まるでここが深海の底のように感じられる程、空気が重い。
ここは新型豪華客船アクア号の甲板。その上で二人の男がにらみ合っている。
一人はレイ。クリスと共に旅をしている少年だ。
もう一人の男は見知らぬ男だ。しかし、その纏う雰囲気は只者ではない。背が高く、がっしりとした体格でサングラスをかけた金髪の男。
「テメエ、何者だ」
「あんなトラップを仕掛けておいてその口で言いますか」
互いに低い、相手を威嚇する声。下手に怒鳴り散らすよりも遥かに迫力のある声であった。それはもはや圧力すら伴っている。その圧力がぶつかり合ってあたりに重苦しい空気をまき散らしている。
二人の余りの迫力に声を上げる事もできないクリスは心の中でこう零した。
どうしてこうなった。
その日の朝。昨日の偵察の報告をレイから聞いたクリスは特に気にせずつながりの洞窟へ行って問題はないだろうと判断を下した。まだ捕獲できていないポケモンがこのつながりの洞窟の先、すなわちジョウト地方の西側に集中していることを考えれば一刻も早く洞窟を抜けてジョウト地方の西側へ行ってしまいたい。
……と言うかレイの偵察も時間があったからやった程度の物で、つながりの洞窟位ならばクリスやレイと、そのポケモン達の実力が有れば難なく抜ける。そこまで珍しいポケモンもレベルの高いポケモンもいないからだ。
「でも悪いわね。野宿させちゃって。……大丈夫だった?」
昨日、クリスはポケモンセンターに泊まっていたがレイは外で野宿をしていた。と言うのもクリスの部屋が最後の空き部屋だったのだ。当初クリスは渋ったがレイが強く彼女がポケモンセンターの部屋を使うことを進めた為レイに野宿をしてもらったのだ。
申し訳なさげなクリスとは対照的にレイは笑顔で答えた。
「野宿の一拍や二泊平気だよ。慣れてるからね。それにキリンリキだっていてくれたし」
キリンリキはレイの言葉にうなずくことで答えた。この時彼らはまだ町の中にいた。周りに気を使った為にキリンリキは言葉を発しなかった。
しかしキリンリキがそばにいてくれるなら野宿のとき確かに心強そうだ。図鑑によればキリンリキの尻尾の頭は寝なくても活動できるらしい。夜の見張り役としては持って来いのポケモンだろう。――ちなみにクリスはこのキリンリキだけは特殊で、この尻尾が普通に喋れる代わりに睡眠を要することをまだ知らない。しかし夜の間は確かに尻尾の頭が起きていたので結果的には同じだが。
「さて、じゃあ行きますか。つながりの洞窟」
「目的地はその先のコガネシティまで、ね」
二人はそろってキキョウシティを後にした。
今日はあのニョロトノのように凶暴化したポケモンはいない。道中はいたって順調で二人はすぐにつながりの洞窟までたどり着いた。
「そう言えばこの中に捕獲しなくちゃいけないポケモンっている?」
わかってはいたが念のため、クリスに再度確認を取るレイ。
「いないわよ。基本的には……もっとも良く見かけるポケモンでもおろそかにはできないんだけどね」
「ああ。この間会ったマサキさんもそう言っていたよね」
マサキとはポケモン通信システムの管理者で、クリスにポケモン図鑑のコンプリートを依頼した人間の一人でもある。彼のおかげで今各地ポケモンセンターにある『ポケモン転送システム』が使えない中でもクリスはオーキド博士の元へ捕獲したポケモンをおくる事ができるのだ。ポケモン図鑑を使った『携帯転送システム』を利用して。ちなみにクリスはメガぴょんをメンバーに加えるにあたってその携帯転送システムを使ってムーぴょんをオーキド博士の元へ戻している。そうしないとポケモントレーナーが手持ちに入れるべき最良の数とされる六匹をオーバーしてしまうからだ。ちなみにクリスが当初メガぴょんのメンバーへの加入を渋った理由の一つがこれである。実はその時すでに通信システムが不通であることをクリスは知っていたのだ。そして通信システムが不通であるならばメガぴょんをパーティに入れて六匹をオーバーしてもポケモンをオーキド博士の所へ送る事ができない。六匹の手持ちと言う状況を守りたいクリスとしては更に手持ちを増やす、それもメンバーと比べてレベルの低いチコリータ(メンバーに加わるまではニックネームはつけられていなかった)を加える事には抵抗があったのだ。
そんな状況を解決してくれたのがマサキであった。元よりマサキはポケモン通信システムの管理者にして生みの親。その彼が全国的なパソコン通信システムの不調に気が付かない筈がない。そしてクリスがこのジョウト地方の全てのポケモンを捕獲しようと言うのなら通信システムの不調は大打撃になると言う事もマサキは理解していた。そんな彼はクリスの為に携帯転送システムを用意してそれをクリスに渡したのが先日の事。……その際にマサキがヒトデマンの群に襲われると言うハプニングもあったが、彼のおかげでクリスはチコリータにメガぴょんと言う名前を付けて手持ちに入れる事ができたのだ。
さて、そんなマサキだが。携帯転送システムをクリスに渡す際にこんなことを言っている。
カント―に生息しているポケモンでもおろそかにして欲しくはない。
クリスに仕事を依頼したオーキド博士はカント―地方を本拠地とするポケモン博士だ。勿論カント―のポケモンなら知り尽くしている。しかしクリスにはジョウトのポケモンも捕獲してほしいとマサキは言っていた。これはオーキド博士の意見とも合致している。
実はジョウトに生息しているポケモンとカント―に生息しているポケモンでは同じ種類のポケモンであっても差が有るのだ。その最たる例がジョウト地方で最近発見された『色違い』である。色違いとは、文字通りポケモンの色が違う事だ。例えばコイキング。カント―地方でも数多く生息するこのポケモンの体色を知らない者はいない。コイキングは赤い。これが常識である。それはジョウト地方でも変わらない。普通ならば。
所が極稀ににジョウトでは金色のコイキングが発見されることが有ると言う。未だ都市伝説の枠を出ない話だが、これも色違いの一種だろう。こういった例が有るからこそカント―にも生息しているポケモンであってもおろそかにせず捕まえてほしいと言う事なのだ。
「まあ、それを含めてもこのつながりの洞窟で捕まえなくちゃいけないポケモンはいないと思うわよ。見る限りズバットとイシツブテしかみかけないし」
ズバットやイシツブテは洞窟に行けば唸るほどの数いるポケモンだ。何もそれまでつながりの洞窟で捕まえる必要はない。それより今はこの洞窟を抜けることを優先すべきだとクリスは主張する。レイにも異論はない。
「じゃあ、行きましょうか……あら?」
突然クリスの言葉が途切れる。何かを目線に捕え、それを凝視していた。レイもその先を見やる。
「ああ、あれはレアコ……」
「ひ、人魂!?」
夜目の聞くレイは遠くからでもその正体を見破ったがクリスは何と勘違いしたのかメガぴょんを抱きしめながら顔を青くしてレイの背中へ隠れた。
「く、クリスさん!?」
「ごめん。私、ああ言うのは、ちょっと」
言葉はとぎれとぎれだった。しかし言わんとすることはレイにも伝わった。暗いから少しわかりにくいが青ざめた顔で震えている少女。彼女は怖がっていたのだ。
(あ、何だか意外かも)
レイはクリスがポケモンを捕獲する様子を何度も見てきている。年端もいかない少女とは思えないほどに勇ましいその姿は立派なプロの物であった。そんな姿と今のレアコイルと幽霊を勘違いして年の近い少年の背後に隠れこむ少女の姿は何とも一致しがたい。
そんな彼女の抱えるギャップを微笑ましく思いながらレイは優しい声音を意識して声をかける。
「大丈夫だよ。あの光の玉はレアコイルだから」
「レア、コイル?」
「そうだよ。ポケモンのレアコイル」
「……」
クリスの表情が一瞬キョトンとした物になる。そしてぷいっとそっぽを向いた。
「クリスさん?」
「れ、レアコイルはまだ未捕獲。捕獲します!」
「あ、ちょっと!」
レイの背中から勢いよく飛び出していったクリス。
……彼女の頬はほんのりと赤く染まっていた。
(何やってるの私のバカバカ! レアコイルと人魂を間違えるなんて。っていうかそれよりもそんなのを怖がって……うわー。恥ずかしい!)
照れ隠しの意も込めて、あのレアコイルは何としてでも捕獲することを誓う。ボールを懐から取り出し自分のメンバーを出す用意をして――
「クリスさん、危ない!」
「へっ?」
レイの声と同時に後ろにも気配を感じた。同じレアコイルの。後ろに二匹、上に一匹。クリスが最初に確認した前方の一匹と合わせて全部で四匹。完全にクリスを囲む形で陣取っていた。
(しまった――!)
不覚。全くの不覚。旅には危険がつきものだ。ほんの少しの油断が命取りになる。
それは、わかっていた筈なのに――
「きゃあああああああ!!」
レアコイルは三匹のコイルが連結しているポケモンだ。コイルにはそれぞれ二つの磁石が有る。強烈な電気を発生させる磁石が。そして三匹のコイルからなるレアコイルには一匹で六つの磁石が有ることになる。そしてそれが四匹。
四匹のレアコイルはその計二十四物磁石から高圧の電流を使って電気の力場を展開し、クリスを閉じ込めた。
「く、クリスさん!」
「不味いですね。完全に意識を失ってしまっている」
「キリンリキ! 何とかできない!?」
「今『サイコキネシス』を放つのは危険すぎます。レアコイルを倒すことはできるでしょうが、クリスさんはあの電磁フィールドに閉じ込められてしまっている。綿密な陣形の元組まれているあの力場に迂闊に手を出せば、どうなるか」
「クソッ!」
そうこうしている間にレアコイルの生み出した電気のフィールドにクリスは完全に閉じ込められた。そしてその上でレアコイルはその場からクリスを強靭な磁力を用いて何処かへ運び去ろうとしている。
「クリスさん! 追いかけるよ、キリンリキ!」
「了解」
不幸中の幸いで、あの四体のレアコイルの織りなす電磁フィールドはこの暗い洞窟の中において良く目立つので追いやすい。おまけにクリスを抱えているからか彼らの動きは鈍重ですぐに追いつくことができる速さであった。
速さだけ、ならば。
「うわっ!?」
「くっ、レアコイル。あんなことも!」
キリンリキとレイは同時に後ろへ飛んだ。先ほども言ったがレアコイルは六つの磁石を抱えるポケモンだ。そしてどうやらあのレアコイルは十六も磁石が有ればフィールドを維持するのは十分らしい。四体のレアコイルはそれぞれ二匹のコイルでフィールドを運用して、残る一匹でレイとキリンリキを電撃で迎え撃つ。つまり敵は四体のコイルと言う事になる。通常ならレイとキリンリキにとっては大した相手ではない。レアコイルは三体のコイルがそろってて初めて力を発揮する三位一体のポケモン。その内一匹だけを分離したコイルが敵ならば、四体だろうが十体だろうがレイとキリンリキの敵ではない。
しかしキリンリキとレイは意外なほどに苦戦していた。いきなりクリスが罠にひっかけられてしまったことでレイは若干だが冷静さを欠いている。そしてキリンリキはとらわれているクリスを気にして、全力では戦えない。本来の調子を失っている今では格下相手でも苦戦は必至。
(このままじゃ埒が明かない! 何か……手は、手はないか?)
ポーチの中に手を突っ込み、何か役に立ちそうな道具がないか探し始める。しかし彼の持つ道具の大半は敵を倒す為の道具と傷ついた味方を癒す道具の二種類が大半で、あのレアコイルを気絶させずに閉じ込められたクリスだけを助けられる都合の良い道具は無い。レイの持つ道具類は基本的に戦闘に特化したものばかりなのだ。
舌打ちする。戦闘特化の道具ばかりを取り揃えているのはレイが自分の身を守るためだ。レイとキリンリキの危機察知能力をもってすれば並大抵の罠は踏む前にその存在に気づく。ならばこそ罠に引っかかった後の道具は使う機会がない。その上で必要な道具とは何か、それを考えた上で戦闘用の道具をズラリと揃えているのだが今回はそれが裏目に出た。それでもがさがさとバッグを探るが……
「うぉっ!?」
敵も待ってはくれない。レアコイルから分裂したコイルの電撃がレイに襲い掛かる。その数四発。磁石が向けられた瞬間に横っ飛びに飛んで躱す。そしてとんだ先にも容赦なしに追撃の電撃が放たれる。転がりながらどうにか避ける事には成功した。しかしレイの顔色は優れない。
(マズイ、どんどん距離を離されている)
移動スピードは鈍重だが、確実にレアコイルはレイから離れつつある。レイの目的はクリスの救出だ。レアコイルから逃げる事ではない。攻撃は避けられるがそれだけでは意味がないのだ。
(せめてあのレアコイルの攻撃を潜り抜けて、フィールドの内部に入り込めれば……待てよ、潜り抜ける?)
思わず息をのみ、そして再びバッグを探る。戦闘に特化している道具類の中で唯一とある事情からレイが持っている長距離の移動に使える道具がある。
「キリンリキ!」
「レイ? 何か良い手が浮かんだんですか」
レアコイルの電撃を軽くよけつつレイに尋ね返すキリンリキ。その声にはまだまだ余裕が有る。よほどの強敵が相手でない限りキリンリキが声を荒げることはない。……正直、かなり必死になって同じ攻撃を避けている身からすると少々悔しいが、それはさておきこの局面でもキリンリキは有りがたいことに冷静であった。
「キリンリキ! 受け取って!」
レイはキリンリキへ向かってバッグから取り出したタネをキリンリキへ向かって投げる。
「な、レイ。そのタネは――!」
レアコイルの攻撃にはいたって冷静であったキリンリキがレイが放ったタネを見て狼狽した。そんなキリンリキの口の中へレイの投げたタネは吸い込まれるように入っていく。
「……ぐぐぐ」
何かを我慢して、レイをにらみつけるキリンリキ。何のタネを食べさせられたのかはレイが手に取りキリンリキへ投げた瞬間からわかったのだろう。レイは顔の前で謝罪の意を込めて手を合わせる。
(悪気はないんだ。ごめん)
長い付き合いだ。あの種を食べることをキリンリキが最も嫌っているのはレイが良く知っている。しかしこれはクリスを助ける為なのだ。今回ばかりはキリンリキにも怒られてでも最善を尽くさねばならない。
キリンリキは手を自分に向かって合わせるレイに対してかなりの怒りを覚えたが、彼に悪気がないことがわからない彼女ではない。人の命がかかっているこの状況で我儘を言っている場合ではないことも。しかし
(何か別の方法はなかったんですか……レイ。ちょっと恨みますよ)
意を決して我慢して閉ざしていた口を開く。
キリンリキが食べさせられていたタネにはある厄介な性質がある。この状況を逆転しうる可能性をも含むタネだがその代償として有る台詞を叫ぶことを食べたポケモンに強要させるのだ。この性質こそ
「じゃ、じゃあな!」
……このタネが『じゃあなのタネ』と呼ばれている所以である。じゃあな、と言いそうにないキリンリキだろうが叫ぶことを強要されるのだ。であるからこそキリンリキはこのタネが嫌いだった。
なぜこんなウケを狙うためにあるかのようなタネをレイが持っているか。それにはある理由がある。この『じゃあなのタネ』は偽物道具と呼ばれるカテゴリの道具の一つだ。とある戦闘に特化したタネと名前と形状が酷似しているのである。そのタネと間違えてレイは『じゃあなのタネ』持っているのだ。要はレイのミスである。
しかしこのタネの副作用はともかくとして、その効果は馬鹿に出来ない。
キリンリキの姿が突然霞の如く消える。レアコイルはいきなり消えたキリンリキに戸惑ったようでコイル同士でどういう事かと相談するように向き合った。
「吹き飛びなさい」
そこに静かに響いたのは消えた筈のキリンリキの声だった。空間を超えた移動。すなわち瞬間移動こそがこのじゃあな種の能力。その力を用いてレアコイルの陣形の内部に入り込んだキリンリキは長い足を用いて、内部からレアコイルを蹴り飛ばし、反対側のレアコイルに『サイコキネシス』を放って陣形を崩壊させる。同時に全てのレアコイルが吹き飛ばされたことにより電磁フィールドはもっとも優しい形で消滅した。そこにレイが全速力で走り、支えを失って落下したクリスを受け止める。
「クリスさん、大丈夫ですか?」
抱えたクリスに声をかけながら彼女の手首を取って脈を測る。特に異常はない。返事は帰ってこなかったが、どうやら気を失っているだけのようだ。ホッと息を吐く。これで一件落着か。
「レーイー」
訂正。一件落着とは言えそうにない。ゆらゆらと近寄ってくるキリンリキからは殺気すら感じる。どこか伸びた声がその怒りを体現している。普段落ち着いている奴の方が怒った時に怖いのは人間もポケモンも変わらない。
「ご、ごめん。悪気はなかったんだ」
「……悪気が有ったら唯じゃ済まさなかったですよ」
まあレイに限ってそれはないでしょうが。とキリンリキは付け加える。怒ってはいるようだが冷静さを完全に失う程の激昂と言う事はないようだ。これなら誠心誠意謝れば許してくれるだろう。怒ったキリンリキは怖いが鬼ではない。間違っても人をいたぶる趣味は無いし、怒るのだって彼女にとって嫌なことが有った時だけだ。
「……これからは『じゃあなのタネ』は使わないでください」
「ぜ、善処します」
「いやそこは確約しましょうよ」
キリンリキを相手に頭を下げる少年。ちなみにここは洞窟だ。背景などの要素も加わってかなりシュールな光景である。
――そんなシュールな光景には、突然に終止符が打たれる。
切欠は足音。洞窟故に足音は良く響く。それがレイの優れた聴覚に届く。
「キリンリキ!」
「ええ、わかっています」
キリンリキも怒りを一旦引っ込める。
この足音の主を警戒しているのはこのレアコイルのトラップをしかけた張本人かも知れないからだ。そんな人間が善人だとは想像しにくい。すぐに気絶しているクリスをおぶり、辺りを見渡す。どこか隠れる場所がないかを探した。
「ってそんな都合の良い場所は無いか……うん?」
レイの目に留まったのは一艇の小型潜水艇だ。それも今は無人らしい。赤の他人の船に乗り込むのは気が引けるが事態が事態だ。足音を立てないよう気を配りながら走り寄って潜水艇に隠れこむ。キリンリキはスペースの都合上隠れられないので、外へ駆けて行った。
(これでやり過ごせれば良いけれど……)
気絶してしまっているクリスを抱えている今、考えなしに正体不明の相手と邂逅するのは避けたい。戦うなど論外だ。危険すぎる。隠れたまま、気配を伺う。足音は段々と大きくなっていく。
(通り過ぎろ……早く通り過ぎろ……)
多くの生き物は緊張状態において、毛を逆立たせると言う。しかしレイは毛どころか体中の神経にまでその法則が及んでいるような気がした。まるで時間が停滞しているかのような感覚。頬を伝う汗の感触が、やけに気になる不快感。
洞窟に反響する足音は尚も近づいてくる。相手はどうやらこちらに気づいているわけではなさそうだ。でなければ足音をカツカツ立てながら歩く筈がない。もし仮にこっちに気づいているのだとすれば相手も気配を少しは殺そうとするはずだ。仮に相手が素人だとして、気配を消す術など知らなかったと言う場合でも気配を消そうとして消しきれていない足音と普通に歩く時の足音では微妙な差が有る。そしてこの足音は間違いなく後者。普通に歩いている時に人間がたてる足音であった。
(よしっ。あとはこの足音の人がレアコイルのトラップに関係のない人間であれば……!)
「
……世の中そうそううまくは行かない物らしい。正直泣きそうだ。
とは言え相手がまだ此方に気づいていないと言う状況に変わりはない。せめてまだ気づかれていない間にクリスの安全を確保できれば。
「
キリンリキに倒されたレアコイルをボールに戻しながらその男は愚痴っている。どうやらレアコイルを倒した相手を率先して探そうとする気はないようだ。そしてその男はゆっくりと
(はあっ!? 嘘でしょ!?)
レイを探そうとしている素振りではない。男の挙動は至って自然であった。まるで
(まさかこの船……最悪だ! 最悪すぎる!?)
ここで取れる選択肢は一気に絞られることになる。もし選択を誤れば最悪の事態も想定しなければならないだろう……いや、レイはそれでも良い。危険には慣れている。しかし同行者としてクリスまで危険な目には合わせられない。それも原因が自分のミスだなんて言うのは論外。
絞られた選択肢は二択。先制攻撃か気配を消してこのまま船に居座るか。前者は戦闘にそのまま繋がる相手が今、この船に向かって歩いてきている以上レイが失敗すれば一緒に隠れているクリスまで危険に晒される。オマケに今キリンリキもいないのでまともな戦闘になって男にポケモンを繰り出されたら厳しい。となれば後者を選ぶほかない。
しかし隠れているのにだって限界はある。そもそも今レイ達が隠れているのは潜水艇の席の後ろ側。荷物を置くスペースだ。もし男がここに置く荷物が有ろうものならばその瞬間にレイの隠れると言う策は瓦解する。そうなれば身動きできない潜水艇の中、最大のピンチを迎えることになるだろう。
(……今鞄を開けなくても用意できる武装は、『ぎんのハリ』が二十本だけ。遠距離ならともかく接近戦になれば圧倒的に不利。もしポケモンを出されたらキリンリキがいない今はもう勝負にすらならなくなる。ならレアコイルの罠に巻き込まれたフリをして油断を誘うか?)
頭の中で徹底的な自己分析を行い策を練り上げる。巻き込まれたフリをして、なんてことを考えるあたりその思考はどこか冷徹ですらある。しかしその一方で
(相手が話を少しは聞いてくれる人間なら良いけど。あんな罠を仕掛けてる時点でそれは期待できそうにないなぁ……)
こう言った戦わなくて済む可能性を考えるのがレイと言う少年である。心優しい彼が進んで戦う事は少ないし、戦わないで済むのなら戦わないで済ませると言うのは理にも適っている。
また、百歩譲って自分が戦うならまだしも他人を自分の戦いに巻き込む事はレイにとっては論外だ。クリスを他人と呼ぶかどうかはともかくとして、ポケモン相手ならともかく女の子に対人戦を手伝わせるなど愚の骨頂。
そんなレイの思考をよそに男はドカドカと荒っぽく船に乗り込んでくる。自分のポケモンがやられているのもあってかかなりイラついた様子だった。幸いなことにレイ達にはまだ気づいていないらしい。ひとまずホッとして、引き続きレイは男の様子を伺う。
(ポケモンも出していない。僕たちにも気づいていない。……もし不穏な空気を感じたら、即座に仕掛けよう)
男に気づかれないように『ぎんのハリ』をレイは軽く握る。細いが鋭いこの針はうまく当てれば相手が頑丈な『いわタイプ』や『はがねタイプ』のポケモンであってもダメージを与えられる一品だ。人間相手ならば一撃で気絶させることだって可能だろう。
男の方はレイがそんな武器を手にして狙っているなんて事は夢にも思っていないのだろう。何やら徐に通信機を取り出してどこかと通信を始めた。聞き耳を立ててみると、アクア号だの少佐だの、海軍に通じそうな単語が聞こえてくる。この男はひょっとするとどこかの国の海兵なのだろうか? 予測を色々立ててみるがまだわからない。
息を潜め、状況を打開する策を練るレイ。
トラップを崩され苛立つ潜水艇の主である男。
気絶してしまったクリス。
三者三様の思惑をのせて、潜水艇は静かに出向する。
マチスの口調が心配な今日この頃。
あと感想で平均評価が付けば感想が増えるという意見を貰ったのだが、あと何人評価すると平均評価出るんだろうか……作者は評価より感想の方が嬉しい人間なんだけども。