ナナの翼……。
それは、アスハ家の私邸がある海岸から少し離れた海底に眠っていた。
ゆるやかな海岸線が途切れて、切り立った崖の下。陸からは行くことができないその海の底に、羽休めの場所があったのだ。
「ここは完全にアスハ家の敷地内だから、軍関係者は知らないの。知ってるのは私と、モルゲンレーテの一部の社員だけ」
ナナは地下へと降りるエレベータの中で、そう言った。
「カガリは?」
その問いに、笑みを崩さずナナは答えた。
「あのコには言ってない」
その答えは、キラの不安を煽った。
「知ったらたぶん……、いや絶対にあのコは怒るだろうし、それに代表首長である人間が
一瞬、ナナが何を言っているのかわからなくて、ラクスと顔を見合わせた。
向かい側で、マリューとバルトフェルドも同じようにしている。
「つまり私は今、私とカガリがヘリオポリスに行った頃のウズミ様と、同じようなことをしてるってわけ」
ますます困惑した。
国で最も忙しい身であるナナが、アスランを首都に置いてひとり訪ねて来たかと思うと、「連れて行きたい場所がある」……と得意げな顔をした。
そしてまた別の私邸まで連れて来たかと思うと、理由も言わずに地下へと降りている。
不自然に長い時間……。
かなり深くまで降りて、扉は空いた。目の前に廊下が伸びていたが、すぐに堅固な扉が見えた。
そこでようやく気がついた。
「ナナ、見せたいものって、もしかして……」
ナナはくすくす笑いながら、何も言わずに廊下を進む。
そして扉のロックを解除した。
それを、二度繰り返した。
その時にはもう、覚悟はできていた。口を開く者はなかったから、恐らく皆、気づいていたのだろうと思った。
そして三度目、やっと最後の扉が開かれた。
スーッと、涼しくも湿った風が吹き付けた。目の前に広がる、薄暗い空間。静かな波の音。潮の香り。
そして……。
予測していた“力”が現れた。
だがそれは、予測よりもはるかに巨大なものだった。
数か月前にナナがフリーダムを見せてくれた時の衝撃とは比にならない。文字どおり、もっと巨大な力……。
「アークエンジェル……?!」
それの長であったマリューが小さく叫んだ。
そう……ナナが見せたかったのは、あのアークエンジェルだった。
「あれ? みんな途中から察してたんじゃないの?」
こちらの衝撃はお構いなしに、ナナはきょとんとした顔で言う。
「いや、何かしらの兵器とはおもったがな……まさか戦艦まるごと出て来るとは」
さすがのバルトフェルドも、苦笑が引きつっている。
「ま、まさかあの艦を修理していたなんて……」
キラ自身は、言葉が出てこなかった。
ナナが見せようとしていたのは、フリーダムを援護できるようなアストレイか、他のモビルスーツ……あるいは新型のモビルスーツではないかと予測していた。
「これは、まだ私に必要だから……」
その巨大な戦艦を見上げて、ナナはかすかに目を細めた。
マリューとバルトフェルドが暮らす邸の地下にフリーダムを格納したときも、ナナはこんな顔をしていた。
キラはそれを思い出す。
あの時ナナはこう言っていた。
『これはあなたたちが自分たちを護るために使って欲しい。もし“その時”が来たら……キラ、あなたは自分の意志でこれに乗って』
再び力を持たせることになっても、フリーダムという力はまだ“必要”だと、ナナは言った。
世界はまだ、平和への道を歩き始めたばかりだから。いつその道から逸れてしまうかわからないから。
争いを失くすため、力を捨てるように訴えているけれど、声を上げられないほどに抑圧された時、それを払いのける力は必要だと思うから。
まだ、自分たちの意志は、摘み取られてはいけないと思うから……。
『だから、戦って……』
ナナは悲しそうな目で、強く、そう言った。
初めてストライクに乗った時を思い出した。
戦え……進め……生き残れ……。
ナナが抱えた矛盾と強い意志は、あの時と少しも変わってはいなかった。そう、気づかされた。
今もまた、ナナはあの時と同じ眼で言った。
「私たちはまだ、目指す未来に辿り着いてはいない。だから、これからも何度も争いは起こると思う」
世界や国民に向かって平和を訴える時の力強い声ではなく。
「力を捨てないから争いは終わらない。それもわかってるけど、私はまだ、力が無ければ争いを止められないとも思ってる」
「まだ」という言葉に、ナナはとびきり陰を込めている。
キラとマリューが見ていたナナの矛盾、葛藤……彼女の強さに寄り添っていた闇が、そこに在った。
「奢ってるわけじゃないけど……、あの戦争を経てやっと見つけた道を、誰かの欲や憎しみで奪われないために、私は戦い続けなければならない」
自分は死ぬわけにはいかない……ナナの決意は胸を刺した。
キラ自身が目を逸らし続けた部分を、ナナはまたまっすぐに突いている。
変わらないナナの強さ。
が、自分は変わった。
だから、今は次のナナの言葉をまっすぐに受け止めることができた。
「だから私は、争いを止めるための力が必要になったとき……迷わずこのアークエンジェルの翼を広げようと思う。オーブの戦艦じゃなくて……」
争いから目を逸らしていても、どうにもならない。争いが嫌だと言って力を手にしなければ、大切なものも護れない。力を捨てれば、何も成し遂げずにただ消えるだけ。
それは強者でなく傍観者。
それでは本当に願う未来へ辿り着けない。何も変えられない。
それをあの戦争で学んだ。ナナに鋭く突き付けられた。
今も痛みとなって残るその痕は、これからの自分にとって必要なものだった。
そしてその痛みは、最初からナナも等しく持っている。
「ナナ……」
「あ、でも勘違いしないで!」
キラが口を開きかけた時、ナナは両手を前に出して言った。
「べつに、『その時はまた一緒に戦ってくれ』とか、そういう訳じゃないから!」
キラが言いかけた言葉を、ナナは全面的に否定する。
「え?」
思わず間抜けな声が漏れた。
「これはただの私の意思表示と、あなたたちに選択肢があるってことを知ってもらいたかっただけ」
「選択肢?」
ナナはこちらを向いて笑った。
「もしそうなったとき、あの戦争で最後まで戦い抜いたあなたたちならどうするか……。それは、そうなってみないとわからないのかもしれないけど……。たとえばもし、また悪い流れに屈するのが嫌だと思っても、その時に力がないと動けないでしょう? 私自身、そんなの我慢ができないから。だから、力はあるよ……って知っておいて欲しかっただけ」
「そうなってみないとわからないのかもしれないけど」……その言葉に、思わずどきりとした。
今は、もう二度と争いに巻き込まれたくない……争いの中に飛び込んでいきたくはないと、そう思っているのもまた事実。
ナナのように、“その時”にどうするかなんて、決めることなどできていなかった。
ナナはそれをわかっていて、「ただ見せただけ」と言っているのだ。
「ああ、それで『ヘリオポリスの時のウズミ様』って言ったのね」
未だ言葉を発せずにいると、マリューが苦笑した。
「軍縮や非戦争を訴えているはずの中立国オーブが、国営企業であるモルゲンレーテ社に、ヘリオポリスで新型のモビルスーツを開発させていた……。それを、ウズミ様が黙認していた……。そのことよね?」
ナナはニヤリと笑った。
ヘリオポリスの崩壊は決して笑い事ではなかった。
あれは確かに、戦禍拡大の引き金になったし、ナナやキラはそこから渦中に飛び込むこととなった。
が、ナナが自国の真意を確かめるために、わざわざヘリオポリスまで乗り込んだことも、キラは知っていた。
いわば、真実を見定めようというナナの意志自体が、ナナを戦争に導いたのかもしれない。
だからナナの笑みは、痛快な皮肉の笑みに見えた。
「戦後のこの状況で、当然、オーブは各国に軍縮を訴えてる」
ナナは涼しげに言う。
「私自身、世界中で偉そうにそれを演説してるしね」
そして、アークエンジェルを見上げた。
「でも本当にそうなるために、今はまだ力が必要。矛盾はわかってる。こんなことしてるのだって、バレたらマズいこともわかってる。でも本当にマズい状況になったとき、力がなければ戦えない。まるで抜け出せない迷路のようだけど、私には最初から答えが出ていた」
視線はゆっくりと、キラへ向く。
「最初から」……また彼女の言葉に、出会った時を思い出す。
「表向きは力を削ろうって訴えといて、懐に研いだ刃を隠す……。こんな卑怯なこと、カガリにはさせられないでしょ? だからカガリには内緒なの。あのコは知らなくていい」
大人びた顔でそう説明し、ナナはもう一度アークエンジェルを見た。
その横顔は、少しだけ寂しそうだった。
キラは知っていた。
カガリもまた、「最初から」同じ想いを持って生きている。
彼女の純粋な心は、きっぱりと力を否定する強さがある。あれだけの戦争を経験してもなお、その純粋さは少しも汚れなかった。彼女はまだ、崇高な意志をもって、世界に平和を訴えているのだ。
だから、ナナとカガリの考え方が水と油であることもわかっていた。
どちらの気持ちも、キラは理解できた。
キラ自身、カガリと同じ想いで生きていた。
だが、それでは何も護れないし、すすむべき未来に背を向けるだけだと、ナナに気づかされたのだ。
だから、二人の気持ちはよくわかる。
そしてナナが、そのすれ違いに少しだけ心を痛めていることも。
ナナは合理的に考えて動いているし、矛盾を見つめて割り切っている。が、同時にカガリの純粋さに憧れてもいる。カガリを誇りにも思っている。
カガリには、そんなナナにまっすぐに向き合い、きっぱりと否定する強さがある。
「でも、もし……」
キラはふと思いついたことを口にしかけた。
そして止めた。
聞いてはいけないことのような気がしたのだ。
が。
「もし」
ナナはいたずらな笑みを浮かべて、キラの言葉を摘み取った。
「もし避けられない争いが起きた時、きっとオーブは……カガリは、最後まで不戦の覚悟で国を護るでしょうね」
そして皆を見回し、ナナは子供のように言った。
「その時は、私は国という枠から飛び出してでも、戦う道を選ぶと思う」
まるで欲しいものを全て欲しがって見せる、幼い子のようだ。
「黙ってまたオーブを焼かれるわけにはいかない」
だが彼女の吐き出す言葉は、とても鋭く尖っている。
「カガリはカガリの理想のままでいい。それがオーブの理念なんだから。でも私は、“戦う”の。それで世界の歪みを少しでも削ることができるならね」
鋭利な想いは、今のキラの胸にはすとんと落ちた。
痛みはある。
だがそれはやはり、ナナ自身も抱えているもの。
「カガリさんと、対立しても?」
先ほど言いかけた問いを、マリューが押し殺した声で念を押すように口にした。
ナナ笑ってうなずいた。
「私たちはお互い“やるべきこと”や“やること”は違っても、“願い”は同じはずだから」
その言葉に、皆の緊張がほぐれた気がした。
ナナは最後に、ずっと黙っていたラクスに視線を向けた。
そして一言だけこう言った。
「ラクス、そういうことだからよろしくね」
ラクスは静かだった。
迷っていたのか、案じていたのか、戸惑っていたのか……実際のところ、キラにラクスの心情はわからなかった。
が、彼女がナナに返したひとことで、ようやく何を思ってアークエンジェルと向き合っていたのかわかった。
「わかってますわ、ナナ」
ここへ来た時から、ラクスにはナナの想いがわかっていたのだ。
思わず、キラの口から息が漏れた。
二人には完敗だなという、自嘲と苦笑の入り混じった笑みだった。
導きの光は強い……。
それを実感して、キラは思った。
もし“その時”が来たら……この弱虫な心も、案外すぐに固まるのかもしれない……と。
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「僕は……翼を広げます……」
あの時、相変わらずの強い意志を見せてくれたナナはもういない。
導きの光は、半分消えてしまった。
が、キラはすぐに決断を下すことができた。
フリーダムに乗った時も、案外、迷いはなかった。
当然、護りたいものが目の前にあって、それらが脅威にさらされたから、迷っている余地など無かった。
もう戦いたくない……という、我がままだか弱音だか、それとも崇高な意志だかわからない想いは、身体の動きを鈍らせることはなかった。
だから今、歪んだこのオーブという国を見つめて……カガリという大切な人の歪んだ決断を目の辺りにして……動かない訳にはいかなかった。
今が“その時”だと、疑いもしなかった。
争いを避けて平和の幻影に捕らわれていたら、大切な人たちを失ってしまう。
ナナが願ったかけがえのない未来への道を、放棄してしまう。
キラは今、自らの意志で、“力”をとった。
それは今まで手にしたもののどれよりも馴染んで、それでいて強大だった。
もう後戻りはできない。永遠に、穏やかな海を眺める時間を失ってしまうのかもしれない。
それでも。
『私は戦う』
ナナのように、痛みを抱えたまま綺麗には笑えない。
が、きっと……ナナと同じように、決して後悔はしない。
想いは、皆も同じだった。
ラクスはきっと、もっとずっと前から“ナナの声”を聞いていたのだと、キラは思った。
それでもフリーダムの“鍵”を渡すことを躊躇したのは、彼女が優しいからだった。
バルトフェルドは、もうとっくに軍人の顔になっている。とはいっても、彼はもともと軍人らしからぬ態度ではあったが……。いつもの軽い口調を崩さぬままではあるが、すでに戦う準備はできているようだった。
マリューもそうだった。
彼女もまた、決断は早かった。
そして彼女は、共に戦い抜いた元クルーたちの想いを、ずっと背負い続けていた。
彼女はすぐに、各方面へ連絡をとった。ナナが用意してくれた第二の人生を過ごしているはずの、元クルーたちへ。
そして、あの時、共に過ごした者たちが次々と、生まれ変わったアークエンジェルの元へ集結した。
(きっと、みんなもナナの意志を受け継いでいるんだ……)
キラはそう思った。
そしてそれが、ナナの友としてとても嬉しかった。
「行きましょう、キラ」
出航を目前に控えたアークエンジェルのデッキで、ラクスが言った。
まるでナナの分の想いも込めるように、力強くうなずいてくれた。