだか引きつれる感覚がある。しかし、痛みはほとんどない。

 

「包帯ももういらんじゃろう。たぶんな」

「たぶんって……」

「それより、もう帰ってもよいぞ」

「え?」

 

 ザイルはベッドから老人を見上げた。

 

「もう治ったんじゃろう。なら、ここにいる必要もあるまい」

「いや、まだ顔が……」

 

 老人は表情に少しためらいを浮かべた。

 

「たぶん顔はそれ以上良くはならんじゃろう。とりあえず、わしにできることはもうない」

「……え?」

 

 ザイルは、よくわからぬまま老人を見つめた。

 

「お主にも帰る場所があるじゃろう。いつまでもここにいても仕方あるまい」

「……ないよ、帰る場所なんて」

 

 ドワーフは集落を作って暮らしているわけではない。自分の住処は持っていても、一人で生きているドワーフは珍しくないのだ。ザイルも同様だった。

 ザイルは俯いて、ぼそりと言った。

 そうか、と老人は言った。

 

 

 

 

 

「ひーまー」

「知らん」

 

 ザイルはベッドに寝転んだまま老人に目を向けた。老人は何やら釜にいろいろと放り込んでいるが、何をしているのかはわからないし、興味もない。ただ、薄暗いこの部屋でのその行為は、やけに不気味ではあった。

 

「ひーまー」

「やかましい」

「だって、暇なんだもん」

「だったら、外で遊んでこい。この家には遊び道具はない」

「えっ、いいの!?」

「ダメだと言ったことがあったか?」

 

 ザイルは勢いよく身体を起こし、ベッドから飛び降りた。

 

「いってきまーす!」

 

 木製のドアを勢いよく開け放ち、ザイルは飛び出していった。

 あまりの眩しさに、目が眩んだ。ひさびさに身体を動かしたため、あちこちがぎこちない。きしむ音が聞こえるかのようだ。

 どこへ行こうか、ザイルは辺りを見回した。そしてはじめて気付いたのだが、老人の家は、丘のように地面が盛り上がっているところの側面に掘られた、横穴のようなものだった。

 ここは村の外れなのだろうか。森のなかほどではないが、木々に包まれた場所だった。

 

「ん?」

 

 木と木の隙間から、開けた場所らしき空間と、建物らしきものが見える。あれが村というものなのではないだろうか。ザイルは駆け出した。

 ガサガサと、足が下草をかき分ける音をたてて進むと、すぐに村に出た。

 

「うわー……」

 

 しばしザイルは言葉を失った。

 ザイルは、その存在を知ってはいたものの、村というものを見たのははじめてだった。建物がいくつも集まっており、妖精もたくさんいる。妖精といっても、エルフばかりだ。ドワーフの姿は見当たらない。

 遠目には見たことはあったが、エルフをこんなに近くで見るのははじめてだ。可憐な花の精――もし彼女たちが突然空を飛びはじめたとしても、ザイルは驚かなかっただろう。

 最もザイルの目を引いたのは、村の奥のほうに見える大きな湖にそびえる大木だった。自然のなかで生きてきたザイルでさえ、こんなにも巨大で、湖から生える木を他に知らない。どんなに遠くからでも見えるほどの大きさのこの大樹の存在はもちろん知っていたが、間近で見ると改めて圧倒される。

 それだけではない。扉や窓が幹に取り付けられているようなのだ。にわかには信じがたかったが、どうやらこの大木は建物の一種であるらしい。それでいてビシビシと伝わってくる存在感――生命力とでも呼ぶべきだろうか。建物でありながら、間違いなくこの大木は生きていた。

 ようやくといった感じで、ザイルは村に一歩踏み込んだ。村のなかは、下草もある程度整えられている。引き寄せられるようにザイルは歩き出した。徐々に早足になり、しまいには小走りになっていた。

 思えばそのときから何となく、ちらちらと視線を感じてはいたのだが、ついに何かがおかしいと確信させられることが起こった。一人の妖精が悲鳴を上げて、ザイルの行く手から飛び退いたのだ。

 何事だろう、ザイルは眉をひそめた。どうもあの妖精は、自分を見て恐怖らしき感情をあらわにしたように見える。

 その悲鳴のせいで、村人たちがこちらに注目した。村がざわついた。

 

「え……な、なに……?」

 

 ザイルはそわそわと視線をあちこちに巡らせた。小走りだった足は、いつの間にか止まっていた。

 遠巻きにこちらを見ている妖精たち。

 

「なんなの、あれ? 魔物?」

「あんな魔物、この辺にいた?」

 

 どこからか、そんな言葉が交わされているのが聞こえた。一人の妖精が湖のほうへ駆けていくのが目に入った。

 

「な、なんだよ……」

 

 ザイルは無意識のうちに後ずさりしていた。かといって逃げ出すわけでもなく、当然先へ進めるわけでもなく、ザイルはしばし妖精たちの見世物であり続けた。

 さして時間を置くことなく、巨木のほうから四人の妖精が走ってきた。ザイルの前に立ち並ぶと、彼女たちはその手に握りしめたゴツゴツした杖を突きつけてくる。

 

「なんなんだよ、お前ら!」

 

 怒鳴るザイルに、妖精たちは顔を見合わせる。

 

「しゃべったぞ」

「意志の疎通はできそうだな」

「一体何言ってんだよ!?」

 

 妖精たちは強い意志を込めた視線をザイルに飛ばした。

 

「この村に何の用だ?」

「……別に、ただの暇つぶしだよ……」

 

 ぼそぼそとザイルは答えた。

 

「……この村には、たいしたものはないぞ。立ち去るといい」

「……わかったよ」

 

 明らかにザイルを追い返したいがためのおためごかしだったが、ザイルにはそれに反抗する気力はなかった。

 ザイルは踵を返し、表情を歪めながら、森へ向かってとぼとぼと歩いた。振り向くこともできず、村から出る。ガサリと下草を蹴飛ばしながら悪態をついてみるも、気が晴れることはなかった。

 

 

 

 

 

「ただいま……」

 

 老人の家に帰ってきたザイルは、ふてくされた顔で、ベッドにどっかりと腰を下ろした。

 

「随分不機嫌だな。なんじゃ、外はつまらんかったか?」

 

 相変わらずよくわからない作業をしていた老人が、仏頂面をしているザイルに目を向ける。

 

「つまんないっていうか……クソッ!」

 

 ベッドに拳を振り下ろし、ザイルは吐き捨てる。

 壊してくれるなよ、そう呟きつつ、老人はベッドに目をやる。そしてザイルに目を移し、尋ねた。

 

「どうしたんじゃ?」

「わかんねーよ!」

「そうか……」

 

 何事もなかったかのように作業に戻る老人を見て、ザイルは苛立ちを浮かべた。

 

「エルフたちが……意味わかんねーんだよ」

 

 石臼らしきもので葉っぱをすり潰すのに忙しいらしい老人は、ちゃんと聞いているのかいないのか、そうか、とぼそりと言葉を返した。

 

「オレを見て急に悲鳴を上げたり、逃げ出したり……。杖まで向けてきやがったんだ!」

 

 叫ぶザイル。老人は手を止めた。

 

「なんなんだよ……。オレが何したっていうんだ!」

「村へ行ったのか?」

「ああ」

 

 再びベッドに拳を振り下ろしたザイルに、老人は何を言うこともなく立ち上がり、古ぼけた棚の引き出しを開けて、中を探りはじめた。

 

「それはおそらくお主の顔のせいじゃろうな」

「顔?」

 

 銀色の鍋を取り出してきた老人は、それをザイルに放った。

 慌ててキャッチしたザイルを見て、老人は言葉を続けた。

 

「見てみろ。それなら鏡代わりになるじゃろう。あいにく、うちはに鏡なんてお上品なもんはないんでな」

「鏡代わりって……傷が目立つな」

 

 鍋は決してピカピカに輝いているわけではなく、使い古されたものだったが、それでも多少は映りそうだ。底面を顔に近づけると、うっすらと歪んで顔が映った。

 かなり見づらいため、いつの間にか眉間にしわが寄っていた。目を凝らして見てみると、どうもおかしい。なんだか、自分の顔とは違うような気がする。歪んでいるとかそういう次元の話ではなく、もっと根本的に違う。

 

「……なんだ、これ?」

「顔は治らんかったと言ったじゃろう」

 

 理解できないといった表情のザイルに、老人は静かに声をかけた。

 

「どういうことだよ」

「お主の顔は焼け爛れておった。治療はしたが、跡は残った。そういうことじゃ」

「なんだよ、それ!」

 

 ザイルは勢いよく立ち上がった。そして老人につかみかかった。

 

「なんでだよ! なんで治せないんだよ! 治せよ!」

「……わしに拾われたことを不運に思うんじゃな」

「……くそッ!」

 

 ザイルはドアに向かって走り出し、そのまま家を飛び出した。地面を覆う雑草を蹴散らしながら、しゃにむに走った。村に入っても速度を落とすことなく駆け抜ける。先ほどの騒ぎも既に落ち着いたらしく、野次馬もいなくなっていたが、ザイルの姿を目にした妖精たちは再び騒ぎ出す。しかし、そんな様子もザイルの目には入らなかった。向かう先は、村の奥にある湖だ。

 誰にも止める間を与えず、ザイルは湖に辿り着くと、そのほとりに膝をついた。美しい湖だ。こんな時でなければ、しばしの間、目を奪われていたことだろう。

 心臓が激しく打っている。水際に手をつくと、荒い息をつきながら恐る恐る湖面を覗き込んだ。鍋よりは鮮明に映った己の顔がそこにはあった。

 

 

 

 

 

「じいちゃん。オレ、そろそろこの家を出るよ」

 

 もはや定位置となっていたベッドに座って、ある日ザイルはそう告げた。

 相も変わらず釜をいじりながら、そうか、と老人は返す。釜のなかの液体は、薄暗い室内を、淡く不気味に照らしていた。

 

「やっぱ、いつまでも世話になってるわけにもいかないしな!」

 

 そう笑ってみせたザイル。だが、理由はそれだけだっただろうか。あれ以来、結局一度も足を踏み入れることができなかった妖精の村の存在を、身近に意識しながら生きていくことに、苦痛を感じていたのかもしれなかった。

 

「安心しなよ。たまには顔出してやるからさ」

「いらん世話だ」

 

 そう言った老人は、ほんのかすかに口元を緩めたようだった。ザイルは笑った。

 ザイルは枕元に置いておいた布を顔を覆うように巻いた。二つ小さな穴が開いており、そこと目の位置を合わせる。これは老人に頼んで用意してもらった覆面代わりのものだ。

 そして斧を手に取ると、準備はできた。ザイルはもともと身一つで生きてきた。準備などほとんど必要ない。

 言葉少なに挨拶をし、ザイルはドアを開き、家を出て行った。別れの仕方など、ザイルは知らなかった。

 村とは逆の方向に、ザイルは歩いていく。振り向けば、まだ老人の家は見えた。しばらく行き、再び振り向くと、木々が遮る隙間から老人の家は見えた。しばらく行き、再び振り向くと、もう老人の家は見えなかった。

 

 

 

 

 

 あれからザイルは各地を転々と放浪していた。ときどき老人の家に帰ったりもした。そんなあてのない旅のさなか、ある湖に辿り着く。森の奥に、ひそやかに身をたたえていた、澄んだ湖だ。覆面の下でザイルは頬を緩めた。綺麗だ。

 湖のほとりに腰を下ろし、休息をとることにした。周囲には、短い芝がみずみずしく茂っている。空気までもが水分を多く含んでいるようで、辺りに水の匂いが充満していた。

 

「ん?」

 

 ぼんやりと湖面を眺めていると、ふと白いものが目の端にちらついた。目を凝らして見てみると、対岸に水色の服を着た、白い人が横たわっている。その顔立ちまでは見えない。

 どうしたものか、と少しの間考え込んだザイルであったが、立ち上がって対岸へ向かった。

 湖はさほど大きくはなく、対岸へ向かうのに大した時間は必要なかった。

 白い人を間近に見て、ザイルは思わずため息を漏らした――女だ。肌が白く透き通るようだった。水色がかった長い髪が無造作に乱れている様が、余計に女の美しさを引き立てていた。水色のドレスを着ている。

 女は妖精ではなかった。エルフのように耳が尖っているわけでもなければ、男しかいないドワーフであるはずもなかった。

 

「何なんだろう……」

 

 湖の精だ、ザイルは半ば本気でそう思った。

 

「お、おい、大丈夫か?」

 

 ふと我に返り、女の腹が血に染まっていることに気付いたザイルは、慌てて声をかけた。真っ赤に染まった血の色は、普通なら真っ先に目につきそうなものだ。だか彼女には血の色が酷く似合った。彼女が真紅を纏っていることが、この上なく自然なことのようにザイルには思えたのだ。

 反応はない。少し躊躇いながら、ザイルは女の肩に手を置き、揺さ振りながら再び声をかけてみた。冷たい肩だった。一瞬、ザイルは女が死んでいるのではないかと思った。

 しかし、顔をしかめながらうめき声を漏らした女に、ほっと胸をなで下ろす。

 

「おい! 起きろ!」

 

 やがてうめきながら女は目を開いた。あらわになるルビーのように赤い瞳に、ザイルはこの時すでに魅入られていたのかもしれない。

 

「……何者だ」

 

 か細い声でそう言った女は、ザイルを追い払うように腕を振るが、身体が痛むのか、苦しげに顔をしかめた。

 

「無理すんな! 動かないほうがいいぞ!」

 

 うわずった声を上げ、ザイルは女から手を離した。肩とはいえ彼女に触れていたことが、不埒なことのように感じられたのだ。

 

「何者かと聞いている」

「オ、オレか? オレはザイル。君は?」

 

 それには答えず、身体を起こそうとする女に、ザイルは慌てる。

 

「お、おい、寝てろって! オレが、あっ、そ、そうだ、薬だ! 薬を取ってこないと! あっ、でもキミを置いていくわけにもいかないよな――」

 

 制するように掌を彼女に向けながら、ザイルは右往左往した。まずは彼女を安全なところに移すべきか。あるいは一刻も早く薬草を探してくるべきか。いっそ、彼女を連れて薬草を探しにいくべきか。冷静さを欠いた頭では、なにが正しいのか判断するのは難しそうだった。

 

「騒がしいぞ。黙れ」

「あっ、ああ! ごめん」

 

 声の調子も見た目も弱々しいわりに、女は不思議なほど落ち着いていた。

 女は再び立ち上がろうとした。当然のごとく慌てて制しようとするザイルを冷たく睨みつける。

 立ち上がった女は、ふらふらとおぼつかない足取りで、湖に近寄る。そして、崩れ落ちるように膝をつき、湖面に片手を触れた。

 すると次の瞬間、彼女が触れたところから放射状に、透き通った水が白く濁っていく。

 

「何だ?」

 

 ザイルは凝視した。

 

「凍ってる……?」

 

 呆然と呟くザイルを尻目に、その現象は続く。

 どんどん白さが濃くなっていき、手を触れていた部分が徐々に角張りながら盛り上がってくる。冷気がザイルの足下を洗う。ふとザイルは、彼女の掌が淡い水色の光を纏っていることに気付いた。

 ザイルが見守るなかで、ついに湖に氷の洞穴が誕生した。小さな小さな洞穴だ。湖のほんの一部を凍らせたにすぎないが、それでもザイルは唖然としてただただ立ち尽くすことしかできなかった。

 女は脱力したように息を吐くと、転がるようにその穴に身をおさめた。穴は彼女の身体が入るギリギリの大きさだ。

 

「汚い氷だ……」

 

 ポツリと女は呟き、そしてぐったりと倒れこむ。

 氷のなかに身を横たえ、苦しげに喘ぐ女の姿に、ザイルは息をのんだ。だが、腹を押さえる手の隙間から赤い液体が流れ出し、氷の床を染めていくのを見て、ハッとした。

 

「ちょ、ちょっと待ってろよ! すぐに薬草探してくるから!」

 

 ザイルは返事も待たずに森へ駆け込んだ。薬草なんて森を探せばどこかにあるはずだ。

 そんなザイルの後ろ姿を、赤い瞳が静かに追っていた。

 

 

 

 

 

「や、やあ。どうだ、具合は?」

 

 女は少しずつ元気を取り戻していた。ザイルの手当てが功を奏したのかもしれないし、そうでなかったのかもしれない。

 あの日、ザイルが薬草を探し当て戻ってくると、彼女は自分の傷口を氷で塞いでしまっていたのだ。それは彼女なりの治療であったらしいのだが、ザイルは薬草を服用させた。最初は必要ないの一点張りだったが、ザイルのしつこさに折れたようだった。

 とは言え、まだ完治にはほど遠い。相変わらず傷口には氷が張り付いていたし、彼女はぐったりと横たわっている。

 

「何の用だ?」

 

 ザイルの質問には答えず。女は冷たく言った。それにももはやザイルは慣れていた。彼女はどうやら根本的に自分に興味がないらしい。

 

「用って……」

 

 人生のほとんどを一人で生きてきたザイルは、他者とのコミュニケーションの経験が薄い。どうすればこんな相手と会話を続けられるのか、さっぱりわからなかった。

 

「無いなら失せろ」

「……聞きたいことがあるんだ!」

 

 咄嗟に叫んだザイルだったが、次の瞬間困った。何を聞けばいいだろう。

 

「……キミは何者なんだ? 妖精ではないよな?」

 

 彼女と話すときは、意図して感じの良い話し方を心がけているのだが、それがうまくいっているのかは疑問だった。

 彼女は沈黙を返した。感情の読めない視線をじっと向けてくる。

 

「ま、まあいいよな。そんなことは」

 

 静寂に絶えかね、乾いた笑いを漏らす。

 

「キミの名前……は?」

 

 やはり女は答えなかった。

 

 

 

 

 

「やあ、どうだ、具合は?」

 

 もう何度目になるか、ザイルは彼女を訪ねた。最初にかけるこのセリフも、もはやお決まりとなっていた。

 彼女が答えないであろうことも予測できていたザイルは、何の用だ、と返される前に、後ろ手に持っていたものを差し出した。森で採ってきた花だ。この花の名前は知らないが、ザイルが見つけたなかでは最も綺麗な花だった。女という生き物は花を好むらしいと、昔どこかで聞いたことがあった。

 

「……何だこれは?」

「何って、花だよ」

「花? ああ……花か。これがこの世界の花か……」

「この世界?」

 

 まるで彼女が別世界から来たかのような物言いだ、とザイルは首をかしげた。だが、それもよく考えればありえない話ではない。妖精ではない彼女が、妖精界の住人ではないというのは、もっともなことだ。

 

「もしかして、キミは人間なの?」

 

 ザイルは人間という生き物を見たことはなかったが、人間界という世界が存在し、そこには人間という生き物が存在することは知っていた。人間とはこんなにも美しいのか。行ってみたいな、と思いを馳せた。

 

「……ああ、そうだ」

 

 長い沈黙の後に、彼女は答えた。

 

「へえ、そうなのか! オレ、人間って初めて見たよ! 人間って……綺麗なんだな」

 

 そう言い終えて、すぐさまザイルは後悔し、目をそらした。

 だが、彼女はザイルの想像とは違った反応を返した。彼女はザイルが引っ込めようとした手を取り、その手に握られていた花を受け取ったのである。

 

「……え?」

「綺麗だな……花は」

 

 呆然とするザイルに、彼女は初めて小さく微笑みかけた。

 

 

 

 

 

「お前はどうしていつも顔に布を巻いているんだ?」

 

 あれから何度目かの逢瀬になるか、ある日彼女はザイルに突然尋ねた。

 相変わらず彼女は寝転がっている。

 

「え……そ、それは……」

 

 ドクンと一つ心臓が強く胸を叩いた。

 顔に布を巻いている男がいれば、気にならないほうがおかしいとはザイルも思う。だが、どう答えていいものか。正直に話すのは単純に怖かった。ザイルの脳裏から、あのときの妖精たちの反応が消えることはない。

 じっとこちらに向けられる彼女の視線に耐えかね、ザイルは目をそらした。

 

「ま、まあ、そんなことはいいだろ? あれだよ、あれ、ファッションだよ。それより、体調はどうだ? もうだいぶ良いのか?」

「それはもう聞かれた。いつもお前が最初に聞くことだろう?」

「あ、そうだったっけ?」

 

 ザイルは乾いた笑いを漏らした。確かにいつも最初に聞くことだが、答えをもらったことはない。

 

「まあ、答えたくないならいい」

「あ……いや……」

 

 興味を失ったように視線をはずす彼女に、ザイルは狼狽する。どうしたらいい。どうしたら彼女の興味を取り戻せるのだろう。

 

「あの、違うんだ……オレは……」

 

 そう言ったきり黙りこんだザイルに、彼女はため息をつくと、視線を戻して言った。

 

「だから、いいと言っているだろう。それより他にも聞きたいことがある」

「え! な、なに? 何でも聞いてよ!」

 

 身を乗り出すザイル。

 

「ここはどういう世界なんだ? ずっとここにいるからわからない」

「ああ、なるほどね!」

 

 救われたとザイルは思った。

 

「ここは妖精界って呼ばれてるんだ。人間界には人間が暮らしてるように、妖精界には妖精が暮らしてる」

「妖精? お前も妖精なのか?」

「ああ、そうだよ」

「じゃあ、この世界にはお前みたいなのがたくさんいるのか?」

 

 寝転がったままだが、彼女は首をかしげるような仕草を見せる。

 

「まあね。でも、違うのもいるよ。妖精ってのはエルフとドワーフに分かれるんだ。で、オレはドワーフ。エルフはもっと、なんていうか、細いよ」

「細い? 弱いのか? それとも魔法を使うのか?」

「は? ああ……エルフは戦いを好まないらしいから、強くはないんじゃない? 魔法は……まあ、使うやつもいるんじゃないかな、よくわかんないけど」

 

 不思議な反応だ。彼女の返答を聞いてザイルはそう思った。もしかしたら彼女は、強い人間か魔物かに、あんな怪我を負わされたのかもしれない。だから、妖精が自分にとって危険な存在なのかどうかを確かめたいのかもしれないと、ザイルは想像を巡らせた。

 彼女は考えに耽っているようだった。

 

「ドワーフは? 強いのか?」

 

 少しの沈黙の後、彼女が尋ねた。

 

「いや、大丈夫だよ。多少は腕力はあるけど、そんなに好戦的な種族じゃないから」

 

 安心させようと、ザイルは言った。

 そうか、と呟いて、彼女はまた何やら考えているようだ。

 

「……魔物はいるのか?」

 

 その後も彼女の質問は続いた。

 彼女は思いのほかこの世界に興味を持ってくれたようだった。

 ザイルは半分洞穴のなかに頭を突っ込むようにして、話しはじめた。飽きることもなく、彼女が望むままにこの世界のことを話した。

 

 

 

 

 

「どうだ、具合は?」

 

 もう、ここを訪れることに緊張することもほとんどなくなった。

 

「だいぶ良くなってきた」

 

 小さな氷の洞穴に横座りして、彼女は返事をしてくれた。もう身体を起こせるくらいには回復したようだ。ザイルは笑みを返した。

 

「そりゃあよかった。ところで、最近寒くなってきたなあ。風邪引かないように気をつけろよ」

「風邪など引かん。引くようなら、氷のなかに住んだりしない」

「確かにな。すげえんだな、人間って」

 

 この肌寒いなか、氷の洞穴に身をひそめているというのに、彼女は寒がっている様子は微塵もない。

 氷のなかに溶けていってしまいそうな彼女の儚さに見とれていたそのとき、背後でがさりと草をかき分けるような音がした。

 

「誰だ!」

 

 瞬時に振り向き、ザイルは背負った斧に手をかける。

 

「なんだ、リンゴか」

「魔物だな」

 

 緑色の大きなリンゴだが、目と口があるところが、普通のリンゴとは違う。

 

「ちょっと待ってて。すぐ追い払ってくるから」

「放っておけばいいだろう。戦意もないようだしな」

 

 斧を手に足を踏み出したザイルを、彼女は制した。

 

「え、そうなのか?」

 

 リンゴの魔物はヘラヘラ笑っていて、何を考えているのかわからない。

 

「でもどうしたんだろう。ここに魔物が出るなんてはじめてじゃないか?」

「いや、最近ちょっとずつ寄ってくるようになってきた」

「えっ、そうなのか!? なんでもっと早く言わないんだよ! もっと安全な場所に移動しないと!」

 

 ザイルは思わず声を荒げていた。

 

「落ち着け。氷でこの穴の入り口を塞いでやれば、誰も私に触れることはできん」

 

 彼女の氷のように冷静な視線に、ザイルは冷や水を浴びせられたように黙り込んだ。

 

「それより、そんな大声を上げては、魔物を刺激してしまうぞ」

 

 そんな彼女の言葉どおり、気付けばリンゴの魔物はこちらを睨みつけていた。思いのほか鋭い歯を剥き出しにしている。

 しまった、そう歯噛みして、ザイルは魔物へ向き直り斧を構える。彼女に危険を近づけるわけにはいかない。

 

「ガプッ! ガプッ! ガープッ!」

 

 飛び上がって迫ってくる相手に向かって、ザイルは斧の一撃を見舞う。

 斧がリンゴに食い込み、相手は悲鳴を上げて転がっていく。相手の傷口からは、白く濁った汁が垂れている。血ではないようだ。彼なりの血なのかもしれないが。

 追撃をかけようとザイルは一気に距離を詰める。そして斧を振りかざし、それを振り下ろそうとした途端、相手がパッと起き上がり、体当たりを仕掛けてきた。

 

「うわっ!」

 

 反応しきれず、体当たりをモロに受け、ザイルは後方に飛ばされ、尻餅をつく。

 その隙を逃すまいと飛び掛ってきた。マズイ、避けきれない、そう悟りながらもザイルは身をよじり、同時に半ば破れかぶれに斧をぶん回した。

 

「ぐっ!」

「ギャプー!」

 

 相手の歯が頬を裂くのと同時に、斧が相手の横っ腹に深々と突き刺さった。

 リンゴの魔物は半分に割れ、その動きを止めた。溢れ出す白く濁った体液は、妙にかぐわしい香りを漂わせた。

 ザイルは大きく息をついた。座り込んで、斧を放り出す。

 右の頬が痛む。手で押さえると、血がべっとりとついた。浅い傷ではなさそうだ。

 そのときハッと気付いた。肌の感触だ。顔の風通しもいい。慌てて辺りを見回すと、それはすぐに見つかった。

 

「なるほどな。だから顔を隠していたのか」

 

 その声に、ザイルから血の気がみるみる引いていく。千切れ落ちた覆面の残骸に飛びつき、必死に顔に巻こうとするも、破れてしまっていてとても顔は隠せない。

 呆然とザイルはへたり込んだ。

 

「気にすることはない」

 

 気付けば、彼女が傍らに立っていた。ザイルは彼女を見上げた。立てるようになったんだ、頭の片隅でそんなことをぼんやりと思っていた。

 彼女はザイルの傷ついた頬に手を添えた。ひんやりとした感触だ。何が起こっているのかわからず、ザイルは呆然とした。

 

「お前は私を守ってくれたんだろう?」

 

 やわらかな微笑みを浮かべ、彼女は手を離した。

 傷口が凍るように冷たい。触ってみると、どうやら本当に凍っているようだ。私流の治療だ、と彼女はいたずらっぽく笑った。はじめて見る表情だった。

 

「で、でも……オレは……。みんな気持ち悪がるんだ。キミもきっとそうだ……」

 

 ザイルは俯いて言った。

 でも、受け入れてくれた人は一人だけいた――じいちゃんだ。会いたかった。今、無性にじいちゃんに会いたくてしかたがなかった。

 

「そんなことはない」

 

 そんな彼女の言葉にも顔を上げないザイル。

 すると、彼女はしゃがみ、その両腕でザイルを包んだ。やっぱり彼女はひんやりしていた。彼女は氷の精なんだ、そんなことを思った。それなのに感じるこの温かみは何なのだろう。頬を涙が伝うのをザイルは感じた。

 

「では、こうしよう。私にもお前に隠していたことがある。それを、お前の秘密と交換しよう。その代わり、約束するんだ。私たちはお互いを嫌いにならないと」

 

 ザイルは顔を上げた。触れそうなほど間近に彼女の顔がある。彼女の真紅の瞳に吸い込まれるようにザイルは目を合わせ、そらすことができなかった。

 それでいいか、と囁き尋ねる彼女に、ザイルは操られるように頷いた。

 

「私は魔族だ」

 

 

 

 

 

「うわ、なんだこりゃ!」

 

 ある日、ザイルが彼女に会いに湖を訪れると、景色が様変わりしていた。以前までは湖の片隅の一部が凍り、小さな洞穴があっただけだったのだが、今は湖全体が凍りつき、中央に氷の建物が建っている。

 

「やっと来たか。待っていたぞ」

 

 建物に手を添えて、彼女はこちらに顔を向けた。柔らかな表情をしている。

 ただでさえ最近寒くなってきているのに、こんなものが出来たせいで、ここは相当寒い。ザイルは身体を縮こめながら彼女の下へ向かった。

 

「すげえ……これ何なんだ?」

「家を建てたんだ。体調も良くなったことだし、いつまでもあんな穴蔵に住んでいたくはないからな」

「建てたって……簡単に言うな」

 

 家と呼ぶには少々大きい。ザイルはこの氷の館を見上げた。吐く息が白い。

 全てが、濁りのない透き通る氷で作られている。立ち上る冷気が白い霧のように館を覆い、それが流れ去るとその向こうから館が顔を出す。そしてまた新たに立ち上る冷気が、館とザイルを隔てた。確かにそこにあるのに、瞬きをした次の瞬間には消え去ってしまいそうな、そんな幻のような建物だった。

 

「どうだ? なかなか美しいだろう?」

 

 彼女は頬を緩めて氷の表面を撫でる。

 氷はこんなにも透き通っているのに、不思議と向こう側を見通すことはできない。

 

「ああ、綺麗だ……」

 

 ザイルは見とれていた。神秘的という言葉がこれほどに似合うものを、ザイルはこれまでに見たことがないに等しかった。あるとすれば、妖精の村の大樹だけだ。

 傍らの彼女に目を移す。彼女はザイルがはじめて見る表情をしていた。彼女は氷が好きなんだな、ザイルはそう思った。そして、彼女には氷がよく似合う。

 

「入ってみるか?」

 

 ふとこちらを向いた彼女と目が合った。慌ててザイルは目をそらした。

 

「いいのか?」

「ああ、いいぞ。ついて来い」

 

 行く先には大きな扉があった。扉も当然氷で出来ている。

 

「模様もなんか綺麗だな」

「まあな。装飾にも凝ってみた」

 

 どこか誇らしげに、彼女は笑みを漏らした。そんな彼女を見て、ザイルも笑った。

 扉には細かい模様が刻まれており、取っ手にも細かな線が刻まれている。彼女なりのセンスによる模様なのだろう。扉の両脇には円柱の柱がそびえている。ザイルが見たことのないような、装飾の施された柱だ。

 彼女が取っ手を引くと、ゆっくりと扉が開く。すると、中からさらに濃い冷気が漏れ出してきた。

 

「さっみー。なあ、キミは寒くないのか?」

「当然だ。でなければ、こんなところに住もうとはしない」

 

 平然と中に入っていく彼女に、ザイルは歯をカチカチ鳴らしながら続く。

 

「何もないな……」

 

 一階は広間だった。見回した感じでは、他に部屋はない。柱が何本も立っているが、それ以外には物もない。ただ上への階段が隅に一つある。

 

「まあ、置く物もないからな」

 

 二人は階段へ向かった。

 階段はもちろん、手すりも氷だ。手で手すりをつかんでも溶ける様子はない。

 二階も一階とたいして変わらなかった。だが、壁際の一段高くなっているところに、氷製の大きなイスが一つ置いてある。ザイルにもう少し知識があったなら、玉座のようだと思っただろう。

 

「この階はお前の部屋だ。好きに使っていいぞ」

「えっ! オレも住んでいいの?」

 

 ザイルは勢いよく彼女に向き直った。

 

「もちろんだ。でもお前には寒すぎるか?」

「そんなことないよ! 絶対住む!」

「何をそんなに興奮している……」

 

 呆れ顔の彼女を尻目に、ザイルは狂喜乱舞した。確かにここはザイルにとって寒すぎるが、彼女と一つ屋根の下に暮らすチャンスを逃すつもりはない。ザイルの頭にはすでに二人のバラ色の未来が膨らんでいた。

 

「三階は私の部屋だ。勝手に入るなよ」

 

 そう釘を刺すように言う彼女に返事をし、ザイルは下への階段とは対極の位置にある上への階段に目を向けた。あの先が彼女の部屋。そう考えるとドキドキした。

 

「あ、そういえば」

 

 ポツリと零したザイルに、なんだ、と首をかしげる彼女。

 

「名前、まだ教えてもらってなかったなって……。なあ、一緒に暮らすわけだし、そろそろ教えてくれないか?」

 

 以前尋ねたときは、教えてもらえなかったことを、ザイルは思い出した。彼女の顔をうかがう。

 

「そういえば、まだ教えていなかったか。私の名は、ユキという」

 

 

 

 

 

 ここに住むようになって長い時が流れた。この環境に適応するため、ザイルはまず新しい服を作った。と言っても、ザイルに裁縫の技術はない。魔物の皮を剥いで大雑把に形を整えたものでしかないが、なかなか暖かい。覆面も新調した。

 イスにも大きめの毛皮をかけたため、座っても冷たくない。

 彼女との関係も良好だ。当然、一緒にいる時間が増えたのだから、仲が深まるのも当たり前だとザイルは思っていた。いずれは三階――すなわち彼女のプライベートスペースへと足を踏み入れたいという野望をひそかに胸に秘めている。

 彼女の具合もすっかり良くなり、最近はよく出かけるようになった。その隙に三階へ忍び込むことも可能ではあるのだが、さすがにそれは不誠実だと慎んでいた。ザイルは憧憬のこもった視線を上への階段に向けた。今、彼女はその階段の先にはいない。今も彼女は出かけているのだ。

 ザイルにとって喜ばしいことに、彼女は妖精界に、そして妖精という生き物に強い興味を覚えたようだった。詳しいことは知らないが、話を聞くに、調査に赴いているとのことである。妖精の村にもよく足を運んでいるらしい。あそこはエルフ以外に対して排他的な村であるというのがザイルの認識だ。それなのに、そこに入り込んで彼女曰く調査を行うこと。それ以前に、あんなところに何度も行く気になるというのが、ザイルにとっては理解しがたいことであった。

 かく言うザイルも、あの村には何度も足を運んでいる。とは言え、村はずれの老人の家を訪ねているだけだが。そういえばもう随分行ってないな、そんな思いに浸っていると、ふと足音が聞こえた。足音は階段を上がってくる。誰の足音かは考えるまでもないことだ。水色の髪がのぞいた。

 

「おかえり」

「ただいま」

 

 こんなやり取りができる関係になったのだ。そんな事実にザイルの頬は緩む。

 彼女は心なしか少し俯いて近寄ってくる。そんな姿を珍しいと思いながらも、そんな姿ですら美しいと感じるあたり、ザイルもなかなか重症である。

 水晶のように床から突き出た六角の氷の柱に背をもたれ、彼女はこちらに目を向けた。この館には、このように床から突き出した氷がたくさんある。彼女はどうやらこういったものに美しさを感じているらしい。

 

「少し気になる話を聞いたんだが……」

「どうしたの?」

 

 言いよどむ彼女を、ザイルは促した。

 

「……以前、お前が話してくれたことがあっただろう? 妖精の村に住む、ドワーフの老人のことだ」

「じいちゃんのこと? じいちゃんがどうかしたのか?」

「……その老人が追放されたらしい」

「えっ! じいちゃんが! なんで!?」

 

 反射的にザイルは身を乗り出した。

 

「エルフというのは相当排他的らしいな。追放された理由は単純だ。老人がドワーフだったからだ。しばらくは住まわせてやっていたが、いい加減目障りになってきたんだと」

「なっ!」

「村から追い出されるだけならまだいいのだが、どこかの牢獄に捕らわれているらしい。場所までは聞き出せなかった。すまない」

 

 激昂しかけたザイルは、彼女の申し訳なさそうな顔を見て、どうにかそれをおさめた。だが、怒りがなくなったわけでは決してない。ザイルの脳裏には、あの日の出来事が色を取り戻し、鮮明に浮かび上がっていた。

 

「なんでじいちゃんがそんな目に合わなきゃいけないんだ……」

 

 噴火口を閉ざされた怒りは、内側で静かに煮えたぎる。いずれ爆発するときを待っているかのように。

 

「あいつら……ぶっ殺してやる……」

 

 無意識にそんな言葉を漏らし、ザイルは腰を上げ、傍らに立てかけられていた斧を手にする。

 

「行くのか? 妖精の村に」

「ああ」

「殺すのか?」

「ああ」

「いいのか? それで」

「庇うのかよ、あいつらを」

 

 ザイルが彼女に多少なりとも棘のある物言いをしたのは、これが初めてだった。

 

「いや、そんなつもりはない。私もあのような連中は好かん」

「じゃあ、なんで――」

「殺すべき相手がわかっているのか? 私には、お前が今冷静さを欠いているように見える。冷静さを欠いては、なすべきことを見失うぞ」

「……は?」

 

 ザイルは首をかしげた。ザイルはただ、奴らの鮮血が、怒りの炎を鎮めてくれることを期待していたにすぎない。

 

「老人を追放すると決めたのは、あの村の長をはじめとする一握りの者たちだ。そいつらを討ってこそ、意味があるのではないか?」

「……うん……まあ」

「だが、エルフたちのなかにも、力を持った者もいる。長はその筆頭だ。直接見てきたが、あれはかなりの力を持っている。お前には荷が重い相手だ」

「知ったことか!」

 

 恐れに刃を引かせるわけにはいかない。強く柄を握り締めた。

 

「冷静になれと言っている。なすべきことは何だ? 殺すことか? そうではないだろう。奴らに絶望の底に叩き落してやることなのではないか? 死は一瞬の恐怖を与えるだけだ。それでお前の気が済むのか?」

 

 赤い瞳が、ザイルを静かに見つめている。その視線が脳にまで侵食してくるような、そんな感覚がザイルを襲った。

 

「奴らは、季節をつかさどる存在だ。その責任を負わされて、妖精の城というところから送り込まれてくると聞いた。その辺りはお前の方が詳しいのではないか?」

「そんなこと、オレも知ってるよ」

 

 妖精の城というところがどこかにあるらしい。その名のとおり、妖精たちが住む場所だ。だが、ザイルもそこまで詳しいことを知っているわけではない。その城の王は、妖精の村の長よりも偉いということくらいだ。偉い妖精たちが住むところというのが、ザイルのイメージだ。

 ちなみに、村の長が住む大樹もエルフたちは城と呼んでいるが、妖精の城とはまた別物だ。

 妖精の城がどこにあるのか、ザイルは知らない。だが、この付近にはないことは確かだ。城で生まれ育ち、そこから派遣されてくる者もいれば、妖精の村に直接生まれ出る者もいるらしい。村の長は前者であろう。

 

「長は責任を負わされている。つまり、その責任を果たせなかった場合、罰を与えられるだろう。しかも、季節をつかさどるという重大な責任だ。与えられる罰もまた重大なものになるだろう。長という地位からの永久の失墜。後悔と屈辱に未来永劫焼かれることになるはずだ」

 

 抑揚をつけて彼女は語った。

 

「……それいいかもな」

 

 ザイルがこのとき本当に冷静さを保てていたなら、彼女の言葉が単なる憶測の積み重ねにすぎないことに気付けたかもしれない。そして、その裏に秘められた彼女の思惑にも。

 

「ならば簡単なことだ。春風のフルートを奪ってやればいい。それがなければ奴らは世界に春をもたらすことができないらしい」

「春風のフルート……」

 

 頭に刻み付けるように、その言葉を呟いた。

 

 

 

 

 

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