○○と付き合ってるって言ったらテイオーはどうなるのだろうか 作:ししゃも丸
彼が居なくなったあとの学園生活はこれといってあまり変化はなかった。喪失感は確かにあったけど時間がそれを解決してくれたし、毎日似たような生活を送っている学生というのもあって、やはり日常生活に関しては特に問題はなかった。
まあ一部のウマ娘は違ったようだが。
それは廊下でマンハッタンカフェとすれ違った時のことだ。
「やあカフェ。タキオンの研究室にでも行くのかい? にしてはその、目覚まし時計はいったい…………」
「あ、ルドルフさん。これはですね、最近タキオンさんが研究室で寝泊まりするので、お兄さんに頼んで用意してもらったんです」
「お兄さん……?」
「あ、トレーナーさんです」
脳天に雷が落ちたような衝撃だった。私はたぶん、平静を装っていたのだと思うが、声はとても震えていた。
「と、トレーナー君、ね……。ど、どうして彼が出てくるんだ……? カフェは頻繫に連絡を……しているのか……?」
「私、よく休日に喫茶店にいくんですけど、そこでよくトレーナー……お兄さんと会うんです。そこで近況報告などをしているのですが、今回のことも相談しまして。たぶんお兄さんの声ならタキオンさんもどうにかなるだろうと」
「な、なるほど」
う、羨ましい。つまりそれは、トレーナー君の声が収録されている目覚まし時計ということではないか。欲しい、私も毎朝彼の声を聞きたい。
い、いや、それよりもカフェだ! 彼女の話から察するに、毎週トレーナー君と会っているということではないのか?!
ああ。どうして私は彼に電話をかけられないんだ。そうすれば生の彼の声が聞こえるというのに。
「……一応言っておきますが、ルドルフさんが想像しているものより、あまり……いいものではないです……」
そう言う彼女の顔はとても引きつっていたのが印象的だった。それを見て私は、それは本当にタキオンを起こすためだけに特化したものだと察した。
つまり、カフェは聞いたのか。好奇心に負けて。
ただ──後日カフェが頭を抱えながら、「私、とんでもないことをしてしまったかもしれません……」と言っていたが、久しぶりに見たタキオンを見て私は彼女の言葉の意味を理解することになる。
そんなタキオンを見て私は非常に不本意ではあったが、少しばかり同情というか、タキオンをはじめ他の子達に悪いなと思ってしまった。
実を言うと。彼の言う通りトレーナーを辞めたあとでもトレセン学園に仕事で赴く日があった。それは月に一、二回あるかないか。別にそれは以前から聞いていたから問題ではないんだ。
大事なのは、彼はその時は決まって生徒会室にいるであろう私を訪ねてくることだ。
勿論事前に連絡をもらっているので、私はエアグルーヴやブライアンにそれとなく指示を出しては、生徒会室を彼との密会場所にしていた。
正直に言って満たされていたよ。トレーナーロスにようやく慣れたといっても、やはり直接会うとぽっかり空いていた心の隙間を埋めてくれるのだ。
ただ、私はそれだけで満足してしまうのだ。休日一緒に出かけようとか、食事に誘うとか、その次の行動ができないでいた。
また、話す内容も似たようなものばかり。近況報告というか最近あった出来事ばかり。トレーナー君はいまURAから仕事をもらっているようで、主に地方に講師として出向いたり新人トレーナーのための講習会もやっているとか。
何度か彼の講習会にお忍びで行こうと思っても、トレーナーのための講習会にウマ娘がいるのは不自然だということですぐに諦めた。
世間で〈皇帝〉と呼ばれている私であるが、その名に似合わず欲がない。もっと我儘になればいいのに、ただ彼と会って話せるだけで満足してしまっていた。
ただその所為でトレーナー君はトレーナー君で、今まで以上に他の子達と関係を持っていることに、あとになって気づいた。
それは偶然にもレース会場でトレーナー君と偶然出会った時のこと。そのレースにはトレセン学園の生徒ならば、一度は耳にしたことはあるウマ娘が出走していたからだ。
ウマ娘の名はメジロアルダン。名門メジロ家のウマ娘である。ただ彼女はあまりにも身体が弱く、学園の出席数よりも入院期間の方が長いほどだ。そして退院してもまた入院してしまう生活を繰り返していて、選抜レースはおろか模擬レースにすら走ったことはない。むしろ走っている姿を見たことある者の方が少ないかもしれない。
そんなメジロアルダンがレースに出ると一部の者達の間で話題になった。噂によれば、ある時期から退院して以来一度も入院をしていないんだとか。さらに毎日一人でトレーニングに励んでいるとも。
ウマ娘はトレーナーと契約するのが当たり前だというが、中には一人で最後まで活動するウマ娘もいなくはない。トレーニングメニューも自分で作り、レース出走の手続きなども自分でする。
私は彼のおかげで今の自分があると思っているので、可能であればトレーナーを持つのがいいとは思っているが、こればかりは個人の自由であるため強制はできない。
生徒会長としてまた私個人としてもメジロアルダンを見るべく会場に足を運べは、偶然にも私はトレーナー君を見つけてしまったというわけだ。それは丁度ゲートが開いて一斉にスタートしたときだった。
「トレーナー……? ああ、やはりトレーナー君だ!」
「え。る、ルドルフ⁉ ど、どうしてここに……」
「むっ」
「……る、ルナ。どうしてキミがここにいるんだ」
「私は生徒会長なのだから、別にここにいることはおかしなことではないだろう? むしろその点に関しては君の方じゃないかな。君がここにいることのほうがおかしいと私は思うが?」
「あーそれは……」
彼の目が泳いだ。それはつまり、私に対してとても言いづらいということだ。そしてのその目線はターフの方に向けられた。
「なる、ほど……成程成程。つまり君は、トレーナーを辞めたにも関わらず、さらには元担当の私のことなど忘れ、新しいウマ娘に手を出したということか。全く、君はとても酷い男なんだね」
「言い方ってもんがあるだろ⁉ ただ俺はアルダンのレースを……ぁ」
「アルダン……そうか、メジロアルダンか。少しお話をしようか、トレーナー君」
「……」
結論を述べれば、妹の友達を通してメジロアルダンと知り合ったらしい。そこからお節介焼きの彼は、彼女に色々とお世話をしはじめたのだとか。
実に彼らしいと言わざるを得ない。生徒会長としては、彼女が走れるようになってレースに出れたことは喜ばしいことだ。
しかし、乙女としては複雑だ。
特にレース後に彼に向けたあの笑顔を見れば特に。
そして彼のお節介はメジロアルダンだけではなかった。
『あールナ。久しぶり』
「やあトレーナー君。珍しいね。君から連絡をくれるなんて」
ある日の平日にトレーナー君から電話がかかってきた。私はウキウキで電話に出たよ。きっと近々学園に来るための連絡か、それとも食事の連絡かもしれないと思って。
しかし──
『一つ訊きたいんだが。最近トレセン学園にアイルランドから留学してきた王族のウマ娘の名前って、間違いなければファインモーション殿下だったよな?』
ファインモーションというウマ娘については、概ね彼がいま言った通りのウマ娘だ。付け加えるならば、彼女の立場というのもあって一度もレースはおろかトレーニングすらしたことはない。いや、できないが正しいだろうか。
しかしそんなことはどうでもいいのだ。何故、彼がファインモーションについて聞いてくるのか。つまりはそれは、そういうことなのだ。
「……トレーナー君」
『なんでしょうか』
「正直に話してくれるなら、私は寛大な心で大目に見てあげるよ」
『……また連絡するよ、ルナ』
「トレーナー君⁉ ……に、逃げた」
言いづらいのか、それとも後ろめたいことがあるのか。彼が逃げるなんて余程のことだと思った。
そして私の予感は的中し、気づけばエアシャカールと共に併走しているファインモーションがいた。その姿を見た我々はとても驚いたことは言うまでもないだろう。
彼女のことをハナさんに聞けば。何やら父親を自ら説得し、レースに出るべくトレーニングを始めたらしい。らしいと言うのは、そのことを担当したであろう理事長ですらことの全容を把握していないということだ。
まあ私をはじめ多くのウマ娘は、妙に納得した顔をしているのが見受けられたものだ。
他にもこんなことがあったよ。
『やあルナ。出張で北海道に行った時にスカウトしてきたウマ娘がいてね。スペシャルウィークというんだが、近々トレセン学園に編入すると思うから、面倒を見てやってほしんだ』
とか。
『今年、キタサンブラックとサトノダイヤモンドというウマ娘が入学するんだが。その、何かあったら俺に連絡をくれ。勘違いしてほしくないのだが、別に二人が問題児というわけではないんだ。ただ、その、二人の家柄上というか、諸事情によりちょっとあってな』
経緯はわからない。ただトレーナー君は、とてもたくさんのウマ娘と交流があったようで。それもみんな親しい間柄。
やっぱりズルい。私は、常に私を演じなければいけないのに、他のウマ娘達は自由に彼と触れ合っている、喋っている。それは、ズルい。
辛いことや不満がなかったわけじゃない。でも我慢できた。トレーナー君に頼られているから、そう思えたから今日まで耐えられた。
でもそうさせたのは私が臆病者だから、トレーナー君が私の気持ちを解ってくれないから。
だから私の想いを繋ぎとめていた鎖は、強固に見えて脆い。
「トレーナー……くん?」
「や、やあ……ルドルフ」
この日、感謝際でトレーナー君が私のところに来てくれないのに、それなのに彼は他の女と一緒だった。
そして私の頭は、とても冷静でかつ自分の力を遠慮なく振るった。生徒会長というこの学園で一番の力を使い、私は彼を生徒会室に連行した。
彼を知るウマ娘達の視線が突き刺さっている。それはもう背中にビンビンと感じたよ。だけど今はそれが心地良いとさえ思えた。
彼は私のトレーナーなのだ。だからこれは、当然の権利である。
そして──
「ああ……トレーナー君……間違いない。この匂いは本物のトレーナー君だ」
「る、ルナ?」
私達しかいない生徒会室で、私は彼の胸に飛び込んだ。今まで我慢していたたくさんの感情が溢れ出ているのだ。もう止めることはできないし、止める気もない。
「わたしをおいて、帰ろうとしたんだね」
「時間があえばの話だった。だから、けしてルナに会うのが嫌で帰ろうとしたわけじゃないんだ」
「うそ」
「ウソじゃない」
「だったらなんでたくさんの匂いが君からするの? トレーナーはルナのトレーナーでしょ? なら誰よりもまず、ルナのところに来るよね? それになんで今年に限って感謝祭に来たの!? 今までルナが誘っても来てくれなかったのに!」
「それは……その。俺はただ、テイオーのライブを見るためだけに来ただけで、ルナ達とはその──」
「テイオー? どうしてそこでテイオーの名前が出るんだ」
テイオーの名前が出て思わず正常に戻る。
「だって、テイオーは俺の妹だから」
「……いもうと? テイオーが君の妹⁉ いつから……いや、そうか。あの頃の家庭の事情というのは、つまりそういうことなのか!」
「まあ、そうなる」
トレーナー君が家庭の事情で慌ただしかったあの頃、つまりは両親が丁度再婚したばかりなのだろう。そして、まだ幼い義理の妹であるテイオーのために時間を割いていたということ。また、あの子が毎日のように語るお兄ちゃんという存在……確かにすべて辻褄があう。
「不思議だったんだ。確かにテイオーは、テイオーには私に近いモノがあると思っていた。だが、あの子は他のウマ娘と違って、入学した時点で身体の作りが明らかに違っていた。あれはそう、あまりにも出来すぎていた。そうか、君が手を加えていたんだね」
「そりゃあ自慢の可愛い妹のためだからな。身体作りからトレーニングの仕方まで徹底的に仕込んだよ」
「だったらなぜトレーナーに戻らなかったんだ!」
そこまでするのであれば、トレーナーとして復職するべきだった。彼の行いはすべて中途半端で、以前にも口にしていたように未練がましく思えて仕方ない。
「妹がトレセン学園に入学するから、そんな理由で復職はできない。本音を言えば、俺がテイオーを導いてあげたかったさ。でも、それは無理だってわかっていたから」
「どうしてなんだい。私達やそれこそ理事長をはじめとした大勢は、きっと君の復職を喜んで……」
そういうとトレーナー君は首を横に振った。
「俺はきっとトレーナーとしてあの子の前でいられない。俺は、どこまでいってもテイオーのお兄ちゃんなんだ。だから無理なんだよ」
正直言って、私には理解が難しかった。言っていることはわかるんだ。でも、私に兄妹はいないから、トレーナー君の気持ちが私には想像がつかない。きっと公私混同してしまうということなんだろう。
そして彼が学園に戻れば、ひと悶着もふた悶着も起こる。それは私だってそうだ。
──また私のトレーナーになってほしい。そう言ってしまうから。
だからだろうか。彼はきっとトレーナーとして学園に戻ってこない。そう思った私は、今まで口にすることはなかった3つ目の約束を口にした。
「……トレーナー君、覚えているかい。私とした約束を」
「もちろん覚えてるよ」
「じゃあ最後のお願いを聞いてもらってもいいかい?」
「……ああ」
「──私は、君が好きだ。この先の未来を、共に歩んでほしい……いや、君と一緒に歩みたいんだ」
「それは……ズルいよ。ルナ」
「わかっているよ。でも今この時を逃したら、きっと私は二度と口にできない。だから……」
まるでプロポーズをするかのように、私は彼の手を握って告白をした。トレーナー君が困惑しているのは、目を見ればわかる。
だけど、今言わなければきっと私は口に出すことができないと思う。みんなが思っているよりも、私はとても臆病なんだ。
同時に私は怯えていたのだろうか。私から彼の手を握っているのに、私の手は凍えるように震えていた。そんな私を見て、トレーナー君はぎゅっと優しく握り返してくれた。
そして──
「ルナ、俺は──」
「……」
感謝祭から少し経ち、ボクの周囲に変化が起き始めていた。
それはお兄ちゃんがトレーナーだったということと、その担当ウマ娘がカイチョーだったということが、大きな原因なのは明白なんだ。
じゃあ何が変わったかと言えば、お兄ちゃんに対してはそこまで変わっていないんだよね。ただ、今までトレーナーのことを隠していた罰として、一か月ぐらいボクの我儘を聞いてもらった。内容はみんな聞いたら羨ましがりそうなことばっかりかな。
でもまあ、お兄ちゃんはいいんだ。問題は学園でのことで……。
「やはり女性というのは、料理が出来たほうがいいのだろうか。私としては、今時そういった考えはあまりにも受け入れがたいと思っているんだがねぇ。テイオーはどう思う?」
「出来たほうが困ることはないんじゃなかなぁ……。ところで、アグネスタキオン」
「タキオンお姉さん……と呼んでくれたまえ」
「暑苦しいから離れてくるかな? アグネスタキオン」
「やれやれ。つれないねぇ」
そう言う割にはあまり固執してるようには見えず、不敵な笑みを浮かべてアグネスタキオンはボクから離れていく。
これは、今までの彼女からしたら異常なんだ。いつもだったら駄々をこねる子供のようにしつこいのに。それが最近になってからは絡んでは来るけど、以前のように顔をボクの身体に押し付けて匂いを嗅ぐような、ドン引きする変態行為は減ったと思う。
原因は推測がつくよ。まあお兄ちゃんなんだろうけど。
そして、このような行動をしてくるのはアグネスタキオンだけではないんだ。名誉のために敢えて誰とは言わないよ。でも、今まで以上に……そう、露骨になった。
終いには行きつくところまで突き進んでしまった、親友兼ライバルのメジロマックイーンも例外ではない。
「なんとしても、お兄さんをメジロの男にしますわ。そのためにも、私達の中で誰かがお兄さんを落とせれば──」
ボクは最後まで聞くことはなく、耳を抑えながらその場を後にしたよ。
親友だけじゃない。可愛い妹分のブラックやダイヤも、みんなと同じように変わってしまったんだ。
「やっぱりみんなと同じようにテイオーお姉ちゃんから責めるべきかな?」
「それじゃダメだよキタちゃん。確かに、将来を見据えればテイオーさんから認められるのは間違いじゃないけど。この場合競争相手が多いから、やっぱり兄さまから責めるべきだよ」
怖くなったボクは、またしても最後まで聞くことなく逃げ出した。
感謝祭が終えてからボクは、疲れた。毎日学園に通うのも億劫だ。事あるごとにテイオー、テイオーとボクの名前を呼ぶんだ。それもどこか意味深に。
そんな擦切ったボクは、癒しを得るべく何故かカフェさんのところに足を運んでいた。
「カフェさ~ん。もうボクいやだよぉ。みんな変になっちゃったよぉ」
「よしよし……大丈夫ですよ。ここにはテイオーさんを困らせる人は、だーれもいませんから」
「う~」
「いい子いい子……計画通りです」
「何か言った?」
「いいえ、何も」
何か聞こえてはいけない言葉聞こえたような気がするけど、きっと空耳だと思うことにした。
そして、終いにはカイチョーも変わっていた。
お兄ちゃんがトレーナーで、その担当がカイチョーだと知ってからというものの。割り切ってはいても、やはり以前のように振舞えなかったんだ。
気まずいって感じだったと思う。
だけど、向こうは違っていたんだ。
「なあテイオー」
「な、なにかな。カイチョー……」
「テイオーは、お姉さんが欲しくはないか?」
「な、何を言っているのか全く解らないけど、ボクはお姉ちゃんより弟か妹が欲しいな……」
「そ、そうか。弟か妹が欲しいのか。しかし、流石にすぐに作ることはできないな。でも、早ければすぐにでも出来るよ」
「モウワケガワカンナイヨ!」
しかし、そんな生活が毎日続けば、流石のボクでも限界が来るわけだよ。だからかな。現状一番まともそうなゴールドシップに、ボクは相談したんだ。
何とかならないかなって。
するとゴールドシップは言ったんだ。
「別に可能だけど、この世界線とは別のお前に憑依するだけであって、必ずしもお前が望む世界とは限らねぇけど、それでもいいなら協力するぞ?」
「ボクが望む世界ってなにさ」
「お前が望んでいる世界さ。ちなみにだけど、今回はかなりお前にとっていいルートなんだぜ? ただまあ、もう嫌だって言うなら止めねぇけど。なーに心配すんなよ。アイツのことはアタシが面倒見ておくからさ……って、いねぇし」
気づけばボクは走り出していた。
世界線? ルート? ボクにとっていいって一体なんなのさ。ゴールドシップは普段から掴みどころのないウマ娘だけど、今回の件で益々彼女の異質さが深まった気がする。
ボクは学園を飛び出した。平日の、それもまだお昼になるかならないかという時間に。ボクはウマ娘だ。だからボクを止めることができるのも、またウマ娘になる。でも、誰もボクのことを追ってくることはなかった。
混乱しながらもボクは家に帰るために走り続けた。ウマ娘のために舗装された道路がなければ、きっとボクは車と併走しながら走っていたに違いない。
なぜ家に帰るのか。それはお兄ちゃんがいるから。お兄ちゃんにいまのボクを受け止めてもらうしか、いまにも壊れそうなボクを癒す方法がないからだ。
家の前について玄関を開ければ、そこにはお兄ちゃんの脱ぎ捨てられた靴があった。いつもだったらちゃんと綺麗に並べられているのに、目の前にはその高そうな靴には似つかわしくない状態で放置されていた。
ボクも同じように靴を脱ぎ捨てて、家の中を大声で駆け出した。
「おにぃちゃぁーーーん! もうボク、どうにかなりそうだよぉーーー!」
しかし返事はない。何度もお兄ちゃんと叫びながらリビングに出れば、ソファーの上で口を開けながら天井を見上げるお兄ちゃんがいた。ボクはまた叫びながらお兄ちゃんの胸に飛び込んだ。
「お兄ちゃんボクを助けてよ! こうなったのは全部お兄ちゃんの所為なんだよ⁉ だからボクを助けてよ。みんな、みんながボクを怖い目で見るんだ。まるでペットショップで売られている子猫を見るように、みんながボクを──。……お兄ちゃん?」
返答がなかった。ただボクが独り言を叫んでいるだけで、お兄ちゃんは微動だにしない。よく見ればお兄ちゃんの目に光はなかった。
「お兄ちゃん、お兄ちゃんっ」
体をゆすったり、頬を叩いたりにしお兄ちゃんの反応を伺った。でも反応がない。ボクは慌てて耳をお兄ちゃんの胸に押し付け──鼓動が聞こえた、つまりはちゃんと生きているらしい。
「……テイオー」
目が覚めたのか、それとも戻ってきたのか、お兄ちゃんは起きた。天井を見上げていた顔をゆっくりと起こすと、その目には涙が流れていることに気づいた。
「おにい、ちゃん?」
「テイオー……お兄ちゃん……トレーナーに、復職することに、なっちゃった……」
「……えぇええええ⁉」
その時のお兄ちゃんの顔は、嬉しそうにも見えるし嫌そうにも見えた。兎に角、色んな感情が混ざりあっているような感じで、うまく言葉にできそうにない。
だけど、ボクにわかることがあるとすれば、それは──お兄ちゃんが自ら望んでその選択を選んだわけではない、ということだ。
ルドルフへの返答はご想像にお任せします。
しかし終わる気配がない。