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<――――PiPi―――――PiPiPi―――――>
それは、朝のスイッチを入れる音だった。
面倒くさがりな私は、いつもこの1回目の静かなアラームを聞き逃す。
スポーツ選手が本番を前に徐々に体を温めるように、3回に分けたモーニングコールの1回目。
けれど私は、跳ねるように飛び起きた。
「ハァ、ハァ」
窓から差し込む朝日。
五月晴れの空に太陽を隠す雲は無く、カーテンを開けっぱなしにした室内は目が眩むほどに明るい。
勢いよく跳ね除けた薄い掛布団がベッドの脇に零れ落ちて、埃を舞い上げる。
太陽光を反射した繊維質の瞬きが、チラチラと視界の隅で落ちて行く。
乱れる息づかいに、異常なほど脈打つ心臓に、自分で驚く。
かつてないほど困惑していた。
呼吸を繰り返す度に落ち着いていく思考は、思い出せもしない何かを探し始める。
何かを忘れているような。
とても大切な何かを。
感触の無い焦りが、ただひたすらに胸を焦がす。
「……悪夢でも見てたのかなぁ―――――げ、まだ5時半かよ」
先生の朝は早い。
職場のおっさん共やうら若き少年少女に馬鹿にされない程度の化粧をして、世話焼きな母が作ってくれた朝食を摂り、毎日片道30分の距離を移動して、学校に到着したら授業準備と書類整備とその他諸々。
とは言え、いくら何でも早すぎる。
6時半前過ぎまでは眠って居られるのだが、こんな時間では朝食の用意すら無い。
「もうひと眠り……って気分でも無いなぁ、よっぽど怖い夢でも見てたのかな」
渋々立ち上がり、伸びをする。
不思議と、体はいつもより軽いくらいだった。
お茶でも飲もうかと台所に行くと、クタクタのエプロンを着た母が、朝食用の米を砥いでいるところだった。
「おはよ」
「ん……沙月?どうしたの、今日は随分早いのね」
「まね、ご飯今から?何か手伝う?」
「あら本当に珍しい。そうねぇ、豆腐のお味噌汁でも頼もうかしら?」
「おっけー」
横に並び、いつもの片手鍋を手に取ろうとすると。
「あ、ちょっと待って」
「何?」
「今日はこっち使って」
そう言って差し出してきたのは、小さめの寸胴だった。
小さめと言っても3リットルほどの内容量があるそれは、見た目からしてずしりと重い。
「え……なんで」
「折角だからお昼にも飲みたいと思って」
「3人じゃ消費し切れないでしょ」
「何言ってるの、こっちの都合で呼び出すのに、ご飯も出さないつもり?」
「え?」
母が蛇口を捻り、勢いよく飛びした水が、寸胴の底を跳ねまわりながら小気味の良い音を立てた。
「寝ぼけちゃってこの子は。冷蔵庫にお豆腐入ってるから出してちょうだい、あとワカメとお味噌」
「あ、はい」
言われるまま材料を取り出す。
「ほいよ」
「ありがと、よい、しょ、と!」
「わ」
大きな音を立てて、ガスコンロの上に寸胴が落ちる。
並々と注がれた水が、どぷん、と海のように鳴った。
「元気なこって」
「ふふ、まだまだ若いわよぉ」
イタズラな笑みを浮かべる母は、本当に若々しくて、楽しそうだった。
……たまには一緒に朝ご飯を作るのも、良いかも知れない。
味噌汁と言うのは、サボり方を知っていれば誰でも美味しく作ることが出来る。
味噌は溶けやすいチューブの物を使い、出汁は小分けされた粉末を使う。
分量を調節しやすいパック入りの乾燥ワカメに、豆腐をドボン。
後はお湯で溶かすだけ、簡単だ。
やることが決まっていて、要所で味見をすれば間違いは無い。
面倒くさがりな私にぴったりだった。
「うん、丁度良い」
「手際は良いのよねぇ、ものぐさな所さえ直せば、すぐに旦那さんも見つかるでしょうに」
「あーはいはい……でさ、なんでこんな量作ってるんだっけ?」
「だから―――――」
<ピンポーン>
小気味良いチャイムの音に遮られる。
「はぁい!沙月、お鍋見てて」
「あいよ」
いそいそと廊下を駆けていく母を見送って、ぼんやりと部屋を見渡す。
古めかしい壁掛け時計、くすんだ色の食器棚、毎年貰っている地元のカレンダー。
4月分には例のアニメキャラクターが描かれ、ある日には赤いペンで丸印が……4月?
「お邪魔しまーす」
―――――電流のような何かが、視界を通り過ぎた。
衝動的に動き出した足は玄関を目指していて。
大袈裟な足音に驚くように、仏頂面のダルそうな目がこちらを見ていた。
適当に切られただけのトゲトゲした短髪に手を添えるには、困惑している時の癖で。
「えっと、おはようございます、先生」
「……沙月ちゃんと呼びなさいって、いつも言ってるでしょ、翔くん」
なぜか胸が苦しくなるほどに待ち望んでいた彼が、そこに立っていた。