濡れそぼった赤服はずっしりと重かった。
身体も手にした銃も冷たい。
が、立ち止まるわけにはいかなかった。
迷いは振り払った。
今はもう、ナナの元へ帰ると決めていた……。
卑怯にも、女性職員が宿泊するフロアに忍び込んだ。
醜い作戦だが、どうしてもここから抜け出さねばならなかった。
非常口からひとつ目のドアを開け、中に滑り込む。罪悪感を押し殺し、すぐさま部屋の中心に銃を向けた。
窓辺の椅子に腰かけたまま目を丸くして固まっているのは……、セアだった。
「アスラン……?!」
彼女は乾いた息を漏らす。
「すまない……! 外に出たいだけなんだ……!」
すぐに彼女に飛びついて、口をふさぐ。
「頼むから、静かにしてくれ……!」
彼女はすぐに、こくこくとうなずいた。
安心はできなかった。だが、アスランは彼女から離れた。
「あ、あの……」
彼女の声を無視し、窓を調べる。
やはりこの部屋もはめ込み窓で、開閉はできそうになかった。
「お、追われてるのって……、アスランだったんですか……?」
セアの問いに視線だけで答え、外の様子をうかがう。
また窓を割って外に出たとして、どのルートで脱するべきか……。
「ど、どうしてアスランが……?!」
彼女は小声だった。が、叫ぶようでもあった。
「あとで、レイにでも聞いてくれ……」
それだけ答えた。
彼女は何も知らないほうが良いのだ。
それに、時間もない。
ドアの外からは、すでに複数の足音や声が聞こえてきている。この部屋に追手が辿り着くまで時間の問題だった。
「も、もしかして……、き、基地から脱出するつもりなんですか……?」
彼女の問いに、また視線だけで答えようとした時……。
ついに、ドアが乱暴に叩かれた。
「本部だ。室内を見分したい。ドアを開けろ」
静かではあったが、苛立ちを含む兵士の声。
「オレが外に出たらすぐ声を上げろ。銃で脅されていたと言え」
セアの怯えた目を見つめる。
ナナの面影……。
やはり、かすかにそれが残る彼女の瞳に、そっと別れを告げた。
だが。
「こ、こっちへ……!」
セアは瞬時にアスランの顔とドアを素早く交互に見てから、アスランの腕を強引に引っ張った。
そして、バスルームに押し込む。
「おい、いないのか?!」
外からは、今にもドアを蹴破って来そうな気配がしている。
「セア……!」
彼女が何をしようとしているのかわかった。かばってくれようとしているのだ。こんなところに隠して、やり過ごそうとしてくれている。
が、兵士が部屋に入れば見つかるのは必然だ。
バスルームに出口はない。この状況では、セアにも嫌疑がかかってしまうことになる。
が、セアは睨むような視線をよこした。
「いいから、ここでじっとしててください……!」
何かを決意した目だ。そして、絶対にやり通す目。
わかるのだ……。“見たことがある”から。
だから、アスランは何も言えなくなった。
セアは手早く制服を脱ぎ捨てた。そして、両手で目を思い切りこすってから、ぐしゃぐしゃに髪を乱す。それから、いつも持っている薬のケースを握りしめて、ゆっくりと戸口へ向かって行った。
息を潜めて様子をうかがった。
兵士がドアを強引に開けるのと、セアが開くのはほぼ同時のようだった。
「あの……、何か……?」
兵士の驚いた声の後に、やけにのんびりとしたセアの声がした。
「基地内に不審者がいることが判明した。この辺りに逃げ込んだとの情報があるため、室内を見分したい」
兵士は早口で言う。
だが、セアの口調は変わらなかった。
「この部屋には、誰も来ていませんが……」
「念のため、見分を!」
「でも私、ドアロックをかけて休んでいたんです……」
「解除して密かに侵入した可能性もある」
「誰かが入って来ればわかります」
「眠っていて気づかなかったということもあるだろう」
「では、今この部屋に隠れてるって言うんですか……?」
兵士は何かに勘付いているのか、執拗に迫った。
が、セアは彼らに怯えた様子はなく、大きなため息をついてからこう言った。
「あの、私……、今の時間は睡眠をとるように言われてるんです。主治医の先生から」
そんな子供の言い訳が……、とアスランは思った。
兵士もすぐさま言い返そうとしたようだ。
だが、次の言葉で彼らは黙る。
「ご存じないですか? 『プロジェクト・バハローグ』」
アスランもまた閉口した。
『バハローグ』の名に聞き覚えがあった。思い出したくもない名前だ。
それは地名……、今はもう無い地名で、かつてプラントにあった場所だ。
今はそう……、イーリスという慰霊碑が建つ公園になっている。
そこに、ザフトの士官学校と軍事施設があった。
そして“あの日”……、一瞬にして吹き飛んでしまった。
ナナの命を攫うようにして……。
だから、忘れたくても忘れられない地名だったのだ。
セアはそれを口にした。
そして、兵士は押し黙った。
「議長のご指示なんです……。だから、私、主治医の
セアが薬のケースを振ったのか、いくつもの錠剤がぶつかり合う音がした。
バハローグがあの地の名であることはわかったが、セアが兵士に向かって
だが、兵士たちは足音を立てて……、おそらくセアに向かって敬礼すると、すぐさま引き上げて行った。
「セア・アナスタシス……。失礼いたしました!」
すぐに扉は閉まった。
セアが小さく息をついたのを耳にして、アスランはバスルームから出た。
「セア……」
制服を渡すと、セアは恥じらいながら手際よくそれを身につけた。
が、“寝グセ”は直さないままアスランを見た。顔は青ざめていたが、まっすぐな瞳だった。
「何が……、あったんですか?」
「レイに聞け」などと言うことはもうできなかった。彼女の視線から、何故だか逃れられなかったのだ。
時間がないのはわかっていた。ここに長くいてはセアも危険だということも。
だがアスランは、これまでのことをセアに話した。ミーアに言ったことも……。
「役割……」
セアはその単語をそっとつぶやいた。
「そうだ。オレは、MSパイロットとして議長の言う通りに動く“役割”を拒否した。だからこうして追われているんだ……」
うつむきながら、セアは理解しようと努めているようだった。
「しゃ、射殺もやむを得ない……って、聞きましたけど……」
「自分の認めた“役割”を果たさない者は排除する……、議長はそういう人だ」
「排除……」
「射殺」「排除」……。不穏な単語の羅列に、セアは泣きそうな顔をした。
その顔に……、どこか懐かしい感じがした。
目まぐるしく変化する事態に、感覚がおかしくなっていたのかもしれない。危機的状況や濡れそぼった制服も、麻痺を誘っていたのだと思う。
アスランの口が、勝手に動いた。
「セア……、君も……、一緒に来ないか?」
セアは両目を見開いて息を呑んだ。
当然だろう……。自分でも驚いている。こんな発言をするつもりは毛頭なかったのだ。
アスランは、心から後悔した。こんなことを言ってセアを惑わせたことを悔やんだのではない。
やっと自分というものを取り戻した時に、セアに会ってしまったことを悔やんだのだ。
「わ、私は……」
セアの声が裏返った。
握りしめた手がかすかに震えている。
「私は……、議長に救われました。とても感謝していますし……、尊敬もしています……!」
セアは噛みしめるようにつぶやいた。
「レジーナのパイロットとして、職務を全うするのが、私の“役割”ですから……」
アスランはため息をつく。
失望したのではない。ただ自身を落ち着かせるための身勝手なため息だ。
が、セアの思いやりが謝罪の言葉を零そうとする。
「す、すみま……」
「すまない、セア……」
それを止めるために、早口で言った。
そう、失望はしていない。
最初からわかっていた。セアは議長を尊敬している。レイのように崇拝するような目ではないが、まるで親を見るような目で議長を見ていたことを知っている。
理由も理解できる。事故の後、彼女に生きる意味を与えたのは議長だ。議長が彼女の復帰を支援し、MSのパイロットとして推薦し、当時の最新MSレジーナを与え、新造艦ミネルバに配置した。
おかげでザフトレッドとして意義のある日常を得、仲間もできた。だから、彼女が議長を尊敬しているだけじゃなく、深い恩義も感じているのだ。
それでも禁断の言葉が口をついて出てしまったのは……、知らずと彼女に心を寄せてしまっていたからだ。
アークエンジェルは敵でないと感じたセアに。
その目的を理解しようとしていたセアに。
本部の命令に疑問を持っていたセアに。
なにより、ナナが示した道を自らの意思で歩こうとしていたセアに……。
その芽吹いたものこそが、秘かに心の支えとなっていた。
自分の思いを理解してくれるのではないかと……、いや、ナナのように道を示してくれるのではないかと、勝手な期待を心のどこかに抱いていた。
だが、この手で連れ去りたいと願ったのは、とんでもないエゴだ。
セアはミーアとは違う。いつか使い捨てられる危うい人生にはならないだろう。
彼女にはちゃんと居場所がある。
それに、彼女はナナではない……。
ナナのように、道は示してくれない。ナナに憧れつつも、自身がどう進むべきかわからないでいる。
まだ迷いの中にある少女を、強引に方向転換させることはできない。
なによりも、危険な道に彼女を引きずり込むことはできなかった……。
まるで言い訳のようにそれを脳内で確認し、アスランは彼女に背を向けた。
「このフロアの見分が終わったら出て行く」
失礼な態度をとった。勝手に侵入して、助けてもらって、一方的に……。
だが、ドア口で廊下の物音に耳を傾けた時、セアが口を開いた。
「ど、どうやって、こんな巨大な基地から脱出するつもりですか……?!」
まるで怒っているような口調だった。
「港は連合の艦隊も集結していて落ち着かない状態だろうから、一部を混乱させてその隙に……」
「そんなの無理です……!」
セアはアスランの言葉を一刀両断した。
「港に着く前に捕まっちゃいます!」
確かにそうだ。すでに警備は厳重で、捜索隊も増員されていることだろう。
が……、それしか方法はないのだ。
急に「味方どうし」になった連合軍がザフトの基地内にいる時点で、両軍とも疑心暗鬼になっている。少しの情報操作を仕掛けるだけで、蜂の巣を突いたような騒ぎになることは確実なのだから。
「だが、それしか方法は……」
「格納庫へ行きましょう」
再び言葉を遮って、セアが言った。
「え……?」
「アスランが港に向かうことは、きっと警備兵も予測しているはずです……。逆を突いて、格納庫へ向かいましょう。そうすれば、そのままシャトルかMSで脱出できます」
意図がわからなかった。
だがセアはすでに机のPCに向かい、キーボードを叩き始めている。
「基地の見取り図だと……、宿舎がここで……、ここにグフの格納庫があります。港とはちょうど反対方向です」
モニターを眺めながら、セアが指で示す。
それを見ると、彼女の指先は確かに港の反対側を指していた。
が、そこも宿舎からは数キロの位置に在る。見つからずに辿り着ける保障はなかった。
「こっちは警備が手薄なはずです」
だが、セアはいつになく自信を持って話す。
そして。
「行きましょう、アスラン」
彼女はまっすぐアスランの目を見てそう言った。
「え?!」
「私が車で送ります」
どうしてこんな時に限って、うつむいたりしないのか……。
いや、そんなことを考えている場合ではない。
何故、彼女はそんなことを言い出すのか……。
「ど、どうして……」
「だって、遠いし……、見つかっちゃいますよ」
「い、いや、そうじゃなくて……」
急に喉がカラカラに乾いた気がした。
「なんで君が、協力を……?」
怖いはずだ。関わるのは苦手なはずだ。それに、彼女は“良い子”だ。
「私……」
セアは一度だけ唇を強く噛み、大きく息を吸ってこう言った。
「あなたは……、“ここ”にいないほうが良いと思うからです……」
唐突な言葉に、アスランの身体はまるで硬直したようになる。
「わ、私……、アスランなら……、ナナ様の遺志を継げるんじゃないかって……、勝手に、そう思ってるんです……」
ほんの少し眉根を寄せて、セアは言った。
何故、彼女はそんなことを言うのか……。
濡れそぼった身体とは裏腹に、口内は乾ききって声が出ない。
「あなたは……、ナナ様の側で、ナナ様の想いを聞いていたと……、思うから……」
「どうして……、そんな……」
まるで抗議でもするような気持ちで、そう漏らす。
何故そんなことを、セアは自分に言うのか……。
そうすべきで、でもそれができなくて、難解な迷路の中を彷徨っていたというのに。セアは、自分にならそれが出来ると、唐突に言う。
「あの……」
今になって、セアは躊躇った。
だが、どうしても何か言って欲しかった。それがきっと、この先の支えになるような気がしていた。
「あなたが……、ナナ様を大切にしてたこと……、わかるんです……」
たどたどしい答えは、強くアスランの脳を撃った。
「わ、私が……、ナナ様に『似てる』なんて言われてたから……、あなたは私を見て、不快な思いをしてましたよね……?」
「そ、そんなことはない……!」
初めて対面した時はそうだったにせよ、セアを見てナナを恋しく思ったことはなかった。
ナナの面影を持つセアを見て、ナナを思い出すからと、避けていたことはなかったはずだ。
むしろセアとナナの違いを見つけては、勝手に失望していた。
いや。
本当は、セアの中にナナの欠片を探していたのかもしれない……。
ほんの少しでも救われたいと、懐かしむだけでいいから、せめて想い出にでもすがっていたいと、そうであったらどんなに癒されるかと……、酷く利己的に思っていたのかもしれない。
今さら、それに気づかされる。
そうして、自分の視線でセアが傷ついていた事実も。
だが、罪を認める暇さえも、今のセアは与えてくれなかった。
「それだけじゃないんです」
言い訳もままならないうちにセアは言う。
「私は、ナナ様にとても憧れていました。『似てる』なんて言われて惨めな思いはしてきたけど……、ナナ様のことを心から尊敬していました。ナナ様のお言葉に救われました……。だから、わかるんです」
彼女の瞳の奥がキラリと光りを放ったように見えた。
「あなたもきっと、ナナ様に救われた人なんだって……」
無意識のうちに、手を胸に当てていた。ナナの護り石が、とても温かく感じた。
「だから、きっと、あなたは……」
セアは穏やかに笑った。
「あなたは、ナナ様が示した道を、ちゃんと歩いて行けると思います」
何故、無責任にそんなことが言えるのか……。自分なんかに、それを押し付けないでくれ。こんな自分に、そんなことができると思っているのか?
セアの言葉に、そう思う自分も確かに存在した。
だが、心は温かかった。
ナナがいなくなって錆ついていた歯車が、少しだけ回ったような感覚だった。
「セア……」
セアは自身の胸に手を当てた。
「私は……、あなたにそんなふうに生きて欲しい……。だから、手伝わせてください」
許しを請うようではない。伺いを立てているようでもない。有無を言わさぬ彼女の強い意思がそこにあった。
「セア……」
それでも……、本当は断るべきだとわかっていた。彼女の将来を思えばこそ……。
が、できなかった。
彼女の意思は曲げられない……、それを頭と心が理解しているような感覚なのだ。
まるで……、まるで……。
「廊下が静かですね。警備兵がこのフロアからいなくなったんじゃないでしょうか」
セアはアスランの横をすり抜け、ドアに耳をつける。
そして、そっとドアを開いて左右を確認した。
「もういないみたいです」
「あ、ああ……」
思わずそう言った。
なんてマヌケなんだ……、そう実感しながらも、この不思議な感覚に浸っていたい気にもなっていた。
「セア」
「はい?」
「……ありがとう……」
情けない声に、セアは笑った。
「お礼はまだ早すぎですよ、アスラン」
やっぱり、懐かしかった。
「非常階段からガレージに向かいましょう」
レジーナを操縦している時のようにてきぱきとした姿のセアを見つめて、自嘲した。
こんな時に、こんなにも、ナナの幻影に囚われてる自分が、どうしようもなくおかしかった。