「ごめんごめん、待たせちゃって。二人とも元気だった?」
ナナはいつものように快活だった。
が……その姿は以前とは違っていた。
「ナナ……!?」
ぶしつけに素っ頓狂な声を上げた。同時に思わず立ち上がった。
ナナは……ナナの髪は“まだら”だった。それ以上何と表現して良いかわからない。アッシュグレイの髪が、ところどころ白くなっている。照明に光って銀色に見えているのではない。色を抜かれたように白いのだ。美容師が手を加えたようなものではない。とにかく“まだら”で……醜く見えた。
明るいバイオレットだったはずの瞳は白濁していた。彼女の特徴だった鋭くて優しい光は失せている。
いつもの表情、いつもの声、肌も艶やかなのに、そこにいるのはまるで老女のようだった。
そして彼女は……車いすに乗っていた。
「ごめん、びっくりしたでしょう?」
その車いすを、アスランがこちらに押して来る。
無意識のうちに、彼の表情を探った。
表情は無かったが、口をまっすぐ横に引き結んでいる。疲れた様子はこのためだったのだ……。
「あの演説の日の後、少ししたらこうなっちゃった。それでなかなかそっちに行けなかったの。ごめんね」
激しい動揺でリアクションもとれない。
応えるべきことも聞くべきこともあるはずなのに、突っ立ったまま何も言えなかった。
「何があったの?」
冷静な問いは、自分の口から出はなくすぐ隣から聞こえて来た。
反射的にそちらを向くと、シンがまっすぐにナナを見つめていた。
「“セアになる薬”の副作用……だって」
声のトーンと表情は、「ただの風邪」と答えるのと同じだった。
「そ、そんな……!」
しかしその内容はとうてい「お大事に」などど返せるものではなかった。
「今になって……そんなことっ……!」
うまく喋れはしなかった。
目の前にいるのは間違いなくナナなのに、全くの別人と話しているような気になるのだ。
それが違和感とか不思議……とか、悠長な感情ではない。はっきりと怒りがこみ上げてくるのを感じている。
「ほんと今さらだよね。ドクター・シュルスやオーブのラボで作ってもらった薬は間違いなく効いてたんだけどね。研究も続けてもらってたし……。でも、限界を超えちゃったみたい」
ナナは明るく言う。
「もう効かないの」
最後通告のような台詞でさえ。
ナナのことを知ったからわかる。これは死の宣告なのだ。それを自分からしている。きっと自分とシンのために……。
「私もドクターたちに何回も説明されたけど、あんまりよくわからなくて。事故後に遺伝子に作用する薬を投与されて、髪とか目の色を変えたらしいんだけど、一度書き換えた変更は続けないとどうのこうの……ってことで。ほら、ザフトにいるときに“私”、薬を手放せなかったでしょう? あれ、『事故の後遺症の、特に精神を安定させる薬』って説明されてたけど、全然違ったみたいなの。本当はその遺伝子の変更を持続させるための薬で、絶対に飲み続けなきゃ駄目だったとかで……」
もちろん覚えている。セアが持っていた薬のケースを。
中にはカプセルが入っていて、セアはクセなのかいつも服薬の際には三度ケースを振っていた。カシャカシャカシャという音は、今でも耳に残っている。
ルナマリアもセアには『事故の後遺症を抑える薬』と聞いていたし、それを飲んでいるからといってモビルスーツのパイロットとしての立場に影響があるわけではないものだということも知っていた。
専属ドクターもついていて、セアが配属されたミネルバにも同乗したくらいだから、当然、艦長も承知のことだっただろう。
あのいつも冷たい表情で、医者というよりは研究者然としたドクター・リューグナーは、いつもセアの体調を管理していた。セアは彼女について多くを語らなかったが、しょっちゅう呼び出されて検査を受けていたようだからそう承知している。
あの冷たさがようやく解せた。
『セアがナナに戻らないように』……端的に言えばそうやってドクター・リューグナーがセアを管理していたのだ。きっと、“首謀者”であるデュランダル議長の命令で……。
「ザフトを出てアークエンジェルに拾われた直後は服薬が止まっちゃったから、だいぶ調子が悪かったみたいなんだけど、“私”が持ってた薬をドクター・シュルスとオーブのドクターたちが研究してくれて……その過程で“私”が実は“ナナ”だったってことがわかったんだけど」
ナナはなんでもない懐かしい話のことのように話すが、ルナマリアの腹の奥底からは苦い怒りがふつふつと湧いている。
勝手すぎる。
人の命を弄んで、人の運命を狂わせて……。こんなふうにひとりの人間の命を縮める権利が誰にあるというのか。
「それでいろいろわかって、持ってた薬と同じ作用の薬を開発してくれたの。その薬の投薬を開始してから、私は意識を取り戻すことができた。最初は“セア”だったけどね。それからずっとその薬を飲んでたんだけど、数日前から急に効かなくなっちゃって」
許せるはずがない。同郷だって関係ない。こんなことして許せるわけがない。
「今もドクターたちが研究してくれてるんだけど、“私”みたいな例が他にいないから……って、違法だから当たり前なんだけど。だからまだ治療法や治療薬が見つからなくて、それで
握りしめた拳が震えた。爪が掌に食い込んでいる。
こんなに憤っているのに言葉がみつからない。自分が言っても無意味だからとか、騒いだって仕方がないとか、ナナの代わりに悲しんだってどうしようもないとか、そんなんじゃない。
ただただ怒りとやるせなさが全身を包んでしまっているのだ。
「ごめんね」
が、ナナがそう言った瞬間。
「で、でも……助かるんでしょう?!」
実に単純で浅はかな台詞を叫んでいた。自分でも滑稽と思うほどに。
そしてぽっかりと空いた一瞬の間。
それが恐ろしくて、ナナの背後にじっと立ったままのアスランを見た。
目は合わない。そのうつむいた顔が“答え”だった。
「座って、ルナ」
わかっている。
ナナはこちらを慰めるように希望を散りばめた台詞をくれるつもりだ。
心配させないように。悲しませないように。同じ絶望を見せないように。
けれど、もうそんな手は通用しない。
ナナを知ってしまった。セアも。その強さと優しさと、それから……二人に向けた己の愛情を。
だから簡単に手にしたものを手放すわけにはいかなかった。
「オーブのラボではどうしてもこれ以上の治療が難しくて、スカンジナビアの医療チームにも来てもらったりしたんだけど、なかなかよくならないの。やっぱり、“最初”に私の身体をいじったときのデータがないと……って」
素早く頭を巡らせた。
“ナナをセアにした”悪魔のプロジェクトはとっくに解体されている。停戦と同時に……いや、デュランダル議長の失脚と同時に研究チームはラボを跡形もなく消去して一人残らず行方を暗ませたという。あのプロジェクトそのものを無かったことにしようとでもいうように。
もちろん、現評議会は研究者たちを指名手配している。が、デュランダル議長の主導の元に極秘で行われた研究に関することは、あまりにも情報が少なすぎた。そのメンバーさえも正確に把握できてはいないだろう。
ルナマリアでさえそれはよくわかっている。
「でもっ……!」
プラントの研究者を片っ端から招集するとか、何か方法があるはずだ……。
そんなこととっくにオーブは検討しているだろうが、口に出さずにいられない。動揺を抑えるためには、穏やかなナナの言葉を振り切って、建設的な意見を確立するしかなかった。
だが、その時。
「死なないんだよね?」
今までずっと黙ったままだったシンが、急に口を開いた。
そのことに驚いたのと、『死』という単語に慄いて、思わず膝が折れた。
ソファーの軽いスプリングの音がした後は、嫌な空気が全身を……いや、部屋全体を包む。空気が薄く感じる。額に汗が滲む。
自分の動揺を棚に上げ、そんな空気にしてしまったシンを諫めようと彼を見た。
(シン……?)
彼はまっすぐにナナを見つめていた。
案ずるでもなく、恐れるでもなく、怒りでもなく、もちろんふざけているのでもない。その目はとても澄んでいて、まるで……ひとつのことを信じて疑わないような目だと思った。
「うん。死ぬつもりはないよ」
ナナは笑った。
が、嫌な空気を完全に掃ったのは、その気休めか本気かわからない笑みではなく……。
「ちゃんと助かる方法はあるんだよね?」
単刀直入に問いかけたシンに対する答えだった。
「今、ひとつだけ希望があるの。まだそれでうまくいくとは限らないけど」
ナナの答えもまた単純だった。
自分が回り道をして辿り着くはずだった場所へ、シンがたったの一歩で連れて来てくれたようだ。
「じゃ、じゃあ……」
『うまくいくとは限らない』とナナは言った。
それはきっと、誤魔化しでない真実なのだろう。その証拠に、アスランはいっそう難しい顔をしている。
だが、何故だかその言葉に希望を持てた。
ナナが、希望も懸念も、ちゃんと話してくれたから。
「話してよ、それ。全部」
そして、シンは短い言葉でその先を要求した。
よかった……彼が見えなくなった道を作ってくれた……そう思う。
ルナマリアは口をつぐんで、シンとナナを交互に見た。シンがナナの“全部”を聞き出して、自分もそれを受け入れるために。
と……。
「二人に、会わせたい人がいるの」
ナナは話を急転換させた。
「え?」
驚く間もなく、アスランがナナから離れ、ドアへと向かった。
そして静かに部屋を出て行く。
「私たちに会せたい人って……?」
シンと顔を見合わせたかったが、シンはナナを見ていた。少しだけ睨むように。
仕方なくナナに尋ねたが、ナナは「すぐに来るから」と言って教えてくれない。
が、その表情は必ずしも楽しそうというわけではなかった。だから、少しだけ身構える。
やがて、アスランに連れられて、その人は現れた。
「ドクター・リューグナー?!」
知っている顔だった。
といっても、直接話したことはほとんどない。
同じ艦に乗っていたとはいえ、彼女はセアの専属ドクターだったから、診てもらったことは一度もなかった。おそらくシンもそのはずだ。
そう思って彼を見た。そして全身に緊張が走った。
シンは“敵”を威嚇するようにドクター・リューグナーを睨みつけている。
瞬間、まずいと思った。
自分にもある感情が今、シンの中でほとばしっている。“ナナとセア”に対する理不尽な仕打ち……ドクター・リューグナーに向けるのは怒りしかなかった。いや、怒りを通り越して怨みだ。ナナをセアに変え、それを隠し、セアを操り、抑制し、見張り、デュランダル議長のスパイとして同じ艦に乗っていた。過去を振り返るうえで、最も嫌悪すべき人物だった。
だからとっさにシンを止めようと腕を伸ばした。
が……シンはピクリとも動かなかった。唇を引き結んだまま、ひと言も発しなかった。
ただ膝の上で拳を握りしめ、ドクター・リューグナーを睨みつけたまま、そこに座っている。
今までのシンであれば、ドクター・リューグナーに飛びかかっていただろうと思う。それを抑えられたとしても、彼女に対する感情をそのまま言葉にしてぶつけていただろう。
しかし今のシンは、それを耐え忍んでいるように見えた。
「お二人とも、お久しぶりです……」
先に口を開いたのはドクター・リューグナーのほうだった。
かつての抑揚のない冷たい声ではあったが、かすかに震えているように感じる。
緊張しているのだろうか……。両手をきつく握りしめ、ドアの前から動こうとしない。
アスランに促され、彼女はゆっくりとこちらに近づいて来る。その背後には、もうひとりの人物がいた。
「ドクター・リューグナー、こちらへ。シーカーさんも」
硬い表情のドクター・リューグナーと、身なりや口元は軽薄そうだが目つきだけは鋭い謎の男が、向かいのソファーに座った。
「ドクター・リューグナーはもちろん覚えてるよね? こちらはシーカーさん。プラント出身のジャーナリストの方なの」
「いやぁ、どうも!」
シーカーは気さくに挨拶をしたが、この場の雰囲気を変えるには至らなかった。
ルナマリアも曖昧に応じるにとどめる。
「アンタ、逃げたんじゃなかったんだ……」
不意に隣から懐かしい声がした。
最近は聞くことが無くなっていた、ぶっきらぼうで棘があり、相手を不愉快にさせる声だ。
「シン……」
危うい予感がして、その横顔を見た。
その目に、かつて浮かんでいた熱く鋭い敵意はない。ただ、冷めている。
少し困って、ナナではなくアスランを見た。
彼はナナの車いすの少し後ろに立っていて、視線はソファーとソファーの間にあるテーブルの上に向けている。その額にはかすかに皺が寄っていた。
当然、彼女の存在を快く思っているはずはない。少なからず、彼もシンと同じ気持ちでいるはずだ。
「私は……」
初めてだった。彼女が言いよどむのを見るのは。視線を泳がせ、骨ばった手を握り締めるのを見るのは。
「ドクター・リューグナー」
そんな彼女に向かって、ナナは優しく言った。
優しくする理由なんてどこにもないはずなのに。ナナは彼女の被害者なのに……。
「あなたが話しづらいのでしたら、やっぱり私から二人に話します。二人はきっと、全てを知りたいはずだから」
そんなふうに労わる必要なんてないはずなのに。
「い、いえ……。私が、私からお話しします……」
ドクター・リューグナーは意を決したように息を吐いた。
自分のしたことに対して後悔しているのかもしれない。それとも、この慈悲に満ちたナナを前にして、逆に恐れを抱いているのかもしれない。この先の己の処遇を案じているだけかもしれない。
とにかく彼女は、ミネルバ乗艦時の姿は見る影もないほどに小さく縮こまっている。
「そう、ありがとう。シン、ルナ……私があなたたちに知って欲しいと思ったから勝手に話を進めちゃったけど、聞いてくれる? ドクター・リューグナーの話」
知りたいとか知りたくないとかじゃない。話させたい……この全てを知っていながら真実を歪ませ続けた女に全てを吐かせたい……そう思った。
少しだけ、残酷な自分を恐れながら。
「もちろんよ!」
それを振り払うように答える。ナナと、それからアスランに向かって。
「オレも……」
シンもゆっくりと口を開いた。
「ナナとセアのこと、全部知りたい」
今までの『自分から何かを取りに行く』感じではなく、どっしりと落ち着いて何かを待ち構えるように。
「では……」
ドクター・リューグナーは乾いた声で語り出した。あの日の冷たく横柄な物言いではなく、ただひたすら強張った声音で。