「大旦那様。神田の六兵衛が参っておりまする」
仏間の襖を開けて新右衛門がそう言ってきたとき、儂こと棟平藤兵衛は仏壇に神頼みの真っ最中。
転生者である儂は、この時代に来るまでは決して信心深い方ではなかった。
されど科学も医療も未発達のこの時代。儂のふわっとした知識で底上げこそ出来てはいたが、現代に比べて出来ることはずっと少ない。
そうなればあとは天へと祈る文字通りの神頼みしかないわけで、だからこそ今の儂は数珠をじゃらじゃらと鳴らして、神仏についで先祖へも祈りを捧げていた。
…あれ? この場合の先祖って、転生前の儂の祖先もカウントしていいんじゃろか?
それはともかく。
「こりゃ新右衛門! 儂はしばらく籠るから、誰も通すなと言いつけておったはずだぞ!?」
「申し訳ありませぬ。されど、六兵衛が危急の事とのことで…」
むう。こやつがこれだけ言うとなれば、六兵衛の奴、よほど切羽詰まっているのやも知れぬ。
神田の伝統ある染物屋を吸収合併して久しい。
特に売り上げも問題ないはずじゃと記憶しているが、なればこそ六兵衛の要件が気になる。
「分かった。座敷へ上げておあげ」
「ハッ」
客間に行けば、件の染物屋の親方である六兵衛が座していた。
しきりに手拭いで額の汗をぬぐっていた六兵衛だったが、儂に気づき立ち上がろうとする。
「ああ、いいから。そのままそのまま。さて六兵衛や。急ぎの用向きと聞いたが、何かあったのじゃ?」
「…実は、久蔵のことでご相談したいことが」
「ふむ」
久蔵とは、儂が引き取って教育していた孤児の一人。図体はそれなりだが武術はからっきして、字はどうにか読めても計算には弱い。
ただ、愚直なまでに同じことを繰り返して倦むことを知らぬ性格に、こりゃ職人向きじゃなあ、と神田の染物屋へ預けて早数年。
「なんぞ久蔵が失態でも犯したのかえ?」
「滅相もありやせん。今やアイツの染物の腕前は、店随一、いや、江戸で一番といっても差し支えありやせんぜ」
「ほう! 大したものじゃな。して、その久蔵がなんとしたのじゃ?」
儂が先を促せば、六兵衛は訥々と語り出す。
久蔵の腕が良いのは先ほど六兵衛が証言した通りで、勤め始めて2年も経った頃には、既に一人前の技量を身に着けた職人になっていたそうな。
商人の手習いでは馬鹿にされていた久蔵も、一本独鈷の職人の世界では才覚があり可愛がられたようだ。
そして久蔵が15歳の時。この時代では元服といって成人を迎える年齢であるから、祝いも兼ねて親方である六兵衛ともども色街に繰り出した。
行った先の吉原で、ちょうど花魁道中を目にすることになったのはきっと偶然だろう。
しかし、どうも久蔵にとっては、とんでもなく衝撃的な出来事だったらしい。
煌びやかな集団の先頭をしゃなりしゃなりと歩くは高尾太夫。
その美しさに一目惚れした久蔵は、結局その日、吉原で筆おろしにまで至らなかった。
戻ってきた次の日からはボーっとして、仕事は手につかない。挙句、道行く女の顔が全て高尾太夫に見える始末。
こいつはいかん、と案じた六兵衛は久蔵に説教する。
こら、久蔵。太夫にうつつを抜かして仕事をあだおろそかにするんじゃねえ。
でも、親方。おら、あんな綺麗な人を見たのは初めてで…。
綺麗といってもしょせん花魁。おまえだって金を出せば相手をしてもらえるぜ?
本当ですか!?
ああ。十両もありゃあ大丈夫だろ。もっとも今のおまえの給金じゃ、貯めるのは五年もかかろうが。
十両ですね!? わかりました! 親方、よろしくお願いしますッ!
それから久蔵は遮二無二働いた。
文字通り目の色を変えて仕事にいそしみ、なんと三年で十両以上の金を溜めたという。
「むう…」
話を聞き終えて儂は唸る。
げにおそろしきはエロに賭ける執念の凄さよ。
そこに時代は関係ない。男だからね、仕方ないね。
「それで何が問題なのじゃ? 約束通り連れていってやればいいではないか」
「大旦那さま、無体なことをおっしゃらないで下さい。一介の染物職人であるあっしに、どんな伝手があるっていうんです?」
そもそも久蔵に金を貯めろといったのは仕事に邁進させるため。どうせ五年も経って金を貯めるころには、太夫への熱も冷めているだろう。
そう高を括った六兵衛を迂闊と責めるのは少々酷か。
されど、吉原の最高位である太夫に相手をしてもらうには、それなりのコネがなければ無理なことも事実。
「とはいえ、六兵衛、おまえにも誰ぞ放蕩好きな知り合いぐらいおるじゃろう?」
「そりゃお玉が池の竹内蘭石ってぇ懇意にしていたヤブ医者がおりましたけどね、ここ最近、なんとも人が変わった石部金吉になっちめえやして」
「医者か」
あー。
そういえば、江戸の医療レベル底上げプロジェクトの一環で、ヤブとか腕の怪しい医者たちを小石川療養所にぶち込んで研修三昧をさせた覚えがあったわー。
「なので、こうなったら、夜の暴れん棒将軍の異名を誇る棟平屋の大旦那にお頼みするしかねえと」
「ふむ…うんん!?」
なにそれ! なにそのあだ名!
夜な夜な遊女たちに『余の下半身を見忘れたか!(ゲス顔』で、デデーンしているの儂!?
そんなとんでもないあだ名を付けられる覚えは―――いかん、あり過ぎたわ!!
「ごほんッ! 力になってやりたいのは山々じゃが、今の儂はちと事情があって色街とは関りが…」
「そこをどうか! この通りでさあ!」
畳に額をこすり付けている六兵衛に、儂は困り果てるより先に感動していた。
元は儂が預けた孤児の話ぞ?
その子のために、引き取り手である親方が自らこうやって頭を下げるなど、なかなか出来ることではない。
儂はしばし瞑目ののち。
「分かった。久蔵は儂にしてみれば息子のようなものじゃしな」
ハッと顔を上げてくる六兵衛に笑いかける。
「そして、六兵衛、おまえにとっても息子のようなもんじゃろう? 親が子のために動くのに、道理を曲げてなんぼのもんじゃ!」
などとカッコよく決めてはみたが、実は儂、内心はウッキウキじゃった。
「んん~、吉原は久しぶりじゃあ!」
吉原なんぞラブホテルとソープランドの集合体じゃろ?
そう思っていた時期も、儂にはありました。
お歯黒溝を渡り大門を潜れば、そこはまさに別世界。
江戸の夕闇を圧して輝く、大人のエンターティメントひしめく夢の国。
綺麗に掃き清められた大通りを進めば、
「いらっしゃいまし」
慇懃に頭を下げてくる牛太郎に、飾りも煌びやかな引手茶屋が軒を並べておる。
「これ久蔵。あまりキョロキョロするでない。初めて来たわけではないじゃろ?」
「でも、旦那さま、おら…」
「言葉遣いも気をつけよ。今のお前は島田屋の若旦那なのだからな」
そして儂は、若旦那に付き添う道楽者の隠居という設定。
もちろん島田屋は偽名じゃ。ペニシリンを卸したりしているためか棟平屋も有名になってしまったもので、今の儂は越後のちりめん問屋のご隠居よろしく、白い付け髭を装着。
服装だって頭巾を被り、柿の木の侘びた杖を突いて、これで変装は完璧じゃ!
そして堅物な新右衛門は留守番じゃ!
「あ、棟平屋の旦那。ご無沙汰しております」
速攻でバレた。
解せぬ。
「う、うおっふぉんッ! わ、儂は島田屋の楽隠居じゃ! そしてこっちは倅の久蔵じゃぞ!?」
棟平屋? 知らない子ですね…とばかりに言い返すも、牛太郎は目を細める。
「なるほど、今回はそういう趣向の見立て遊びですか」
今回とかいうなや!
儂は狼狽しつつ、きょとんとしている久蔵の背中を押す。
「今日は倅が主役じゃ。さっそく茶屋へと上げておくれ」
吉原の入口からほど近い建物は、そのほとんどは引手茶屋である。
いきなり上級遊女とベッドインということはまずない。
この茶屋の二階で宴席を設け、そこに遊女を呼んでもらって宴会。
そののちに、茶男の案内で見世(店)へと上がるという手法を踏む。
ちなみに遊女がいる店の前面は格子張りだ。必殺シリーズなどで依頼料を捻出するために身を売った女性などが並んで「お兄さん遊んでいかない?」などと声をかけているアレである。
そして見世にもランクがあって、店の前にある「
「それでは、今日のお相手はどちらの…?」
「三浦屋の高尾を呼んでおくれ」
引手茶屋のご新造の表情が微かに翳った。
太夫ともなれば、それこそ予約でいっぱいである。
だがそこは儂のコネでどうにか段取りをつけたはずだぞ。
ひょっとして太夫の具合が悪いのか。それともなんぞ他の事情が?
ところが、儂が訊ねようと口を開くより早く、久蔵が懐から小判を取り出していた。
「金ならありますッ!」
畳の上に並べられたは十三両の小判。江戸では一家四人が一年暮らせて釣りがくるほどの大金じゃ。
加えて、粋といなせを愛する吉原でこれ見よがしに金子を広げるのは、あまり行儀が良い行動とは言えん。
それでも儂の目には、その金はすこぶる尊く映る。
興奮で顔を真っ赤にし、真摯な眼差しをぶつけてくる久蔵に、ご新造も何かしら感じ入るところがあったのだろう。
「―――承知致しました」
スッと頭を下げてご新造が座敷を出ていく。
「ふうむ」
と儂も溜息をついて肩の力を抜けば、久蔵がオロオロし始めた。
「だ、旦那さま! おら、とんでもないことを…」
「いやいや、ナイスな啖呵じゃったよ。その大事な金は仕舞っておき」
ないす? と首を捻る久蔵に、若旦那としての立ち振る舞いの最終レクチャーを施す。
「座敷の支度が整いましてございます」
ご新造に連れられて向かった座敷には、既に太夫が待ち構えていた。
綺麗に結い上げられた桃割れの髪に、小さな小さな瓜実顔。
切れ長の目元も涼やかに、ゆるっと引き締められた可憐な唇には鮮やかな朱が引かれており苺のよう。
その美貌は、煌びやかな着物を圧倒して余りある。
この時代の女性ってあんまり儂の趣味には合わんと思っておったが、やはり太夫は別格じゃなあ…。
「ほれ、久蔵。いつまで見惚れておる」
ボーっと突っ立っている久蔵の背中を叩く。
「申し訳ない。ウチの倅は、三年前に太夫を見初めてからそれはもう一途でのう」
「まあ…」
コロコロと笑う太夫の方へ、ぐいと久蔵を押し出す。
「あとは二人で、な」
そういって襖を閉じれば、ミッションコンプリート。
肩の荷が降りた反面、今日、久蔵が太夫を抱くことはないだろう。
気に入らない客には何両積まれても抱かれない、という太夫のプライドの話ではない。
初めて上がった客とは宴席を共にするだけで一緒に寝ることはない。これを『初会』。その次の逢瀬が『裏』、都合三度目でようやっと『馴染み』となり、一緒の床につけるという作法でありしきたり。
思えば六兵衛も罪なことよな。あやつも久蔵が太夫に相手をして貰えるといっても、単に
むろん儂もそれを責めるつもりはない。
吉原に身分差はないとはいえど、しょせんは久蔵は一介の染物職人。おそらく十三両も身を削って貯めたに違いない。いくら若いからといって、それをあと二回繰り返すのは無理というものじゃて。
されど、一度なりとも座敷で太夫と酌み交わしたとあれば、一生を支えるだけの思い出になるじゃろう…。
どれ儂も酒でも一杯、いや、せっかくだから遊女の誰かとウヒヒ…などと考えておると、背後から肩を叩かれる。
酒肴の載った盆を抱えたご新造だった。
「旦那様、こちらへどうぞ」
梯子段を降りて連れていかれたのは一階。そこから奥まった廊下の行き止まりと思ったら、正面の壁が開く。
そこの狭い階段を登れば小さな板の間があり、ここはちょうど太夫たちのいる部屋の隣あたり。
「ちょいとのぼせ上がった初顔さんが無茶をなさらないように、ね」
ご新造の説明に、儂は驚かない。
鬼平犯科帳とかでも、料理屋には大抵こういう覗き…いやいや監視部屋があったもの。
掛け軸の隙間に隠された覗き穴から、座敷の様子は丸見え、丸聞こえってヤツ。
なんか儂、マジックミラー号みたいでワクワクしてきたぞ。
『お、おら…じゃなくて、わたしの名前は久蔵と申しますッ!』
久蔵が口を開くが、さっそく危なっかしい。
『これはこれはご丁寧に。あちきは高尾と申すものでありんす』
対する高尾太夫は全く動じる様子はない。むしろ微笑ましいものを眺める余裕が感じられる。
いやさ、前に別の太夫と宴席を共にする機会があったんじゃけど、気づかいとか凄いのよね?
笑顔や合いの手を入れるタイミングも完璧でさ、もう会話するだけで話が弾んで楽しいのよ。
和歌、俳句、囲碁、将棋、小唄となんでも出来て、教養があるからどんな話題にも即時対応、理解力も半端ない。
なんせ儂の特注秘蔵の遊〇王のカードゲーム(イラスト:歌川広重&葛飾北斎 フレバ―テキスト:滝沢馬琴)のルールを一発で理解できたくらいじゃもの。
もちろん勘の鋭い太夫のことじゃ。きっと久蔵の所作から身分を偽っていることを察したに違いない。
それでいて、気づかない風に振舞うというのが一流のサービスというヤツなんじゃろうな。
なんて思っていたら、久蔵がぶっちゃけた。
『す、すみません! わたしは…じゃなくて、おらはただの染物職人なんです! でも、初めて吉原にきたときに見た花魁道中の高尾太夫に一目惚れして…!』
隣の隠し部屋で酒を噴く儂に構わず、久蔵は滔々と今日に至るまでの出来事を語った。
道行く女の人の顔が全て太夫に見えてしまったこと。
仕事が手につかず親方に叱られて、だったら金を貯めて合いに行けと言われたこと。
なので三年間、必死で金を貯めたこと。
大恩人である棟平屋の旦那様に今日、連れてこられたこと…。
最後の儂の部分は余計じゃね?
ともあれまったく悲壮な感じのしない告白だった。
むしろ、憧れの太夫に会う為だけの懸命な思いの積み重ねに、不覚にも儂の心も揺さぶられたほど。
じっと黙って耳を傾けている風の太夫じゃったが、聞き終えて「ぽんぽん」と手を叩く。
覗き穴から見れば、禿、つまりは遊女見習いの少女が、スーッと廊下の襖を開けるところ。
しゃなりと太夫は立ち上がり、久蔵の手を取って立たせている。
そしてそのまま二人は座敷を出ていってしまった。
向かった先はきっと妓楼で―――儂はご新造と顔を見合わせて唖然とする。
あれ? 作法としきたりはどうなったの?