作:『?』
笑い蝉
コンクリー*1トは鼠色の肌で陽射しをいっぱいに受け取っていて、見ているだけで茹だるような暑苦しさを覚えるほどであった。
その直上を漂う空気は日射病でも起こしたのか、酷く不安定で*2覚束無い揺らめきを見せている。
付けっぱなしにされているノイズ混じりのラジオ*3からは、例年通り「例年を超える熱波を〜」などと男性の声が…実際は初めて聞く声なんだろうけど何故か聴き*4慣れたように感じる調子で語っているようだ。
「あぁ、これこそが夏なのか」
シャツ一枚に短パンで駆けていく子供*5を目で追った。
その後ろに見えるジャングルジムの向こう側で凛々と立ち登る入*6道雲は懐かしく、水色の空は行方不明な未来への*7期待を脳裏に過らせる。
そうして呆然と漏らした自分自身の感嘆の声は、幾何学鍵が*8そうあれかしと作られた穴に嵌るような、まるで得も言われない収まりの良さと共に胸に落ちていくのだ。
夏の実*9感なんてものを今更になって覚えた理由は分からないけれど、それはまるで長い夢から目覚めた*10みたいな奇妙な喪失感を伴った。
上ば見
先月に亡くなったということらしい祖母…
かつて父は祖母のことをトヨと言っていた気がするのだが、今となってはトヨ婆の名前が本当に『トヨ』であったのかも分からない。
トヨ婆のことを思い出そうとすると、記憶に靄がかかって分からなくなってしまうのだ。
実の息子である父でさえ、先日「母さんことが思い出せないんだが」と相談してきたことを覚えている。
こうして名前を出している私でさえ、思い出したから知っているという訳ではないのだ。
ひとえにそれは、私が物心つく前に書いていた日記の恩恵でしかない。
それも怖い蛇がトヨ婆を食べるなどと凡そ戯言のようなこと。あるいは妄想ばかりが書かれていて、到底確かな情報なんて言えないから『たぶんトヨ婆はトヨ婆だった』などと、漠然としたことしか言うことができなかった。
ただし私はトヨ婆という呼称がしっくりくるため、実際どうだったかはともかくとして、私の中ではトヨ婆であったと確信している。
私の話を聞いた人も、在るべきものが在るべきところに戻ったみたいな顔をして納得していたため、きっと皆もトヨ婆であったと思っているだろう。
……で。
誰かも分からないが確かに居て、死体も痕跡もないのに存在の証明はできて、彼女を知っていたはずと言う人は皆が口を揃えて優しかったと言う。
そんなトヨ婆について、親族一同が集まって会議をしたのが今夜の出来事であった。もっとも我らが一族は雁首揃えて楽天家であるため、会議の後半は宴会の様相を呈していたのだが。
ただし結論に関しては、速いうちに出ていた。
父さんの母親は存在しない…ということらしい。
有休を取った父が調べたところでは、父にとって母の字の付くような存在がいた記録はどこにもなかったのだ。
父は「まるで木の股から出てきたような状況だったから、公務員さんも困っていたよ」と笑っていた。ちなみに悲しくはないらしい。
……まぁ、祖父が亡くなったときも「きっとアイツも楽しく生きたろう」と笑っていたし、今回の場合も同じような心情なのだと思う。
そんな風に考えながら空を見上げていると、ふと、声を掛けられた。
「ごきげんよう」
「こんに……―――
今日日聞かない挨拶だと思いながら、顔の向きを正面に戻して…それで思わず息を呑む。
女袴と華やかな着物に身を包んだ(きっとこういう服装を大正浪漫というのだろう)、ぼんやりと考えに耽るような夢見心地も一瞬止まってはっとするような、そんな奇妙な雰囲気を纏った女性がいたのだ。
確かに奇麗だけどそれだけじゃなくて、あえて表現するならば神様みたいな独特な何かを持った人であった。
「ふふ、そんなに驚かないで」
そうやって硬直した私を見て何を思ったのか、彼女は口を手で隠しながら可憐に笑う。
華奢な肩が楽しげに揺れて裾や袖が翻ると、照れくさくなってまるで顔が熱を持つような感覚がしたけれど、不思議と不愉快には思えなかった。
むしろ嬉しいとも言えるような…よく分からない感じがする。
「ご、ごめんなさい」
何が何だか分からないまま謝ると、彼女は少し驚いたように大きくまばたきをしてから、微笑ましそうに「いいのよ」と言った。
ぎこちない居た堪れなさの中で言葉を詰まらせていると、次の言葉は彼女から発せられる。
「ねぇ、あなたも夢の中にいらっしゃるの?」
「ゆ、め…?」
「…あら?もしかして違うのかしら」
その言葉を聞いて思い出す。私がこの場所に来る前までやっていたことを。
たしか自分の部屋でトヨ婆について書かれた日記を読んでいたのだ。
それで気が付いたらここに…
「たぶん、私…寝ちゃってるのかもしれない」
そうでもなければこんな地平線が見えるような広い平原に居る理由が分からないし、上空で一方向に進んでいるらしい白い鱗のようなものも説明がつかないだろう。
私の言葉を最後まで聞いた彼女は目を伏せて寂しげに、少しだけ口角を上げて呟いた。
「思った通りね。きっとあなた、次の私なんだわ」
風が吹く。
ただ平が広がる場所の宙を細やかな草が舞って、静かで満たされた空間を風の切る音が走っていった。彼女の小さな声が染み渡って、儚い言葉と風切り音だけが世界の全てのよう。
「ねぇ、思い出せる?」
王の居ない荘園に地鳴りが響き渡った。
世界が揺れる。空に蠢く輝く鱗のうねりを伴って。
「私は思い出せないの。ずっと仲良くしていた友達…私の前の子の名前」
漸近的に強まる揺れにとうとう耐えられず腰を突いてしまう。
それでも辛うじて顔を彼女に向けると、なぜか彼女はしゃんと立たまま狼狽える様子もないようだ。
……しかし揺れなんて問題にならないほどの脅威が奥に見えた。
およそ理解の範疇に留まらない巨大な蛇の頭。
ずっと遠くにいるはずなのに近くに見える、恐ろしく開かれた口腔が見えるのだ。
「私の名前は妙子…あなたはまだ、思い出せる?」
あぁ、そうだ。…思い出した。