ウマ娘の進化論 ─なぜウマ娘の愛は重いのか?─   作:粋成

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一風変わって歴史物(?)

本作品に登場する人物・団体・名称等は架空のものであり、実在のものとは関係ありません。
また、本作品で語られている技術・歴史等も架空のものです。鵜呑みにしないでください。


ウマ娘の「勝負服」の歴史

 ウマ娘と言われて読者諸君の多くが思い浮かべるのは、やはりトゥインクル・シリーズやドリームトロフィー・リーグを走る競走バだろう。中には他のスポーツで活躍するウマ娘を想像する物好きや、甘酸っぱい初恋を思い出す人もいるかもしれないが。

 

 諸君らが思い浮かべたウマ娘(初恋のあの子を除く)は、みなメディア露出の過程で巧妙に偶像(ウマドル)化されている。歌って踊れる彼女たちの可憐さや愛嬌は誰もが知っているが、その本質、つまりはウマ娘という生物の正体についてはあまり知られていない。

 

 なぜウマ娘たちは速く走れるのか?なぜ耳が頭頂部にあるのか?その尻尾は何のためにあるのか?なぜ揃いも揃って美形なのか?

 ──誰もが一度は考えるような疑問に答えられる人は、奇妙なまでに少ない。本書ではそんなウマ娘たちの謎めいた実態について、専門家へのインタビューを交えて迫る。

 

 

◇◇◇

 

 

ウマ娘の「勝負服」の歴史

 

 

 週の終わりが近づくと世間は俄かに色めき立つ。G1レースや、ドリームトロフィー・リーグの予選レースが行われるからだ。テレビやインターネットで大々的に放送されるこれらのレースは、今や見たことのない人の方が少ないだろう。

 これら格調高いレースが人気を集める理由には様々なものが挙げられる。己を鍛えあげたウマ娘たちの誇りと意地がぶつかり合う熱気や、勝負の中で織りなされる人間ドラマ、そしてレース後のウイニングライブ……

 魅力を数えていけば限りがない。しかし、その中で最も人目を集め、最もわかりやすいアピールポイントは一つに絞られる。

 

 それは、勝負服の存在だ。

 

 初めて大レースの中継を見た時、あなたが真っ先に注目したものはなんだろうか。熱い勝負?人間ドラマ?いや、断じて否だ。確かにそれらも魅力的だが、ある程度知識を蓄えないと味わうことのできないものだ。初めてレースを見る者がいきなり理解して楽しめるわけではない。

 ウマ娘たちの走る姿を見て、一番最初に目が向くもの。それは彼女たちが身に纏う勝負服だ。

 

 色とりどりで(きら)びやかな勝負服は、ウマ娘たちの魅力を引き立てる。彼女たちの愛嬌が、凛々しさが、気品が、勇壮さが、勝負服によってさらに光り輝き、少女たちは芸術品のごとく完成される。

 そのおかげで、我々ファンは一瞬で彼女たちの魅力を理解することができ、知識がなくとも走る姿を応援することができるのだ。

 勝負服なくして現在のレース人気はありえなかった。そう言っても過言ではないだろう。

 

 それだけではない。勝負服はウマ娘たちにとって一世一代の晴れ着でもある。

 勝負服を着ることができるのは、ウマ娘たちの頂点を競うG1レースやドリームトロフィー・リーグに出場する者だけだ。選りすぐりの強者になって初めて着る権利を得られるもので、誰もが着られるわけではない。

 ウマ娘の間では、初めて勝負服を着た姿を家族や親しい人に送るという風習があるらしい。中には最後に走った時の勝負服を洗濯もせずに大切に保存するウマ娘や、最期の時を勝負服を着て迎えるウマ娘もいるという。それほどまでに勝負服とは特別な存在なのだ。

 

 そんな勝負服はやはり作られ方も特別だ。専門の職人に依頼して作ることになる勝負服は、その一つ一つが特注品だ。それも、ビジネススーツのようなただサイズを合わせるためのオーダーメイドではなく、すべてが全く違った見た目でなくてはならない。同じデザインの勝負服を他のウマ娘が着ることはありえない。

 一生に一度の晴れ舞台を迎えるウマ娘のため、職人達は知恵を振り絞って、彼女の魅力を最大に輝かせられるデザインをゼロから考えるわけだ。おかげでウマ娘達は胸を張って家族に晴れ姿を見せられるし、我々ファンも彼女達の輝きを存分に満喫することができる。そう考えると職人の方達には頭が上がらない。

 

 では、そんな勝負服の伝統はいつどのようにして出来上がったのだろうか?初めから華やかな憧れの的だったのだろうか?

 ──今までそんな事考えもしなかった、だって?

 

 そう思うのも仕方ないことだ。なぜなら私たちウマ娘ファンにとって、勝負服とはあって当然のものなのだから。

 本記事では、そんな勝負服の秘密に迫ろうと思う。

 

 

◇◇◇

 

 

 我々が取材を行ったのは、日本ウマ娘資料館の館長を務めるF氏だった。一見は優しそうなお爺ちゃんに見えるが、彼は日本のウマ娘の歴史について研究すること四十と余年、まさにウマ娘の生き字引とも言える人物だ。間違いなく彼ならば勝負服の歴史にも詳しいだろう。

 そもそもウマ娘達が勝負服を着るようになったのはいつなのか、何のために着るようになったのか。ズバリ尋ねてみた。

 

 ──驚かれるかもしれませんが、実は日本における勝負服の源流ってレースではないんです。

 

 その説明のために、まずは日本におけるレースの歴史を話しましょうか。

 

 現代日本で盛んなレースは、整備された芝やダートのコース上で行われているものです。他にも駅伝やマラソンも行われていますが、レースと聞いて皆さんが想像するのは各地の専用レース場で走るもののはずです。

 日本でこういったレース場が整備されるようになったのは、幕末になってからのことでした。鎖国を続けていた江戸幕府は、アメリカやイギリス、ロシアなど諸外国の圧力を受けて開国に踏み切りました。その時一斉に流入した西洋文化の中に、整備されたバ場で行われるレースも含まれていたんです。

 

 日本で初めて西洋式のレースが行われたのは維新のおよそ10年前のことでした。横浜の外国人居留地で開催されたこのレースは、お粗末なバ場の小さなコースで行われたものではありましたが、間違いなく今日のレースの礎となりました。

 

 当時のレースの主役は中国からやって来たウマ娘でした。日本よりも早く西洋文化の波がやってきた中国では、既に専門的なトレーニングを積んだウマ娘が多数存在していたからです。

 しかし、日本のウマ娘も黙ってやられているわけではありませんでした。西洋からやってきたトレーナーの指導のもとに鍛錬を重ねた彼女たちは、めきめきと実力をつけてゆきました。

 特にバタヴィアやサムライという名の日本ウマ娘は実力があったことで知られ、多くの固定ファンがいたようです。

 

 彼女たちの活躍についてもっと語っても良いですが、長くなってしまうので次の機会に回しましょう。

 さて、紹介したように、現在の日本で盛んな西洋式レースの発祥は開国直後の横浜でした。では、当時走っていたウマ娘たちは勝負服を着ていたのでしょうか?

 

 答えはイエスでした。

 すでに西洋式レースに親しんでいた中国のウマ娘だけでなく、日本出身のウマ娘も勝負服を着てレースを走っていました。その様子は外国人が残した日記や、当時発行されていた新聞記事から垣間見ることができます。

 当時はグレード制はおろか、重賞もありませんでした。『横浜ダービー』を銘打ったレースでも出走者は3人というような小規模さではありましたが、その分ウマ娘たちはレースの格なんて気にすることなく勝負服を着ることができたのです。古き良き、おおらかな時代だったのでしょう。

 

 ここまでの話を聞いて、勝負服もまた西洋から輸入された文化だと考える方もいるでしょう。ところが、実のところはそうではありませんでした。

 

 居留地で開催される西洋式レースに招待されるような実力のあるウマ娘の(ほとん)どは、はじめから自前の一張羅を持っていたのです。

 これには居留地の外国人も驚いたようで、日本のウマ娘はレースをしないのになぜ勝負服はあるのだと大層不思議がったそうです。しかし、日本のウマ娘たちが持ち寄った色とりどりの羽織や半纏(はんてん)は、間違いなく勝負服として通用するものでした。

 いったいなぜ彼女たちは元からそんな派手な服を持っていたのでしょうか?その謎を追うためには、時代をさらに遡る必要があります。

 

 さて、先ほどから何度も「西洋式」レースと表現していることからなんとなく察している人も居るかもしれませんが、文明開化が訪れるよりも前の日本には「日本式」レースが存在していました。

 とは言っても、整備されたバ場を走るようなレースではありません。古くから日本で行われていたのは、より実()的な競争でした。

 

 スポーツ医学に基づいた現代的なトレーニングと対比して「古バ術」と呼ばれる、この実()的な訓練法が確立したのは12~13世紀のことでした。

 古墳時代に大陸から伝来して以降なんとなく行われていたバ術が初めて体系化されて、一つの「技術」になったのです。古バ術の原点となった最初の一派は、開祖の名をとって小笠原流と呼ばれています。

 

 当時は鎌倉時代。己の腕っぷしを鍛えた武士たちが支配した時代でした。高い身体能力をもつウマ娘はもちろん重用され、幕府に使える者としてさまざまな武芸を学ぶようになりました。

 そして、その中でも特に重視されていたのが、弓兵や伝令としての役割でした。

 

 引き絞る強さがそのまま射程と威力につながる弓は、まさにウマ娘のためにあるような武器でした。彼女たちの強い膂力があれば人間の弓兵では届かないような遠い場所から一方的に射掛けることができるからです。

 遥か遠くから恐ろしい威力の矢を射ってくる彼女たちは、戦場で非常に恐れられていたことでしょう。

 

 また、情報の鮮度が命とされる戦場ではウマ娘たちの伝令はまさに命綱でした。人間とは比べ物にならない速さで命令を伝えられる彼女たちは非常に心強い存在でした。

 しかし、いざという時の伝令で常に走りやすい道を通れるわけではありません。時にウマ娘たちは道無き道を進む必要に迫られました

 

 こうして、ウマ娘たちは弓を扱う技術と険しい野山を走る技術を習得していったのです。

 

 これらの技術を身に付けたウマ娘たちは、有事以外の場面でも活躍していました。鎌倉にある幕府と京との連携を強めるため日常的な連絡手段としてウマ娘が起用されていたのです。

 書や品物を運んで2つの都市を結んだウマ娘たちは、飛ぶように街道を走る姿から飛脚(ひきゃく)と呼ばれていました。

 

 さて、時代は室町時代に移ります。小笠原流が確立してから数世紀が経ったころ、古バ術は隆盛を極めていました。

 八条流や大坪流など様々な流派が興り、それぞれのやり方でウマ娘を教育していました。中には性格に難のあるウマ娘を専門にしたものまであったようです。

 そうなると、流派ごとに競い合うのは当然でしょう。当時はお茶の銘柄を味だけで当てる「闘茶」と呼ばれる競技が流行っていたぐらいですから、古バ術の完成度は格好のネタでした。

 どの流派が最も優秀なのかを決めるべく、ウマ娘たちは目を輝かせて対抗戦を始めるようになったのです。

 

 走りながら正確に矢を的に射る流鏑メ(やぶさめ)や、険しい野山をどれだけ速く走れるか競う山駆け──これがいわゆる「日本式レース」です──は特に人気のある競技でした。

 いちばんの弓の使い手として、もしくはいちばんの健脚として、流派を代表して選手に選ばれることは最高の栄誉でした。選ばれたウマ娘たちは流派の家紋があしらわれた服を身に纏い、誇りを賭けて試合に臨みました。

 

 そう、家紋のついた服です。

 

 これが日本における勝負服の原型でした。当時はまだ色の乗りづらい麻の服が主だったため見た目も地味でしたし、現代の勝負服のように個人を主張するための衣装でもありませんでした。

 しかし、誇り高き勝負に挑むための一張羅という意味では、間違いなくそれは勝負服でした。流派の誇りを賭け、友の憧れと羨望を背負い、己のため、みんなのために戦う衣装。これが勝負服でないならば一体何だと言うのでしょうか?

 

 このようにして、日本における最初の勝負服は産声をあげました。まだ地味で堅苦しい存在だったこの勝負服は、古バ術の諸流派が一同に揃う大会で長く使われることになります。

 この勝負服の文化がさらに発展するには、もう数世紀ほどの時間がかかりました。時は一気に飛んで江戸時代に突入します。

 

 徳川家によって全国統一が為されたため、江戸時代はたいへん平和な時代でした。赤穂浪士の敵討ちがすぐさま美談として歌舞伎や浄瑠璃の定番になったことからも、どれほどのんびりした世情だったかを伺うことができます。

 そんな平和な世の中で、剣術や武術、古バ術のような実戦的な武芸は徐々に形を変えていきました。

 例えば、戦いのためにあった剣術は精神を磨くための剣()へと変化し、武術は人生を見直すための武()へと変化してゆきました。

 しかし、同じようにして古バ術が古バ道、もしくはバ道に変化したのかと言うと、そうではありませんでした。

 

 確かに古バ術には実戦に重きを置いた弓術が含まれていました。でも、よく思い出してください。古バ術にはもう一つメインを張るものがありましたよね。

 そう、伝令の役目を果たすための険しい野山を走る技術です。戦場でしか活きることのない弓術とは違い、こちらは幅広い場面で活用することができました。例えそれが平和な江戸の世であっても。

 そんな訳で、ウマ娘たちは伝令としての役割に注力するようになります。一方で戦のない時代に無用だった弓術は、続けられることなく廃れてゆきました。

 

 幸いなことに、江戸時代に入ってから物品の往来が盛んになったおかげでウマ娘たちは引く手数多でした。

 公的な文書を運ぶため幕府に雇われたウマ娘もいましたし、現金や信用手形、もしくは薬のような軽い商品を運ぶため商人に雇われたウマ娘もいました。また、街道に点在する宿場町には()()のウマ娘たちが駕籠を準備して出番を待っていたそうです。

 こうして、ウマ娘たちは高速物流の要としての地位を確立しました。『()いウマ娘に会いたいんなら、吉原ではなく東海道』とは当時よく言われていた言葉ですが、これを聞くと当時の街道の光景が目に浮かぶようです。武芸としての古バ術は消滅しましたが、その因子を受け継いだウマ娘たちは新天地で活躍していたのです。

 

 さて、沢山のウマ娘が街道を走るようになると、一つ問題が起こります。それはウマ娘と人間がぶつかることによる事故でした。

 仕事のため全力で走るウマ娘が仮に通行人と衝突してしまえば、ぶつかられた人は堪ったものではありません。大怪我や命に関わる事故が相次ぎ、ウマ娘とその雇い主はどうにかして対策を練る必要がありました。

 そうして考えられた対策の一つが、服を派手な色に染めることだったんです。ようやくここまでたどり着きましたね。

 

 走ってくるウマ娘の姿が遠くからでも見えやすいように、彼女たちの服は鮮やかに染められるようになりました。とはいっても、あっという間に擦り切れてしまう股引(ももひき)なんかをいちいち染めるのはもったいないので、染めるのはゆるめで傷みにくい羽織や半纏(はんてん)だけのことが殆どでした。

 この頃になると発色のいい木綿がじゅうぶん普及していたので、昔のような地味な色合いにはなりませんでした。鮮やかな赤やオレンジ、黄色や水色といったよく目立つ色に染めることができたのです。

 街道名物のウマ娘は一挙に華やかな存在になりました。綺麗な服を身につけて楽しそうに駆けてゆく彼女たちの姿を見るために、何かと理由をつけて出かける男たちが一気に増えたとか、いないとか。

 

 そして新たに生まれたこの文化には、今までの勝負服とは決定的な違いがありました。それは背負うものの大きさの違いでした。

 まだ古バ術が盛んだった頃、彼女たちが着た衣装には様々な意味が込められていました。流派の誇りや、ともに研鑽したウマ娘たちの想いなど、挙げていけばキリがありません。

 一方、江戸の世を走り回っていたウマ娘たちが背負っていたのは、精々が持たされた書面や商品ぐらいです。誰かの想いや誇りなんてありませんでした。頼まれた人や物を届けるのが本分で、それ以上は求められていなかったのです。

 

 そうなると、ウマ娘たちは罪悪感なく衣装を好き勝手に改造するようになりました。人間の女性と同じようにおしゃれ好きだった彼女たちは、目立つ服を着ないとだめなんだよね!という建前のもと、街道ですれ違う通行人を観客としてある種のファッションショーを行うようになったのです。

 誰が一番おしゃれで、誰が一番格好良くて、誰が一番凛々しいのか?時折すれ違う同業のウマ娘の格好を見ながら、そんなことを考えるようになりました。いや、これなら私でも勝てる。いける!

 こうなったウマ娘はもう止められません。私が一番だと言わんばかりに派手で綺麗な衣装を追求し始めた彼女たちは、さらにブームを加速させました。

 

 とはいえ、無尽蔵に服や布地を買える訳ではありません。本来ならブームはあっという間に終わっていたはずです。

 しかし、ここで現れたのが着物や反物(たんもの)を扱う商人でした。すでに街道の名物として知られ、ファンまで存在していたウマ娘たちならば良い広告塔になると考えたのです。

 商人がウマ娘に綺麗な衣装を提供し、ウマ娘たちは競い合ってそれを身につけ、その姿を見た人々が衣装を作った店に興味を持つ。ここにひとつのビジネスモデルが完成しました。

 こうしてウマ娘たちによる熱狂的ブームは終わることなく続きました。街道を走るウマ娘たちはさらに人気を高め、()()を一目見ようと街道に詰めかける人も少なからずいたようです。絶頂期にはウマ娘番付まで作られる有様で、歌舞伎や相撲に並ぶほどの人気があったと言えるでしょう。

 

 ここに、日本における勝負服が成立しました。古バ術を極めた証として誕生した質実剛健な勝負服は、江戸の豊かさと派手好きさによって華やかな一張羅に進化したのです。

 

 残念ながら19世紀半ばに入ると、幕府から倹約令が出されたこともあって、魔改造された勝負服を見かけることは無くなりました。

 ですが、そのエッセンスは残り続けました。もはや贅沢に飾りまくることはできないけれど、ナンバーワンとオンリーワンを目指すことはできます。ウマ娘たちは倹約令の中でも自己を主張するために努力していたのです。

 

 そうして連綿と受け継がれてきた日本独自の勝負服文化は、幕末になって西洋式レースが行われるようになってから再び日の目を見ることになりました。きっと幕末の日本人は不思議な懐かしさを感じていたことでしょう。

 その後西洋式レースが日本でも普及を始め、ウマ娘とその勝負服が広く注目を集めるようになると、複数の国内企業がウマ娘の勝負服デザインに参入するようになりました。その中には、かつて江戸時代の街道を走ったウマ娘たちに衣装を提供していたメーカーも含まれていました。100年の時を経て、日本式の勝負服がウマ娘の元に帰ってきたのです。

 

 かつて武芸を極めたウマ娘たちの誇り、そして江戸の世を駆けたウマ娘たちの熱狂は、勝負服という形で現代のレースを走るウマ娘たちに受け継がれています。今度レースを見るときは、あなたもその歴史に想いを馳せてみてはいかがでしょうか。

 

 

◇◇◇

 

 

 ウマ娘の勝負服の歴史は想像以上に長く、そして深かった。

 

 現代のG1レースを走るウマ娘たちは間違いなく誰かの夢を背負っているし、己の誇りを賭けて戦っている。鎌倉時代から続く誇り高き勝負服の伝統は今もなお健在だ。

 もちろん、現代の勝負服には個を主張する目的もある。君の愛バが最高なのは、その娘に最も合ったデザインになるよう考え抜かれた勝負服の貢献も大きいはずだ。江戸の世を彩った華麗な衣装の息吹もまた、現代に色濃く残されている。

 

 レースの中の駆け引きやドラマを楽しむためには、レースについての知識が必要だ。積み重ねた知識があって初めてレースを深く楽しむことができる。

 同じように、君の愛バの魅力をより深く味わうためには、彼女を煌びやかに引き立てる勝負服について深く知っておく必要がある。

 

 この娘はどんな娘で、何のために走り、何を背負って走るのか。勝負服はそれを映し出す鏡だ。

 だから勝負服をよく理解することは、そのまま愛バの魅力を理解することにつながる。

 

 勝負服の歴史を知ることで、込められた伝統や想いを知ることができた。だったら次は、愛バの勝負服に込められたものについて考える番だ。

 そうすれば、次のレースで君の愛バはより輝いて見えることだろう。共にレースを愛するものとして、健闘を祈っている。




最初はウマ娘の身体能力に耐えられる素材や設計の話をするつもりだったのが、いつの間にかこうなってました
こっちはこっちで考えるの楽しかったしままええやろ……

原作では勝負服についての説明がほとんどなかったので9割が妄想です
解釈違いがあっても許してね!

ちなみにバタヴィア、サムライは実在馬です。実装されないかな

7/20 22:01
江戸時代の銃について考証ミスがあったので訂正
指摘してくれるの凄く助かります。ありがとうございます
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