誰も、ひと言も口を挟まなかった。
話し終えてからもしばらくは沈黙が流れた。
「ドクター・リューグナー、お話ししてくださってありがとう」
皆の……いや、今聞かされたばかりのルナマリアとシンが落ち着くわずかな間を置いたかのように、少ししてナナが口を開いた。
そして。
「これが全て。二人とも、どう思った?」
軽い口調で問う。
何気ない会話の中で意見を求められたくらいにあっさりとした問いだったが、その分、考えをまとめる前に、思ったことがすぐに口からついて出た。
「どう思うって……、そんなこと……、絶対に許せるわけないじゃない……!」
この怒りがたとえナナ自身に導かれたものだとしても、素直に出さずにはいられなかった。
「アンタは全部を知っていて、オレたちと一緒にいたってことだよね?」
シンも冷たく言う。
「ええ……。私はあなた方を欺いていました……ずっと……」
リューグナーは目を伏せた。
この時間を、この攻撃を、最初から受け止める覚悟があったようだ。
「人の人格を勝手に変えて……、ナナだけじゃなく、アスランやアスハ代表やみんなの人生をぶち壊して……、オーブからも世界からもナナを奪って……。こんなこと、許されるはずがない!」
その流れに任せて、ルナマリアは湧いてくる言葉を全て吐き出した。罵るだけ罵った。
誰も止めなかった。リューグナーも黙って聞いていた。シンも。
「あなたたちがしたことは絶対に許されることじゃない!!」
最後にもう一度その台詞を叫んだ時、少し息が切れていた。
自分の声が、いや、憎しみが部屋中に反響しているようだった。
どう思われたってかまわなかった。自分の言葉は過激どころか、まだ言い尽くせないでいる。どれほど鋭い言葉も、彼女を傷つけるには不十分に思えた。
「ルナ」
これ以上行き場のない感情を持て余して奥歯を噛みしめた時、ナナは言った。
「ありがとう」
反射的に彼女を見た。
「シンも」
目の前の女に全てをめちゃくちゃにされたはずのナナは、穏やかに笑っている。
「私たちのためにも怒ってくれて」
そんな感謝なんかいらない。ナナの命が弄ばれたことへの怒りに比べれば、自分が欺かれたことなどどうでもよかった。
が、その怒りを最も強く大きく抱いたはずのナナは、穏やかに笑っているのだ。
「ナナ……」
その緩く笑んだ口元を見て、ルナマリアはようやく気がついた。この面会の意味を。
ナナやアスランたちはとっくにこの段階を終えている。これは自分とシンのために設けられた場なのだ。
何のために……。ただ真実を知らせるため……だけじゃない。こうやって真実に対する怒りを吐き出すためでもあったのかもしれない。
「許したの……?」
自分でも驚くほどに簡潔な問いが口から滑り落ちた。
「全然……!」
ナナが笑いながら首を振った。
リューグナーは目を伏せている。
「こんなこと、絶対に許せるわけない」
自分の言葉と同じ言葉がナナから吐き出された。が、温度は全く違っていた。
怒りにほとばしる自分の言葉とは違う。ナナの「許せない」は常温だった。
が、ナナは言った。
「だからちゃんと、償ってもらう」
彼女のわずかな身じろぎで、車いすがキュっと音をたてた。
そうしてやっと気がついた。
「コレ……、なんとかしてもらう」
穏やかだが疲れた顔で、ナナはそう言った。
「私が……、命に替えても……、ナナ様をお救いいたします……」
リューグナーも千切れそうな声を絞り出した。
「治るの?」
「そんなことあたりまえだ」とか、「絶対に命を懸けろ」とか、ルナマリアが言う前に……、シンがそれらを薙ぎ払うように鋭く問うた。
隣にいるルナマリアさえもドキリとした。残酷な問いをたしなめることもできなかった。
代わりに、息を止めてリューグナーの答えを待った。怒りと期待と願いを込めて、彼女を尖った顎を見つめた。
と、彼女は唇をぎゅっと引き結び、か細い声で答えた。
「実験……研究のことは、全て頭に入っていますので……」
「実験」という言葉にまた腹が立った。「研究」に言い換えたって同じだった。
だがまた隣で「本当に?」とシンが冷たく念を押すので止まった。
「は、はい……必ず……」
頼りない返答ではあった。その『研究室』は抹消されている。つまり『ナナをセアに変えた』悪魔の実験のデータは全て破棄されているはずだ。
さっきの話だと研究者たちは口封じとして抹殺されていることもあり得るという。
しかも『ナナとセアに変えた』実績だけあって、『セアをナナに戻す』ことはしていなかった。残念なことに、彼女らの探求心とやらはそこまで及んでいなかったのだ。
リューグナーの表情を見る限り、今のナナの姿は完全に想定外なのだろう。
が。
「大丈夫!」
不安と絶望と恨みを拭うように、ナナが明るく言う。
「私、運がいいから!」
「う、運って……」
「だってほら、このタイミングでシーカーさんがドクター・リューグナーを見つけて連れて来てくれたんだし。私まだツイてるでしょう?」
ここで久々にシーカーを見た。今さらながら、彼の存在意義を実感したのだ。
「それに……、私の命を助けてくれたみんなの分も……私は生きなくちゃならない」
ナナの決意が心に染みた。
この何倍もの痛みを抱え込んでいるはずのナナは、こちらを慰めるように優しい顔をしていた。
「うん。そうだね」
シンが静かに応えた。
「だから、絶対に生きて……」そんな願いが込められているのは、自分にも、そしてナナにもわかっていた。
だから、ひとつ息をついた。
納得はできていない。許せるはずもない。
けれど……今は祈るしかない。ナナの命がこの先も続くように。この許されざることをした女が、せめて罪を償うように。
「ありがとう……。話してくれて」
全てを呑み込み、リューグナーでなくナナに言った。そして……後ろで難しい顔をしたままのアスランに。
「愉快な話じゃなかったけど、二人には直接聞いてもらいたかった。大切な友だちだから」
涙がこみ上げた。
「私はこれからこのことを公表する。それで、治療の様子をシーカーさんに取材してもらって、映像で流してもらおうと思うの」
「え? ええっ?!」
涙はいっきに引いた。
「こ、公開?」
公表まではわかる。せっかく“復活”したナナ・リラ・アスハが表舞台から消えるか、あるいはこんな姿になってしまっては、オーブ国民だけでなく世界が動揺することは必至だ。客観的にみてもそうわかる。
が、治療の様子を公開するとは……。
「今も私をホンモノだって信じられない人もけっこう多いって言うし、この機に『密着取材』ってやつを観てもらえればちょっとは信憑性が増すんじゃないかなって」
「信憑性……」
「それがもし、私が“ナナに戻る”過程だったとしたら、今は信じられないって言う人たちの心も変わると思うの」
「だ、だからって……」
治療は辛いはずだ。なんといってもプライベートの切り売りはナナたちの負担になるはずだ。
「これから私に何ができるかわからないけど、もしカガリと一緒に何かできることがあるとするなら、私のことをみんなに信じてもらいたい。だからちょっとでも可能性のある策を取ろうと思って」
ナナらしい……。
複雑な感情で目を細めた。
やはり彼女にとってカガリ・ユラ・アスハは大切な存在で……きっと彼女との未来を願っての“策”なのだろう。
それがもうわかる。“大切な友だち”だから。
「でも、この人信用できるの?」
無理矢理いつもの調子を取り戻そうとして、シーカーを睨んだ。おしゃべりが好きそうで口が軽そうだったからだ。それに出世欲もありそうで、お金も好きそうだ。ただ、今まで聞いた話だと、ジャーナリストとしての誇りはあるようだ。
「ボクはアスハ大使のためにならないことはしないと誓ったよ」
彼は涼しい顔で両の手のひらを見せながらそう言った。口調は軽かったが、ナナのことを「アスハ大使」と言ったから攻撃の刃は収めてやった。彼は本当に「アスハ大使」のことを尊敬していたのだ。きっと。
「大丈夫。シーカーさんとはちゃんと契約を結んだし」
「契約?」
「うん。この真相と私の治療の様子はいくらでも公開するけど、ドクター・リューグナー個人については伏せるようにって」
ナナはこの期に及んで、リューグナーをオーブの特別保護プログラムに入れたことを明かした。
そして。
「それに、ミリアリアやアークエンジェルのクルーたちのことも特定されることがないようにってことと……。それからもちろんアナタたち二人のことも」
ナナの目が強く光った。
「絶対に守るから、安心して」
自分たちのことは考えていなかったから、返答が遅れた。
「お約束します。ボクは君たちのことは書かない。まぁ、取材したい気持ちで溢れ返っているけどね。でも、こうして会わせてもらっただけで十分だ」
改めてシーカーを見た。
軽薄なイメージは変わらない。が、ジャーナリストとしての誇りの部分は強くなった。
彼は本当に心の底から真実を知りたがるタイプで、それを形にして金儲けとか……それは流儀に反するのかもしれない。
「安心して欲しい! この独占取材でボクにはたっぷり外部からお金が入るからね! ドクター・リューグナーに辿り着くまでに費やした費用も十分回収できる。それどころか老後も安泰だ!」
見透かしたように彼は言う。
「そ、ウィンウィンってやつ!」
ナナも軽く同調する。
どう考えてもナナのほうが身を削っている気がするのだが、確かにリューグナーを連れて来たことに関しては彼は命の恩人といえる。
しぶしぶ納得すると、ナナは嬉しそうな顔をした。
その向こうで、アスランはやっぱり渋い顔をしていたけれど……彼にもナナの意思は止められないのだから仕方ない。
「ではボクたちはこれで。ドクター・リューグナーのインタビューの続きをさせてもらいますよ」
「はい。お二人ともありがとうございました」
シーカーはさっと立ち上がった。
「それじゃあ、今日はお会いできて光栄でしたよ」
仰々しく礼をされたが軽い会釈で返した。『アスハ大使』の友人に会えたことがよほど嬉しかったのだろう。そう思うことにした。
「では、失礼いたします」
続けてリューグナーも立ち上がった。
ナナに挨拶をし、こちらを見た。
きっともう二度と会うことはない。そう思ったから、軽く睨んで……それでも声をかけた。
「さようなら、ドクター・リューグナー」
「お元気で」とまでは言わなかった。彼女を許すことは一生ないのだから。
シンは最後まで何も言わなかった。
「本当にありがとう、最後まで聞いてくれて」
二人が去ると、ナナは改めてそう言った。
「こっちこそ……、全部話してくれてありがとう」
「びっくりしたよね?」
「ええ、ほんとに……。正直まだ整理がついてないわよ」
素直にそう言うと、ナナは少し笑った。
「でもまぁ、ここだけの話、ドクター・リューグナーは助かりたい気持ちが強い人だから、オーブの保護プログラムを受けるためならちゃんとやってくれると思う」
「シーカーって人は? 本当に大丈夫?」
「大丈夫大丈夫! 契約書もちゃんと交わしたし……。映像も、公開前に私とカガリがチェックすることになってるから」
まだ心配は拭えない。後ろのアスランの表情を見るとなおさらだ。
「アスラン、大丈夫なんですよね?」
だから彼に言う。問い詰めるように。
「心配ない。君たちのことは絶対に漏れないよう、オレもちゃんとチェックするから」
が、久しぶりにしゃべったと思えば、彼は的外れな答えをよこす。
「そうじゃなくて……、ちゃんとナナも守られるんですよね?」
ついムキになってそう念を押した。彼がこちらなんかより、ナナの心配をしていることは明らかなのに。
「ああ。大丈夫だ」
かすかに疲れたように彼はゆっくりとした口調で答えた。
この返答をするのにどれだけの葛藤があったのか察しがつく。
だがナナはこの件は全て話し終えたとでも言うように、少し改まってこう言った。
「それで……、今日来てもらったのにはもうひとつ話したいことがあって」
その台詞に少しだけどきりとして、さっきから何も言わないシンと目が合った。
「二人のこれからのこと、もし考えがまとまってたら聞かせて欲しいと思って」
まるでこちらが本題かのように、ナナの視線は先ほどまでよりずっと強かった。
「急がなくていいの。私はずっとここにいてもらえたら嬉しいし。ゆっくり決めても大丈夫だから」
ナナの想いをついゆっくり受け止めていると、ナナは早口で言った。
「私たちも……」
急に口の中が乾いた気がして、言葉が途切れた。
が……。
「決めたんだ。これからどうするか。どうしたいのか。ちゃんと二人で話し合った」
シンが口を開いた。
「じゃあ、オレは……」
一瞬、驚いたとき、アスランが腰を上げた。今更こちらに遠慮を……いや、シンに気を遣っているのだとわかった。
だが、シンはまっすぐにアスランを見て言う。
「あなたもいてくださいよ。聞いておいて欲しいから……」
若干、まだふて腐れたようではあった。それでも、はっきりと「聞いて欲しい」と告げた。
「シン……」
その横顔はとても静かで、大人びてはいないけれどなんだか安心できた。
「わかった」
アスランも同じことを感じたのか……、安堵したように表情を緩めて再び腰を下ろした。
シンはナナが小さくうなずいたのを確認すると、スラスラと語った。二人で話したことを。二人の決意を。
「あんたが話した未来の話さ……。オレたちも“同じ願い”なんだ。オレたちは同じ未来を目指してるってはっきりわかった。目指さなくちゃならないって。“前”みたいにぼんやりとじゃなく。今度こそ、そこに向かって自分の足で、意思で、歩いて行かなくちゃ何も変わらないって。だからさ……、そのためには自分ができることをしようと思ってる。ちゃんと……、ちゃんと、自分が何のために戦うのか考えて、決めて、進む。そうやって、あんたと……ナナたちと一緒に生きていきたいって思った。そうしないと何も変わらない。変えられないんだ。きっと」
ナナは口元に穏やかな笑みを浮かべながら、残念そうに眉根を寄せた。
「そっか……。そう決めたんだね」
その目がルナマリアを見つめる。
自分もシンと同じ意思だと……わかっているはずのナナに伝えるようにうなずいた。
「そっか……」
やはりナナはわかっていたかのように小さくつぶやいた。
「二人にはずーっとオーブにいて欲しかったんだけどな」
そしてため息交じりにそう言って頬を膨らませた。
「ナナ……」
アスランが呆れたように彼女を横目で見る。
「でも……」
皆がみつめるなか、ナナは肩をすくめて笑った。
「二人がそう決めたのなら、全力で応援する」
何の曇りもない綺麗な笑顔だった。
「『一緒に生きていきたい』って言ってくれて嬉しかった。離れてても、私たちはきっと一緒だよね」
隣でシンが力強くうなずいた。
ルナマリアも強く、2回首を縦に振る。ナナの目をしっかり見つめて。
「よかった」
ナナは満足げにつぶやいた。その隣のアスランも静かに笑む。
本当によかった……。こちらもそう思う。
シンが語ったのは短い言葉だ。自分に至っては何も言っていない。ナナも確かめようとはしなかった。
だが、不思議とここにいる全員、気持ちが繋がっている気がするのだ。想い合って、理解し合っている気がするのだ。
それはきっと、もうすでに、同じ願う未来に向かって一緒に歩き始めているからだと……ルナマリアはそう感じた。
「それじゃあ、二人の希望が叶うようにプラントやザフトに話してみるから、二人とも心配しないで待っててね」
一抹の不安がないわけではない。今更ザフトに戻れるのか、プラント側から見て自分たちの立場はどうなっているのか、メイリンは許してくれるだろうか……。
「大丈夫! 私に任せて! 絶対に二人が新しい道を歩けるようにするから!」
それを感じ取ったのか、ナナは力強く言った。
「ラクスに頼んで動いてもらうし……。イザークにもお願いしてみようかな。ね、アスラン」
「ああ、そうだな。軍のことならイザークがどうにかしてくれるだろう」
「今となってはけっこうな重鎮だもんね!」
ナナとアスランはジュール隊長のことで笑い合っていた。
そう……何も心配はいらない。今だけナナに甘えて、ジュール隊長やラクス様の力を借りて……、道を歩けるようになったら力強く進んでいこう。まっすぐに。前を見て、迷わずに。
ナナやアスランと一緒に。シンの隣で。
「ありがとう……」
急に……シンが低い声でぼそりとつぶやいた。
「シン……」
安心したような、決意を固めて意気込んでいるような、喜んでいるような……不思議な表情だ。
なんだかドキリとしたけれど、ナナはにこりと笑って手を差し出した。
「こちらこそ、ありがとう」
シンはゆっくりと動いて、その手を握った。
今更握手なんて客観的に考えるとおかしい……そう思ったが、欲求の赴くままにそこに手を重ねた。
「私もっ……ありがとう……!」
ナナとシンのぬくもりに触れると、何故だか涙がこみ上げた。
「ルナ、ありがとう」
それからナナの視線に促されて、アスランの手も重なった。
「一緒に行こう!」
最後に言ったナナの声は、今までのどの演説よりも力強くて、明瞭だった。
数週間後。別れの日。
「ねぇシン、本当に忘れ物ないわよね?」
「大丈夫だって」
「寝室は? ちゃんと確認した? キャビネットの引き出しとか」
「全部確認したって。ていうか全部ナナからの借り物みたいなもんなんだから、忘れ物にはなんないだろ」
「そうだけど……」
「それに何かあれば後からアスランに頼めば送ってもらえるって」
「まぁ、そうよね……」
意外にも……他人が見た自分の印象と比べて意外にも心配性なところがあるということは自覚している。
こんな出発の直前になってまで何か忘れ物がないかとか、片付け残しがなかったとか、いろいろな心配事が溢れてくる。
それに、あのしばらく暮らしたオーブの街の一室が名残惜しい。
ナナとアスラン、そしてアスハ代表がよくしてくれたから、何不自由なく過ごすことができた。そのおかげで、過去や未来についてじっくりと考え抜くことができたのだ。
本当に、ナナたちには感謝してもしきれない。そのうえ……。
「ルナ、シン!」
わざわざ見送りに来てくれるなど……。
「ナナ、調子はどう?」
「うん。まぁまぁかな」
ナナはあっけらかんと笑った。車椅子に座ったままで。相変わらずそれを押すアスランの顔色は最悪だ。
弱ったナナの姿を見ても、今回は驚かなかった。
先日、帰国の手続きや手順についての打ち合わせをするため、ナナに呼ばれたからではない。毎日、ナナの様子を見ているからだ。
ナナはあの後、本当に自分の“治療”の様子を公開した。
連日、その映像は様々な端末に流された。ナナの宣言通り、映っているのはナナだけ。治療に当たっているドクター・リューグナーも、わずかに手元しか映らない。姿はもちろん声も消されている。
シーカーが約束を守っているようで安心したが、赤裸々に明かされるナナの症状は深刻で胸が痛んだ。時折、映像から目を逸らすほどに。
胸が痛んだ。 ナナの声はどんどん弱く、頬はどんどん痩け、髪もどんどん抜け、体がどんどん小さくなっていく。とても好くなっているように見えないのだ。失望するたび、飛んでいってドクター・リューグナーを殴りつけたかった。
が、ナナは希望を手放さない。ちゃんと弱音を吐きながらも、「明日には薬が効いているはず」とか「この治療ならよくなりそう」とか、いつもこちらを励ますように言う。
どれほど苦しくても、思い通りに体が動かないもどかしさを抱えていても、理不尽さに憤っても、辛くても痛くても……それら全てをさらけ出し、必ず元気になると誓ってみせた。
シンは不愉快そうにしていて、心配する言葉もこれからの希望も口にしなかった。が、毎日欠かさず動画を……いや、ナナの“闘病(たたかい)”をチェックしていた。
きっと世界中の人々も同じ気持ちだ。憤り、怒り、憎みながらも、応援するしかないのだ。願うしかないのだ。
「わざわざ見送りに来てくれてありがとう」
具合が悪いのに……という言葉も、にじむ涙も無理矢理引っ込めて、素直に嬉しさだけを表した。
幸いここはナナが用意してくれたプライベートラウンジだから、他の誰かに見られることはない。シーカーもさすがに遠慮しているようだ。
「そりゃあもちろん、二人の門出には何があっても駆けつけるでしょう!」
ナナは快活に笑う。けれど、前に会ったときよりもその声は弱々しい。アスランの眉間の皺も濃くなっている気がする。
「向こうへ着いてからのことはラクスがちゃんと手配してくれているから心配しないで。それから、軍のこともイザークが手続きをしてくれてるからすぐに復隊できるって。念のため周囲には気をつけて。この間話した手順通りにね。何かあったらすぐにこっちに連絡を……」
たぶんこちらの懸命なる努力を知っていて、ナナはいつもどおり平気な顔でこちらの心配をする。哀れんでも仕方がない。案ずることすらもう無意味な段階に来ているのだ。
「大丈夫よ!」
だから「ナナは自分の体のことだけを考えて」なんて言わなかった。
「私はけっこうしっかり者なの。あなたもよく知ってるでしょう?」
少しだけ“セア”を意識してそう言う。
「うん、そうだね!」
それはそれは屈託のない表情でナナは笑った。
鼻の奥がツンとなったが、シンを小突いてごまかした。
「ほら、シンも何か言いなさいよ!」
シンは一度そっぽを向いたが、ちゃんとナナに向き直った。
そして静かに、だが力強く言った。
「約束……絶対守るから。ちゃんと……“見て”歩くから」
ナナは優しい顔でゆっくりとうなずいた。
それから、一度アスランと目を合わせてから、ある決意をぽろりとこぼした。
「私もね。この先どう生きていくか決めたんだ。シンとルナと話をしてやっと決めることができた」
「え?」
「この先って……」
「私、“この症状”が回復したら、学校に通おうと思うの」
こちらは思わず顔を見合わせた。ナナが「学校に通う」ことの必要性を感じられなかったからだ。
それに何故か満足そうにしながら、ナナは続きを話す。
「私ね、父の研究所にばっかり入り浸って、ちゃんと学校に通ってなかったんだ。もちろん研究所で勉強はしてたから、必要な知識は身についてるつもり。でもね、“前”に『特別平和大使』なんて肩書きを背負ったときに思ったんだ。『全然足りない』って」
ときどき息を継ぎながらも、その言葉にはいつものように力がこもっていた。
「世界情勢とか国の法とか、そういうことはわかってるつもりだったし常に勉強してた。そうじゃないとあの役は務まらなかったからね。決して十分だとは思わなかったけど、そうやって学びながら考えをまとめて、言葉を組み立てて、何が一番必要なのかを選ぼうとしてきた」
“かつて”のナナが思い浮かんだ。
演台を前に、世界の人々に向けて堂々と話す同世代の少女。何の迷いもなく、しっかりとした太い芯を見せつけて、わかりやすい言葉で話す『世界連合特別平和大使』。
その思いは理想にすぎなかったが、目指すべきもの、目指す価値があるものだということを知らしめていた。
それでも『足りない』というのだろうか。
「だけど、それだけじゃ伝わらない」
ナナの目には、自身に欠けているものすら見えている。
「世界中の人に思いを伝えるには、そこに生きる人のことをよく知らないとならない」
こちらはまだよく飲み込めないというのに。
「その人たちの“今”だけじゃなく、歴史とか文化を知らなくちゃ伝わらない。それに……私自身、オーブのことをもっとよく知らないといけない。そうじゃないと説得力なんてない。伝わる言葉も見つけられない。……そう思ったの」
いったいどうやって、ナナは進む道を見つけられるのか……。
「だからね、私、ちゃんとまともに動けるようになったらカレッジで勉強するんだ。試験に合格できたらだけどね」
すがすがしい風が吹いた。
「そしてマシな教養ってやつを身につけたら……今度こそカガリを支える人になる。どんな形でも」
ナナが最後にたどり着きたい場所が見えた気がした。
「そっか……」
「勉強がんばってよ。まさか、あんたが落ちたら格好悪いから」
「そうだね! 『お受験密着ドキュメント』がバットエンドだと後味悪いもんね」
「ええ? そこも密着されるの?」
「あはは、どうかな……? でもまぁ、アスランに家庭教師になってもらうから合格間違いなしでしょう」
「ああ! それなら大丈夫よね」
ここで初めて、アスランがそっと息をついたのがわかった。なんとなく……だが。
「アスランも……ありがとうございました」
ようやくちゃんと伝えられるような気がして、感謝の言葉を口にした。
「ああ、オレのほうこそいろいろと世話になったな。ありがとう」
きっとミネルバでのことを含めて言ってくれているのだろう。
そんな彼は疲れた顔をしていた。ナナが心配だから……。けれど、優しい笑みを口元に浮かべてくれた。
「君たちなら大丈夫だ。信じて進め。オレも、今度こそちゃんと前を向いて進む」
そして彼も約束をくれた。
「アスランは正式にオーブ軍に入ってくれることになったの」
ナナは誇らしげに補足する。
「ナナに預けてばかりじゃあいられないからな……。オレはオレの役割を持って進もうと思う」
そう、誇れるほど彼は強くなった。いや、もともと強いのだ。一時、心が打ち震えるほど憧れたのは、彼の外見や寡黙で落ち着いた態度や肩書きだけではない。その内に燃える強さだ。
「オーブ軍とザフト……。立場的には君たちと相容れない存在だが……」
彼は言う。
「道は同じ。願う未来は同じだ」
数多の苦しみを超えて掴んだ意思をさらけ出し。
「ええ。“一緒”です……」
胸が詰まってそれしか言葉にならなかった。
が、ナナは心から嬉しそうに笑ってくれた。
「元気でな」
かすかにはにかんでアスランが言うと……、シンは黙って手を差し出した。
「シン……」
アスランは彼の顔をじっと見つめてから、その手を握った。
繋がれた二人の意思を目にして、とうとう目の端から涙がこぼれてしまった。が、ナナを見ると、ナナもまた同じ顔をしていた。
「私も!」
ナナは腕を持ち上げてシンに向けた。
「シン、元気でね。ルナを泣かせないで。あと、泣きたいときはちゃんと泣いてね」
「うるさいなぁ、わかってるよ……!」
久しぶりに子供っぽい口調で言って、シンはナナの手を握った。
「ナナこそ、あんまりお転婆しすぎてアスランを泣かせるなよな」
「失礼だな。わかってるよ!」
なんだか懐かしい気分になったとき、ナナの手がこちらに伸びた。
「ルナ、またね」
大きくうなずいて手を握った。
細い。冷たい。頼りない……。この手はこんなに弱かっただろうか。
こぼれたばかりの涙が凍るほど恐ろしくなった。だがその感情を懸命に押し殺す。
自分とシンの決意と同じ量の強さで、ナナを……ナナの未来を信じようと思った。
アスランのため、カガリのため、ラクスやキラのため、オーブのため、そして世界のため……ナナはまだ生きなければならない。まだ道を示さなければならない。小さな意志の種を育てなければならないのだから。
何度も別れの言葉を交わして、最終の搭乗案内でやっとナナとアスランに背を向けた。
車椅子のタイヤが軋む音が聞こえた。ドキリとする……。
(また、会える)
ナナは「またね」と言った。だからきっと、必ず、また会える。
そう自分に強く言い聞かせ、横目でシンを見た。
シンはまっすぐ前を向いたまま、静かに、だが力強くうなずいた。
新たな道へ、願う場所へ…・…これは出発なのだ。
別れではない。ナナとシンと……みんなで一緒に進む道。
次にナナに会うときは、一緒に歩んでいることを誇れる自分でいたいと……そう思った。