街灯もまばらな薄暗い夜の街――。都会の喧騒を離れた静かな空間に一人の男の荒々しい息づかいと乱れた足音が吸い込まれていく。
「……奴は一体なんだ? 『仲間』ではない。では一体……」
男の呼吸は大きく乱れ、足が千切れんばかりに懸命に走っているが、歩様は安定していない。
「このままではまずい。何か策を考えなければ」
男は物陰を見つけるとそこに身を寄せた。そして冷徹な表情で右の太ももに目をやった。ズボンは鋭利な刃物のようなもので鋭く切り裂かれており、そこから大量の血が溢れ出ている。
(……この身体はもう長くは持たない。奴に一撃を加えさせる方法を考えなければ……。何とかしてやつの首をはね、そして……)
不意に地面を踏みしめる音がし、男は我に返った。見上げると、目の前にはまだ20歳ほどに見える若い女の姿がそこにあった。男は乾いた表情で女を凝視した。
「お前は、『仲間』ではないんだな?」
「……そうです」
「なぜ、私を狙う? 人間の差し金か?」
女は何も答えず、右手に持っていた拳銃のようなものを男に向けようとした。その瞬間だった。男は素早く身を翻すとその頭部を変形させ、鋭利な刃物を先端に有した触手で女に襲いかかった。鋭い金属音が空間を切り裂く。
「やはり、お前は人間ではない」
男の頭部から伸びている触手は、同じく女の左手から伸びている触手によって悉く押さえつけられていた。触手から伸びている男の瞳が女をつぶさに観察している。
「しかし、『仲間』にあるはずの信号も感じられない……」
女は再び右手の拳銃を男に向けるとゆっくりとトリガーを引いた。プラスチックが擦れあう小さな音が響き、銃口から打ち出された短い針が男の身体に打ち込まれた。
「即死性の神経毒です。どうか安らかにお眠りください」
男はじっと女をみつめていたが、やがて二・三度痙攣したかと思うと、その場に倒れた。
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「それじゃ、悪いけどあとよろしくねー」
「ああ、いってらっしゃーい。ゆっくりしてきなねー」
女は子供を抱えて玄関口まで見送りに来ている男に小さく微笑んだ。
「ありがとう、楽しんでくるわー。陽菜、パパといい子にしていてね」
「うん、いい子にしてる」
陽菜と呼ばれた4歳くらいの子供は母親に向かって笑顔で手を振った。母親の名は泉里美、そして里美を見送る男は泉新一だった。
里美の見送りが終わると新一は陽菜と一緒に居間に戻った。
「さあー陽菜、ママは行っちゃったし、一緒に遊ぶか?」
「ううん。ハルナは一人で遊ぶ」
「なんだー。パパとだと嫌なのか?」
「違うよ、パパ。パパ、いつも休みの日はゆっくりテレビを見たいって言っているでしょ?だから、パパは今からテレビ見るの」
「ははっ、そうか、ありがとう。陽菜、お前は本当にいい子だなー」
新一が陽菜の頭をなでると、陽菜はにっこりとほほ笑み、カーペットの上で人形遊びを始めた。新一はそんな陽菜の様子を見届けると自分はソファーに座り、テレビを付けた。
「ゴルフはもう終わっちゃったし、ナイターはまだかあー」
何となくチャンネルを回していると、夕方のニュースが流れてきた。ニュースでは海開きの様子が映し出されている。陽が燦々と降り注ぐ浜辺で親子連れが楽しそうに遊んでいる。
「そう言えば、陽菜はまだ海見たことなかったよなー?」
「うん。見たことないよー」
「今年の夏は海に行ってみるか?」
「えっ、ほんとう? うれしい」
陽菜は瞳をきらきらと輝かせて新一を見ている。
「海ってすごく青くて広いんだよね? クジラさんとかイルカさんにも会えるかなあ」
「そうだなあ。会えるかも知れないなあ。お魚さんもいっぱいいるぞ」
テレビの画面は次のニュースに映っていた。数年前から売れ始め、最近は各テレビ局に引っ張りだこになっていた有名女優が突然失踪し行方不明になっているとニュースは告げている。
「ハルナ、おさかなさんの絵をかく!」
陽菜はそう言うとクレヨンとスケッチブックを取りに部屋から出て行った。新一は再び視線をテレビ画面に戻し、チャンネルを切り替えるためにリモコンのボタンを押した。
「あれ?」
新一は思わずつぶやいた。別のチャンネルにしたはずなのに、また元のチャンネルに戻ってしまったからだ。
「よっと」
新一は再び別のチャンネルのボタンを押した。しかし、一旦画面は切り替わったものの、すぐさままた映し出される画面は先刻のものに戻ってしまった。
「何じゃこりゃ」
と、その瞬間だった。急に右手の感覚が無くなったと思うと、どこからともなく声が聞こえてきた。
「チャンネルは変えないでくれ。」
「うわっ」
新一は思わず小さな叫び声を上げた。新一の声を聞いた陽菜が隣の部屋から戻ってきた。
「パパ、どうかしたの?」
「いや、何でもないよ。ははっ」
新一はとっさに右手を太ももの下に隠すと、陽菜に向かってそう言った。新一の返答を聞くと陽菜は特に不思議がることもなく、また隣の部屋に戻っていった。陽菜が部屋を出ていくと新一は隠していた右手をまた出した。
「やあ。シンイチ。元気だったかい?」
右手の手のひらについている口がそう新一に語りかけた。ミギーだった。新一は自らの中にこみ上げてきた様々な感情をぐっと飲み込むと陽菜に聞こえないよう小さな声で返答した。
「ミギー。お前ってやつはなあ……」
「すまないな。あのニュースはちょっと最後まで見ておきたかったんだ」
「いや、そうじゃなくて……。お前ってホントに突然消えて突然現れるのなっ」
新一の心にはミギーに再会できたことによる大きな安堵感が広がっていた。
「……何かさあ、お前にまた会うことができたらあれも話そうこれも話そうと考えていたのに、全部忘れちゃったよ」
「それは好都合だな。実はわたしにもそれほど時間がない」
「えっ、またいなくなっちゃうのかよ?」
「いや、そうではない。端的に結論だけ言うと、わたしの命が狙われているんだ」
「誰に?」
「それはわたしにも分からない」
陽菜が鼻歌を歌いながら居間に戻ってくる気配が感じられた。ミギーはスッと姿を消し、新一の右手は普通の状態に戻った。
「おさかなさーん。おさかなさーん。海にいっぱいのおさかなさーん」
陽菜はカーペットの上にスケッチブックを広げると鼻歌を歌いながら絵を描き始めた。新一はソファーから立つと、陽菜に言った。
「陽菜、パパはちょっと夕ご飯の支度してくるな」
陽菜はシンイチの方に顔を向け答えた。
「ハルナも手伝うよ」
「ありがとう。でも大丈夫だよ、陽菜。パパ、さっきママの前で言ったろ?すごくおいしいご飯をパパが陽菜のために作るってな」
「うん」
「だから、陽菜、期待して待っていろよ」
「うん、分かった。じゃあ待ってる」
「よし、いい子だ」
新一は陽菜の頭を軽く撫でた。陽菜が再び絵を描き始めるのを見ると新一はキッチンへと向かった。
「シンイチ、あの子はシンイチの子供かい?」
「ああ、そうだよ。ミギー」
「へえー」
「何が『へえー』なんだよう」
「結婚相手は村野か?」
「そうさ。里美さ」
新一は冷蔵庫から野菜と肉を取り出しながらミギーに答えた。
「シンイチ、里美とあの子はわたしの存在のことは知っているのか?」
「っんな。知るわけないだろっ」
新一は野菜の袋を破りながらミギーに答えた。ミギーは新一の顔を覗き込むと言った。
「シンイチ、君は今からどこか安全な場所へ逃げなければならないんだ」
「……無理」
「シンイチ」
新一はまな板と包丁を手に取るとミギーを制するように言った。
「おい、ミギー、よく考えてくれよ。俺は今見ての通り家庭を持っているんだぜ。『お前たち、悪いけどパパ少しの間いなくなるから』って消えてしまう訳にはいかないだろ?」
「シンイチ、君は今働いているのかい?」
「ああ、当然働いているよ」
「だったら、長期出張に出ると言えばいい」
「もーっ、無理だって! 生憎出張のある仕事じゃないし、とにかく家を空けることはできないぜ」
ミギーはシンイチが包丁を使っている様子をつぶさに観察している。
「おい、聞いてんのかよ? ミギー」
「シンイチ、へたくそだな」
「へたくそって……放っといてくれよ」
「シンイチ、包丁を貸せ。わたしが代わりに作ってやるぞ」
「何でお前に作ってもらわなくちゃならないんだよ」
「誤って指を切られたりでもしたら嫌だからな」
「んなっ。大体何作るのかも分かってないだろうっ?」
「カレーじゃないのか?」
「……。何で分かったんだよ」
「簡単な話だ。この材料から構成される料理は数が絞られる。その上、料理のへたくそな人間が簡単に作れて子供が喜ぶものと言えばカレーしかないからな」
「あー、さいですか。じゃあ、天才料理人のミギー先生に全部お任せしますわ」
「シンイチ、ふてくされたのか?」
「もういいよ。それより、さっきの話に戻るけどさあ……」
ミギーはこなれた手つきで手際よく野菜を切っている。
「何でミギーの命が狙われているんだよ?」
「先ほども言ったが、理由は私にも分からない」
「じゃあ、何で命が狙われているって分かったんだよ?」
ミギーはおもむろにフライパンを手にした。
「それは、この世界に存在するわたしの仲間の数が急激に減っているからだ」
「……ちょっと待ってよ。何でそんなことが分かるんだよ」
新一はそう言うと椅子を引いて腰かけた。ミギーは3つ出ている瞳のうち1つの瞳で新一の様子を伺うと答えた。
「それは、わたしがこの世界に存在するすべての仲間の数と位置を把握できるからだ。」
「へっ? そんなことができたわけ?」
「できるようになったんだ。400年ほど前にな」
「400年ってなんだよ。大昔の話しじゃないか! ミギーそんな能力があるの隠していたのかよ?」
「いや、違うぞ。シンイチ。400年というのは、向こうの世界での話しだ。こっちの世界の時間で言えば8年程前の話しだ」
「はへ? よく意味がわかりましぇーん」
「時間というのは相対的に流れているんだぜ。知らなかったのかい? つまりこっちの世界の1年は向こうの世界の50年くらいに相当するってことだ」
ミギーはガスコンロの火をつけると野菜を炒めはじめた。新一は小さくため息をつくとミギーに問いかけた。
「それで、その能力を使って仲間の数が減っているって分かったわけ?」
「そうだ。元は1000体ほどいた仲間が現在は500体くらいまで激減している。われわれはもはや絶滅危惧種だ」
「それって、寿命とかじゃないの?」
「いや、違う。われわれに寿命はない」
「じゃあ、寄生していた人間が死んじゃったとか?」
「それも違う。死んでいった仲間たちが最後に発していた信号を観察したのだが、それは強い恐怖心だった。つまり、仲間たちは何か強大な敵によって抹殺された可能性が高い。それに、われわれはいざとなれば他の人間の身体に乗り移れるしな」
「じゃあ、本当に……そうだ、宇田さんは」
新一は椅子から立ち上がった。宇田に連絡するために部屋に置いてある携帯電話を取りにいく積りのようだった。
「シンイチ、安心しろ。宇田はまだ生きているぞ」
新一は、ミギーの声を聞くと振り返った。
「ミギー、分かるのか?」
「ああ。一度会ったことのある仲間なら個体の識別をすることも可能だ」
「そうか……」
新一は自らの気持ちを落ち着かせると椅子に再び身を落ち着けた。ミギーは相変わらず3つのうちの1つの瞳で新一を観察しながら今度は蛇口を捻り、鍋に水を満たしている。
「でも、危険は迫っていることには変わりはないってことか……」
新一は左手で額を抑え、考え込んでいる様だった。ミギーは鍋を火にかけると新一に答えた。
「その通りだ。刻一刻と危険は迫ってきている」
新一は顔を上げてミギーを見た。
「ミギー、敵の識別はできるのか?」
ミギーは一瞬天井を見上げるとまた視線を鍋に戻した。
「分からない……が、多分無理だと思う」
「仲間の信号しかキャッチできないってことか?」
「そういうことになるな」
「じゃあ、一体どうすれば……」
「できる限り多くの仲間で集まって身を守るしかないな」
「そいつは無理な話だぜー。ミギー。みんなそれぞれの生活があるはずだろう?」
ミギーは火の通り具合を確かめるために炒めた野菜に菜箸を指した。そして何かを考えているように口を結び、沈黙していた。
「ミギー、とにかく今のままだと動きようがないぜ。取りあえず宇田さんには連絡取ってみるけどさ……。何か危険を感じたら逃げ出す位しかできないぜ」
ミギーは依然として何かを考えている様だったが、しばらくすると答えた。
「そうだな」