–––夢を見ていた。
中庭にはいつもあの子がいた。
雪のように白い髪と、碧眼の少女が。
中庭の木の周りに取り付けられたベンチに座って、兎小屋の方をじっと見ていた。
僕は小学四年生くらいだっただろうか。
君は僕よりも歳上だった。
日本人離れした姿もあって、何処か大人びて見えた。
実際、彼女は僕の二つ上で六年生だ。
話し掛けたかったけど、僕は上級生ということもあって話し掛けられなかった。
でも、それは冬になると終わる。
君が僕に話しかけるからだ。
その日が待ち遠しく、夢の中でも僕はその日を待っている。
小さな僕は知らないけれど、大きな僕は知っている。
–––でも、何故だか君の名前だけが思い出せない。時間と共に風化してしまった記憶の片隅にあるのは、徐々に大切な思い出を忘れていってしまう哀しみだけが残っていた。
◇
週明けの月曜日、僕はいつにも増して絶望を感じていた。休みは碌に眠れず寝不足で目の下には隈が出来ている。だが、それでも学校には行かねばならず無理して登校した直後、机に倒れ込むように座り込んだ。
「なんかお前、いつにも増して疲れ切ってるな。何かあったのか?」
そこに追い討ちをかけるように恭介が声を掛けてきた。その白々しい反応が憎たらしく、突っ伏したままアイアンクローを繰り出すも見事に躱される。腕はだらりと垂れ下がり、代わりに顔を上げた。
「どうしたもこうしたもないよ。最悪だ」
あの日–––恭介の姉と脱衣所で鉢合わせた後の記憶が全くない。気がついたら家に逃げ帰っていて、ポケットには女性のレースで可愛らしいパンツが入っていて、悶々と……否、恐怖に眠れぬ夜を過ごした。
しかも、パンツ盗った相手が初恋の相手で、覗きの現行犯だ。まだ下着泥棒が発覚していないだけマシだが、状況は最悪と言えた。
「おまえの姉さんさ、知ってる人だったんだよね」
「それは意外だな」
「小学校の頃さ、上級生に白い髪の女の子いたの知らない?」
「知らねぇよ」
恭介が覚えていないのも無理はない。小学生の世界というのは“学校”という枠組みでも、“クラス”だけで大体が構成される。隣のクラスになると疎遠になったり、それでも付き合いがあったり、様々だが上級生なんて気にしたことはないだろう。かつては僕もそうだった。
「……もういっそ僕を殺して」
「急にどうした?」
「僕は覗き魔って認識になってるんだよ。もうやだ、死にたい」
「つまり、おまえは姉貴のこと好きだったのか?」
さめざめと泣いていると、恭介が僕のウィークポイントを打つ発言をした。
「そ、そんなわけないって。冗談言うなよ……」
「目が泳いでるぞ」
思ったよりも僕はあの人のことを想っていたらしい。忘れたこともなくて、忘れることができなくて、大切な思い出として風化し掛けていた矢先にこれはあんまりではないだろうか。
–––だから、僕はショックを受けている。
好きな人に嫌われて。嫌われて……。
「取り敢えず、僕のポケットにコンパスと鋏が入ってるから」
「それでどうしろと?」
「脊髄なら一発じゃないかな」
「俺を殺人犯にする気かよ」
「責任取れよ。おまえだろ扉抑えてたの!」
「まぁ、俺だが」
「わかった。先におまえ殺る」
「サイコパスすぎんだろ」
ともあれ冗談だ。何もする気力が湧かない。
何やらスマホが震えた気がしたが、どうせソシャゲの通知だろう。
無視して、突っ伏して、不貞寝して。
そんなことをしていると、またスマホがバイブした。
–––ブル。ブルブル。ブルブルブル。
まるでスタンプを連打されているようなスマホの振動だ。
『Rain』と呼ばれるチャットアプリで、音声通話も可能な優れもの。
ただ、問題は登録者が両手で数え切れるほど少ないことだ。
「恭介、Rainで悪戯するのやめて。今の僕には致命傷だから」
「俺じゃねぇよ」
「じゃあ、一体誰が……」
スマホを弄るのも億劫に思いながら、ポケットを弄ってスマホを取り出す。開けてみると相手は知らない人だった。勝手に電話番号で追加されており、それからある一文が送られてきている。
「『放課後、私の家に来て』って『琴音』って人から」
「あぁ、そういえばおまえの連絡先聞かれたから、教えておいたぞ」
「誰に?」
「うちの姉貴。おまえの初恋の相手って言った方がわかりやすいか?」
ガタン、ガタガタッ。
僕は椅子から転げ落ちた。
「……お、教えた?え?」
「初恋の相手ってのは否定しないんだな」
「なんでわかったの?」
「いや、適当に言っただけだが」
こいつ一発ぶん殴りたい。しかし、それは後だ。
「ど、どうしよう、呼び出されたんだけど」
「珍しいな。家族とも顔を合わせたがらないのに」
それは会いたいと思ってくれていると思うべきか、これから辛い現実が待っていると悲観するべきか、まず間違いなくあの件では謝り倒す必要があるだろう。もう既に謝り倒して逃げた気もするが、あの時はパニックで内容を殆ど覚えていないし、覚えていないということは何かやらかしている可能性もある。
しかし、これは逆に謝罪のチャンスでは。
多少の印象回復だけはしておかなければなるまい。
「恭介、お姉さん何が好きか知らない?」
「知らねえ」
「役立たず。っていうか、おまえも説明してよ」
「どう説明するんだ?」
「そりゃ、恭介の指示で罰ゲームで下着を盗みに行くことになったって……」
「つまり、おまえは下着泥棒だと自白するわけだ」
「ああぁぁぁぁぁ!?」
思わぬ落とし穴に僕は叫んだ。何故か覗き魔の罪を消し去ろうとしたら、別の罪状が出てきた。血を血で洗うとか、罪を罪で償うという堂々巡りな現実に僕は絶望しかない。
この後の授業も手につかず、憂鬱なスクールライフを過ごした。
放課後、僕は一人で鈴白宅の前に一人でいた。恭介はバイトでいない。意を決してインターホンを押す。
『はい。どちら様ですか?』
「えっと……霧崎柊です」
『あら、柊君』
数秒して、間も無く玄関のドアが開かれる。
出てきたのは恭介の義理の母。
ちなみにこの人はハーフであの人と同じ白い髪に碧眼だ。
殆ど顔を合わせたことはないから、とにかく緊張する。
「ごめんねー。恭介、バイトでいないのよ」
「あの、実は……琴音さんに用があって」
「琴音に?えっと、約束とかある?」
「いや、まぁ……呼び出されたんですけど」
「ごめんなさい。少し確認してくるわね」
パタパタと家の中に恭介の義母は戻って行く。階段を上がる音が聞こえて、その数秒後には笑顔で戻って来た。
「柊君ね。入って」
「はい……お邪魔します」
玄関を通されて家に上がる。鈴白宅に来たのはこれで二回目。前回は泊まりだった上、つい二日ほど前のことだから覚えてはいる。階段の前で恭介の義母–––。
「あ、そうだ。私は絵里。絵里さんって呼んで」
「はい。絵里さん」
「階段を上がれば琴音の部屋は左にあるから」
「ありがとうございます」
「いいのよ。あの子が自分から会いたいって……人に会おうなんてするのは二年ぶりだから。だから、あの娘と仲良くしてやって」
絵里さんに部屋の場所を教えられる。僕は一人で二階に上がって、二階の左隅にある『琴音の部屋』というプレートが下げられた部屋の前まで来た。
「あの、呼ばれて来たんですが……」
『……入って』
若干、緊張で上擦った声で部屋に向かって声を掛けると、中から返事が聞こえた。彼女の声は七年前、子供の頃のもので今は覚えていないくらい風化した記憶だった。でも、今の声は透き通って耳に残る綺麗な声に僕の心臓は一々部屋をノックされるようにドクンドクンと鼓動を打ち、脈拍を狂わされている。
意を決し、僕は扉を開いた。
太陽の光さえ差し込まない部屋。
その奥、ベッドの上に琴音さんが座っている。
膝を抱えて座る彼女は、頭まで毛布を被って此方を見ていた。
「ごめんね。こんな格好で」
「いや。謝るのは此方の方で……先日は本当に申し訳ありませんでした!」
ベッドの前で土下座する僕。
ベッドの上で僕を見下ろす君。
「なんであんなことしたの?」
そして、核心的疑問を彼女は問う。此処はどう答えるべきか。罰ゲームで下着を盗みに入った。しかし、それでは覗きだけではなく下着泥棒のレッテルまで貼られてしまう。それは何としても避けたいが。避けられないのが現状だ。
「……その、琴音さんが美人だって噂を聞いて、つい……」
結果、僕はとんでもない言い訳を放った。
「私にそんな価値はないわ」
「いえ、琴音さんは凄く綺麗ですよ。可愛くて、彼女にしたいくらいです!」
「ねぇ、あなたは私のこと、恭介からどんな風に聴いてる?」
微かにだが、琴音さんは微笑んだ気がした。土下座中なので顔は見えない。
「引き篭もっているらしいとは……」
「幻滅したでしょう」
「そんなことないです。そんなの関係ないです」
「本当に?」
「はい。本当です」
つい口が勝手に動いて思わぬ方向へ話が転がっていく。自分でも何を言ってるのかよくわからない。
「顔を上げて」
彼女の足が見えた。琴音さんはベッドの淵に腰掛けて、僕の前に座っている。顔を上げた僕と視線を合わせると見つめ合う。僕は蛇に睨まれた蛙のように硬直したまま動けなかった。
「やっぱり、何処かで会ったことがあるような気がするわ」
「多分、小学校が一緒だったんじゃないですか。上級生に琴音さんと同じ髪の色をした人がいるのは見たことがありますし」
はっきりとは言えなかった。曖昧に誤魔化したような言葉を選んで僕は逃げていた。
「ふーん。そう」
話が一旦区切られたところで、僕は持っていた貢物を差し出した。
「あの、これ……駅前のケーキ屋のプリンです」
「いいの?貰っても」
「正直、自分の好みで選んだので口に合うかはわからないですけど……」
「ううん。私もプリンは大好きだから」
彼女は笑顔で受け取ってくれた。
「いっぱい入ってるのね。一緒に食べましょう」
それから何故か二人でプリンを食べることになる。紙袋の中からプリンとプラスチックのスプーンを二組取り出すと片方を僕に渡す。そのまま琴音さんは自分のプリンの蓋を開けて食べ始めた。
しかし、僕はプリンに手をつけることは出来ない。今は喉を食べ物が通る気すらしなかった。そんな僕を見て、琴音さんは首を傾げて不思議そうに問う。
「食べないの?」
「……琴音さんは怒ってないんですか?」
愚かな僕をどうか笑ってほしい。怒ってほしい。何もなしに許されるのが怖くて、そんなことを不安に思う。彼女が何を考えているのか今の僕には到底わかるはずもなく、ただ不安だけが僕を支配していた。
でも、そんなはずはなかった。
「そうね。正直、少し怖かったわ」
琴音さんの言葉に僕の胸は杭を打たれたように痛む。
「知らない男の人が脱衣所にいるんだもの。でも、あなたは私の裸を見ずに壁に目を逸らしてた。そのお陰か君が私に害を成す存在じゃないっていうのは十分に伝わったから。それに何処か君の雰囲気が初恋の人に似てるっていうのもあったからかも」
「初恋の人、ですか……」
……胸に打たれた杭を捻じ込まれたみたいに痛い。
「不思議な感覚。あなたと一緒にいるのは嫌じゃないの」
心に致命傷を負ったまま、僕は帰宅した。