鏡には映らない   作:もるぺこ

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鏡には映らない

6月某日 某時刻

 

 お父さんとお母さんの言い合う声が聞こえる。

 聞こえてくる話の内容はだんだん深刻に、語気は激しくなっていくようだ。

 もういい時間だ。これ以上ヒートアップするようなら、1階に降りて止めにはいった方がいいだろう。

 

 廊下に出ると、向かいの部屋の扉にかかるネームプレートが僅かに揺れているのが目にはいった。

 

 几帳面な字で「雅也」と書かれている。

 父さんと母さんの声はこの人に届いているのだろうか。

 部屋からはかすかな物音さえもしない。

 よく見れば扉の隙間から照明はもれていない。寝ているのだろう。

 私は階段を一段降りた。

 

 

 

同日 同時刻

 Side ???

 

 額の中から、絵を取り出す。こうして持ってみると、想像以上に重い。

 指に力をこめる。

 絵が破られる音が、ホール中に響いた。

 

 コンクリートの冷たい床には、自分のスマホがカメラモードになったまま落ちていた。

 光源にするため、画面の明るさを最大にまであげたスマホから出た、ブルーライトのせいだろうか。

 目がひどく痛かった。

 心は、痛まなかった。

 

 

  〇

 

「あれ、八虎くんじゃん。久しぶりだね」

 

 そう言われて振り返り、反射的に言葉が出る。

 

「ミノさん!」

 

 ミノさんはひらひらと手を振る。

 新井ミノさん。

 俺が夏休みに入る前、スポーツバーに入り浸っていたのと同じころにバーに足を運ぶようになった人で、些細なきっかけから互いが藝大の、しかも同じ学科の先輩後輩だと知ってからは仲良くさせてもらっている。

 

 いつもスポーツバーに流れているポールマッカートニーの曲が、ふいに頭に流れ出した。

 ミノさんにバーの外で会うのは、今日が初めてだ。

 

「ん。えらいね、神輿」

 

 ミノさんはそう言って完成図が見えない神輿を見上げる。

 自分か関わっている神輿の作業があまり進んでいないことを、この人にはあまり知られたくなくて、話を続ける。

 

「ミノさんは、どうして大学に? 文化祭の準備っすか?」

 

「いや……ちょっと、呼び出されちゃってね」

 

 はは、という苦笑いの声がやけに鮮明に聞こえた気がして、さりげなく辺りを見回す。

 予想通り、神輿の制作に取り掛かっているはずの班員たちと目があう。

 視界に入らなくても、俺たちの会話に聞き耳を立ててるヤツもたくさんいるんだろう。

 不自然なぐらい、静かだ。

 

「わざわざ校内まで来させられて大変じゃないですか。あの、また今夜にでも話聞かせてください」

 

「え、いいの? 愚痴っちゃうかもよ」

 

「んなこと言って、ミノさん毎回あんまネガったこと言わないでしょ」

 

「いや、そんなことない、ほんとに。

八虎くんっていい後輩だよね~。じゃあ、またあとで」

 

 

 ミノさんが一般練に向かって歩いていく。

 その姿が完全に見えなくなったころ、ようやく神輿班の作業の音が聞こえ始めた。

 同時に、好奇心をのぞかせた同級生が集まってくる。

 

「さっきの人って、新井ミノさんだよね? 都美術館のコンクールで館長賞取った」

 

「……あ~そうらしいね」

 

「ヤバ。いや、そりゃ在校生なんだからいるのは分かってたけど実在したんだって感じ。

 俺、あの絵好きだったな。記念会館のホールに飾られてた、賞とった絵」

 

 わかる。

 俺も好きだった。

 だからこそ、この話題の次に来るだろうなって思う「絵の“後日談”」も「ミノさんの“噂”」も本当は、聞きたくなかった。

 こんな時きねみさんが居てくれたら。心の中でため息をつく。

 無駄話してるグループを自然と解散させてくれたんだけどな、なんて都合良すぎか。

 

「でも、あの絵、破られちゃったんだよね」

 

「ヤバイよな、やったやつ。誰なんだよ」

 

「え、でも俺は先輩から新井さんが自分で破ったって聞いたけどな」

 

「まさか。なんでそんなことするんだよ。あれは酒に酔った先輩の冗談だろ」

 

 

 俺は作業に没頭してる振りをして、会話から外れる。

 

 その先輩が言ったのが本当に冗談なのかどうかは分からない。

 ただ、俺の経験上酒に酔っていたとしても、まったく思ってもないことを言ったことはない……気がする。

 

 大学は記念会館で起こった器物損害について、学内掲示板で報道機関に余計なことを話さないことを紙一枚で生徒に求めただけで、沈黙を守った。

 警察が校内にいたのを見たという人は多いが、俺たちが事件のことで知っているのはほとんど二つだけだ。

 ミノさんの絵が破られたこと。

 警察が来たということ。

 

 当事者であるミノさん本人も事件については堅く口を閉ざしていた。

 

 絵が破られてすぐはミノさんに対し、同情的な話がそこらかしこで聞こえてきた。

 けどそんな舌の根も乾かぬうちに、流れは変わった。ある噂が流れたのだ。

 正門の隣にある柱には監視カメラが設置されている。

 警察が確認したところ、犯人らしき人物はカメラに映っていた。

 そしてその人は、ミノさんそっくりだったというのだ。

 

 つまり、話はこうだ。

 

 ほかならぬミノさん本人が、夜中に大学に忍び込み、自分の絵を破ったのだと。

 

 この噂は、『大学側はもう一度“紛失”した絵と同じものを描くように本人に頼んだ。だけどなぜか断られてしまった』という新しい噂が流れたことで人気を博した。

 

 これだけ広がった話なら信じる人が出てもおかしくない。

 実際、スポーツバーでミノさんがトイレに立った時、俺に近づいてきて訳知り顔で忠告してきた男がいる。

 

「きみ、一年生? 

一年生からしたら三年生はみんな大人に見えるかもしれないけど、ああいう先輩には近づかないほうがいいよ。

絵も描かずに遊んでんだよ。ヨユーだから」

 

 その場は適当に相手したけどさすがの俺もむかついてきて、戻ってきたミノさんに逆に愚痴を聞いてもらってしまった。

 

「あぁ……。いや、同級生がいるとは思ってたんだけど。ごめんね。迷惑かけちゃった」

 

 大人げのあるミノさんの対応に、俺は浮かした腰を恥ずかしく思いながら下ろす。

 

「いや、俺はいいんすけど……。根拠なくミノさんのネガキャンされるのが許せないっていうか……」

 

「うんまぁ……しばらく描いてないのも事実だしなぁ……遊んでるって言われてもしかたないよ」

 

「ミノさんて妹とかいます?

なんかすげー優しい……優しすぎますけど」

 

「八虎くんは本当に口がうまいね。下のきょうだいはいないなぁ。

双子なんだよ。まぁ二卵性双生児だから、ほとんどきょうだいみたいな感じだけどね」

 

 俺はへぇーと相槌をうつ。

 

「ちなみに俺は……」

 と言おうとしたところ、間髪いれずに当てられた。

 

「一人っ子でしょ? 気遣いうまいから」

 

「普通逆じゃないすか? 一人っ子はわがまま……みたいな」

 

「いや、私の持論では一人っ子は気遣いやが多いよ。

きょうだいがいると、やっぱなんていうか、甘えが出てくるんだよね。

きょうだいに許すことと他の人に許すことの境目がわからなくなってくるというか……」

 

 その日、ミノさんは珍しく饒舌だった。

 口数はもともと少なくないけど、普段自分の考えを内緒にして話したがらない人だからレアだなと思ったことを覚えている。

 単に飲みすぎたのかもしれない。

 

 〇

 

 家に一度帰りシャワーを浴びてから、スポーツバーに顔を出した俺を出迎えたのは、苦笑いしてハンドサインを送ってくるミノさんだった。

 その指の先には、いつか見た訳知り顔の同級生がいる。

 店を変えようという意味だろう。

 俺は頷いてその足で玄関を出る。

 

 ミノさんの案内で来た個室のある店で、俺たちは意外な人とばったり出会った。

 鉢合わせ、と言った方がいいかもしれない。

 小さな身長のせいできらきらした瞳が自然と俺たちを上目遣いに見上げる。

 

「猫屋敷先生……!?」

 

「わお、矢口くんに新井さんか~。先生と生徒が使う店が同じなんて、格好つかないよ」

 

 そうは言うものの、たいして困ったように見えない猫屋敷先生は併設されているカウンター席に座っていた。

 床に対して足がふらふらとさまよっているのが少しアンバランスですらある。

 ミノさんはちらりと猫屋敷先生の左右の席を確認すると「お邪魔してしまいましたか?」と尋ねる。

 

「ううん。今日は完全にプライベートだから大丈夫くんだよん」

 

 みぎひだりどちらの席にも、荷物のようなものはない。

 ミノさんは返答にさして驚かなかったようだ。

 しかし、次の瞬間には店員さんに呼ばれて驚いていた。

 席のことで話があるということで先導され二階に上がっていく。

 俺はといえば「ここで待ってて」と言われて手持無沙汰なまま猫屋敷先生と話していた。

 

「まぁ、新井さんも元気そうでよかったよかった。

安心だよ。

3年生の教授や警察に呼びつけられて、気を張って疲れてるせいで、最近作品出してないのかな~って、アタシ心配してたから」

 少し……言い回しが気になるような。

 俺は2階に続く階段を見る。

 先輩が下りてくる気配はない。思い切って、先生に聞く。

 

「先生や警察は先輩を……疑ってるんですか?」

 

「はえ?」

 

 思いもしなかった、というような呆けた声が猫屋敷先生から出た。

 そして、一瞬……ほんの一瞬だけ、冷たく目を細めた。

 

「あぁ……。

心無い噂だよね。あんなの本人なワケないのに。

どれだけ曖昧にしても、見ればわかる」

 そう続けて首を傾げ

「矢口くんもそう思わない?」

 と聞かれて、会話の流れについていけずうまく返せなかった。

 俺の様子を見た猫屋敷先生は黙り、それから「あれ~」と計算違いを焦るように確認してきた。

「新井さんの家行ったことない?」

 

「いや、ないですけど……」

 

「あちゃー。付き合ってるのかと思って……つい。

ごめんね! 早とちりしちゃった。今の忘れて!」

 

 そう言われて忘れられるわけ、なくないですか。

 

 猫屋敷先生と別れ、個室に案内してもらった後も俺は上の空だった。

 ぼおっとしていただけじゃなく、同時にそわそわもしてたから、ミノさんはきっと不思議に思ったに違いない。

 

 でも急に態度が変わった同行者に対しても、ミノさんはいつも通りに振舞ってくれた。

 メニューを真剣に睨み、頭を悩ませ、迷ったあげくに結局どちらも注文し、それなのにあまり自分は口づけず俺にくれる。

 俺は絶え間なく咀嚼し続け、視線をさ迷わせた末に決心し、ごくりと呑み込んだ。

 

「今日はなんで、大学に?」

 

 そのことを愚痴るという話で集まったのに、ミノさんは今思い出したというように「あ~」と言って苦笑いした。

 けれど、一度話すと言ったことを撤回する人でもない。

 

「午前に呼び出されたのは……まぁ、一言でいえば、大学側のご厚意だよ」

 

「本当に……厚意のやつですか?」

 

「ほんとにご厚意だよ。

大学は私に……なんというか、乗り越えさせようとしてくれてるんだと思う」

 

 ミノさんがゆらゆらと梅酒を回す。カラン、とグラスの中で氷が鳴った。

 

「あの記念会館のホールに飾る絵を二度も描けるなんて、本来なら身に余る光栄なんだけどね」

 

 頭の中でミノさんの絵が飾られていた場所を思い出す。

 そこには、今も不自然なぐらいぽっかりとスペースが空いたままだ。

 あそこに飾られる絵は、あの絵以外考えられない。

 多分3年生の先生もそう思ったからこそ、先輩に同じ絵を描くように勧めたんだろう。

 

「……描かないんですか?」

 

「描けない」

 その言葉の強さに、ほんの少し、ヒヨりそうになる。

 でも、退いたら終わりだ。

 

「なんでですか? 

俺、あの絵を初めて見た時すっげぇ驚きました。

めちゃくちゃ強烈で、自然と足が止まって……それでじっくり見て……あんな優しい絵を見たことないって、思いました。

できれば、もう一回見たい……ミノさんに描く義務はないですけど、描いてほしいって思う」

 

「ありがとう。八虎くんは本当に優しい人だね」

 俺の崩れた言葉遣いを気にすることもなく、ミノさんは木造りの机の模様を見ていた。

 

 見ながら「う~ん」としばらく唸り、そしてはぁ、とため息をつく。

 その直後、画面が切り替わるように真剣な顔に変わった。

 

「知ってる? 正門に監視カメラがあること」

 

 心臓が強く脈を打つ音が聞こえた。

 

「はい」

 

「その監視カメラをね……見せてもらったんだよね、少し前のことなんだけど」

 

 おそらく、見せてもらったというよりかは見せられたのだろうと思う。

 警察か、大学か。犯人の姿に見覚えがないのか聞かれたのだ。

 

 イチョウの木に隠れるように設置されている、白いはずの機体が黒ずみはじめたカメラだ。

 こんなことが起こらなければ大学に通う間、そこにあることすら意識しなかったに違いない。

 それは、きっと目の前の人も同じだろう。

 

 そこに映っていたのは

「私じゃない」

 

 ふっ、とミノさんが笑った。自分をあざわらうかのような笑い方だった。

 

「私は破ってなんかいない」

 そして呟くように

「……破るわけがない」

 と続けた。

 

 ……どっちだったのだろう。破るわけがない。破る理由がない。

 そのどちらのつもりで、ミノさんは言ったんだろう。

 そんなとりとめもないことを考える。

 

「でも、しょうがなかった。あの時はああするしか……。

それに、もう二度とあの絵は描けないの。ほんとうに」

 

「それは……どうして?」

 俺の疑問に、ミノさんは何かを諦めたか時のような声音で答える。

 

「描く必要がなくなったから。そうなったらもう……描けないの。

伝わるかな? ううん、伝わるわけないね。大事なこと、何も言ってない」

 

 果たして、ほんとうにそうなのだろうか。

 ミノさんは分かるはずがないと言うが、俺にはひとつ考えがあった。

 自分でもまだ曖昧でつかみ切れていないけど、少し手を伸ばせば簡単に検証できそうなで、もしそれが合っていたなら、ミノさんがあえてぼかした部分も、自分の絵に対する考えも理解できそうなうまい企み。

 

「ミノさん、俺……あの絵が生まれた場所を見てみたいんですけど」

 

「描いた場所なら、自分ちの部屋だけど……」

 

 ミノさんは不思議そうに首を傾げる。その仕草に見覚えがあった。

見覚えなんてものじゃない、ついさっき会った猫屋敷先生もこんな風に首を傾げて言ったのだ。

 

「新井さんの家に行ったことない?」

 

 俺は自分の仮説に少し、自信をもった。

もしかしたら……屋敷先生の意味深なこの言葉はとりもなおさず、こういう意味だったのではないだろうか。

『新井の家に行ったことあるなら、分かるはずなのに』

 

 

 ◎

 

ミノ:明日お父さんもお母さんもいないから、あんまりかっちりした服装でこなくていいよ

 

 ラインの通知が来て、思わず顔がにやけた。初ラインだ。

 俺が部屋にいるとき、母さんも父さんも勝手にドアを開けたりしないとわかってる。

 だから人には見せられない顔のまま、ベットに転がり込む。

 既読をつけないように慎重にトークルームを覗く。

 ミノさんから集合場所のメッセージが続けてきた。と、いうことはミノさんはリアルタイムで俺とのトークルームを開いているということだ。

 既読を秒でつけて、余裕ないな、とか思われたくない。

 

 だけど、見えないところで小さくガッツポーズするくらいはいいだろう。

 

 てか、冷静に考えるとミノさんの実家にお邪魔することになってて、しかも今日はお父さんもお母さんもいないよ、なんてヤバイ……よな。

 いや、俺の考えが正しかったらそういう都合の良い展開にはならないって、分かってるけど。

作業部屋を見せてもらうっていう名分があるから家に入らせてくれるのだとは、分かってるけど。

 

 でもちょっとくらい、夢見たっていいよな。

 

 浮かれた気分のままトーク一覧を眺めていたら、龍二に送ったラインが目に入った。

 

 ……益のない妄想はここまでにして、明日のことを考えよう。

 

 俺があいつに送った、お前の人脈ちょっと頼りたいんだけど。のメッセージは現在既読になったまま何の返事もない。

 

 返事がないということは、俺に協力してやってもいいかどうか考えているということだろう。

 想像通り、思考の寄り道を思わせる時間の空白のあと、返事が来る。

 

龍二:なに

 

 そこまで「YES」を縮めるのはいっそ才能だろ、そう思いながら俺はメッセージをうつ。

 

 

 〇

 

 スプレーの制汗剤持ってこればよかった。そう後悔するような外の気温から、エアコンの温度調整が行き届いた室内の温度差でぶるり、と身震いした。

 

「まっすぐ行ったらリビングだから。そこのソファにでも荷物置いちゃって」

 

ミノさんが扉を閉めたのか、ガチャ、という大きな音をたてて鍵が自動でかかる。

 

 言われた通りまっすぐ歩き、扉を押すとマンションの広告みたいなデカイ居間に迷い込んでマジか、と声を出す。

 

 L字型に置かれたソファとソファの内側に置かれた低く面の広いテーブルを中心に、これまたデカイテレビやインテリアが飾られている。

 

 その後ろに四つ足の椅子をぴったり4脚納められる、セットで売られているんだろう高い脚の机が置かれ、カウンター越しにシステムキッチンとなっている。

 ここでご飯を食べ、食後は家族団らんの時をソファで過ごすんだろうなと容易に想像できる配置だった。

 

「座って。お茶出すね。……麦茶で大丈夫?」

 

「あ、はい! あ、いや、お気遣いなく!」

 

「え、どっち?」

 そう言ってくすっと笑いながら、食器棚から2つコップを取り出すと、冷蔵庫からボトルを出す。そしてそのまま、コップにお茶を注ごうとして、ミノさんの動きが止まった。

 

 不自然な間のあと、階段を下りてくる足音が俺の耳にも届く。リビングの扉が開いた。

 顔を出したのは男だった。

 俺より少し年上の、どこかで見たことのあるような顔をした人。その特徴を見て、あぁ、そういえば双子だって言ってたなと思い出す。

 

 目があって、お互いに軽く会釈する。

 唇が少し厚く、鼻が大きめという違いはあるものの、おおむねミノさんと顔の造形はほとんど同じだ。

 ミノさんって、もし男に産まれてたらこんな感じなんだ……。という感想を心の中でつぶやく。

 

 双子のお兄さんはそのまま冷蔵庫に直行し、ミネラルウォーターのペットボトルを手に入れると早足でリビングを出ていく。

 

「ごめんね。あんまり愛想のない兄なの」

 

 ミノさんは苦笑いしながら、お盆にのせたコップを渡してくれる。

 

「いえ、なんか、双子って俺の周りにはいなかったから……新鮮です」

 

「ちっちゃいころはお揃いの服着て、写真撮ったりしてたんだけどね~。……見せないよ?」

 

「見たいって言ってないっすよね」

 

 嘘だ。だいぶ見たい。

 

 

 さて、ここからが本題だ。

 廊下に出て、階段を上がる途中、ミノさんは教えてくれた。

 

「2階には私と兄の部屋があって、その奥に制作部屋があるんだよね。もともと物置だったから北向きで、広いけど明かりがないと結構暗くて、しかもごちゃごちゃしてるから。

足元、気を付けてね」

 

その言葉通り、扉を開いた先はまだお昼ごろだというのに真っ暗だった。

「ちょっとここで待っててね~。照明のスイッチがね、少し奥にいかないとないんだよね」

 

 ミノさんはそう言って、暗い部屋の中に入る。

 

 そして、背中が見えなくなるんじゃないかと不安になるぐらいの場所で止まると、ピッという音がして部屋に電気がついた。

 

 部屋の中は、画材道具であふれていた。油絵用の顔料だけでなく、工具などもあって少し鼻を聞かせてみれば、絵具特有の匂いに交じり木を切ったときの森みたいな匂いがする。

 そういう道具がある程度の秩序が見て取れるぐらいの緩さで、左右に置かれていた。

 

 しかし、この部屋をテーマに絵を描くとしたら画材はぶっちゃけ、この部屋のおまけだろう。

 

 電気がついた瞬間に目に跳びこんできたのは、椅子、イーゼル、そしてその直線のラインの終点にある、デッカイ鏡だった。

 

 額の部分は灰色の金具でできていて、壁に立てかけられているが、もし全長を計ったら天井と同じぐらいの長さなんじゃないかと思う。幅も相当なもので、だいぶ奥にあるのに入口に突っ立ってる俺の姿を映しているのがはっきりと分かった。

 

「大きいでしょ、これ」

 

 ミノさんが苦笑いして鏡を見る。

 

「あの絵を作るためにどうしても必要でね」

 

「あの絵って……館長賞の?」

 危ない。驚きすぎて、破られた絵のことですか、なんて言うとこだった。

 

「うん、苦肉の策でね」

 

「人物画だったから、写真を撮って参考にしたのかと思ってました」

 

「本当はそうしたかったんだけどね。写真が用意できなくて。

自分を鏡に映して騙し騙しやったよ」

 いらないところは引いて、必要なものは付け足して。

 

 そんな風にジェスチャーをつけて説明してくれていたミノさんだったが、一通り話し終わると「私がいると、見たいものも見れないでしょ。アイスでも買ってくる」と言って、部屋を出ていった。

 

 ありがたくご厚意に甘えて色々と見せてもらう。

 そろえている顔料の種類、使っている筆のメーカー。

 そういうものを参考にするために下を見て歩いていると、顔にふわりとした何かが当たって、そこで足を止め、顔をあげる。

 側面の壁に、白いワンピースがかかっていた。

 

「どっかで見たような……あ」

 

 見たことがあるはずだ。これはあの絵の中で描かれていた人が着ていたものだ。

 特徴的なボタン。くびれを強調するための紐。

 見間違えようがない。

 

 ミノさんの私物だろうか。生地にふれてみると、なめらかな肌触りが感じられる。

 シルクが編み込まれているんだろう。シワ一つない。

 

 同時にほのかに香ってくる匂いを感じて、息を吸い込んだ。

 洗剤の香りの……いい匂いだ。

 ミノさんの、匂い……とは少し……違うような。

 

「ねぇ八虎くん、アイスのリクエストある?」

 

「は、はい?!」

 

 声が裏返った。

 

 

 

 今度こそ、コンビニにアイスを買いに行ったミノさんが玄関から出ていったのを確認して、リビングに足を向ける。

 

 そこに目的の人物がいて、俺は内心手間がハブけてよかった、と安心した。

 

 もしそうじゃなかったら、2階の部屋に直接、お邪魔することになっていたかもしれない。

 

 

 ソファの背もたれに体重をかける姿勢で座り、煙草を吸っている男の対角に、俺も座る。

 

 チラッと、不審の意を感じる視線を送られた。

「火、もらってもいいですか?」

 

 無言でライターがテーブルを伝ってきた。

「あざっす」

 俺も箱から一本を出し、火をつける。

 

 その様子を見ていた男は、煙を吐き、テーブルの上の灰皿に煙草を擦りつけた。

 

「あんたはミノの……後輩?」

 

 ここで恋人かと訊かれないのが、少しショックだ。

 

「そうです。大学の」

 

「へぇ、じゃあ藝大生なんだ」

 

 そう言って、もう火が消えている煙草をさらに灰皿に押し付ける。

 

「どう? 後輩から見て、ミノの絵は」

 

「あんまり偉そうなことは言えないですけど、好きですね。

でも、結構大学の中でも人気だと思います。ミノさんの絵は」

 

「ふーん」の言葉と同時に、フィルターが曲がってはいけない方向に曲げられる。

 

「でもさぁ」

 

 外でヒグラシが鳴き始めた。陽が落ち始める時間なのだろう。

 

「アイツも、館長賞とったとかで喜んでたけど。自画像で」

 

 あまりのことにとっさに反応できなくて、聞き逃せない言葉だけが頭に残る。

 

「それで生きていけるわけでもないのに、って思うわ」

 

 自画像。自分を描いた、絵。

 

「それで生きていけるわけもねぇのに」

 

 声がただ耳を通り過ぎていく。

 自画像。

 この人は今、本当にそう言ったのか。

 どうして、となんで、が頭の中でぐるぐる回る。

 

 その中心で、昨日猫屋敷先生が言っていた言葉が蘇る。

 

「あんなの本人なワケないのに。

どれだけ曖昧にしても、見ればわかる」

 

 もう、犯人は明白だった。

 先生の言う通りだった。この家に来れば、分かる。

 

 この家には決定的におかしいところがある。

 

「あの、一ついいですか?」

 

「ん?」

 

「ミノさんの制作部屋……2階の一番奥の部屋に、最近、入りましたか?」

 

 俺が客じゃなかったら、「は?」とでも言われただろう。

 そんな表情で男は、

「入ってないけど」

 と答えた。

 

「嘘ですよね」

 

 ぽきっと音を立てて、男の持つ煙草が二つに折れた。

 

「制作部屋に掛けられていたワンピースには、最近、洗われた跡がありました。

それも洗濯機にじゃない。クリーニングにかけられたようなシワ一つない丁寧な洗い方です」

 

 画材の匂いで充満したはずの部屋で、あの白いワンピースからはなぜか洗剤の匂いがした。

 最近、使われたのだ。

 

「でもそれって、おかしくないですか? 

ワンピースを使った絵が記念会館に運び込まれたのは3月末、新入生が入学する前です。

この時すでに館長賞をとっていたでしょうから、ミノさんが作品を美術館のコンクールに出したのは昨年度の話です。

つまり、絵が制作された期間もそれより前だ。

あのワンピースが制作部屋に初めて持ち込まれたのは、その時でしょう」

 

「なにもおかしくないだろ。制作が終わったから洗ったんだ」

 

「そして洋服ダンスに戻しもせず、また制作部屋に持ち込んだんですか?」

 

 男はイラだち始めたようだった。テーブルを指でトントン叩き始める。

 

「またその服を使って、絵を描かなきゃいけなくなったんだろ?

前描いた絵が破られたとかで」

 

「ありえません。ミノさんは教授に何回かそう勧められたようですが、すべて断ってます。本人も描くつもりはないと言っていました」

 

 正確には、描けないといったのだが。今は、どっちでも構わないだろう。

 

「じゃあ、違う絵を描こうとしたんじゃねーの」

 

「大きな賞をとった次の絵も同じモチーフで、ですか?

あんまりそういうことは聞きませんが。それもないです。

ミノさんは今、何も描いてないと言ってましたから」

 

 それを聞いて、男は眉根を寄せた。ヒグラシの鳴く声が、だんだんとうるさくなる。

 

 ついに煙草から手を離した男は、はぁ、とため息をつく。

 

 

「……もっと単純に考えようぜ。絵だとかなんとか考えるからおかしくなる。

服が部屋に掛けられていた。

なぜか?

干してたんだろ、洗い終わって」

 

 ぐっ、と歯を食いしばる。

 自分の肌が熱を持っているのが、分かった。

 

 握ったこぶしがテーブルにあたり、ドンという音をたてた。

 

「いったい、どこの誰が、白いワンピースを画材にまみれた部屋に干すんですか?

しかも部屋は北向きで、照明も不便なのに」

 

 今度は男の方が、歯を食いしばる番だった。

 憎しみをこめた目で睨まれる。

 

 そこで初めて恐怖を感じた。でも、ここで引き下がったら、一生夢に見る。

 

「自画像って、言いましたよね。

ミノさんがコンクールで館長賞をもらった絵を」

 

「違うのか?

俺も見たよ。白いワンピースを着た女の、人物画だろ。

あの絵は明らかに自画像だったぜ。

顔の容貌も、アイツそのまんまだった」

 

 それに、と男は続ける。

 

「制作部屋見たなら分かるだろ?

あのデカイ鏡。あれもあの絵を描き始めた時期に部屋に持ち込んだんだぜ、アイツ。

あれを使って描いたなら、まず間違いなく、自画像だろうが。

……あぁ、部屋の内装を知ってたからって、ワンピースを動かすために侵入した証拠だとか言わないでくれよ?

たまに扉が開いてるからな。廊下から見えるんだ」

 

 

 マジでそろそろ、いい加減にしろよ。

 

「本当に、見たんですか?」

 

「あ?」

 

「本当にあの絵、ちゃんと見たんですか?」

 

「見たよ、美術館で。家族の絵が展示されるなんて珍しいからな、暇だったし、見に行ったよ」

 

「じゃああの絵のタイトル、分かりますよね?」

 

 記念会館で絵が展示されていた時、あの絵の下に金板に黒字で、大きくタイトルが刻まれていた。

 本来はもらった賞のミノも一緒に刻まれるはずが、ちょっとした手違いでタイトルだけになったらしい。

 

 俺は刻まれた文字を見て、心の深いところを、ぎゅっとつかまれたような気がしたのだ。

 

 待てど待てど男は、何も言わない。

 

 当然だ。自画像と勘違いしてるぐらいだから、タイトルを見落としたんだろう。

 

 いや……見えなかったんだろう。

 

 

 あの絵を見た生徒・教授の誰一人としてミノさんが自分を描いたと勘違いするわけが、ない。

 

 そんな勘違いをしたのは6月、人のいない大学に侵入し、刻まれたタイトルの字も見えないぐらい真っ暗な消灯の落ちた記念館であの絵を見た人だけだ。

 

 絵の中の人は、確かにワンピースを着ていた。ミノさんの作業部屋に掛けられていた場違いなほど外行きのワンピース、あれだ。

 

 でも、その身体の線は女性の曲線ではなかった。

 

 ゴツゴツした手。隠しきれない喉仏。骨盤は狭く、くびれはへその位置にくる。

 

「俺はあの絵のような見た目をしたヤツを知っています。

強いふりをしてるくせに弱くて、わがままなくせに人の想いに答えたがる。

そういうチグハグさを抱えて生きてる、女の姿をした男です」

 

 声が震える。

 怯えからじゃない。

 でも、怒りでもなかった。

 

 多分それは、哀しみに近かった。

 

「あの絵のタイトルは……彼の将来、だったんですよ」

 

 ヒグラシが一瞬だけ、鳴くのをやめる。

 同時に息を呑む音が聞こえた。

 

 気持ちは分かる。

 俺もあの絵に描かれたものに気づいたとき、同じ反応をした。

 館長賞に選ばれたと後から知って、驚きもしなかった。

 

「大学に変な噂が流れています。

絵を破ったのは、ミノさん自身だと。

なぜかというと、監視カメラに映っていたからです。

6月のあの日。深夜に大学に侵入する、ミノさんにそっくりな人が。

噂っていうのは尾びれだとか、背びれだとかが、つきますよね。

でも、今回の場合、現実の方がおあつらえ向きだったのかもしれません。

ミノさんによく似たその人は、破られた絵と同じ、白いワンピースを着てたそうです」

 

 一気に言い切って、息を吐いた。

 

 男の顔を睨みつけようとして、失敗する。

 できない。そんなこと、できない。

 

「……双子だそうですね。

顔がそっくりだ。あなたが見間違えたのも、無理がないほど」

 

 それ以上は何を言っても、蛇足だった。

 

 俺は言うべきことは言い、やるべきことはやった。

 後はどうしようもないほど、この人とミノさんの問題だ。

 

 ヒグラシの音だけが響く大きなリビングに、何かを諦めたような、それでいて自分をあざわらうかのような笑いが目の前の人からこぼれ落ちた。

 この人は、ミノさんと同じ笑い方をするんだな。と思ったとき、男とミノさんがこの家で暮らしてきた長い年月が、現実感を持つ。

 

 男はポケットからスマホを取り出し、テーブルの上に置いた。

 

「ちゃんと撮れたと思ったのにな」

 

 そこに映っていたのは、暗闇の中にあってディテールも奥行きも分からないのに、そこにあることだけが分かる、バラバラに破られたはずの絵。

 一番上には日付も、時刻すら、アルバムに記録されている。

 

 6月某日、午後11時35分。

 

 それが、証拠だった。

 

 

 バタン、と玄関のドアが閉まる音がした。

 男はうつむき、両手を互いに組んだまま、動かない。

 

 電源に触らない限り、スリープモードにならないように設定されているのだろう。

 スマホの画面は6月の写真を表示したままだ。

 

 扉が開く。リビングにミノさんが入ってきた。

 

 ビニール袋を片手に、「ごめんね」と声を出す。

 

「アイス買えたんだけど、少し溶けちゃって」

 そしてゆっくり顔を上げた。

 その直線の先に、スマホは置かれていた。

 

 その時のミノさんの表情の変化から、目が離せなかった。

 

 目を開いて驚き、一瞬言葉を失ったあと、目閉じた。

 一拍のあと、瞼を上げる。

 そして目を細めた。とても眩しいものを見るように。

 

「ねぇ。雅也もアイス、いるでしょ?」

 

 

 〇

 

 もう来ないかもしれないと思っていたから、ミノさんがポールマッカートニーの曲がかかるスポーツバーに姿を見せた時、俺はほっとして手を振った。

 

 ミノさんも俺に気づき、手を振り返して近づいてくる。

 バーでは「no more lonely nights」のCメロが流れていた。

 向かいの席に座ったミノさんは、その歌声に紛れるような穏やかな声で、話し始めた。

 

 〇

 

 兄は……ごめん、兄だなんていつもは言わないの。双子だから。

 

 雅也は、去年急に通ってた地方の国公立大学をやめるって言いだした。

代わりにイラストレーターになるために専門学校に入りたいって。

女の子の格好がしたいってことも、その時初めて聞いた。

 

 家族は突然のことに驚いていたけど、雅也にとってはそうじゃなかったみたい。

 

 どうしていきなり、って言ったお母さんに、『ミノみたいに絵を描くことを夢にしたいことも、ミノみたいに女の子の服を着たいとも前から言ってた。否定したのは母さんだろ』って怒鳴って。

母さんはそう言ったことを憶えてなかったみたい。

 そっからは、水掛け論。

 

 

 父さんはずっと黙って言い合いを聞いてたけど、母さんが泣き出して一旦静かになると『なぜ大学に入る前に俺たちに言わず、今頃言い出した』って聞いた。

 雅也は『言えない空気にしたのはアンタだろ』ってキレた。

 

 私は……黙ってた。

 

 雅也の大学のお金も、下宿の生活費も父さんが全部出してたから、父さんの言うことには一理あった。

 

 母さんにしても、憶えていないほど昔のことなんて責められないと思ってた。

 

 でも……雅也の味方をしてあげたかった。

 

 

 

 そうだろうな、と思った。

 ミノさんは見ていたはずだ。

 監視カメラに映る、大学に忍び込む犯人の姿を。

 そして気づいたはずだ。犯人の正体に。その上で、口を閉ざした。

 

 この人は最初から血を分けた人の味方だった。

 

 ミノさんは強くグラスを握った。

 

「だけど、言う言葉がなかった。

雅也のしたいこと全てを叶えた私は、雅也にとって、敵でしかなかった。

私の言うなぐさめも、励ましも、両親との仲裁もぜんぶ……無力だった」

 

「だからあの絵を描いたんですか?」

 

 ミノさんは頷く。

「伝えたい人に伝えたい言葉を届けるためには、それしかなかった」

 

 

 今なら分かる。

 俺があの絵に惹かれたのは必然だ。

 

 あの絵は祈りだった。

 

 ミノさんから雅也さんに宛てた、言葉にならない声だったのだ。

 

 だけど、暗闇の中で絵を見た、ミノさんを敵だと思っている雅也さんには、分からなかった。

 他の誰が見ても確かにそうだと分かるのに、雅也さんに言いたい言葉は雅也さんにだけ、聞こえなかった。

 

 祈りは、伝わらなかったのだ。

 

 

 だからミノさんは同じ絵を描かなかった。

 

 あの絵をもう描けないと言った、ミノさんの気持ちを、俺は想像してみる。

 イラストレーターになりたいと言っていた雅也さん。

 絵を絶え間なく描いてきたミノさん。

 

 きっと二人は幼いとき、鏡に映したかのようにそっくりでお絵描きが好きな双子だったのだろう。

 喧嘩して口をきかなくなり、言葉を交わさなくなっても、互いの絵を見れば気持ちを分かりあえたんだろう。

 

 他の誰に理解されなくても、この人だけには伝わるはず。

 そう信じて描いた絵がバラバラに砕け散った時。

 

 祈りのために描いた絵が、不思議と二人の違いを浮き彫りにしたように。

 心が通いあった思い出は不思議と、その絵が破れた時の絶望を際立たせたのかもしれない。

 

 

 ・

 ・

 ・

 

 

「そろそろ出ようか、八虎くん」

 

「はい」

 

 そう答えながら、俺は腰が重かった。

 店を出ることを強くためらい、同時にとても恐ろしいことのように感じられる。

 ずっとここにいてはいけないだろうか?

 このまま二人でポールマッカートニーの曲ばかり聴いていては、いけないのだろうか。

 

 そんなことまで頭によぎる、

 

 ミノさんの絵にまつわる疑いようもなく確かなことを見て、俺の夏休みは終わろうとしている。

 

 あの絵の謎が解き終わったら、俺がミノさんにつきまとう大義名分も、ミノさんが俺の面倒をみる理由も失われてしまう。

 

 ミノさんがこのスポーツバーに出入りし始めたのは、事件の後、6月からだった。その頃のミノさんは先生に呼び出されたと憂鬱になり、俺より先に店を出ることはなかった。

 

 今、ミノさんは言った。

 ここから出ようか、と。

 

 多分ミノさんは、もうこの店に来ない。

 描く必要がなくなった絵を完成させることはできないように、来る必要のない店にわざわざ足を運ぶ人はいない。

 

 店の外で俺たちが会ったのは一回だけ。しかも、たまたまだった。

 

 その疑いようもなく確かな事実が、俺を不安にさせる。

 

 ミノさんが立ち上がろうとしない俺に、目を向けた。中腰になったミノさんと目線が合う。

 その瞳に、とてつもなく情けない表情をした俺が映っている。

 

 ミノさんは目を細めた。

 

 愛しげに、優しく。雅也さんに声をかけた時と同じ暖かさで、俺に語りかける。

 

「私も君も、そろそろ新しい絵を描かなきゃいけないね」

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