「え、孟徳様笑ってる?」
「おいおいおい、嘘だろ。何があった?」
数刻前まで曹操は苛立っていた。湧き立つ殺気は抜き身の刀と形容できるほどに。
無理もない。
「兗州」の叙任を受ける快挙を成したというのに、災難に見舞われ続けていたからだ。
宦官である曹家にとって、土着化して一族の土地を得る好機であるにも関わらず、悉く躓いている。
それもこれも、「徐州」を攻めてから象棋(将棋)倒しのように起きていた。
時は少し遡る。
徐州との戦端が開かれて早々、曹軍の陣は盛り上がっていた。想像以上に好調で「徐州」が手に入ったも同然となれば仕方のない事だろう。
洛陽の内紛に参戦せず温存されていた陶謙の主力、丹陽兵も敵ではなかった。多数の敵歩兵を蹂躙し得る騎兵の陽動と、選り抜きの歩兵たる青州兵。この二つの巧みな運用により、精強で知られる丹陽兵も陣から引きずり出して撃破するに至っている。
それが快進撃という成果を齎すのは最早必然と言え、首尾よく虐殺と略奪が進み、泗水の流れる肥沃な穀倉地帯へ手が届かんとしていた。
「お、次の伝令か。どうだ、此度は?」
「ほ・・・報告、します。泗水付近の部隊が敗走しました。兵糧もほぼ焼かれたか奪われたとのことです。」
カタン
曹操の手から筆が滑り落ち、机、そして床に墨の黒い斑点が点々と描かれる。
「何!?誤報ではないのか!?」
「ひっ!避難してきた兵から直接聞きました!」
「徐州」の主な抵抗勢力は叩き潰したばかり。にも関わらず、曹操自慢の部隊が敗れる異常事態に城内が混乱をきたす。配下が口々に否定し、伝令に詰問し始める。
(一体何が起きた?まさか袁紹が援軍を?)
配下の動揺に当てられてか、そんな考えが曹操の頭を過るが、すぐに振り払われる。あの袁紹が陶謙と手を組むとは考えにくい。何せ、皇帝を僭称した不届き者が陶謙の配下にいるのだ。
しかも、援軍を送ったとて「徐州」の北で東西に広がる「兗州」の真横を南下しなければ間に合うものではなく、そんな状況下で大軍を動かせば人目につかないはずがない。
頭を悩ませながらも、部下を静まらせつつ伝令から詳細を聞けば、曹操は明晰な頭脳で事態を看破する。みすぼらしい服装等から、敵は明らかに袁紹軍ではない。投擲に特化しただけの農民兵で、油断を突かれたに過ぎないのだと。
そうと分かれば話は早い。近くの他の部隊が騎兵突撃するだけで、農民兵など容易く崩壊する。早速余力のある他の部隊へ伝令を向かわせんとした。
が、さらなる悲報にそれを阻まれる。その内容は、「国境で突如現れた山賊が、敗走中の兵を追撃して武具を奪い強大化している」というものだった。
このままでは、部隊間の連絡どころか帰還も不可能になった上で「山賊」と「徐州」勢力に挟まれてしまう。ただでさえ、泗水付近の穀倉地帯の占拠に失敗して兵糧に余裕がない状態だ。最悪、壊滅すらあり得る。
格下相手に痛み分けへ持ち込まれた屈辱に歯を食いしばりながらも、曹操は親衛隊を撤退の支援に向かわせることとなった。
この出来事以降、曹操は非常に不機嫌であったのだが、ここへ来て何故か笑みを浮かべている。
果たして何があったのか。
その答えは、こっそりと曹操に届けられた木簡にある。
なんと、「徐州」の有力者がボロボロにされた陶謙を見切り、贈答目録と共に曹操への支持をしたためて来たのだ。
土地に根付く基盤が無い曹家にとって、先の戦いの結果は組織が瓦解しかねないほど致命的だった。しかし、これならば失策を相殺して余りある。
曹操は心中で胸を撫で下ろしていた。
仮に支持が本心でなかったとしても、この木簡の存在自体が組織を補強するのだ。
贈答品である数多の粟もまた、戦争直後の蝗害で甚大なものとなった食糧危機を覆して余りある。家禽の鶏や雁で毒味済みなので、そのまま配給しても問題ない。
色々あったものの収支としては悪くない現状に、木簡の上を曹操の筆が踊った。