漂雲記   作:古本

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脱出

 俺が王宮に来て数週間が経ったある日、俺が与えられた部屋で目を覚ますと王宮内の雰囲気がなんだか張りつめているような気配があった。

 根拠があるわけではなかったが俺はいよいよ事が始まるのだと直感した。

 

 俺は急いで服を着替え、傍らの剣を手に取る。

 どちらも大王からもらったもので、有事の際、素早く身に着けられるようにと俺の近くにおいてくれていたのだ。因みにこれらは大王が普段から使っているものと同等のもの、つまりこの国において最高品質のものだ。服はともかく剣は有難い。これが数打ちのものであればいつ折れるか不安になりながら剣を振ることにもなりかねなかった。

 

 剣の心配はなくなったが懸念は他にもある。この先、何者か襲われ戦闘に発展する可能性が高い。いや、情勢を見るとほぼ確実と言って間違いない。まぁ、これから臨機応変に対応していくしかないので心積もりをしっかり決めておくくらいしかできないが。

 

 俺の準備が整ったのと、部屋の扉が開いたのはほぼ同時だった。

 

「漂様! 急いで準備……は整っているようですね」

「ああ、蓮荷か。すぐに案内してくれ。それからもう俺のことは漂とは呼ぶな」

「ハッ、では急ぎましょう、大王」

 

 俺の部屋に飛び込んできたのは、俺が王宮に来た時に世話してくれた侍女であった。蓮荷という名前は本人から聞いた。彼女は俺のお付きのようになっていて王宮での生活に慣れない俺の傍につき世話を焼いてくれていたので名前を聞く機会はいくらでもあったし、これから共に死地に赴くのだから名前くらいは聞いておきたかった。同じように政の部屋にいた若い男にも名前を聞いたが、彼は壁というそうだ。

 二人とも貴士族の出であるようで下僕である俺とは天と地ほどの身分の差がある。しかし、影として行動していて襤褸が出てはいけないので二人ともに敬語を使わないようにと言われたのでそうしている。

 

 蓮荷の後を追い王宮の廊下を走り抜けてゆく。驚くほど人とすれ違わないので、恐らく昌文君あたりが手配していたのだろう。

 廊下の角を曲がったとき蓮荷はふと声をかけてくる。

 

「……大王は私の恰好を見ても驚かれないのですね」

 

 そう言う今の彼女は長い髪を纏め、鎧に身を包み剣を帯びているので、この姿を見てただの侍女だと思う者はいないだろう。

 歳は俺よりいくつか上、という程度だが女性としては背が高く凛とした姿は物騒な格好としていても見るものに違和感を抱かせない。むしろ意志の強そうな目元や整った目鼻立ちはこの格好こそが彼女の本当の姿なのだと主張しているようにさえ見える。

 

 実際、彼女が侍女の恰好以外をしているのは勿論、戦装束をしているのを見るのなんて初めてだったので人によっては驚くだろう。

 

「まぁ、ただの侍女でないことは分かっていたからな。俺も木剣とはいえ長年剣を振り続けてきた。その者が剣を振れるか否かくらいは分かる」

「……流石でございます」

 

 俺をそうほめてくれる彼女だが、彼女も懸念材料の一つでもある。

 短い間とはいえ付き合いができそれなりには親しくなったし、政のためとはいえ俺に命を懸けてくれる仲間でもある彼女を死なせたくはない。そのためにも俺がしっかりしなくてはな。

 

 そんなことを考えている間にもう廊下は途絶え、建物の外に近づいていた。

 俺は気合を入れ直し、蓮荷に続いて庭に出る。そこは昌文君を初めとして完全武装した騎馬の兵士たちがそこに集結していた。彼らは昌文君の私兵で大王陣営が自由に動かせる唯一の軍事力だ。兵たちの前には馬車が用意されていて俺はあの馬車に乗ることになる。

 さてそろそろ意識を切り替えねばならない。

 

 蓮荷を追い越し、兵士たちの前に立ち彼ら一人一人の顔を見わたす。

 彼らの顔に浮かんでいるのは敬意と覚悟。

 そう、俺の正体を知っているのは昌文君、壁、蓮荷の三人のみなのだ。ほかの兵たちは俺を大王本人だと思い、そして場合によってはそのまま死んでいくことになる。

 正直これは俺にとってとてつもなく重圧だが、俺はそれに罪悪感を覚える前に、彼らに応えなければならない。そのために俺は今この瞬間だけは彼らの王になる。

 

 今から俺は下僕の少年、漂ではなく秦国大王、嬴政その人だ。

 

「大王、お待ちしておりました。急いで馬車に乗って下され」

「……ああ、分かった。昌文君、そして皆の者、頼んだぞ」

「「「「ハッ!!」」」」

 

 俺に向かって一斉に跪く彼らに軽く頷き、馬車に乗り込む。

 俺が馬車に乗り込むと、昌文君が号令を出し一団はゆっくりと動き出す。

 

 俺は馬車の中で揺られながらいつ戦闘が始まるのかと精神をとがらせていたが、予想に反して俺たちは何事もなく王宮を出ることができた。仕掛けてくるとしたら王宮に出ようとする時だと思っていたのだが。

 俺が少し気を緩めてしまったのが分かったのか外にいる昌文君が声をかけてくる。

 

「まだ油断は禁物ですぞ、大王。気を抜かれませぬよう」

「……うん、分かっている」

「ッ! 左方!! 盾を構えろ!!」

 

 昌文君が俺の言葉を遮るように叫ぶ。

 その言葉が言い終わらぬうちに矢が飛来する高い音がいくつも聞こえ、外の兵士たちの悲鳴が上がった。

 敵襲だ。

 

「あれあれあれェ~!? どこに行くのですか? まだ宴は城で始まったばかりですよ昌文君」

 

 矢が放たれてきた方向からコココココと特徴的な笑い声が聞こえ、嫌な予感と共に馬車から外を覗き見るとそこにいたのは圧倒的な存在感を放つ大男。 

 遠目に見ても一般人とは思えない尋常ではなく重たく深い雰囲気がある。どうみても一山いくらの武将には見えない。

 

 俺の当たってほしくない予想は昌文君の呟きによって確信へと変わる。

 

「王騎将軍……!!」

 

 王騎将軍、俺たちが村にいた時にも聞いた事がある名前だ。三代前の秦王である昭王の時代に戦場を駆け抜けたというまぎれもない傑物。

 大将軍の一人といって間違いないだろう。そんな人物が敵をして現れる。なかなかぞっとしない話だ。

 

「構うな!! このまま前進する!!」

「「「「「ハッ!!」」」」」

 

 思わず考え込んでいると、昌文君の号令が聞こえ、動揺していた兵たちがまた動き出した。

 

「追うわよ」

「「「「「ハッ!!」」」」」

 

 無論、それを見過ごす王騎将軍ではなく、俺たちは命がけの追いかけっこを始めることになった。

 

 

 

 

 それから俺たちはなんとか逃げ続けていたが、俺たちのほうが圧倒的に分が悪かった。

 その原因は明らかだ。

 

「ふふふ、そんなものですかぁ?」

「うぎゃぁぁぁ!!」

 

 そう、王騎将軍である。彼の麾下の兵たちも精強だったが彼自身の強さは圧倒的だった。

 その矛を一振りするだけで一気に数人の兵士が葬られていく。

 

 俺や信の強さもたいがいだと思っていたが、やはり実際に戦場を駆け抜けた大将軍の姿を見ると俺たちなんてまだまだ吹けば飛ぶような存在であることが分からされる。

 このまま兵士たちが次々討ち取られていってしまえば俺たちの負けが見えてくる。だからどうにかして誰かが将軍を止めなければならない。

 

「くっ、儂が王騎を食い止める!! お前たちは大王を守れ!」

「昌文君!」 

「……ッ! 壁、蓮荷! 大王を頼んだ!」

「「殿!!」」

 

 昌文君は俺たちにそう言い残すと、馬首を引き返す。

  そして王騎将軍に立ち向かい、馬を走らせながらの一騎打ちが始まった。

 

「王騎ィ!!」

「やっと来ましたね、昌文君」

 

 そう言って両者が打ち合いを始めるが、当然のように軍配は王騎将軍に上がる。

 昌文君はかつて戦場で矛を振るったらしいが、今はもう引退して文官として務めているので力を衰えている。傍目から見ても力量差があるのは明らかだ。むしろそれでも王騎将軍と打ち合えていることを称賛されるべきかもしれない。

 

 一騎打ちは昌文君の防戦一方だったものの時間を稼ぐことはできた。

 馬車の隣を走っていた壁が声を上げる。

 

「殿! 見えてきました!」

 

 敵と味方が一体となりながら差し掛かったのは、いくつもの丘が広がる丘陵地帯。

 ここのことは昌文君たちから聞いていた。確か名前は束達の丘。

 壁の声に呼応したかのように前方から土埃が上がる。

 よくよく目を凝らせば、それが数百騎の騎馬によって上げられていることが分かる。

 

 彼らは昌文君が配していた残りの私兵たちだ。

 俺がこの場所の名を聞いていた理由は一つ。有事の際に備えてここに伏兵を隠していたからに他ならなかった。

 

 しかし、俺は彼らの姿を見ても安心することはできなかった。

 何せ、相手はあの歴戦の猛者、王騎将軍なのだ。

 

「ほォ、なかなかの数ですねぇ。この人数からして私兵総動員ですか」

「そうだ王騎、流石のお前でもこの数には敵うまい。退くのなら今だぞ!」

「コココココ、ご心配には及びませんよォ、昌文君。こんなこともあろうかとこちらも伏兵を用意しておきましたので」

 

 その言葉通り、味方の兵が出てきたのとは別の丘の裏から次々と騎馬が現れて援軍に襲い掛かっていった。

 逃げる俺たち本隊を追う王騎将軍、俺たちのもとに救援に向かおうとする援軍に、それを阻止せんと襲い掛かる王騎将軍の軍勢。完璧にこの場は混戦となっていた。

 

「殿……!」

 

 俺はできる限り戦況を把握しようとあちこち見渡していたのだが、馬車の後ろ斜めを走る蓮荷の悲痛な叫びを耳にして、彼女の視線を辿る。

 そこ俺が見たのはのは、未だに一騎打ちを続けていた昌文君がついに王騎将軍の一撃に耐え切れず、その体が崖に放り出される瞬間であった。

 蓮荷と壁は今にも昌文君のほうに走り出しそうだったが、それを何とか思いとどまっていた理由は昌文君の俺を頼むという言葉だったのだろうか。

 

 兵士の多くが昌文君が崖に落ちるのを目にし、一瞬自軍の動きが止まった。

 彼らは昌文君の私兵。名実ともにこの組織のトップの座に座る者が目の前で崖に転がり落ちたのだ、茫然自失してしまうのも当然のことだ。

 しかし王騎将軍の兵士たちはその隙を見逃してくれるほど優しくはなかった。

 放心したように動かない俺の後ろにいた自軍の兵士たちの隙をつき、次々と彼らを撃破しながら数十騎の敵兵が剣を振り上げながら俺のいる馬車に突っ込んできたのだ。

 

 その刃が俺のもとまで届いてくるだろうことを予期し、覚悟を決めて腰の剣に手をやったその瞬間、馬車に目前にまで迫った敵兵たちにぶつかっていく騎馬が一騎。

 

「させません!!」

 

 その騎馬は蓮荷の駆る馬だった。

 蓮荷は突貫攻撃の勢いのまま、最も馬車に近かった敵兵を切り捨て、さらに返す刀でもう一人の兵をも切りつるとそいつはその場に倒れ込んだ。

 あっという間に二人を倒したその攻撃に敵兵は一瞬怯んだものの多勢に無勢、蓮荷は敵兵に左右を挟まれる。彼女が右方の敵兵の攻撃を剣で受けた瞬間、左方の敵が剣を振り上げる。

 この攻撃は防げないーー。

 

 そう悟った瞬間に、俺の体は動き出していた。

 馬車の後ろの扉を開け放ち、馬車の床を思い切り蹴り空中に躍り出る。

 

 抜き放った剣を両手で握り上段に構え、今まさに蓮荷に斬りかかろうとしていた敵兵に向かって渾身の力を込めて振り下ろすッ!

 

「セアアアアァぁぁ!!!」

 

 剣自体の鋭さに勢い、そして俺の全体重を乗せたその剣はすさまじい音を立てながら敵兵の体を鎧ごと切り裂いた。

 俺は死体となったその体を蹴り飛ばし、その敵兵の乗っていた馬に乗り移る。

 

 そして呆けている蓮荷に向かって叫ぶ。

 

「蓮荷っ、屈めッ!!」

 

 蓮荷が俺の言葉にハッとしてかがんだ瞬間、先ほどまで蓮荷の頭のあった所に槍が突き放たれる。向かいの敵兵が槍を突き込んできたのだ。

 俺はその槍が伸びきった瞬間に剣から左手を離し、そのまま槍を掴む。

 

 掴んだ槍をぐいと引き込むと、予想外のその動きに敵兵は対応しきれず身体がこちら側に流れてくる。

 それを好機として俺は右手にもった剣を鞭のように振るう。

 

「ふっ!!」

 

 俺の剣は蓮荷の屈んだ身体越しに敵兵の首筋に吸い込まれていき、敵兵は首から大量の血を吹き出しながら後ろに倒れ落馬していった。

 

 

 

 

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