何処かにある、ただの喫茶店のお話。

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エチオピア

 

 鈍いドアベルの音に、カウンターに立つ老齢の男性が目を向けた。

 歳の頃は六十から七十程度。

 シャツの上から黒いベストを着た——いわゆるカフェコートを見に纏い眼鏡をかけながらも、伸ばされた背筋はある程度若い印象を見る人に与えた。

 

「いらっしゃませ」

 

 低くも柔らかい声色だった。

 そんな彼の声に誘導されたのか、入店した女性は彼の近くのカウンター席に腰を下ろす。

 

「こんにちは、マスター。不躾な質問で失礼なのだが、ここに喫茶店などあっただろうか。ここの近辺はある程度知っているつもりだったがとんと目にした覚えがなくてね」

「ええ、こちらでずっとやらせて頂いていますよ。こちら、メニューになります」

「ああ、これは失礼した。ではコーヒーを」

「かしこまりました」

 

 マスターが豆を挽く音とレコードが鳴らす静かなクラシックだけがしばしの間店内を満たす。

 店にはマスターと彼女の他に客はおらず、車の音すら入ってこないその空間は一つの切り立った空間のようにも思えた。

 

「お嬢さんは」

「お嬢さんはやめてほしいな。もうそんな歳じゃないんだ」

「ははは、私から見ればまだまだお嬢さんですよ」

「そう言われると敵わないな」

 

 静かな空間に今度は会話の声が混じった。

 照れるように尾を揺らす彼女に、マスターは背中越しに笑いかけると声のトーンを落ち着かせて改めて話を始める。

 ぽたり、ぽたりとコーヒーの雫が落ちるが妙に響く。

 

「お客様は、ずいぶんと疲れているように見えますね。なにか立て込んでいることでもおありで? 良ければお話を聞きますよ」

「……疲れているように見えるかな」

「ええ。お若いうちから無理すると、歳をとってから帳尻を合わせるようにガタがきますよ」

「それは、年長者からの垂訓かな」

「さて。どうぞ、珈琲です」

 

 いつの間にか淹れ終わっていたコーヒーを受け取った彼女は視線を落とす。

 真っ黒なコーヒーが彼女を薄らと映し出していた。

 

「……どうにも最近、仕事が忙しくてね。重要なものばかりで手を抜くわけにもいかないんだが、疲労が蓄積していたのかもしれない」

「まだお若いのにそんな仕事を」

「私から望んだ仕事さ。とはいえ、そうだな。少し休息を取りたかったのかもしれない。だから彷徨の末にここに迷い込んだのかも」

「なるほど。でしたら今だけ仕事を忘れるのが吉かと」

「無責任なことのように思えるな」

 

 おやおや、とマスターは目尻を下げ、彼女を見つめた。

 その瞳を見た彼女は——コーヒーの香りも相まってか——ほう、と息を吐き、その時初めて自身が知らずのうちに息を詰めていたことに気づいた。

 

 マスターはコップを手に取っている。

 クロスでキュッキュと音を鳴らしながら目を伏せ、滔々と話すマスターに、女性はなんとなく引き込まれる感覚を覚えていた。

 

「貴女はおそらく、誰からも敬われ尊ばれるような方なのでしょうね」

「ああそうだな、有難いことに」

「謙遜はしないのですね」

「それは私を欽仰してくれる者たちを汚辱するに等しい行いだろう」

「ふむ、なるほど。なれぱ貴女は、それを理由に絶えず張り詰めているように思われる」

 

 彼女の尾と耳がピンと立った。

 彼女はそれに気づいていないのか、じっとマスターの瞳を見ている。

 続きを促すように。

 

「貴女は名君で、名主で、或いは絶対的な存在なのでしょう。長い間そうであった貴女はその在り方が自然体になっていった。貴女は皇帝であることが常になっている」

「違いない」

「ですが、貴女もまだお嬢さんですから」

 

 それは、女性にはどうにも言葉足らずであるように思われた。

 しかし、あえてマスターはそのような言い回しを用いたようにも感じた。

 

「これは、年長者からの垂訓ですが」

「それは、意趣返しで言っているのかな」

 

 マスターは微笑むだけ。

 

「張り詰めた弦というのは存外切れやすいものです。しかして弛んでもいられないときは必ずある。その余暇に弛むのが長持ちするコツというものです。例えばそう、珈琲を飲むときのような」

「その間は仕事を忘れろと」

「いいえ、なにもかにもを。そのための珈琲ですから」

「……無責任なことのように思えるな」

「ええ、なにせ私は貴女と初対面ですので」

 

 マスターの瞳はどこまでも安らかで、捉え所がなく、店内はとても静かで。

 

「——失礼。所用を思い出してね、急いで帰らなくてはならなくなった」

「そうですか。珈琲はどうされますか」

「帰ってから淹れてもらうことにするよ。どうやら繁忙にかまけて簡単なことを忘れていたらしい。有難う、とても有意義な時間だった」

「それは僥倖です。どうでしょう、今夜は珈琲を飲んで眠るというのは」

「そうするとしよう。ご馳走様」

 

 女性はそれだけを言うと席を立ち、外に出ていった。

 ドアベルの音に、マスターは目を向ける。

 

「ありがとうございました。またいつかのご来店をお待ちしております」

 

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 ————

 

 ベッドの上でシンボリルドルフは目を開いた。

 少し乱れた髪を手櫛で撫でつけながら彼女は上体を起こす。

 椅子に座って書類に目を通す彼女の腹心がその様子に気づくと、慮った様子で声をかけてきた。

 

「会長、お目覚めですか」

「ん……ああ、眠ってしまっていたか。仮眠のつもりだったのだがな。すまない」

「いえ、最近お疲れのようでしたのでちょうど良い機会だったかと」

「そんなことは……ああいや、そうだな。いい夢も見れたことだし」

「いい夢、ですか」

「ああ、たしか……うん?」

「どうかしましたか」

 

 シンボリルドルフはさっきまで見ていた夢を思い出そうとして、その内容が頭からスッポリと抜け落ちていることに気づいた。

 なにかとても居心地のよい、気が楽になるようになるような夢だったような気がするのに、なにを見ていたかがわからない。

 

 ただ、不思議とそれが不快だとは思わなかった。

 いつかまたあの夢を見るだろうという考えを漠然と抱くと、その夢の話を記憶の隅に追いやって微笑んだ。

 

「狡兎良狗。どうにも私に都合のいい夢だったような気がするんだが、ついど忘れしてしまったようだ」

「それは……残念なことですね」

「ああいや、いいさ。所詮夢の話ではあるんだ。それよりコーヒーを淹れてくれないかな。少し飲みたくなってしまった。できれば、目が覚めるような苦いものを」

「わかりました、直ぐに」

 

 そそくさと部屋を出て行く腹心を見送り、シンボリルドルフはベッドから降りた。

 いやに調子がいい。

 ここ最近、知らず知らずのうちにぼんやりとしてしまっていたのが嘘のように冴え渡っていた。

 

「さて……このあとは理事長に用があるんだったか。コーヒーを飲んだら向かうとしよう。コーヒーを飲んで叩扉(こうひ)しなくては……ふふふ」

 

 腹心が持ってきてくれたのであろう珈琲の匂いが、部屋に漂っていた。

 

 ——『夜ふかし気味』が治った

 

 

 


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