かすかにシャワーの音が聞こえてから、ようやくアスランは安堵した。
椅子に腰かけ、タブレットを眺めながら、敢えてその操作をしないでおく。
ナナに頼まれたことをすぐに片づけてしまったら、ここに居座る理由が無くなってしまう気がした。
そうしたらナナはまた、この椅子に座るのだろう。
ベッドで休むのでなく。
アスランはふと、内ポケットからある物を取り出した。
体温でぬくもりを持ったそれは、金の指輪だった。
自分の物ではない。
いや、もうすでに自分の物になってしまったのか……。
これは、父がつけていたものだった。
少し傷がついているが、まだ威厳のある光を放っている。
多忙な父とは、幼少の頃からあまり父と子らしい触れ合いの時間がなかった。
が、これを見れば、かろうじて父のことを思い出せた。
しかし、これはその父から託されたのではなかった。
最後……、父の死に目に会えたのはほんの偶然で……、アスランからは何の言葉も送ることができなかった。
父はただ、無念の思いをアスランに押し付けて息を引き取った。
最後まで父親らしい言葉をくれはしなかった。
だからこれは、父がくれたものではなかった。
ナナが最初の会合から帰った時だった。
再び艦内でオーブの者たちと会議を開かねばならぬという時に、ナナは自分を呼んだ。
引っ張り込まれるような形でこの部屋に入って、ナナは迷った様子でこれを差し出した。
「あの……アスラン……これ」
「これは……」
これが何なのか、すぐにはわからなかった。
たとえ自分の父親がしていた指輪だとしても、あまり記憶に残ってはいなかったのだ。
ナナは口ごもりながら言った。
「あなたの、お父さんの……」
告げられて、正直アスランは戸惑った。
最後の父の記憶は、あまり美しく清々しいものではなかった。
遠い過去ではないはずなのに、どこかおぼろげでもあった。
だから、反応に困って突っ立っていると。
「ごめんね、勝手にもらってきちゃった」
ナナは意を決した様にアスランの手をとり、指輪を渡した。
「あなたに……必要かと思って」
アスランは、手のひらに置かれた指輪を見下ろした。
戦禍をいたずらに大きくした父。
ナナたちナチュラルを全て滅ぼそうとした父。
今はまだ……父の考え、生き方を受け入れることができないでいる。
自分自身、改めてそれに気づかされていた。
が、ナナはその父の形見をわざわざ自分にくれた。
父は……ナナの“敵”であったはずなのに。
「ナナ……」
ナナの心境を想った。
あの時、状況は緊迫していた。
ナナは慣れない銃を手にザフトの中核に乗り込んで、いきなり“敵”の司令官の死を目にした。
ハチの巣を突いたような大混乱の中、聞こえて来たのはヤキンの自爆とジェネシスの作動。
カウントダウンすらすでに始まっていた。
そんな、とても平静でなどいられない状況の中、ナナはわざわざこれを父の指から抜き取っていたのだ。
自分のために……?
ナナはすぐに行動を開始したはずだった。
インカムを付け、パネルを操作し、全周波チャンネルを開くと、周囲の宙域にいる全員に状況を告げた。
涙をこらえながらも、しっかりとした声で、彼らに生き延びてほしいとうったえていた。
あのわずかな隙間にも、自分のことを考えてくれていたのか。
「ありがとう……ナナ」
ようやく、言葉が出た。
あまりしっかりした声にはならなかった。
心からの感謝と敬意、そして少しの戸惑いは、胸を熱くしていた。
「ごめん、余計な事だとは思ったけど……」
申し訳なさそうにうつむくナナが、とても美しく見えた。
「そんなことはない。感謝している」
今度ははっきりと、想いを伝えることができた。
ナナはゆっくりと視線を合わせた。
が、表情はまだ崩さない。
「アスラン」
ナナは言った。
「今はまだ、お父さんのこと許せないかもしれないけど……、でもいつかは許せる時が来るかもしれない。だから……、それは大切に持っていて」
その言葉の暗示にかけられたように、アスランは指輪を握りしめた。
冷たいはずの金属にはまだ少し、ナナのぬくもりが残っている。
「世界のみんながザラ議長を許さなくても……、あなただけが理解できる日がきっと来る。私はそんな気がするし、そうなって欲しいと思う。だって、自分の父親だもんね」
プラントや地球軍に向けて放つ言葉とは別の、柔らかい言葉がナナの唇から零れた。
まるでそれに見とれるように、アスランは黙っていた。
「偉そうなこと言ってごめんね……。でも……私も、“同じ”だから……」
「ナナ……」
「私も、今は父のしたことを肯定することはできなくても、いつかは……父なりに頑張ったんだなって、許せる日が来るといいな……って、思ってるから」
「ナナ」
「その時に、なんていうか……親子の“証”……が、残ってたらいいかなって思って……」
「ナナ、ありがとう」
ナナの想いを丸ごと受け取って、アスランはナナを抱きしめた。
「アスラン……」
「本当に……」
声が詰まった。
「本当に……君には感謝している」
父の形見をくれたことじゃなく……。
「そんなにまで、オレのことを考えてくれて……ありがとう」
腕の中で、ナナが照れたように小さく笑った。
アスランはナナを抱く腕に力を込めた。
指輪を持つ手も、強く握った。
「よかった……」
ナナは安心したように、背に腕をまわした。
とても自然に、二人の身体が寄り添った。
「ナナ……」
もう、言葉が思いつかなかった。
ナナはただ、笑ってくれた。
ナナが……自分には無くてはならない存在だと、そう実感した瞬間だった。
「あー気持ち良かった」
バスルームの扉が開いて、ナナが現れた。
ブローしたての髪は、少し変なクセがついている。
「みんなには悪いけど、節水令出してるのに、熱めのお湯をたっぷり浴びちゃった」
ナナはリラックスした様子で、血色が良くなった頬を緩ませた。
「そのくらい許されるだろう」
アスランは立ち上がらなかった。
椅子を開けてしまえば、そこにナナが座ってしまう。
今さらそれは避けねばならない。
「まとまりそう?」
案の定、ナナはデスクに置かれたタブレットの方を気にしている。
「ああ、大丈夫だ。任せてくれ」
ナナは曖昧に笑って、ドリンクを飲みほした。
「少し横になれ、ナナ」
「うん」
そしてとうとう、素直にうなずいた。
アスランはほっとした。
彼女の視線は、相変わらずタブレットやデスクのモニターを彷徨っていたが、それでもベッドに腰かけた。
「ねぇ、アスラン……」
「会議に間に合うようにちゃんと起こす」
彼女の心配事を一つでも潰すように、アスランは言った。
と、ナナははにかんだように首を振った。
「ちがうの……」
「他に何を心配してるんだ?」
ため息交じりに問うと、ナナは横たわって頭から毛布をかぶった。
「ナナ……?」
アスランはもぞもぞと動く毛布の塊を注視しながら、ナナの言葉を辛抱強く待った。
するとナナは、観念した様に隙間から顔を出し、くぐもった声でこう言った。
「もう少し……居てくれる……?」
さっき、己の“怖さ”を告げた時と、同じ顔だった。
そこに自身の存在意義を見いだせた喜びを隠して、アスランはうなずいた。
「眠れそうか?」
「うん……たぶん……」
ナナは安堵した様に、そして本当に疲れたようにため息をついて目を閉じた。
部屋の照明を少し落とし、インターホンの呼び出し音もサイレントに切り替えた。
ここでアスランは、ナナの眠りの番人になるつもりだった。
彼女が安心するように、敢えてタブレットを触る音だけはたてていた。
ほどなくして寝息が聞こえた。
自分を信じて安心してくれたのか、それともどうにもならないほど疲れ切っていたのか……。
どちらにせよ、ナナの回復時間を設けられたのは事実。
アスランは心から安堵して、椅子に深く腰掛け直した。
物資の分配予定表は、各艦の担当分けや配置図も追加して、ドックの管理部に送った。
ナナに頼まれたことは終えた。
これからは、キラたちに頼まれた、自分にしかできないことをする。
アスランはそっと、襟元から首飾りを取り出した。
薄闇の中、ナナにもらった護り石が、やさしく光っていた。