幻想
目の前に、傷ついた親友が眠っていた。
キラはそっと、アスランの点滴を確認する。
ゆっくり、ゆっくり落ちる水の玉……。
(アスラン……)
このオーブ領内の海底港に帰港してすぐに、キサカから暗号通信が入った。
安堵する間も、杞憂する間もないうちに。緊急のときにのみ使用する……という取り決めがあった回線で。
キサカは、ナナの死以降、責任をとってオーブ軍を辞めている。
ナナに同行していなかった彼が責任を感じる必要などないのだが、人一倍ナナを慕っていた彼は、「あの時自分が一緒だったなら」という後悔に苛まれていた。
それも、ナナ自身が「カガリの方に付くように」と命じたのだが、キサカは酷く打ちひしがれていた。
それで、カガリ自らの説得も実らず、彼はオーブを去った。
彼なりの懺悔のつもりだったのだろう。
彼は後に「連合軍に潜伏した」という情報を送って来た。
この、秘密の暗号回線を使って、一度だけ……。
彼がこの回線で二度目の通信をよこして来たのは、ザフトと対ロゴス同盟軍がヘブンズゲートへ侵攻している時だった。
きっとそのことで、彼はオーブに関わる重要な情報を送って来たのだと思った。
が、通信を受け、暗号を解析したミリアリアはこう言った。
「アスランを……、収容したから、引き取って欲しいって……」
最も動揺したのはカガリだった。
もう二度と会えないかもしれないと……、敵対してしまったと……、そう思っていたアスランを、キサカが連れて来るという。
キラ自身も大いに驚いた。
いったいどういういきさつで、連合のキサカがザフトのアスランを「収容」したのか……。
追加の情報では、彼は負傷しているという。
彼が、どこで怪我を負ったというのか……。
考える間もなく手配はすすみ、このアークエンジェルにキサカが現れた。
ストレッチャーに横たわるアスランを連れて。
彼に意識はなかった。詳しい容態を聞かずとも、彼が重傷であることが見てとれた。
カガリはそんなアスランの姿をひと目見るなり、泣き崩れた。喜びと不安で、彼女の全身から力が抜けて行くのがわかった。
そんな彼女を抱き起し、キサカの言葉を待った。
彼は、自分にも原因はわからないとことわってから、こう説明した。
対ロゴス同盟艦隊の一員としてジブラルタルに停泊中、基地内で非常警報が発令されたのを察知した。
もちろんジブラルタルはザフトの基地であり、現状は友軍であっても同盟側に事情は説明されない。
キサカは所属する艦の中で、あらゆる手段を用いて情報を収集した。
無線の傍受や回線のハッキングを試みる過程で、艦隊が集結しているメインの港とは別の方向からMSが緊急発進したのがわかった。
キサカは胸騒ぎがして、小型のシャトルでそれを追った。己の身分を知る有志数名だけを連れて。
雷鳴が轟く空に、二機の型式不明のMSを見た。
それはおそらくザフトの機体であるにも関わらず、海面すれすれを飛ぶ一機のグフを攻撃していた。
勝負はすぐについた。
大しけの海に、グフは沈んで行った……。
何故だかわからないが……、と、そこまで話してからキサカは言った。
何故かそうしなければならないような気がして、グフのパイロットの救出を試みたのだと。
ザフト内のいざこざであることは間違いなかった。
が、目の前で消えそうな命を放っておくことはできなかったのかもしれない……と。
そうして救出したのがアスランだった。
ぐちゃぐちゃに壊れ、潰れ、溶けて、すでに浸水したコックピットに、彼がいたのだという。
ひとりの少女を抱き抱えた彼が……。
「キラ……」
部屋にカガリが入って来た。
期待と不安が入り混じった目……、というのはまさにこのことだ。アスランが無事であることの期待と、目を覚まさないかもしれないという不安。
彼女は入り口のところで立ち止まった。
「カガリ、いいよ、座って」
席を譲る。
カガリははやる気持ちを抑え込むようにして、ゆっくりと歩み寄った。
「容態はどうなんだ?」
「まだ意識は戻らないけど、安定しているよ」
「そうか……」
強がっているが、まだ彼女の涙は枯れていなかった。
呼吸器に繋がれたままピクリとも動かないアスランを見て、カガリの目にはまた涙が溢れた。
「なんで……、こんな……」
膝の上で拳を握る。
先ほどと全く同じ光景だ。
「カガリ」
小刻みに震える肩に手を置く。
「ドクターは、もう命に別状はないって言ってたから、きっと大丈夫だよ」
キラもまた、先ほどと同じ言葉を繰り返す。
黙ってうなずくカガリに。
「今はたっぷり休んでるだけなんだ。もう少し眠ったら、きっと目を覚ますよ」
そう言って、部屋を出た。
ドアが閉まると同時に、嗚咽が聞こえた。
「アスラン……」
廊下の床に、呟きがこぼれ落ちた。
あんなに傷ついて、それでも……、きっと彼は“ここ”を目指したのだ。
そう確信している。
デュランダル議長の言葉を聞いて、ザフトの姿を目にして、世界の声を聞いて……、アスランはザフトを抜けた。
そして、“ここ”を目指して飛び立ったのだ。この、ナナの翼を目指して……。
それはとても嬉しかった。
彼の口からその意志は聞いていない。
が、きっとまた……、話すことができるのだ。
また……。
キラが顔を上げた時、隣の部屋のドアが開いた。
出て来たのは、真っ青な顔をしたミリアリアだった。
「ミリアリア、大丈夫?」
その部屋の中で意識不明のまま眠り続けるザフトの少女ではなく、キラはミリアリアを案じた。
そのくらい彼女の顔色は悪く、身体も震えているように見えたのだ。
「キ、キラ……」
呼吸もままならないような状態で、ミリアリアはキラを見た。
が、視線は重ならない。
その瞳を彷徨わせて、ミリアリアは「大丈夫」とつぶやいた。
「君も少し休んで。あのコには僕がついてるから」
彼女が動揺している理由はよくわかっていた。
「だ、大丈夫よ! あ、あのコも容態は安定してて……、ね、眠ってるだけだから……!」
最近の彼女にしては珍しく、慌ただしく言葉を並べ、答えにならない答えを返したまま立ち去って行った。
通路の曲がるまで彼女を見送って、キラはため息をついた。
彼女がこんなふうになる訳は、よくわかっているのだ。
が、どうしようもない。
自分だって、完ぺきに平静ではいられないのだ。あの少女の姿を見て……。
キラは少し躊躇ったが、その扉を開けた。
アスランと同じように、点滴や呼吸器の管に繋がれて眠る少女。
彼女は目立った傷を負っていなかった。
きっとアスランが命がけで護ったのだろう。その点で、アスランよりもかなり軽症といえた。
が、彼女の意識は回復しなかった。
一度も目を覚ますことはなく、死んだように眠り続けたままだった。
だが、彼女が目を開き、声を発することを、この艦の者たちは恐れていた。彼女と視線を合わせ、言葉を交わすことを。
キラ自身も、少しだけ……。
彼女はあまりにも、ナナに似すぎていた。顔の輪郭も、鼻の高さも、まつ毛の長さも、唇の形も、肌の色も。共に戦い、傷つけ合い、心から信頼し合った「ナナ」という人に。
もういない、ナナという人に……。
彼女はよく似ていた。
髪の色は違う。彼女はザフトの兵士だ。ナナはもういない。
その三つを知っていても、「ナナ」と呼んでしまうほどに。
キサカも、アスランの容態を告げる時よりもずっと、この少女の存在を知らせる時のほうが険しい顔をしていた。
アスランに続いて、二台目のストレッチャーに乗せられた彼女の顔を見た時は、アークエンジェルのクルーたちも言葉を失った。
誰かが呼んだ。
いや、叫んだ。
「ナナ……!」と。
キラ自身も、息を呑んだ。肺が苦しくなるほどたっぷりと。
が、幻影はすぐに消えた。
『そいつはナナじゃない……!』
アスランのストレッチャーにしがみつきながら、カガリが言ったのだ。
嗚咽の中でも、きっぱりと。
『そいつは……、ナナに似ているが、まったくの別人なんだ……!』
カガリは彼女に会ったことがあった。あの、ミネルバという艦で。
最初に出会った時は、彼女も“錯覚”したという。
だが、カガリは事実を受け入れていたのだ。
彼女は「セア」という名のザフト兵で、レジーナというMSのパイロットであると。産まれも育ちもプラントで、代々が軍人の家系であると。
そしてなによりも……、ナナとは似ても似つかぬほど、おどおどとして、ものをはっきりと言わないような性格だと……。
誰よりもナナの側にいたカガリがそう否定したことで、キラは幻想をすぐに打ち砕くことができた。
だが少しだけ、認めることに労力を要した。
このコがナナだったら……と、理不尽で不安定な期待は少なからずあったからだ。
それを……、この「セア」というナナのようでナナでない少女と過ごしたはずのアスランはどう思っただろう。
そう考えると、苦しかった。
いったい、何を思って彼女をザフトから連れ出したのか。
愚かな憐みを打ち消して、キラは目を細めてセアという少女の寝顔を眺めた。
やはり、髪の色をすり替えれば、どこをどう見てもナナだった。
が、彼女はナナではないのだ。
彼女の性格は、カガリに聞く限り、ナナとはまるで正反対だ。
残念……、ではない。
己の感情を確かめる。
ただ、アスランが共にザフトから脱し、守りたいと思った少女が、たまたまナナに似ていただけだ。
息を吸って、吐く。かすかな薬品の匂いが、身体を通り抜けた。
自分は大丈夫だ。そう思えた。
が……、ミリアリアは……。マリューも、アーノルドも、他のクルーたちは、まだ激しく動揺しているのだ。
ムウのこともある。
彼を見て、キラ自身も少なからず動揺した。彼は死んだと思っていたから、当然だった。
が、“感覚”は確かだった。
連合の制服を着て、敵対し、知らぬ名を名乗り、過去の記憶を語らずとも……、彼はムウ・ラ・フラガで間違いなかった。
そして、DNAという確かな情報が、真実を示したのだ。
その「真実」を得て……、湧き出す感情は複雑なものだった。
マリューの心境を思うと、言葉は見つからない。今もまだ、「ムウじゃないムウ」との距離感を測れずにいる。
そんな状況で、今度は「ナナに似たナナじゃない少女」と対面することになったのだ。
このセアという少女が目覚めて、彼らの幻想を打ち砕かない限り、あのミリアリアの真っ青な顔が明るさを取り戻すことはないのだろう。
もちろん、その“宣告”を受けたとしても、しばらく不安定な波は収まらないのだろうが……。
が、彼女のことで一番辛い思いをしているのは、アスランとカガリだ。
そして二人はすでに、現実を受け入れている。
二人の前では、自分らも受け入れなければいけないのだ。ムウに対する感情とは正反対のことを。できるだけ早く。
セアという少女のためにも。
無性に、ラクスに会いたくなった。
彼女が、こんな自分たちを“許して”くれることを、願うばかりだった。