作:『?』
彼は神妙な面持ちを崩すことなく、何気無いように呟いた。
内心ではそんな事できる訳がないと思いながらも、僕は半ば強引に自分を納得させようとする。
……けれども結局のところ、そのような試みは意味を成さなかった。なぜならそれは無茶である。
部屋の中に得体の知れない人影が見えれば、誰であろうと恐怖と不快に慄くだろう。たとえ「無害だから気にしなければ居ないのと同じ」と言われても、感情を抑えることはできないものだ。
彼の目を逸らしたくなるような醜い瞳の色を見つめながら、僕はもう一度「僕はどうすれば良いのですか?」と問いかける。
「気にしないことが肝要なのです」
彼は口をパクパクと動かしていたけれど、実際に音を発していたのは僕であった。
無価値な繰り返し。トートロジーは僕の中にこそ存在する。
あぁ、なんて酷い世界なんだろう。
僕は笑った。彼も笑った。
全く楽しくはなかったけれど、それでも目が合う限りずっと笑い続けていた。
溝渠を通りすがると、水が殺到する音が聞こえた。道端から見下ろせば、打ち捨てられた数多ものゴミたちが、焦茶色に濁って玉虫色の脂が浮いた雨水…あるいは排水に搔き混ぜられて苦悩している姿が見える。
その特筆すべき程でもないが、それでもどこか空恐ろしい光景の中。露骨にも存在を主張するのは、腐った汚泥と仮設トイレの臭いが混じり合ったような独特の不快臭であった。
……今日は雨の日であった。
とつとつ、ざあざあと連続するそれは潮騒にも似て、しかしそれよりずっと軽薄に思えるもの。
それとは別に断続するグチャグチャという音は、どうやら僕の足音であるらしい。
きっと相当な大雨なのだ。
一歩を踏みしめるたびに、ぬるまな足湯を掻き分けるような嫌な感触を覚え、靴下どころか足の皮までふやけるほどに濡れていた。もはや傘では腰より下を守り切ることはできないらしい。
水気は徐々に上の方へと浸食してきている。
ここはたった半日程で変わり果て、元の姿から遙か遠く…
あるいはそう。ひょっとすれば地形が似てるだけの、別の世界なのかもしれない。
無論そんな訳はないのに、妄想ばかりが先走ってしまう。非常と呼んで相違ないほどの景色の変化は非日常的で、聞き慣れない類いの音が溢れる世界は実に異界的だ。
それは期待にも似て、恐怖の色も含み、得も言われない情緒を想起させた。
もっともそれが不快ではないと断言することは出来ないだろう。嘘になってしまうだろうから。
……しかしこれはこれで良いものだ、とも思ってしまうのだ。
傘の防壁を横から潜り抜け、あるいは地面に跳ねて縋りつく様など、まるで売女のように厭らしくて見ていられないじゃあないか。
少しならば美しいと言えたのに、欲を搔いて風情の欠片もないほどに襲い掛かる姿は、筆舌に尽くしがたいほど愚かしいじゃあないか。
それでも強烈に存在を主張して、意識の外に追いやるを許さない振舞いは美しい。
まるで飲み込まれてしまうような狂気。
どこまでも膨れ上がり、溢れ出し、鮮烈に叩きつける熱病。
完全に振り切れた様相は、中途半端な儚さより一層素敵だった。卑劣で愚かな僕の全てを押し流してくれるようで、静かな世界よりも落ち着くことができるのだ。
「おかしな人。…でもそんなところも素敵だわ!」
天上から響くのは、甘ったるい香水の匂いを想像させる熱っぽい声。
誰にも言っているのだろう、酷く陳腐で詰まらないセリフ。
なんて凡庸。凡庸で手垢に塗れていて、それなのに趣深い響きがある訳でもない…本物の糞のような、酷い言い回し。
……しかし僕にはお似合いだろう。
今まで空と自分を隔てていたビニール製の薄い天井を取り払った。
直後から顔面に当たるようになった水滴の感覚は、一種の興奮さえ抱かせるのだ。顔も髪も、そして比較的濡れていなかった上着も。ほとんど“湿気を帯びる”と表現する間も無くずぶ濡れになってゆく。濡れれば濡れるほど衣装は重量を増した。
空への思いが強まるにつれて、地面へと向かう尋常な力は加速するのだ。
まるで空に恋する僕を地に留めんとするように、あるいは空が僕の求愛を拒否するかのように。
そして着衣のままにシャワーを浴びたような姿へと成り果てた僕は、両手を広げて全身で彼女を受け止めて。
……そして、見上げる。
視界の先…一面には漠然と、不気味な鼠色が広がっているばかりであった。
女の姿など、何処にもない。それが当然のことかのように、ずっとどこまでも開けているばかりだ。
遠く聞こえたような気がした声は、今はどれほど耳を澄ませど聞こえない。
捨てられた?…いや、いなかったのだ。最初から。
不意に笑う声がした。それは僕の声だった。…完全に意図したことでは無かったけれど、きっと止める必要はないだろう。
抑揚がない虚しい声が響き渡る感覚は心地良いものである。
まるで壊れた人形にでもなったみたいだ。
「いや、違う」
“まるで”ではないだろう?
僕は壊れた人形そのものなのだ。だからこそ首を噛みちぎることを強いられている。
瞬間…響いたのは水気を帯びた物体を、無理に引き裂くような音だった。
次いで己の口内から、気味の悪い咀嚼音が繰り返される。
不思議と苦痛を感じることはなかった。
気道を駆ける空気が正常な道を外れ、広大な世界に解き放たれる感覚がしている。
まるで不器用者が口笛を鳴らすような音に、微かに泡立つ音が混じって…それが幾度と無く繰り返されるのだ。
音は最初こそ一定の調子を保っていたようであったが、ややもすれば時折不規則に乱れるようになり、乱れの頻度は加速度的に増加してゆく。また同時に大まかなリズムさえ、徐々に失速して崩れてゆくのだ。
メトロノームとしては些か使い物にはならないだろう。
鮮やかな…意外にも綺麗だった赤色が、雨水に混じって滲む。
僕は笑った。…もう声が出ることはなかった。