刺客・Ⅰ
秦国大王である政は、王宮の寝室にて静かに書を読んでいた。
その傍らには宮女である向がいて、じっと夜空に浮かぶ月を眺めていた。
この向という女は特別容姿に優れている訳でもなく、打てば響くような刺激的な話が楽しめる相手でもなかった。はっきり言って宮女の中には彼女より優れているものなどいくらでもいる。しかし、政はこの平凡な女を存外に気に入っていた。
王の夜伽の相手となるとどうしても政治が絡む。絡むどころか、王の夜伽は宮廷政治のうちでも最も重要なものの一つとすら言える。
そうなるとやはり宮女が夜伽に呼ばれようと皆必死となるのも当然と言えば当然だった。自分が王からの寵愛を受ければ自分の地位が安泰になるだけではなく一族全体が豊かになり、場合によっては王宮にあって絶大な権力を振るえるようになるのだから。
政は自分で純粋な方だとは思っていない。どころか自分ほど人の悪意に触れてきた王というのも珍しいのではないかと思っている。
そういうわけだから夜伽の相手に無償の愛なんて曖昧模糊としたものを求めてはいないし、打算で愛を囁く彼女たちの行動を糾弾しようなんて思っていない。いないがしかし、やはり心の底が透けた女の相手をするのはやはり疲れる。
そんな折にたまたま夜伽に選ばれ、臥所に来たのが向との出会いであった。
初めて夜伽に呼ばれた彼女は緊張していたらしく寝所に放り込まれた後は一言も話さず、政の隣で身を固くしているだけだった。政務が忙しく、日中に暇な時間がない政はこれ幸いと読みかけであった書を読み始め、そしてその日は何事もなく過ぎた。
その後もたびたび政は向を夜伽の相手に選んだ。
言い方は悪いが、何もしてこようとしない向はゆっくりと過ごしたいときには都合がよかったのだ。初めはそんな打算で持って彼女を呼んでいたのだが、やがて向が横にいると気が休まっている自分がいることに気づいた。
それは今までになかった事であった。
王宮に来てからは毎日激務をこなしていて休んでいる暇などないし、それ以前、母と二人暮らしていたときも安寧からは程遠かったから。
そう気付いてから政はこの地味な宮女との時間を慈しむようになっていた。
「大王様、今宵は夜空が綺麗です……」
「……そうか」
「ええ、星も月もとても美しいですよ」
そんなわけで今日も政は向を夜伽に呼んでいた。夜伽と言っても、静かに話をするくらいのものだったが。
そんな穏やかに時の過ぎてゆくなか、寝室の扉が静かに叩かれた。
こんな時間に誰か来るのは珍しい。
政が読んでいた書を傍らに置き、身を起こそうとすると向がそれを静かに制した。
「私が出ます、大王様はどうかそのまま休んでいてください」
向はそういうと立ち上がり、ぱたぱたと扉の方へ向かっていった。少しでも政の役に立てることが嬉しいと思っているらしくいたくいじらしい。やがて向は扉に辿り着き扉に手をやった。
そんな健気な彼女を何とはなしに眺めていた政だったが、不意に嫌な予感がした。
ーーこんな時間に来客などあるか? それも自分になんの報告もないのに?
嫌な予感に突き動かされるように政は急いで身を跳ね起こし、枕元にいつも立てかけている剣を手に取りながら声を発した。
「向、待てッ!」
しかし、その声は僅かに遅かった。
政が扉に向かって走り寄りながら見たものは、扉を開き、そしてその先に信じられないものを見たように目を見開きながら後ろに倒れてゆく向の姿だった。
「向ッーー!!」
やはり刺客だったか。
迂闊すぎた自分を呪いつつ、剣を鞘から抜き放ち、向を傷つけた下手人を切り捨てるべく白刃をきらめかせる。
そうしているうちにも、地面に倒れゆく向に向かって扉の先からぬっと腕が伸びていきーーそして向の身体を抱きとめた。
少々予想外の行動ではあったが、政の行動を止める理由にはならなかった。現に向は倒れていて扉の先の何某かが何かをしたのは明らかなのだ。
いよいよ扉に辿り着き、政が剣を振り下ろそうとしたその時、焦ったような声が聞こえた。
「ま、待て待て! 俺だよ、政」
「……漂?」
その言葉を聞き、剣をぴたりと止めて視線をやると、そこにいたのは戸惑った表情で向の身体を支える漂の姿であった。
久しぶりに会う、共に玉座の奪還のために戦った戦友の姿を確認する。奇妙にも自分と瓜二つの容姿を持つ漂は何故か普段自分が普段着ている王の装束を纏い、手に持つのは血に濡れた直剣、そして見えにくいが服には返り血が付いていることが確認できた。
それを見て、政はここにいるはずのない漂がここにいる理由を殆ど正確に読み取った。
「……刺客か」
「ああ、多分まだ二十人はいる」
漂の言葉に思わず考え込んでしまいそうになる政だが、それは漂の言葉によって中断された。
「というか政、その前にこれどうにかしてくれ」
漂の視線の先にあるのは未だに漂が支えなければ今にも倒れ落ちそうな向だった。漂との思わぬ再会によって向に回す意識の余裕がなかった。
「ああ、そうだった。というかなぜ向は倒れたんだ」
「知らん。何もしてないのに俺の顔を見るたび倒れていったんだよ」
漂から向を受け取りつつ話していると、ぐるぐると目を回した向がなにやらぶつぶつと呟いているのが聞こえた。
よくよく耳を澄ましてみれば聞こえてきたのはーー。
「あぁ、大王様が二人も……。幸せ……」
あんまりと言えばあんまりなその言葉に政と漂はよく似た顔を見合わせた。
「……愛されてるな」
「……」
漂の言葉を黙殺して、何をするにしてもとりあえずこの幸せな頭をした宮女を起こさなければと政は向の身体を揺り動かし始めたーー。
♢
「……早く移動したほうが良い。多分もう王の寝室の場所はあいつらにばれてる」
「
扉の後ろの暗がりから姿を現した朱い装束の少女が声を上げた。
彼女の名は紅炎。かつて大王に扮した俺たちに襲い掛かってきた暗殺者の一人であったが今は訳あって行動を共にしていた。
急に現れた紅炎に政が警戒するように手を剣にやるのが見えた。
「政、大丈夫だ。こいつは敵じゃない」
「朱凶のように見えるが……」
「ああ、元朱凶ってとこだな。実は今日刺客の襲撃があるってのを聞いたのはこいつからなんだよ」
俺の言葉を聞いても政は警戒を解かず、その目は鋭いままだ。
「信用できるのか」
「ああ、俺はそう思っている。もし、お前を傷つけようする素振りでも見せたなら俺が即こいつの首をはねて自分の腹を斬って詫びる」
「……お前がそこまで言うなら信じよう」
政はようやく警戒を解き、剣から手を離した。
「……なぜあなたはそんなに私を信じられるの? 私はあなたの命を狙ったことがある。私は朱凶とは決別したし、そう言ったけどなぜ貴方が素直に信じてくれたのかが疑問」
説得が済んだとほっと一息つく間もなく後ろから口を挟まれる。紅炎だ。
折角敵ではないと納得してくれたのだから黙っていればいいのになぜわざわざ疑われるようなことを言うのだろうか。
溜息を一つ吐き口を開く。
「八日前、そして二日前」
「……!」
「お前が朱凶の追手を殺した日付だ」
フードと首巻により顔のほとんどを隠している彼女の顔だが、唯一露出している目が驚きに見開かれたのが見えた。
「なんで知ってる……?」
「お前、俺が朱凶に襲われたとき母と弟が捕らえられてるって言ったよな。俺が朱凶を一人殺したからと言ってお前やその家族が放置されるとは思えなかったから伝手を使ってお前の動静を探らせてたんだよ」
伝手というのは正確には俺のではなく蓮荷のものだったがまぁそれはいいだろう。金を出したのは俺だし。
それにしても人雇うのには思ったよりお金かかる事を知った。元朱凶の彼女に気づかれず情報を寄こしてきたあたりいい買い物だったのだろうがそれにしても報奨金の大部分が吹っ飛んだのには驚いた。
「そんなお前が俺のもとに来て大王暗殺の計画が立てられていることを伝えてきて、それに参加する朱凶の族長を殺したいから協力してくれときたもんだ。普通なら疑うがお前は既に朱凶を殺しているし、加えてお前は自分の家族まで俺のもとに連れてきた。だからお前のことはある程度信じているよ」
「なるほど」
「あぁ、それからちゃんとお前の家族には護衛も付けているから安心しろ」
「……礼を言えばいい?」
「いや、そんなものはいらんさ」
事実これは護衛であると同時に人質に取ってるようなものなので礼を言われる筋合いはない。まぁ、この家族というのが嘘だった場合全てが破綻するのだが、直感的に彼女はそういうことはしないだろうと思ったので信用している。軽い理由だと思われるかもしれないが自分の直感を信じられないようなやつは何も判断できないものだ。
「はっ、起きてもやっぱり大王様が二人いる!! 夢じゃないなら、もしかして陽ちゃんが言ってた
紅炎と問答をしていると急に騒がしくなった。
ようやく宮女が起きたようだ。
「……向も起きたことだしとりあえず出るか」
「おう、そうだな」
そういうことになった。
無駄に使ってしまった時間を取り戻すべく、速足で寝室から出る。政が王族しか知らない脱出口を知っているということだったので政の先導に従って王宮を進んでいく。
「蓮荷たちはどうした?」
隣を歩いていると政が話しかけてくる。
「紅炎から襲撃の計画を聞いた時点で昌文君に伝えに行かせた。鯉郭はお留守番、ハジムは里帰り中だ」
「そうか」
「ああ、それから信も連れてこようと思ってたんだが何故か家にいなかったんだよな」
そう話していると、曲がり角の奥から話し声が聞こえた気がした。
手を上げて政たちに静止するよう伝えて、紅炎と共に少しづつ前に進んでゆく。するとぼそぼそ戸しか聞こえなかった話し声が明確になってきて……俺は身体の緊張を解いた。
俺たちの気配を感じたのか、曲がり角の向こうの話し声が途絶え、にわかに緊張感が高まっていくがそれを気にせず声を発した。
「信か?」
「……!?」
やがてゆっくりと角から人影が出てきた。
やはり信だ。傍らには貂もいる。彼は抜き身の剣を構えていたが俺の顔を見ると剣を下げた。
「漂!! なんでお前がこんなところに!?」
「それはこっちの台詞なんだが、まぁ事情は進みながら話そう。今は時間がない」
俺がそういうと信たちは俺の後ろにいる政の姿を認めて表情を引き締めると頷いた。
政の先導に従いながら、信たちと情報交換する。信は元は王弟勢力に仕えていた男に襲撃の話を聞かされ王宮にまで来たのだという。どうやら俺のところにも使いを寄こしていたらしいが入れ違いになってしまったらしい。
話が一段落し、政や信と馬鹿話ーー主に信がーーをしていると俺たちの後ろから声がかかった。
「あの……」
宮女だ。
第一印象で俺の顔を見てぶっ倒れるという衝撃的な出会いを果たしたというのに正直存在を忘れかけていた。これが影の薄さのなせる業か……。
「な、なんだか今誰かにとても馬鹿にされてる気がしました」
「気のせいだろ、で、どうした?」
「あ、はい。あの……いまさらなんですけど貴方たち何者なんですか……?」
「へ?」
「いやだって一人は明らかに下僕みたいだし、貴方は大王様にそっくりでしかも二人ともなんだか大王様と親し気だし……気になるに決まってるじゃないですか!!」
……そう言えば彼女には何も説明していなかったな。
宮女の言葉に思わず、信と政と顔を見合わせ、そして口をひらく。
「ん、ああ、そうだな。一言で関係をいうのは難しいが、一言でいうなら政のーー」
図らずも信と言葉が被る。
「「戦友」」
同じ言葉を発した信に笑いかける。
「だな」
「おうよ」
政が知らず足を止めてしまっていた俺たちを窘め、すぐに歩き始めたが、彼のその口元が笑っていたように見えたのは勘違いではないだろう……。