「…………ハァ……ハァ……」
太陽が最も高い位置に昇り、暖かさを伴った光が下界を最も広く照らす時間。日差しの届かない薄暗い路地裏に二人分の荒い息遣いが響いていた。
しきりに後ろを気にしながら手をつないで走る二人の少女の額からは、玉のような汗が浮かんでいる。
「リリさん、大丈夫ですか?」
「だ、だいじょうぶ……です。問題、ありません……」
後ろを走る少女を心配してレフィーヤが声を掛けると、息も絶え絶えな答えが返ってくる。その様子は言葉とは裏腹に、明らかに限界を訴えていた。
リリとレフィーヤがなんとか警備の厳重な酒蔵からは脱出を果たしたのが数十分前。本来であればもうとっくに目的地に着いていてもおかしくないくらいの距離は走っていたが、しつこく追いかけて来る【ソーマ・ファミリア】の追跡を振り切れず、二人はいまも街中を逃げ回っていた。
二人が目指しているのは当然、ベルが戦っている『
見つかりそうになるたびにあっちに行ったりこっちに行ったり、時には隠れ、時には逆走を余儀なくされ、常に気を張って警戒しなければならない逃走劇は体力以上に気力を削り、気力の減少は体力の消耗を激しくする。しかも恩恵を授かっているとはいえリリはサポーターで、冒険者のレフィーヤよりも体力がずっと少ない。
結果、リリの体力は底をつき、顔色は青いどころかもはや白くなっていた。
「……」
いまにも倒れてしまいそうなリリの様子に、レフィーヤは一度
【ソーマ・ファミリア】から追われている現状で足を止めるのはリスキーだが、このまま限界を超えてリリを走らせるのはあまりにも酷だ。それにまだ見つかっていない内に休まなければ、肝心な時に動けなくなってあっさりと捕まってしまう危険だってある。
チラリと後ろを振り返って限界間近のリリの様子を確認し、レフィーヤは迷いを払って決断した。
「リリさん、ここで少しだけ休んで息を整えましょう」
「そんな事を、してる暇は……あっ!」
レフィーヤが声を掛けると、それに気を取られたリリが派手に足を縺れさせる。
顔面から地面にダイブしそうになった身体を、手をつないでいたレフィーヤが激突前になんとか支えて大惨事を防いだ。
「やっぱりもう限界じゃないですか! 少しでいいので休んでください」
珍しく有無を言わせない強い口調で言うと、レフィーヤは膝がガクガクと震えているリリの身体を建物の壁を背に座らせる。
もはや反論する気力もないのか、呼吸をするのも苦しそうにリリはぐったりと壁に凭れた。
(消耗が激しすぎる……。きっとファミリアに帰ってから殆ど休めてないんだ)
サポーターとはいえ、『
そこまで考えた後、ギリッと唇を噛んでレフィーヤは強引に思考を切り替える。
追手を撒くために大通りではなく路地裏に入ってしまっているため正確な現在地は不明だが、それでも走った距離と方角から大体の位置は分かる。
おそらく目的地である闘技場までの道程は3分の2程度は消化できているはずだ。追手に見つからなければ、もうひと踏ん張りで辿り着けるだろう。
しかし【ソーマ・ファミリア】の団員に見つかってしまったせいで、当初の予定よりも随分と時間が掛かってしまっている。それがレフィーヤの焦燥を煽っていた。
いまこうしている間も、闘技場ではきっとベルが理不尽な戦いを強いられている。ベルはなんとかすると笑っていたが、それでも長くはもたないだろう。決着が着いてしまう前にリリを連れて行けなければ、全てが手遅れになってしまう。
いざという時の対処が遅れるため避けていたが、こうなったらリリを背負って走ろうとレフィーヤが決めたその時、そう遠くない距離から荒っぽい声が聞こえてきた。
「捜せ! ここら辺にいるはずだ! 絶対に逃がすな!」
「何人かは闘技場に先回りしろ! のこのこやってきたところを捕まえるんだ!」
建物を何個か挟んだ向こうで聞こえてくる怒声に、レフィーヤもリリも身体を固くする。
それなりに引き離したと思っていたが、追手は予想以上に近くまで迫ってきているようだ。加えて聞こえてきた会話の内容からは、なんとか闘技場に辿り着けたとしても、待ち伏せしている【ソーマ・ファミリア】の団員を突破しなければならない事が察せられた。
とはいえ、レフィーヤが魔法を使えば少人数相手なら薙ぎ倒して押し入る事はできる。しかし可能である事がイコール、最善手であるとは限らない。いま現在、【ヘスティア・ファミリア】と【ソーマ・ファミリア】は『
リリを連れ出すだけでも相当に危ない橋を渡っているのに、ここで危害まで加えてしまってはもう弁解の余地すらない。ベルがザニスに勝ったとしても、その勝利が取り消されてしまう可能性すらあり得た。
そうなるとなんとかして無血で闘技場の中に入る必要があるが、追手に加えて待ち伏せまでされていては、こっそり忍び込むなんて逃げ隠れが異常に上手いベルでも難しい。レフィーヤとリリでは簡単に見つかって【ソーマ・ファミリア】との激突は必至だろう。
手詰まりの状況に打開策が浮かばずレフィーヤが煩悶としていると、小さくか細い声がすぐ隣から零れた。
「……もう、リリの事は置いていってください」
振り返れば、さっきまでは目を瞑ってつらそうに胸を押さえていたリリが、こちらを真っ直ぐ見上げていた。
その顔には諦観の色に染め上げられた薄い笑みが浮かんでいる。
「リリが囮になれば、レフィーヤ様だけは逃げられるはずです。ベル様には、リリの事なんて気にせず全力で戦ってほしいとお伝えください」
【ソーマ・ファミリア】が追っているのはあくまでもリリ一人だ。一緒に捕まればレフィーヤもただでは済まないだろうが、別れて逃げたなら間違いなくリリの方を優先して追ってくる。
サポーターとして状況判断能力に優れているが故に、リリはそれに気付いたのだろう。
疲れ切った顔でいつもの笑みを浮かべるリリに、レフィーヤはかつて目にした忘れられない笑顔を幻視する。
「ごめんなさい。リリのせいで、お二人を巻き込んでしまいました。……
頭を下げ、顔を合わす事もできないとでも言うようにリリは謝罪の言葉を絞り出した。
自分だけではなく、自分を助けてくれた人達を巻き込んでしまった罪悪感に満ちた声は、それだけで聞く者の憐れみを誘う悲愴なものだ。
しかしそれを聞いたレフィーヤが抱いた感情は、憐みなどではなく純粋な怒りだった。
「本当に、本当にごめんなさい。リリのせいで、レフィーヤ様にも、ヘスティア様にも、ベル様にも……とても償い切れないようなご迷惑をお掛けしてしまいました。リリは、どう償っていいかわか……」
「バカな事を言わないでください!」
謝罪の言葉を重ねるリリの言葉を、状況も忘れたレフィーヤの叫びがかき消す。
スカートが汚れるのも厭わず地面に膝をつき、俯くリリの両肩を掴む。
後悔に染められた瞳を強引に自分の方に向かせ、いつも兄に向けているものよりずっと強い怒りの感情をレフィーヤは彼女にぶつけた。
「負けた時の事なんてどうでもいいんです! 私も兄さんもヘスティア様も、
罪悪感に苛まれるリリの気持ちはレフィーヤにも理解できた。
彼女からすれば、自分のせいで【ヘスティア・ファミリア】が犠牲になってしまう事が何よりもつらいのだろう。
同じような立場だったらレフィーヤだってそんな風に考えて、自分がどんな目に遭おうと相手だけは助けようとしたかもしれない。
でもそれは、ただ罪悪感を軽くしたいだけの逃げだ。罰を受けた気になって許しを請う自己満足だ。
だってそんな事をしたって、得られるものなどない。誰の望みも叶わないのだから。
「みんなあなたを助けたいんです! 勝機が薄いだとか、負けたらどうなるとか、そんなの気にしてなんていられないんです!」
戦力差が大きい事なんて最初から分かっていた。それでも譲れないものがあるから、自分達は戦う事を決めたのだ。
今更『
なのに――
「なのにあなたが真っ先に諦めてしまったら、どうしようもないじゃないですか!」
「あっ……」
「どうして、もう負けた気でいるんですか? なんで私達が負けるって決めつけるんですか? まだ何も終わってません! 兄さんはいまも戦ってるんです!」
リリの気持ちは痛いほど分かる。分かるが、リリの自己犠牲は自分達を信じていないと言っているのと同義だった。
それがどうしようもなくレフィーヤの激情をかき立てる。
たとえ自分達を思っての言葉だったとしても、レフィーヤが聞きたいのは『
「自分がいなければとか、自分が犠牲になればとか、そんな悲しい事を言わないでください! あなたがどん底にいるって言うなら、私達がなんとしてでも引っ張り上げます! そのために私達は戦ってるんです!」
かつて一人で泣き喚くだけだった自分の手を兄が取ってくれた記憶を思い出しながらレフィーヤは叫ぶ。
絶望の奈落で膝を抱えている自分に確かな光を齎してくれた、生まれ変わっても忘れない救いの手。それを今度は兄と一緒に自分も差し伸べるのだと、レフィーヤは思いのままに言葉をぶつける。
「勇気を出してください! あなたが下を向いていたら助けたくても助けられない! あなたが手を伸ばしてくれるなら、私達が絶対にその手を掴みます! だから――お願いだから、顔を上げてください! 前を向いてください! あなたのために戦うベル兄さんを、ちゃんと見てあげてください!」
何度も抗い、挫け、諦めてしまった
それは兄の悲痛な叫びと共に記憶に焼きついた
自分を犠牲にしてベルやレフィーヤを救おうとするその姿が、助けようとしても助けられなかったあの日の光景をなぞっているようで――
だからレフィーヤは、あの日に伝えられなかった思いを全力で叫んだ。
「自分から不幸になろうとなんてしないで! あなたは幸せになっていいんです!」
「――――――――」
レフィーヤの真摯な気持ちを真っ正面からぶつけられて、リリの表情がいまにも泣き崩れてしまうのではないかというほどに歪む。
とっくに全てを諦めてしまったリリの心の扉を、乱暴な妖精の叫びがノックする。
何かに堪えるように唇を噛んで顔を逸らすリリの瞳からは、それでも涙は零れない。代わりに全身がプルプルと小刻みに震える。
生まれてからこれまで、リリは不幸のどん底で地面を舐めるようにして生きてきた。
両親は『神酒』を求めて早々にダンジョンで命を落とし、ソーマの『神酒』を求めるだけの派閥の中に幼いリリの居場所などなかった。
リリ自身も『神酒』によって獣に落ち、同じ穴の狢となった。
逃げたくても逃げ出せず、生きるために己を虐げた冒険者を陥れて悦に浸り、気付かぬうちに心も身体と同じく汚れ切った。
そうして鏡に映った薄汚れた自分の瞳が、散々蔑んだ冒険者と同じものに変わっていると気付いた時、リリは悟ったのだ。
こんなにも汚い
幸せとは、人と人との交流によって育まれるものだ。
だというのに、誰の事も信じられなくなった身でどうして幸せになどなれるだろう。
不幸の中で快楽を見出すようになった少女は、いつの間にか自分が幸せになった姿を思い描けなくなっていた。
だからこそ、リリルカ・アーデは自ら不幸へと落ちようとする。
ベルの財布を盗んでパーティーを抜けようとした時も。『
幸せを諦めてしまったた少女は、不幸の中に己の逃げ場を作る。
でもそれは――――間違っていたのだろうか。
もしかしたら、目が焼かれるほど眩しい光の中にも、自分の居場所はあるのだろうか。
こんなにも汚れ切ってしまった心と身体でも、あの人達と同じ光を浴びる事は許されるのだろうか。
もし仮に
顔を上げて、一歩前へ踏み出すだけで、それは手に入るのだろうか。
「っ……!」
こんなどうしようもない自分を助けようとしてくれる妖精の思いに応えたいと、切実なまでに強く思いながら、リリは声を上げる事も手を伸ばす事もできなかった。
これまでの15年の人生が、救いを求めるリリの心を縛りつける。
期待しては裏切られてきた数えきれない経験が、安易な希望に縋ろうとする自分を戒める。
差し伸べられた手を掴んで、引っ張り上げられるのではなく、相手を引きずり下ろしてしまう未来が恐ろしい。
自分一人がどん底に落ちるだけならまだしも、疫病神の自分はきっと、彼女達を道連れにして不幸の奈落に沈んでしまう。
あの優しくしてくれたおじいさんとおばあさんのように。
――もしベル様とレフィーヤ様にも見捨てられたら…………あんな目で、見られたらっ……!
それが、何より恐ろしい。
過去を振り切る『勇気』を、リリはどうしても持てなかった。
前へ進むための一歩が、どうしようもなく遠かった。
「いたぞ! こっちだ!」
静かだった路地裏に響いた大声に振り向けば、地下牢に閉じ込めたはずのカヌゥがこちらを指差していた。
すぐに取り巻きの二人も集まり、こちらへ近付いてくる。
「レフィーヤ様、リリの事は置いて逃げ――」
「【契約に応えよ】」
絶望的な状況に思わず叫ぶリリが言い終える前に、レフィーヤは杖を構えて詠唱を始めた。
「【天上の雷よ。我が命に従い邪を穿て】」
詠唱に気付いたカヌゥ達がとっさに剣を抜く。
しかしレフィーヤは杖をカヌゥ達には向けず、真っ直ぐに空へと向けた。
「【サンダー・レイ】!」
力強い声と共に一条の雷が天へと放たれる。
その威力は直撃すれば下級冒険者ではひとたまりもない事が見ただけでも分かるもので、近付こうとしていたカヌゥ達は警戒して足を止める。
「もし向かってくるのなら、次はあなた達に撃ちます」
杖の先を天からカヌゥ達に向けてレフィーヤが宣言する。
いつもは誰に対しても穏やかに接するレフィーヤが、今回ばかりは毅然とした態度でカヌゥ達を睨みつける。
「安心してください」
しかしすぐに顔をリリの方へ向けて、相好を崩した。
「絶対に一人になんてさせません。リリさんは何があっても、私が守りますから」
「あっ……」
優しげな笑みとは裏腹な、迷いない覚悟が込められた力強い断言。
それだけでリリは口にするべき言葉を失ってしまった。
「おいおいエルフの姉ちゃんよ。それはお門違いってやつじゃねえか?」
レフィーヤとリリの会話を聞いていたカヌゥが、剣を収めて口の端を吊り上げる。
問答無用で強引な手段を取ろうとしないのは、レフィーヤの魔法を脅威だと感じているからだろう。
「俺達は攫われた自分とこの団員を助けに来ただけだ。筋の通らねぇ事をしてるのはあんたの方だろ」
リリを守ろうとするレフィーヤの立場的な矛盾をカヌゥは指摘する。
本来であれば正しいはずのその主張は、リリの耳にもレフィーヤの耳にも空々しく響いた。
だが次に続けられた言葉は、レフィーヤはともかくリリには、とても無視できるものではなかった。
「なぁアーデ。お前、ザニス様に逆らう気か?」
「……っ!」
「この状況、どう考えてもお前が裏切ったようにしか思えねぇよ。もしその気がないってんなら、自分の足で俺達のところに戻って来い」
その言葉に、ドクン、とリリの心臓が大きく脈打つ。
もし、もしここでカヌゥの言葉に従えば、レフィーヤだけでも見逃してもらえるのではないだろうか。
そんな甘い期待が頭をよぎる。
だが未練がましい幻想は、すぐ傍にいた妖精によってあまりにも簡単に打ち砕かれた。
「リリさん、耳を貸す必要なんてありませんからね。安心して、私の後ろにいてください」
カヌゥ達から目を逸らさず、レフィーヤは片手をリリの前に広げ、彼女を守る強い意志を示す。
絶体絶命の状況においても一歩も引かない心強い後ろ姿は、リリにとって絶望そのものだった。
悟ってしまったのだ。繰り返し繰り返し追い詰められて絶望の淵に立たされても、決して揺るがないその気高く高潔な姿に。どれだけ自分が犠牲になろうとしても、ベルもレフィーヤも絶対に見捨ててはくれないのだと。
自分一人が犠牲になって全てを収めるなんていうのは、最初から土台不可能な話だったのだ。
きっとリリが気付いていなかっただけで、もうとっくにリリの問題は、リリ一人のものではなくなっていた。
それがいつからかは分からない。でも多分、ベルがリリの事を仲間だと言ってくれたその瞬間から、リリの問題はベルとレフィーヤの問題になっていた。
だからリリが不幸に落ちれば、二人も一緒に落ちてきてしまう。
リリがどん底にい続ける限り、リリが手を掴まない限り、二人はどこまでもついてきて手を差し伸べ続ける。
だってこの兄妹は底抜けのお人好しだから。
どんなに突き放しても、離れようとしても、リリを見捨ててはくれない。
『あなたがどん底にいるって言うなら、私達がなんとしてでも引っ張り上げます! そのために私達は戦ってるんです!』
『勇気を出してください! あなたが下を向いていたら、助けたくても助けられない!』
『自分から不幸になろうとなんてしないで! あなたは幸せになっていいんです!』
思えば、リリの人生は逃避の積み重ねだった。
寂しさから『神酒』に逃げ、酔いが覚めれば今度は『神酒』から逃げ、派閥から逃げ、盗人になってからは冒険者から逃げ続けた。
そしてあの日、自分を助けようと差し出された
でも、今回だけはそれではダメなのだ。
不幸に逃げたってなんの解決にもならない。
二人を道連れにしたくないなら、自分がこの人達の手を取るしかない。
たとえその結果、彼らに嫌われる事になっても。
恨まれて、憎まれて、非難と嫌悪の瞳に睨まれても。
救おうとした事が間違いだったと、憎悪と怨嗟の声をぶつけられたとしても。
彼らにだけは、笑っていてほしいから
それがたとえ自分に向けられるものじゃなくても、ずっと笑顔でいてほしいから。
そのためには、まずリリが助からなくちゃ。
彼らを助けるために、真っ先にリリが助けてもらわなくちゃいけない。
だから、前へ。
背を向けて逃げるんじゃなく、自分を救ってくれたあの温もりを目指して、一歩――
『前へ』
「リリさん……?」
レフィーヤが庇うために広げた手を掴んで、リリが進み出る。
まさかカヌゥの言葉に従って【ソーマ・ファミリア】の下へ帰るつもりなのかと、レフィーヤが早合点して引き留めるよりも早く。
リリはいつからか口にする事をやめてしまっていた言葉を全力で叫んだ。
「助けてくださーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーい!!!」
静かだった路地裏に大声量の叫びが響き渡る。
リリの小さな身体からどうしたらそんな大声が出るのかというほどの大声量に、隣にいたレフィーヤはもちろん、距離の離れているカヌゥ達ですら思わず耳を塞ぐ。
「野蛮な冒険者様に襲われています! お願いです! お礼なら何でもします! お願いだから誰か助けてくださーーーーーーい!!」
オラリオ中、とまではいかないが、この区画にいるすべての人間に届くのではないかという決死のSOS。
リリの声は建物に跳ね返ってこだまし、多くの者の耳に届いた。
少なくとも近くの大通りを歩いていた者は、その声に気付いただろう。
しかしその声に応えてくれる者は現れなかった。
「へへっ……なんだよ。脅かしやがって」
顎の下にかいた冷や汗を拭い、カヌゥがリリを睨みつける。
「ふざけた真似しやがって。こりゃお仕置きが必要だな。アーデ」
剣を構え、臨戦態勢を取るカヌゥ達。
それに応戦するためレフィーヤもまた、リリの前に出て杖を構えた。
「そんな……」
戦う力を持たないリリは、自分を守ろうとする妖精の背中で膝をついてしまいそうになる。
やっぱり、ダメなのだろうか。
リリが微かな勇気を振り絞ったくらいじゃ、何も変えられないのだろうか。
結局リリは、どこまでいっても周りの人を不幸にする疫病神でしかないのだろうか――
「おら! やるぞお前ら!」
「しゃあ! いくぜぇ!」
「覚悟しろや!」
「【契約に応えよ】」
こちらに突っ込んでくるカヌゥ達。
迎え撃つためレフィーヤが詠唱を開始する。
両者の距離はみるみる縮まり、やけっぱちになったリリがレフィーヤを守るために自分の身体を盾にして前に出ようとしたその瞬間、思いもよらない声が割って入った。
「やめろ」
その声は決して大きいものではなかった。
だがその場にいる全員の耳に確かに届き、戦場になりかけた路地裏の時間が静止する。
「戦いをやめろ」
もう一度、声が響いた。
先程と同じく、その声は殊更に力強いものではない。だがそれを無視できる者は存在しなかった。
「そ、ソーマ様……」
そこにいたのは、自派閥の団員の前にすら滅多に顔を見せる事のない【ソーマ・ファミリア】の主神、ソーマだった。
酒造りにしか関心がない筈の主神の突然の登場に動揺したカヌゥ達が、わずかに残った理性でその神意に従って剣を下ろす。
そのタイミングでひょこりと、ソーマの後ろからリリとレフィーヤの見慣れたツインテールが現れた。
「良かった。ギリギリ間に合ったみたいだね。レフィーヤ君。サポーター君」
「ヘスティア様……」
思わぬ事態に緊張が解け、杖を下ろしたレフィーヤが力なく女神の名前を呼ぶ。
「助けに来てくださって、ありがとうございます。もうダメかと思いました……」
「こっちの方こそ助かったよ。レフィーヤ君の合図がなかったら、すれ違ってソーマの酒蔵まで行っちゃってたところさ」
先程のレフィーヤの魔法。あれはカヌゥ達への牽制だけではなく、ヘスティアに居場所を報せるための狼煙でもあった。
天に撃ち上がる雷を見て、酒蔵に向かっていたヘスティアとソーマは急遽目的地を変えてここに駆けつけたのだ。
「……」
和やかに言葉を交わすレフィーヤとヘスティアとは対照的に、リリはまだ目の前の事態を受け入れられずにいた。
なぜソーマがこんなところにいるのか。酒造りにしか興味のない主神は『
訳が分からず呆然とするリリの肩を、いつの間にか近付いて来ていたヘスティアが軽く叩く。
「サポーター君も、ありがとう」
「えっ……?」
なぜお礼を言われたのか分からず、目をパチクリさせる。
「レフィーヤ君の雷で方角だけは分かったから近くに来られたんだけど、正確な場所が掴めなくて困ってたんだ。そんなところに君のとんでもない大声が聞こえてきたのさ」
「あっ……」
我武者羅に助けを求めた叫び。
誰の心にも届かなかったと思った訴えは、聞いてくれた者が確かにいたのだ。
リリの胸に言葉にはできない感情がせり上がる。
「サポーター君、レフィーヤ君。良く頑張ったね、二人とも」
ヘスティアが二人の頭を撫でる。
身長差からレフィーヤには手を上げる形になり、リリには手を下げる形になっていたため、傍から見ればなんとも滑稽なポーズになっていたが、そんな事にツッコミを入れるような野暮は誰もしなかった。
レフィーヤは照れくさそうにはにかみ、リリは着ている服の裾を両手でギュッと握り締める。
何かに堪えるような表情で押し黙るリリに気付き、ヘスティアとレフィーヤは心配そうに顔を覗き込むが、当のリリはそれどころではなかった。
胸の中で暴れ回る感情と向き合うので精一杯で、顔を逸らす事すらできず地面とにらめっこする。
「ソーマ様、勘違いしないでくれ!」
リリが必死に湧き上がる感情に折り合いをつけていると、少し離れたところでカヌゥが主神に己の正しさを訴えていた。
「【ヘスティア・ファミリア】のエルフがアーデの奴を攫おうとしやがったんだ! だから俺達はあいつを取り戻そうとして……」
「黙れ」
自らの眷属の釈明をソーマはにべもなく切り捨てる。
そしてゆっくりと腕を持ち上げてリリを指差した。
「リリルカ・アーデは俺が闘技場まで連れて行く」
その宣言に、リリを含めた【ソーマ・ファミリア】の団員が目を剥く。
ソーマが酒造り以外にここまで自身の意思を明確に示したのは、彼らの記憶の限りでは初めての事だった。
「それで文句はないな?」
カヌゥ達だけではなく、ヘスティア達にも確認するようにソーマが問う。
それに異の声を上げる者はいなかった。
「来い、リリルカ・アーデ」
ソーマがリリを呼ぶ。
もしかしたら、
呆気に取られて動こうとしないリリの横から前に出て、ヘスティアが手を差し出してくる。
「行こう、サポーター君」
心配はいらないと、ヘスティアの明るい笑みが告げる。
すると今度は逆側から前に進み出たレフィーヤからも、同じように手を差し伸べられる。
「行きましょうリリさん。あなたのために戦う兄さんを、応援してあげてください」
眩しい笑顔を挟まれ、ようやくリリは迫っていた危機がとっくに過ぎ去っていた事実に気付く。
そしてそれを実感した時、自然と瞼の裏に浮かんできたのは自分を救ってくれた白髪の少年の姿だった。
『大丈夫。私がもう、リリを一人にはしない』
リリのために。リリを助けるために。
救われた気になるのはまだ早い。まだ何も終わっていない。
あの人はずっと、リリの事を待っている。
なら、すべき事など一つしかないでないか。
「はい! リリを連れて行ってください。あの人のところに!」
差し伸べられた手を掴み、前へ踏み出した少女の一歩には――――もう迷いなど一欠けらもなかった。
二柱の神と二人の少女が共に駆け出す光景を、物陰から見ていた女性がいた。
叫びなど到底届かないはずの彼方から助けを求める声を聞きつけ、それに応えるためにとんでもない速度で駆けつけた女性は、男神と女神が割って入るのとほぼ同時に現場に辿り着いていた。
いざとなれば割って入り、弱き者を助けようと様子を窺っていた女性は、SOSを求めたであろう
「なーんだ。私の出る幕はなかったみたいね」
置いてけぼりにされている男達に事情を問うべきか少しだけ思案するが、必要ないだろうと踵を返す。
あの笑顔が見逃したなら、自分がすべき事は何もない。
満足気に頷く女性は、次なる助けを求める声に応えるため駆け出した。
未だ『
目の前で繰り広げられる闘争に獣性を刺激され、血を求めて昂る者達と。結末の見えた戦いに関心を失った者達だ。
そのどちらも決着が近い事を感じ取っている。加えて、その勝敗も。
「良くもまぁ、それほどボロボロになるまで耐えたものだ。その諦めの悪さだけは、実に冒険者らしいな」
片膝をつき、息も絶え絶えなベルは、ザニスの皮肉に答える余裕すらなかった。
その身体は傷のないところを探す方が難しいほどに血に染まり、いつも笑みを浮かべる顔は苦痛と疲労に酷く歪んでいる。
剣を地面に突き刺し、それを支えに立とうしているのが傍目からも見て取れるが、膝が震えるせいか上手くいっていなかった。
「安心しろ、殺しはしない。それでは今後貴様に支払ってもらうはずの金が手に入らないからな」
ゆっくりとザニスが近付く。
だがいまのベルには、迎え撃つために剣を地面から引き抜く力すら残っていなかった。
「それでも二度と私に歯向かおうなどとは思わないよう、躾は必要だろう?」
嗜虐的な笑みを浮かべ、ザニスが剣を振りかぶる。
その時、誰もがベルの敗北を確信した。
実況席のイブリも、その隣に座る解説役のガネーシャも、多くの観客達や、ベルを応援しに来てくれた知己達も。
ベル自身ですら、一瞬その刃に切り裂かれる自身を幻視した。
しかしザニスがその剣を振り下ろす直前、その結末に異議を唱えるように彼の名を叫ぶ声が割って入った。
「ベル様!」
「――――――――!」
瞬間、ベルの身体はベル自身の意識よりも速く動いた。
振り下ろされる剣を紙一重のところで避け、どうやっても立つ事ができなかったはずの膝が跳ね上がって、その勢いと共に固く握られた拳がザニスの顎を撃ち抜く。
「ぐごっ!」
予想だにしていなかった反撃に、醜い呻きを漏らしながらザニスは盛大に吹っ飛んで地面に転がる。
そしてその一撃を想像もしていなかったのは観客も同じだった。
『
『おおおおぉぉぉおおぉぉおおおおおおおおおおおおおおおぉぉぉぉおお!』
弱者の反撃に会場が湧く中、殴られた顎を押さえながらザニスが目を瞠る。
「ば、バカな! あれだけ痛めつけたのに、立ち上がれるはずが……!」
「生憎と……私の勇姿を期待してくれている女の子が見ている。ならば私は、この名に懸けて無様を晒すわけにはいかない」
満身創痍で、それでもなんとか両の足で立つベルは、肩で息をしながらチラリと自分の名前を呼ぶ声がした方へ視線を向ける。
そこには妹に肩を抱かれながら、心配そうにこちらを見つめる
「アーデ……! なぜここに!?」
ベルの視線を追ってリリの姿を確認したザニスが、呻くように驚愕と苛立ちの混ざり合った叫びを落とす。
「これで条件は
狼狽するザニスに、ベルは状況が変わった事実を告げた。
たとえザニスが自派閥の団員にどんな指示を出していようと、こんなにも目立つ場所でリリに危害を加える事などできはしない。そしてこの戦いがベルの勝利で終われば『
つまり人質はもはや意味を為さない。
ザニスの圧倒的な優位は失われたのだ。
「
しかしザニスは不快気に眉を吊り上げ、ベルの発言をせせら笑う。
口に貯まった血を吐き出しながら立ち上がり、その瞳を怒りと侮蔑に染めた。
「笑わせるな。立つのすらやっとの貴様に、一体何ができるというのだ?」
ベルのズタボロな全身を改めて上から下まで眺め、ザニスは妄言を鼻で笑う。
彼の言う通り、状況はとても五分とはいえないものだった。
不意の一撃を食らったとはいえザニスはほぼ無傷。
一方ベルは、自力で立てているのが不思議なほどの満身創痍だ。
元々のステイタス差を考えても、戦況は絶望的としかいえない。
しかしベルはそんなものは些細な事だとばかりに、ザニスとはまるで違う笑みを浮かべた。
「ふっ、甘く見ないでもらおう。このベル・クラネル、さっきまでとは一味違う。何せ可愛い女の子が、私の格好良い姿を待ち望んでくれているのだから!」
もう一度、ベルは自分を心配して見守ってくれている少女を見た。
遠目でも分かるほど上気した頬に汗だくの肌。
きっと自分の事を思い、懸命に走り、駆けつけてくれたのだろう。
それを嬉しく思いながら、何より自分を見つめるその瞳に、ベルは喜びを隠せない。
真ん丸とした栗色の瞳。
そこに最後に別れた時の絶望の色はなく、代わりに心配に加え、自分に対する期待と信頼が込められている。
可愛い少女にそんな視線を向けられたなら、ベル・クラネルのやるべき事などただ一つ。
「あの子を笑顔にするために、あの子の本当の笑顔を見るために、私はあなたに勝つ」
地面に突き刺していた剣を抜き、その切っ先をザニスに向けながらベルは高らかに啖呵を切った。
「さぁ、始めよう! ここからが真の
ベルがいなくなるとレフィーヤが主人公じゃないかと錯覚してしまう今日この頃。
プロットを作った時点ではまだダンメモは5周年を迎えていなかったので今話の流れは全く別物だったのですが、5周年のシナリオを見終わってプロットを見直した時には自然とこの形に落ち着いていました。
フィアナ騎士団やフィンとの勇気とはまた違うリリの勇気を描くのは楽しかったです。
次回、『