道化英雄譚   作:真黒 空

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21:リリルカ・アーデ

 

「リリを離せ。彼女は私の、かけがえのない仲間だ」

 

 人気のない路地裏に、張り詰めた空気が流れる。

 突然の事態にリリは頭がついて行かず、ただ呆然と目を見開いて少年を見つめる。

 リリの胸倉を掴む冒険者の男もいきなり乱入してきたベルに驚き、しかしすぐに苛立ちを隠そうともせず唾を吐いた。

 

「ハッ! 何が仲間だよ。どうせテメェだって武器かアイテムか金かは分からねぇが、こいつに盗られてんだろ? それとも、気付いてすらいねえ間抜けなのか?」

 

 男はベルの言葉を一蹴し、その無知を嘲笑う。

 自分のアイテムが売られていたあの店から盗人(リリ)が出てきたという事は、直近までパーティを組んでいたベルがその被害に遭ったと考えるのは自然の成り行きだった。

 

「こっちはテメェのせいで余計な手間まで掛ける事になったんだ。分かったら、黙ってそこで見てな」

 

 バカな兎には報復の機会すら与えてやらないとばかりに男は笑い、リリに向かって再び拳を振り上げる。

 その瞬間ベルは地を蹴って、とんでもない速さで男の顔面を殴り飛ばした。

 

「がばっ!」

 

 勢いをつけた拳を食らい、男が無様な声を上げて先程のリリのように吹き飛ぶ。

 胸倉を掴まれていたリリはバランスを崩して地面に落ちそうになったが、ベルは器用に空中で彼女をキャッチして安全に地面に下ろす。

 

「こんのっ! 何しやがんだ糞ガキがぁ!」

 

 殴られた男が顔を押さえながら怒り狂って立ち上がる。

 いまにも剣を抜きそうな冒険者の男の迫力はリリが肩を竦ませるほどのものだったが、ベルは毅然と睨み返した。

 

「そちらこそ、私の仲間に何をするつもりだった?」

 

 男からリリを庇うように身体で隠しつつ、ベルが問いを返す。

 その姿は出会ってからリリが一度も見た事がない怒気を纏っていた。

 

「私の仲間があなたから何かを盗んだというなら、手を出してしまった事も含めて私が謝罪しよう。損害分のお金も渡そう。だが一方的な私刑(リンチ)に掛けようとするなら、黙って見ているわけにはいかない」

 

 ベルの声は大きいものではなかった。

 しかしそこには決して揺るがない力強さがあった。

 男にもそれは伝わったのだろう。

 服についた汚れを払い、男は腰に備えていた剣を抜く。

 

「チッ……もういい。テメェもその小人族(パルゥム)と一緒に、身ぐるみ剥いでやるよ……!」

 

 怒りを殺意に変えて、男が剣を構える。

 地上で武器を抜くのは本来ご法度だが、この場には人目もない。

 男が本気なのは明らかだった。

 

「リリ、下がっていろ」

 

 いまにも飛び掛かってきそうな男を前に、ベルもまた剣を抜く。

 言葉では解決できない事もある。

 悲しいがそれが現実である事を知らないほど、ベルも子供ではなかった。

 

「べ、ベル様……やめてください! リリのためにこんな事……!」

 

 思わぬ成り行きについていけなかったリリが、ようやく事態を呑み込んで慌てて止めようとする。

 男――ゲドは下級冒険者の中でも優れた冒険者だ。リリの目から見ても、10層まで辿り着いているベルと【ステイタス】は殆ど互角。しかし冒険者になって間もないベルとゲドの間には圧倒的な経験の差がある。

 モンスターを相手にするばかりで、対人戦などした事がないだろうベルには分が悪すぎる相手だった。

 このまま戦えば最悪の事態もあり得ると、リリは蒼白な顔でベルの服を引っ張る。

 しかしベルは、先程の揺るぎない態度からは想像もつかない柔らかい笑みをリリに向けて、その頭を優しく撫でた。

 

「心配しなくても、大丈夫だから」

「あっ……」

 

 リリの危惧を置き去りにそれだけ告げて、ベルは服を掴む手を(ほぐ)し再び男と向かい合う。

 逃げようとしないベルの態度に、男は口の端を吊り上げた。

 

「良い度胸だ。もう謝ったところで(おせ)えからな」

「私としては積極的にあなたと争いたいとは思わない。お金を受け取って、引いてはくれないだろうか?」

「だからもう(おせ)えって言ってんだろうが!」

 

 男が剣を振りかぶり、ベルに斬り掛かってくる。

 その速度はリリの目測通り、下級冒険者の中でも上位に位置する速さだ。

 しかしベルは慌てない。

 自分の事を見くびり、ただ【ステイタス】にかまけて武器を振り回す男の斬撃など、恐れるには値しない。

 なぜならベルは、知っているから。

 いまよりももっとずっと弱かった頃に自身に向けられた、狼の爪の鋭さを。戦士の槌の重さを。暗殺者の刃の禍々しさを。そして好敵手の戦斧の、破壊力を。

 それらと比べれば、目の前の男のそれは児戯にすら等しい。

 

「ふっ!」

 

 自身に振り落とされる剣を、ベルは受けるのでも避けるのでもなく、真横から剣を叩きつける事で弾き飛ばす。

 線ではなく点で相手の攻撃を捉える事ができなければ致命傷を負いかねない荒業だったが、黒星だらけでも経験だけは豊富だったベルの戦歴と、神の恩恵(ファルナ)によって上昇した身体能力が合わさった事で、それはもはやベルの中で実現可能な技術となっていた。

 過去(前世)の経験と現在(今世)の能力の融合。

 これをもし、レフィーヤがここにいて目にしていれば息を呑んでいた事だろう。

 なぜならそれは、前世では戦う才能などまるでなかった男が見せた、確かな冒険者としての才の片鱗だったのだから。

 

「っ!」

 

 ベルに剣を弾かれた事で、男は大きく体勢を崩す。

 自身の武器を取り零す事こそなかったが、勢いに押されて身体が右に流れた。

 そしてその隙をベルは見逃さない。

 がら空きとなった腹部に、ベルの渾身の拳が突き刺さる。

 

「がっ……!」

 

 先程の一発よりも明らかに威力を増した一撃に、男が再び吹っ飛ぶ。

 握っていた剣は手から離れ、路地に置いてあった樽やら木箱やらを巻き込んで盛大に地に伏す男は、無様に白目を剥いてその意識を手放していた。

 

「……あまり、気持ちの良いものではないな」

 

 小さく呟き、ベルは剣を収める。

 そして気絶した男に近付くと、懐から金貨の入った袋を取り出して傍に置く。

 意識がないので誰かが通り掛かれば盗まれてしまう危険もあったが、おそらくは数分ほどで目を覚ますはずなので心配はいらないだろう。

 やる事を終えたベルは、リリに駆け寄って笑顔を向ける。

 

「お待たせ。リリ」

 

 自身に向けられる笑みにリリはわずかに身体を震わせ、目線を逸らして気まずそうな顔を浮かべる。

 そんな少女の態度にベルは言及せず、早口に必要な事を告げた。

 

「お互いに話したい事はあると思うが、ひとまずここを離れよう。彼が起きた時、また揉めるのは本意じゃないからな」

 

 そう言って、ベルはリリの手を引いて歩き出す。

 幸い、リリは抵抗しなかった。

 ただ路地裏から出る際に一度気絶している男に目を向け、それからベルに視線を移して何かを言いたそうにしていたが、結局何も言わずに唇を噛んでいた。

 移動中のベルとリリに会話はなかった。無言で足を動かし、さっきの路地裏と似た人気のない場所で再び向き合う。

 

「リリ。これを」

 

 ベルが差し出したのはポーションだった。

 そこでようやくリリは、自分が殴られていた事を痛みと共に思い出す。

 あまりに驚く事ばかりが続いたせいで、自分の身体の事などすっかり忘れていた。

 

「守ってやれなくてすまなかった。少しばかり離れていたせいで間に合わなかった」

 

 悔いるようにベルは謝罪の言葉を口にする。

 それを見てリリは、なぜ謝るのかと、腹の底から湧き上がってくる怒りと共に思った。

 

「怪我は痛まないか? もしそれで足りないようならハイポーションもあるから――」

「…………ですか……?」

「ん?」

「どうして何も言わないんですか!」

 

 衝動と共に、リリは怒鳴る。

 あの場に居合わせたという事は、少年は知っているはずだ。

 自分が魔法を使って正体を偽っていた事を。ダンジョンで手に入れたドロップアイテムをネコババして売り捌いていた事実を。

 でなければ説明がつかない。あんなところを偶然に通り掛かるわけなどないのだから。

 つまりベルは、別れた直後から自分を尾行しており、盗賊行為の全部(リリのやった全て)を知っている。

 なのにどうしてこの少年は、何も言わず、あまつさえ自分に頭を下げてくるのか。

 

「ベル様はリリを助けて何がしたいんですか? あの冒険者のようにリリを殴って仕返しがしたいなら、早くやれば良いじゃないですか! なのに貴重なアイテムまで使おうとして――ベル様は一体なんのつもりなんですか!」

 

 自分に怒る資格などないと自覚しながら、リリはベルを鋭く睨み上げて怒声を吐き出す。

 それ以外に、彼女には自分の中の感情と折り合いをつけられなかった。

 しかし怒鳴られている少年は、何が少女の逆鱗に触れたのか分からないとばかりに頬を掻いて、呑気に首をかしげる。

 

「うーん、仲間の怪我を心配する事が、そんなにおかしい事だろうか?」

 

 本当に不思議そうに訊ねる少年の態度が、怒りの火に薪をくべる。

 この期に及んでまだとぼけた事を抜かす少年が信じられず、リリは吐き捨てるように問うた。

 

「仲間? 一体それは誰の事を言ってるんですか?」

「もちろん。リリの事だ」

 

 一瞬の迷いもない即答だった。

 それに意表を突かれて、リリが言葉に詰まる。

 

 ――この人は一体、何を言っているんだろうか?

 

 自分は彼を騙していた。

 そんな事はもうとっくに分かっているはずだ。

 なのにどうして、今更そんな事が言えるというのか。

 

 沸騰していた怒りが矛先を見失ったかのように別の感情と混ざり合って、リリにも言葉にできないような気持ちとして身体中を暴れ回る。

 それを吐き出そうとリリは何度も口を開き、しかしそのたびに言葉は出て来ずに口ごもってしまう。

 結局名前をつける事すらできないまま、それはリリの中で沈下して、後に残ったのはなんとも言えない泥のような不快感だけだった。

 

「リリ。私はなぜ君が盗みに手を染めているのかは知らない。だが、もし何か困っているなら話してほしい。私が必ず力になるから」

 

 ベルがリリの肩に手を置く。

 しゃがみ込んで目線の高さを合わせ、真っ直ぐにその瞳を覗き込みながら、ベルは申し出た。

 対してリリは怒っているのかも悲しんでいるのかも分からない、極めて複雑そうな顔をして、最後にはプイッと地面に顔を背けた。

 

「……騙されてる事に気付いていないくらいが、ちょうどいいんじゃなかったんですか?」

 

 力なく、ともすれば拗ねているようにも聞こえる口ぶりでリリは小さく問う。

 それはリリが聞いているはずのない言葉だったが、ベルはその事には触れずに首を縦に振った。

 

「その通りだ。しかし、それだけではどうしようもない事もある」

 

 かつて無知だったために何もできなかった苦々しい過去を思い出しながらベルは肯定と否定を同時に返した。

 騙されるのは別にいい。ただそれによって救わなければならない人に手が届かない無様だけは、二度と晒すわけにはいかなかった。

 

「……騙されてくれていれば良かったんです。そうすればリリは――」

「残念だが、とてもなんとかなったようには見えない」

 

 恨みがましく呟くリリの言葉の先を否定する。

 そしてそれは彼女にも分かっていたのだろう。

 ぎしりと唇を噛んだリリからは、反論は返ってこなかった。

 

「お願いだリリ。事情を話してくれ。そうすれば私が助けに――」

 

 

「ベル様に、何ができるって言うんですか?」

 

 

 力になりたいと訴えるベルの言葉を遮って、昏い呟きが落とされる。

 その声は吹けば消えそうな小さなものだったのに、無視する事のできない迫力があった。

 

「リリは、ずっと一人でやってきました。味方なんていませんでした。必要もありませんでした。今回だって、隙を見て逃げ出すくらいの事はリリ一人でもできたんです。ベル様の助けなんて、リリは求めていませんでした」

 

 早口に、ベルの方を見ずに、リリは肩に置かれた手を余計なお世話だとばかりに払いのける。

 地面に視線を落としたまま、飲み終えたポーションの瓶を放り投げ、少女は淡々と言い募る。

 

「冒険者なんて、リリは怖くありません。いくら威張っても、暴力を振るってきても、最後にはリリが騙して全て奪うんですから。ベル様だって、リリにとっては数いる鴨の一人でしかないんです」

「……」

「そんなあなたがリリの力になる? 笑わせないでください。ベル様にできる事なんて、精々ため込んだ貯金をリリに騙し取られるくらいのものです」

 

 もはや盗人である事を隠しもせず、リリはベルを嘲笑う。

 獲物でしかない兎はただネギでも差し出して黙っていろと吐き捨て、傲岸不遜な態度を取る。

 なのにその表情は、固まったかのように眉一つ動いてはいなかった。

 

「それでもまだリリを助けたいなんて戯言を言うつもりなら、有り金を全部おいてどこかに消えてください。そうすればリリも騙す手間が省けるので、喜んで感謝の言葉を尽くしてあげますよ」

 

 皮肉を言おうが罵倒を吐き出そうが、リリの表情が変わる事はなかった。

 無表情に、まるでそうしなければ抑えておけない何かでもあるかのように、リリは内から溢れる言葉をただ外に放つ。

 

「今更必要ないんです。何を言われたって、もう遅いんですよ。とっくにリリは――諦めたんです。誰も助けてなんてくれない。たとえ手を差しのべてくれても、結局最後にはみんなリリを見捨てるんだから」

「……」

「『英雄』なんて、そんなのどこにもいないんですよ」

 

 少年が口にした夢を思い出し、それを否定する。

 もはや嘲笑すらできず、リリは迷子の子供のように分かり切った事実だけを口にした。

 

 

「たとえいたとしても、リリの前には現れてくれないんです」

 

 

 かつて、それを望んだ事はあったかもしれない。

 けれどいつまで経っても、自分を救ってくれる英雄がこの手を取ってくれる事はなかった。

 だからリリは誰も掴んでくれない手を、罪に染めるしかなかった。

 そうする以外に、正気を保って生きていく事などできなかったから。

 

「リリ……」

 

 目の前から自分の名前を呼ぶ声がする。

 しかしリリは返事をせず、顔も上げなかった。

 もう何も言わず放っておいてほしい。

 余計な優しさなどいらない。中途半端な助けなんて求めていない。

 だからこれ以上、心をかき乱さないでほしかった。

 なのに――

 

「っ!」

 

 いきなり、身体を抱き寄せられた。

 背中と後頭部に腕が回り、きつく、だが痛くない程度に力加減されて、リリの身体がベルの胸の中に収められる。

 

「何をするんですか! 暑苦しい、離してください!」

「ダメだ。離さない」

 

 そのあまりに突然の事態に、訳が分からずリリは腕の中でもがく。

 胸板に拳をぶつけ、引き離そうと力を込めるが、サポーターのリリでは冒険者のベルに力で敵うはずもない。

 非力なリリの抵抗が結果を結ぶ事はなく、抱きすくめられたままリリは不満を叫んだ。

 

「ふざけないでください! なんでこんな事……!」

「私は何があっても、リリから離れたりなんてしない」

「っ!」

 

 脈絡を無視して告げられた言葉に、リリの身体が強張る。

 その隙に少女を抱きしめる腕に力を込め、ベルはただ思いのままに言葉を伝えた。

 

「もう怖がらなくていい。強がらなくていい。私がずっと、傍にいるから」

 

 それはリリがずっと言ってほしかった言葉だった。

 大嫌いな自分を認めてくれる、受け入れてくれる存在を、少女はずっと求めてきた。

 だがその言葉を無条件で信じるには、リリの人生は泥に塗れ過ぎていた。

 

「口だけなら、なんとだって言えます……」

 

 もはや暴れる事はなく、身体と共に声も震わせながら、リリは決壊しそうになる感情をなんとか抑えつけて言葉を吐き出した。

 

「そうかもしれない。でも、まずは言わなければ伝わらない」

 

 少女の言葉にベルは頷く。

 優しい手つきで彼女の頭を撫で、いつもの歌劇のような口調ではなく、穏やかな口ぶりで気持ちを吐き出すようにして話す。

 

「だから信じてもらえるまで、何度だって私は言おう。財布を盗まれようが取り分をちょろまかされようが、そのたびにそんな事は笑い飛ばして、君の手を取って抱きしめよう。もう二度と、リリが寂しくて泣く事なんてないように」

 

 自分の言った事を証明するようにベルは顔を寄せて、頬を少女の髪に押しつける。

 地面を転がった事で彼女の髪は酷く汚れていたが、そんな事は意に介さず少年は少女と温もりを分かち合う。

 

「……リリは泣いたりなんて、していません」

 

 表情を隠すためにベルの胸に顔を押しつけて、リリは強がるようになけなしの反論を口にした。

 それを肯定も否定もせず、ベルは再び少女に訴えた。

 

「リリ。どうか話してほしい。確かに私は非力かもしれない。でも必ず、君の力になるから」

 

 自らが口にした通り、君を助けたいと、バカみたいに同じ事を繰り返すベル。

 そんな少年の腕に抱かれながら、リリは何も答えなかった。

 目も口も閉じ、眠ったように少年の胸の中で身動ぎもしない。

 

「……こんな世界、リリは大っ嫌いです」

 

 しばらくしてリリがポツリと零したのは、そんな一言だった。

 

「生まれた時から、リリの人生は袋小路でした。汚い底なし沼に片足を突っ込んで生まれて、そのままどん底に沈んでいくだけの運命しか、リリには用意されていませんでした」

 

 それからリリは、ぽつぽつと自身の境遇を語り始めた。

 酒を求めて金集めに明け暮れるファミリアの状況、物心ついた時から「金を持ってこい」と言いつけられた両親の言葉、物乞いをするしかなかった幼い頃の日々、両親の死、それでも何も変わらない環境。

 聞くだけで痛ましさが伝わってくる、凄絶な人生の足跡を。

 

「それでもなんとか、最底辺でも人として生きてく事だけはできていたんです。……あの日が訪れるまでは」

「あの日?」

 

 これ以上に酷い出来事があったのかとベルは眉を寄せる。

 そこでリリは口にするのを躊躇うように押し黙ったが、やがて踏ん切りがついたのか、拳を握りながらそれを口にした。

 

「リリも、飲んでしまったんです」

 

 悔恨を滲ませるリリの身体は、怒りなのか、悲しみなのか、恐怖なのか、小刻みに震えていた。

 

「ソーマ様の、神酒を」

 

 そう告げるリリの声は、これまでのどんなものとも根本的に異なっていた。

 まるで泥水をあらゆる負の感情と共に煮込んだかのように、昏く重たい響きを宿している。

 

「多分あれが、最初で最後のリリの転機だったんだと思います。神酒を飲みさえしなければ、リリは今頃もっとマシな生活ができていたのかもしれません」

「それほどまでに危険なものなのか? その、神酒というのは……」

 

 リリのあまりに大仰な物言いに、思わずベルは訊ねる。

 信じられない、とは思わない。

 神が作ったものが人知の及ばない効力を発揮する事は、ベルも痛いほどに良く知っていたから。

 

「そうですね。あれを飲んだ事でリリは、両親や他の団員達と同じく……獣に落ちました」

 

 その言葉が比喩などではない事は、リリの口調から容易に伝わってきた。

 

「神酒の事以外、何も考えられなくなりました。それ以外の事はどうでも良くなったんです。もう一度あのお酒を飲むためなら、それこそなんでもやってしまうくらいに」

 

 あの頃の自分に理性などなかったと、リリは吐き捨てるように語る。

 神酒欲しさに両親が死んだダンジョンにも潜るようになり、それこそ死に物狂いで金を稼ごうと躍起になったと。

 

「でも、リリには冒険者の才能なんてこれっぽちもありませんでした」

 

 一攫千金を求めるのに冒険者ほど適した職はない。

 しかしそれを叶える素質をリリは持ち合わせていなかった。

 

「神酒を諦められずサポーターになってお金を稼ぎましたが、冒険者はサポーターの事なんていくらでも替えの利く消耗品くらいにしか思っていません。身に覚えのない罪を非難されてただ働きをさせられる事なんて、珍しくもありませんでした」

 

 それでも金を稼ぐためには、サポーターとして必死にダンジョンに潜り続けるしかなかった。

 普通に働くだけでは神酒を貰えるほど稼ぐ事など不可能だったから。

 

「いつしか神酒の魔力も薄れて酔いは冷めましたが、その頃には全てが手遅れでした。冒険者の間でリリは都合の良い金づるとして目をつけられていて、足を洗う事なんてできないところまで落ちていました」

 

 まるで奴隷のようにダンジョンに連れて行かれ、馬車馬のように働かされた挙句に分け前を貰えるかは運次第。

 もはや金を稼ぐためではなく生きるために、理不尽な暴力を受けながらダンジョンに潜る道しかリリには残されていなかった。

 

「それでも、諦めずに逃げ出した事があるんです」

 

 死んでしまいたいと、そう何度も考えて、でもあと一歩のところで死に踏み切る事ができず、ついに耐えきれなくなったのだと少女は思いを吐露した。

 

「【ファミリア】を出て、無所属(フリー)の一般人になりすまして。でも、ダメでした」

 

 一縷の希望を、ただなんて事のない平凡な日常を望んだ少女の願いを、世界は残酷に踏みにじった。

 

「リリが身を寄せていた花屋を、【ファミリア】の冒険者が襲ったんです」

 

 リリにとっても、他のメンバーにとっても、同じ恩恵を背に刻んだ【ファミリア】は仲間などではない。

 そんな生まれた時から分かっていた現実を、少女は改めて突きつけられた。

 

「優しくしてくれたお爺さんもお婆さんも、もう前みたいに接してはくれませんでした。それどころか、リリなんかと会わなきゃ良かったって……」

 

 震える声がか細い響きと共に消えていく。

 一体彼女はこの小さな身体に、どれほどの絶望を背負わされてきたのか。

 

「リリ……」

「当然ですよね。こんな厄介者、誰だって近くに置きたくないに決まってます」

 

 自嘲するように、リリは暗い笑みを浮かべた。

 痛ましい境遇を語るその瞳に、涙の一つも浮かべず。

 

「それでようやく、リリは一人だって気付いたんです」

 

 もうリリの声は震えていなかった。

 それどころか愉悦さえ感じさせる声音でリリは続ける。

 

「そこからは【ファミリア】から抜けるために脱退金を貯めるようになって、こんな感じです。リリを搾取してきた冒険者を、逆にリリが騙してお金を稼ぐ。ベル様もその一人です。薄汚い盗人(リリ)に目をつけられた憐れな被害者でしかありません」

 

 愚かな被害者(ベル)を嘲笑うように、リリは真っ直ぐベルの目を見上げながら言い切る。

 しかしすぐにその瞳は少年の胸の中へ沈んでいった。

 

「だから……リリの事なんて、放っておいてください。もう嫌なんです。リリのせいで優しい人が傷付くのは。…………大切だと思ってた人に、裏切られるのは」

 

 怯える栗鼠(リス)のように、ベルの腕の中で身体を震わせながら、リリは密着しているベルにすら届くか危うい声量で最後の呟きを零した。

 それは彼女が初めて漏らした弱音だった。

 必死に笑顔の仮面を被り、虚勢を張って強がっていた彼女が見せた、隠しきれない本音。

 生まれてからこれまで頼れる者など誰一人なく、強くある事を強いられた少女がいつの日にか殺してしまった、幼い自分。

 だがリリがそれを垣間見せたのは、一瞬だけだった。

 唇を噛み締め、溢れ出そうになる涙を堪えるように鼻を啜ったリリは、自分の中にある最後の勇気を振り絞るかのように顔を上げる。

 

 

「惨めで汚い最低なパルゥムのリリですけど……それでもまだ、リリは人間でいたいから」

 

 

 そう言って、リリは笑った。

 それは出会ってから彼女がずっと浮かべてきた笑顔と変わらないもので、ベルは堪らず彼女を力いっぱい抱きしめる。

 

「ベル様……?」

「いままで良く、頑張ったな」

 

 痛いほどに抱きしめられ、戸惑うように名前を呼んでくる少女にベルは心からの賞賛を伝える。

 彼女を抱く腕の片方を背中から頭に持っていき、耳元に口を寄せて決意と共に誓いの言葉を吐き出す。

 

「大丈夫。私がもう、リリを一人にはしない」

 

 その言葉に、胸の中でリリがクシャリと顔を歪めるのが分かった。

 それでも彼女はきっと、すぐにこの言葉を信じる事はできないだろう。

 いままでの人生で根付いたリリの人間不信は、どんなに言葉を重ねても拭い去れるようなものではない。

 それでもベルは告げる。

 誰も助けてくれないと言った彼女に、そんな事はないと。

 こんな世界は大嫌いだと吐き捨てた彼女に、これからは違うと。

 酷い人生を歩んできた少女の心にほんのわずかでも安心を取り戻せるように。

 英雄なんかいないと諦めたリリに、ベルはこう告げるのだ。

 

「私がリリの英雄になる」

 

 とびきりの笑顔を腕の中の少女に向けて、ベルは己の心に誓いを立てた。

 

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