※『アンリアルライフ』のネタバレを含みます。また、作者のかなり個人的な解釈がなされています。
よく晴れた昼下がりの午後、青い空が目に痛いほど澄み渡る。遅れてやってきた梅雨はすっかり明けて、久々に姿をあらわした太陽が、暑苦しいほどにはりきっていた。
女の子がひとり、立っていた。どこにでもあるような交差点の、信号機の下で。
肩のあたりまで伸びる紺色の髪に、ちょっぴり気だるげな、ルビーめいた紅い瞳。麦わら帽子に白いワンピースという出で立ちは、いかんせん灰色っぽい街中には不釣り合いだった。
「……来てくれるかな?」
女の子が、晴れ模様を見上げて呟いた。どこか、信号機に話しかけているようにも見えた。
「ハルちゃん」
通りの反対側から声が聞こえる。ハルと呼ばれた女の子はわれに返って、思わず
赤色の歩行者信号の間を、自動車がまばらに通り過ぎていく。ほどなくして信号は青に変わり、声の主が、左右に気を配りながらハルの元に渡ってきた。
ハルより頭一つ分くらい背が高くて、垂れた
「アマユミ、くん」
盛大な深呼吸を挟んでから、ハルは彼の名前を呼んだ。
アマユミと呼ばれた男の子は、ほんの少し、目を
「ここじゃ暑いから、公園で話そうか」
「うん」
二人は並んで歩道を歩き出した。レンガ塀を行き、雑多なお知らせの貼られた掲示板を横切る。
フェンス越しにじりじり熱を放つ線路と休憩中の踏切を過ぎると、桜の木の陰に隠れるようにして、木造りのベンチがちょこんと佇んでいるのを見かけた。
何を言うでもなく、二人はそのベンチに腰掛けた。
「連絡先、よくわかったね」
「先生にこっそり教えてもらったの」
「ああ、なるほど」
「お見舞い。行けなくて、ごめんなさい」
「そんなこと気にしなくていいよ。もう元気だしね」
ハルがそっとアマユミの顔を覗き込む。彼の言葉が強がりでないかどうか、その涼しげな顔からは判別できなかった。
「……目、大丈夫?」
おそるおそるだが、しっかりした口調で訊ねる。アマユミはそれこそ嬉しそうに答えた。
「すっかり、というわけにはいかないけれど。ちょっとずつ、取り戻してきているんだ」
「よかった……」
ハルのこわばった表情と体が緩んでいく。
そんな彼女の様子を見て、アマユミは不思議そうにハルを見つめた。
「なにか顔についてる?」
「いや、ハルちゃん、すごく変わったなと思って」
「そうかな」
「うん。なにより、ちゃんと声が聞けて嬉しい」
「あ、ありがとう」
泣きそうな笑いそうな、くしゃっとした顔で、ハルは言った。どこかで抑えている感情の堰が切れてしまわないよう、どうにか別の話題を探す。
「アンズは、どうしてるかな」
「君が転校してから美術部をやめて、最近は話すことも少なくなっちゃった」
「……そっか」
それきり、隣に相手がいることなど忘れたような、沈黙が訪れた。枝葉の傘の下に柔らかい風が流れ、暑さで火照った体を気持ちよく撫でていく。
「生きていると、色んなことがあるね」
ふと、アマユミがひとりごちた。ハルはこれまでの現実で起きたこと、現実とはまったく違う世界の、とても長いようで実際はごく一瞬だった、あの旅のことを思い出して、こくりと頷いた。
「そして将来には、おそらく今以上に、いいことが待っているんだろう」
「わるいことも」
「そうだね」
踏切の警報がうるさく鳴り響く。電車ががたごと音を立てて走り去る。
「不安に思う?」
騒音に紛れても、はっきりと耳に届いた。寄り添うような、いたわるような声が。
「もちろん、そんなときもあるよ。でもね」
「たくさんのひとたちが手を貸してくれたから、きっと、大丈夫」
言ってから、ハルは視線を宙にさまよわせた。
「いや、ひとではないかも」
「じゃあ、一体……?」
「信号機とか、マリモとか、ネズミとか、ペンギンとか、ガイコツとか、色々」
出された名前にまったく脈絡がなくて、アマユミはますます戸惑った。そんな戸惑いを予想していたらしく、ハルは笑みを浮かべた。
「わたし、違う世界に行ってきたの。現実とはかけ離れた、すごく不思議な世界に」
そこで、合点がいったとばかりにアマユミは頷く。
「奇遇だね。実はぼくも、似たような経験をしたんだ」
今度はハルが目をぱちくりさせる番になった。
「ほんと?」
「うん。でも今は、君の話が聞きたい」
彼の言葉を受けて、ハルは肩掛けの小ぶりなバッグから青い装丁の本を取り出すと、その初めの一ページを開いて、自分の腿の上に置いた。
「タイトルがないね」
「まだ、決めてないんだ」
ハルは続けてページをめくった。見開きにはお手製の挿絵と文章が収まっていた。
この青い本は、彼女のアンリアルな旅の記録なのだ。
「『ある夜のこと、195番道路の信号機の下で女の子は目を覚ましました。女の子がなぜこんな場所にいるのか、ぜんぜん記憶がありません。困っているところに、ふと頭上から声がかけられました。なんと、頭上の信号機が話しかけてきたではありませんか……』」
奇妙なお話が、ゆっくりと語られていく。夏のうっとうしさなど消えてしまったかのような静けさのなかで、アマユミは彼女の絵と語りを楽しんでいった。
「『……こうして女の子と195は、幻想図書館がどこにあるかを教えてもらうために、給水所のトラブルを解決することに決めたのです。』」
さてどうなるやら、という場面で、ぱたんと本を閉じられてしまった。アマユミは、抗議の代わりに残念そうな目を彼女に向けた。ハルは彼にたしなめるような、いたずらっぽいような表情で微笑んだ。
「お話のつづきは、またあした」
その言葉で、世界が急に音を取り戻した。気が付けば公園には小さな子供たちがやってきていて、ブランコやタイヤで思い思いに遊んでいた。電車が相変わらず線路を鳴らし、自動車は道路で熱のこもったエンジンを唸らせる。
本をしまうと、ハルはぴょんと跳んでベンチから立ち上がった。つられて、アマユミも腰を上げる。風に木立が吹かれ、生い茂る葉の中を漏れた
「そういえば、どうしてぼくを呼んでくれたの?」
「えっと」
返答に迷って、所在なげな手をそっと組み替える。胸からこみ上げるものを抑えたり吐き出そうとしているみたいにしたあと、とうとう口を開いた。
「あなたが、わたしの絵を好きだと言ってくれたから。わたしのことを知ろうとしてくれたから」
「わたしも、あなたのことを知りたくなったの」
ひとつ呼吸をおいて、ハルはまっすぐ手を差し伸べた。アマユミはその白いほっそりした指をちょっと見つめて、ハルの顔を見た。口元がきゅっと結ばれて、眉が少し寄っていて。
結論は決まっていた。彼は、その手を痛むことのないように握り返した。
「……ありがとう」
「ううん、こちらこそ」
まもなく、緩やかに結びがほどかれた。なんとなく気恥ずかしさが昇ってきて、目を泳がせているハルに、アマユミも頬をかきながら、遠慮がちに言った。
「そうだな、まだ時間に余裕はあるかい?」
「大丈夫だよ」
「じゃあ、隣街まで一緒に画材を買いに行こうか。ぼくの旅のお話も聞いてほしいしさ」
「……うん!」
ふたたび、二人は熱い日差しの下を歩み出した。