どんよりとした厚い雲に覆われた夏の日の昼下がりだった。まるで幾時かの時代を遡ったかのような錯覚を与える古びた洋館の一室で一人の男が窓の外を眺めていた。今にも雨が降り出しそうな空は窓の外に映る情景に物悲しげな陰影を浮かび上がらせている。
男は何か物思いにふけるようにじっと窓の外を見つめている。その瞳には穏やかな光が浮かんでいたが、どこか一抹の翳りも感じさせるものだった。
不意に静寂を破るように部屋の扉が開かれる音が響き、一人の女が部屋の中に入ってきた。男は相変わらず窓の外を見つめたままだった。
「ファーザー、ただいま」
女が男に対して呼びかけた。男は女の声を聞くとゆっくりと振り返った。
「お帰り、祥子」
男は温かみのある声で祥子にそう声を掛けた。しかし、その表情が変化することはなかった。
「問題はなかったかい?」
「うん、特に問題はなかった」
祥子は静かに答えた。男は祥子の返答を聞くと小さく頷き、再びアームチェアをゆっくり回すと窓の外に顔を向けた。
「そうか、それなら良かった」
男は優しい口調でそう祥子に答えた。祥子はじっと男の後ろ姿を見つめていた。少しの間、沈黙が空間を支配した。そして男が再び口を開いた。
「祥子、実はお前に話しておかなければならないことがある」
男はおもむろにそう切り出すと祥子の方に向き直った。
「航平が我々の裏切り者となった」
男は特段表情を変えず、祥子にそう告げた。だが、祥子は見るからに動揺した表情を見せた。
「航平が……どうして?」
「理由は分からない。お前ならひょっとしたら分かるかも知れないと考えていたのだがな、祥子」
祥子は何も答えなかった。その表情は何か必死に考えを巡らせている様に強張っていた。男は祥子の様子を見ると続けて言った。
「エイジが今、航平を探している」
「エイジが……航平はどうなるの?」
祥子は不安げにそう問い返した。男がどのような答えを返してくるのかが分かっているのだろう。その瞳には何かを懇願する様な意思が浮かんでいた。
男はじっと祥子の瞳を見つめた。男の瞳には温かさとその奥に冷徹な厳しさが垣間見れた。祥子にどの様な言葉を返すべきか男は少し悩んでいるようにも見えたがやがて口を開いた。
「裏切りは決して許されない。航平には相応の罰を与えなければならない。分かるな? 祥子」
「罰……」祥子はそう小さくつぶやくと俯いた。再び二人の間には沈黙が横たわった。時計の秒針が何かの到来を告げるかの様に規則的に音を刻んでいる。
男は祥子の様子を確認すると言った。
「航平が我々の元を離れていくとは私も考えてもいなかった。あいつの気持ちを理解できていなかったようだ。その点に関しては私に大いに非がある」
「ファーザー……」
「また進展があったら話をする。祥子、お前も何か思い出したことがあったらその時は私に話してくれ」
「うん、分かった」
祥子は小さな声でそう答えると部屋から出て行った。男は祥子が出て行った後も暫く部屋の扉の方を見つめていたがやがて元の様に窓の外を見ていた。厚く立ち込めた雲からは雨が落ち始めていた。
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雨の降りしきる夜の歩道……。新一は合羽を身に着け、生憎の雨に嫌気を感じつつ愛犬の散歩をしているようだった。普段、夜の散歩は里美がやっていたのだったが雨の日は新一がやることになっていた。犬は3年前に会社の同僚から引き取った雑種犬だった。子犬の頃は病弱で小さい犬であったため『コマメ』と名付けたが、今では名前に似つかず立派な体格になっていた。
「はー、お前は雨だっていうのに元気だなー。今日は涼しいからかー?」
新一は意気揚々と先を急ごうとするコマメに対してそう言った。コマメはそんな新一のことなど気にもせず我が道をどんどん突き進んでいく。
「おい、コマメ、そっちはダメだって。ドロドロになっちゃうだろ」
新一は泥の水たまりを横切ろうとするコマメに対してそういうとリードの紐を引っ張ろうとした。と、その時だった。新一は足を滑らしバランスを崩すと尻餅をついてしまい、リードを手から放してしまった。
コマメはチャンス到来とばかりに一気に駆け出し、新一から遠ざかっていった。
「こら、コマメ、ちょっと待て!」
新一はとぼとぼと立ち上がるとびっしょりと濡れたズボンに付いた泥を軽く手でふき取った。
「かー、ついてないなー」
新一の動揺を察したのであろうか、ミギーが瞳を覗かせた。
「シンイチ、びしょびしょじゃないか。泥遊びでもしていたのかい?」
「お前はだまってろっつーの、ミギー」
新一はそういうとコマメが走り去っていった方に向かって走り始めた。
「なんだ、犬が逃げたのか? 何なら私が捕まえてやってもいいぞ」
「お前に任せられるわけないだろ。逃げる犬を長く伸びた右手が追いかける所なんて人に見られたらどうするんだよ」
新一は走りながらミギーに対してそう言った。ミギーは新一の顔をおもむろに覗き見ると言った。
「確かに君の言う通りだな。では任せることにしよう」
「かー、まったくお前って奴は俺のことをからかいに出てきただけなのかねー」
新一は走りながらミギーに対してそう言った。
コマメは近くにあった公園の敷地内へ入っていってしまった様だった。新一も追いかける様に公園内へと入っていった。
「おーい、コマメ、何処行ったんだよー」
新一は多少小止みになってきた雨を合羽越しに身体に受けながら歩を進めていった。すると次の瞬間、近くの茂みの中からコマメが一度吠えた声が聞こえてきた。
新一はコマメの声がした茂みの中へと入っていった。
「コマメー、そこにいたのか」
新一は藪を掻き分けながら進んでいった。コマメの息づかいが直ぐ近くから聞こえてくる。まるで飼い主に可愛がられているかの様に甘えた声を時折出している。
「コマメ、遂に観念したか」
新一が藪を抜けた時だった。そこにはコマメとコマメを撫でている一人の男がいた。新一と同じ位、あるいは少し若いだろうか。男は木の幹に背を預け、半分もたれ掛かっているような姿勢で座っていた。全身は雨でグッショリと濡れており、左のわき腹の辺りの服に赤黒い大きなシミがついていた。
「お、おい、大丈夫か?」
新一は男に対してそう問いかけた。男はコマメを撫でていた手を止めるとゆっくりと新一の方を見上げた。虚ろな目をしていたが、その奥には何かに対する敵意が秘められている様だった。
「大丈夫だ。この犬はお前の飼い犬か?」
男は犬の方に目をやると新一に対してそう問いかけた。
「そうだけど」
新一は再び男に尋ねた。男はコマメの頭を撫でている。
「そうか」
「おい、そのわき腹、怪我しているんじゃ……」
男は新一が話し終わる前に急に身体を捩じらせると木の幹を頼りにしながら立ち上がろうとした。明らかに左わき腹の傷を庇っている様だった。男はなんとか立ち上がったが木の幹に身体を寄り添わせるだけでそれ以上は動けないようだった。コマメはそんな男の様子をつぶさに観察している。
「おい、大丈夫か? 救急車呼ぶぜ」
「余計なことはするな」
男は新一の提案に対して間髪を入れずにそう答えた。
「俺は大丈夫だ……早くここから消えろ……」
男がそういい終わらないうちだった。次の瞬間、男は力なくその場に崩れ落ちた。「あっ」……新一はそう声を出すと男の近くに駆け寄った。男の意識は朦朧としている様だった。新一は男の身体を起こし木の幹に預けるとポケットの中から携帯電話を取り出した。
「おい、やめろ……」
男はぼんやりとした眼で新一の方を見ながら言った。
「なんでだよ……」
「俺は追われている。奴に見つかったら殺される……。俺のことは放っておけ……」
男はそういうとぐったりと俯きそのまま動かなくなった。失血が酷かったせいだろうか。今度は完全に意識を失ってしまっているようだった。新一は茫然自失としてその場に立ち尽くしていたが、やがて考えがまとまったのだろう。男の身体を抱きかかえると家に向かって歩きはじめた。
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新一が家に戻ると里美はかなり動揺した。里美は救急車を呼ぼうときかなかったが新一はそんな里美を何とか宥めると男の手当てを行った。男のわき腹には鋭利な刃物で切られた様な傷口が広がっていた。しかし傷口は大きかったが傷は浅く、内臓にも問題はなさそうに見えた。
男の手当ても終わり、陽菜も寝付くと里美は新一に対して問いかけた。
「あの人は一体誰なの?」
里美は終始不安そうな顔をしている。
「さあ、それが分からないんだ」
「『さあ』って……」
里美が怪訝そうな表情を見せたため、新一は慌てて言葉を足した。
「救急車を呼ぼうともしたけど、あいつは頑なにそれを断ったからな。追われているって言っていたし」
「……やっぱり警察とかに連絡したほうがいいんじゃないの? なんて言うの……そういう事情があるなら」
新一は余計なことを言ってしまったことを後悔していた。普通の人間ならば何者かに追われている深い傷を負った人間が突然家の中に転がり込んで来たら里美の様に疑心暗鬼になり防衛本能が働くのは至極当然のことであった。そう、普通の人間ならば。
「明日の朝、あいつが目を覚ましていたら事情を少し聞いてみるよ。それで警察に届け出るのかは判断しよう」
新一は里美にそう提案した。里美は依然として躊躇している様であったが、暫く考えた後、新一の提案を受け入れた。
里美との話し合いが終わった後、新一は風呂に入っていた。入浴の時間はここ最近の新一にとって重要な時間となっていた。なぜなら風呂の中に居るときだけがミギーと気兼ねなく会話することのできる唯一の時間であったからである。
「ミギー、お前はどう思う?」
新一は身体を洗い終え、湯船につかるとミギーにそう問いかけた。ミギーはまったくそっぽに瞳を向けていた。
「さあな」
「おい、もう少し真剣に考えてくれよ。明日、里美のことも説得しなければならないんだぜ」
新一の話しを聞いているのか、聞いていないのか、ミギーは依然としてそっぽを向いていた。しかし暫くすると思わせぶりに口を開いた。
「気になるのはあの傷口だな。よっぽど鋭利な刃物で切りつけられたんだろう。まるでわたしがやったかのような傷跡だ」
「おい、ミギー、それってどういう意味だ? まさかお前の仲間がまた普通の人間を襲い始めたっていうのか?」
「ああ、あるいはそうなのかも知れないな」
「そうなのかもって……お前って奴は本当に冷静なのなっ」
新一はそういうと湯船に肩まで身体を沈めた。ミギーは初めて新一の方に瞳を向けると新一の眼を覗き込んだ。
「シンイチ、わたしの仲間が関係しているかどうかは別として気に掛かる点が1つある」
「気に掛かる点?」
新一はミギーの瞳をまじまじと見つめて問い返した。
「ああ。あの男、自分が何者かに追われていると言っていただろう?」
「うん、そうだな。それがどうかした?」
ミギーは更に新一の顔に瞳を近づけた。
「一体誰に追われていたんだと思う?」
「さあな、超能力者じゃあるまいしそんなこと聞かれたって分からねえよ」
「そうか」
ミギーは新一の顔から瞳を遠ざけると何かを憂慮しているかの様に遠くを見つめた。
「おい、ミギー?」
「まあ、今の時点で可能性をあれこれ言っても所詮推論の域は出ない。明日、直接確認してみるしかないな」
ミギーは瞳を1回転分くねらせるとそう言った。
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翌朝、新一は普段よりも大分早く目を覚ますと隣で寝ている里美を起こさないように気をつけながら起き上がった。そして男が眠っているであろう階下の客間に向かった。階段を降りる途中、ミギーが声をかけて来た。
「早起きだな、シンイチ」
「ああ、お前も起きてたんだな、ミギー。安心したよ」
新一は半分寝ぼけまなこな声でミギーに対して小さな声でそう答えた。
「そうだ、シンイチ、まだ言ってなかったかも知れないがわたしは眠りにつくことはなくなったんだぞ」
「はあ? ってことは元の様に常に覚醒した状態を保てるように戻ったってこと?」
「その通りだ」
「お前なー、そういう重要なことはもっと早く言えっつーの」
新一は左手で目をこすりながらミギーにそう言った。ミギーはとぼけるように瞳の視線を前方に向けている。
間もなくして新一は客間に辿りついた。そしてふすまを開けた。すると男はすでに意識が戻っていたようだった。新一が部屋に入ってくると新一に視線を向けた。
「あっ、起きてたのか。怪我は大丈夫か?」
「ああ、大した怪我じゃない。大丈夫だ。」
男はどこか茫洋とした瞳で新一を見つめるとそう答えた。
「ここはどこだ?」
「俺の家だ」
「お前、名前はなんて言う?」
「泉新一だ」
「泉……か」
男は視線を天井に向けた。何か全く別のことを考えているかの様にその瞳は虚ろだった。
「お前の名前は?」
「……喜多だ。水をくれないか?」
喜多は天井を見つめたままそう言った。
「あ、ああ、分かった。水でいいのか?」
「水でいい」
新一の問いかけに対して男はボソッとそう答えた。新一は台所へ行くとコップに水を一杯入れて客間へと戻った。新一が戻ると喜多は既に身を起こしていた。「ほら」と新一が水を差し出すとそれを受け取り、半分ほど口に含んだ。
「もう起き上がっても平気なのか?」
「ああ、平気だ」
喜多はそういうとコップを脇に置いた。その視線は急に鋭くなり、前方を凝視している。
「俺は普通じゃない。この程度の怪我なら放っておいてもじきに良くなる」
「普通じゃ……ない?」
喜多は新一の反応がやや以外であったのであろうか。新一の方に視線を向けると嘲笑する様な笑みを浮かべた。
「ああ、俺は普通じゃない。お前と同じようにな」
喜多の放った言葉に新一は血流の流れが急に早くなっていくのを感じていた。『この男は何かを知っているのか?』新一の頭の中では瞬間的にその問いかけが巡っていた。
「ははっ、俺は至って普通の人間だぜ」
新一は言葉を濁して答えた。喜多は依然として挑戦的な瞳で新一を見つめてきている。
「さっきからずっとダンマリじゃねーか。右手さんよ」
新一は動揺していた。久しぶりにミギーの存在に勘付く人間が目の前に現れたからだった。そして少し間はあったが、ミギーが姿を現した。
「ミギー、仲間なのか?」
ミギーは喜多をじっと見つめている。喜多も特に表情を変えることなく、ミギーを見つめていた。
「いや、違う。こいつは仲間ではない。仲間から感じられるはずの信号がないからな」
「じゃあ一体……」
新一は喜多の方に視線を戻した。喜多は不敵な笑みを浮かべて新一を見た。
「その右手の言うとおりだ。俺はそいつの仲間ではない」
「じゃあ何でミギーの事を……」
困惑している新一の表情を楽しむかのように喜多は薄笑いを浮かべていた。
「俺は特別だからだ」
喜多がそう言い放った後、お互いの間合いを測るかの様に少しの間沈黙が訪れた。そして再び喜多が口を開いた。
「1ついいことを教えてやろうお前達は今、命を狙われている。正確に言うならば『お前は』か……」
そう言うと喜多は思わせぶりにミギーの方を見つめた。新一もつられてミギーを見た。ミギーは両者の視線は全く意に介していないかの様に口を開いた。
「お前は何かを知っているようだな」
「ああ、知っているとも。俺はついこの間までそいつらと行動を共にしていたからな」
喜多のその言葉は場の空気を一気に緊迫させた。
「ということは俺たちを殺しに来たのか?」
新一は身構えるとそう喜多にそう聞いた。ミギーも臨戦態勢に入っている。
「まあそういきり立つなよ。お前の予測は外れだ。俺はお前達を殺りに来たんじゃない。俺はあいつらから逃げてきたんだ」
「なぜだ?」
ミギーは依然として臨戦態勢のまま更に喜多を問い詰める。
「理由か? そうだなあ、退屈になったからとでも言っておこうか」
「退屈……ということはやはりお前もミギーの仲間の殺戮に加担していたってことか?」
新一はにらみつける様な鋭い視線で喜多に言った。
「ああ、そういうことになるな。しかし勘違いしないで欲しいのは今はもううんざりしているということだ。殺しは決して何も生み出しはしない……」
「お前達がわたし達の命を狙っている目的は何だ?」
ミギーは極めて冷静な口調で喜多に聞いた。喜多は薄ら笑いを浮かべている。
「ふん、目的か。改めて聞かれると中々答えに窮する質問だな。……そうだな、邪魔になったからだ。お前達の存在が。だから殺している」
「んな勝手な話し……許されるわけないだろ」
新一は少し頭に血が上っているのであろうか。声を荒げながらそう言った。
「少し落ち着けよ。別に俺は理不尽な話をしているわけではない。言わば掃除をしているようなもんだ。ゴミが目の前にあればそれを捨てる。人間もやっているだろう?」
「それとこれとは話しが違うだろ……」
新一は怒りの収まらない様な震えた声を絞って言った。喜多はそんな新一の様子を見るとミギーに視線を移した。
「ミギー……だったか? お前なら俺の言っていることが分かるだろう?」
喜多は座った眼でミギーを見ている。ミギーは何かを熟慮しているかの様に一度瞬きをした。
「お前の言っていることが間違っているとも正しいとも言うつもりはわたしにはない。だが、ことがわたしの命に関わっているという限りにおいてお前の話は聞き捨てならないものとなる。なぜわたし達の存在が邪魔になったのだ?」
ミギーの問いかけに対して喜多は何も答えなかった。まるで脅しをかけている人間が見せるような淀んだ瞳でミギーを見ている。しかしミギーは喜多のそんな視線も全く関係ないようであった。
「わたしの推測が正しければお前の集団のボスと呼べる人物は恐らくわたし達の誕生に深い関わりがある」
ミギーの放った言葉対して喜多は表情を変えることなく沈黙していた。
「もう一度聞く。お前の集団のボスは誰で一体何のためにわたし達の殺戮を行っているのだ?」
喜多は少しの沈黙の後に口を開いた。
「話しはここまでだ」
「なに?」
新一は思わず喜多に詰め寄った。
「まだ何も聞いちゃいない。話せ。お前が知っていることを」
「いいのかい? 来るぜ。お前の後ろ……」
喜多は薄ら笑いを浮かべながら新一の後ろを見やった。新一は我に返って後ろを振り返った。間もなくして里美が姿を現した。ミギーは既に姿を消していた。
「あ、おはよう。もう起きてたんだね」
里美は新一に向かって言った。「ああ」……新一は立ち上がりながらそう答えた。里美はチラチラと喜多の方に視線を送っている。
「あのう、怪我は大丈夫ですか?」
「ああ、大したことない。大丈夫だ」
喜多は返事をした。里美はどこか居心地の悪そうな表情をしている。
「安心しろ。俺は直ぐにここから出て行く。ここは俺のいるべき場所ではない」
「いえ、そんなこと……傷が良くなるまでどうぞ、ゆっくりしてください。そうだ、食事はとれそうですか?」
里美はばつが悪そうな顔を見せると喜多にそう声をかけた。
「ああ」
「お粥とかの方がいいですよね?」
「別に何でも構わない。お前らの普段の食事を準備してくれるならばそれで十分だ」
「あ、はい」
「じゃあ、ちょっと準備してくるね」……里美は新一に向かってそういうと部屋から出て行った。里美がいなくなると新一は部屋の隅に腰を下ろした。
「喜多、お前は裏切り者として追われているのか?」
「ああ、そうだ」
喜多は新一の方は見ず、前方を見ている。
「その傷もお前の仲間にやられたのか?」
「ああ」
「そいつらを倒すために協力してくれと言ったらお前は協力してくれるのか?」
その言葉を聞くと喜多は視線を上げて新一を見た。そして小さな声で笑っていた。
「別に構わない。助けてもらった礼だ。協力くらいしてやる。だが、あいつらを倒すことはお前にはできない。絶対にな」
喜多は重大な真理を告げているかのような挑戦的な瞳で新一を見ていた。新一はそんな喜多の瞳を無言で見返していた。
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その日の昼、新一は職場を抜けると近くの小さな公園で電話をかけていた。電話をかけた相手は宇田だった。程なくして宇田が電話に出た。
「はい、もしもし、宇田です」
「宇田さん、新一です」
「ああ、新一君か、どうだい、その後は?」
宇田の口調は前回よりもはっきりしていた。
「はい、こっちは取りあえず大丈夫です。宇田さんの方は?」
「ああ、こっちも特に変わったことはないよ。いやー、新一君から連絡をもらった日以来びくびくしながら毎日を過ごしているんだけどさー」
「こいつ、本当にビビり過ぎなんだぜー」
ジョーが電話口に口を挟んできた。宇田がそれを制しているようだった。
「ははっ、まあお互いに無事で本当によかったよ。今回の電話は近況の連絡かな?」
「いや、宇田さん、1つ伝えたい事があって電話したんです。実は俺たちの命を狙っている敵の正体が分かりそうなんです」
「ええっ、それは本当かい?」
「はい。敵の組織を裏切って逃げてきた奴を今うちで匿っているんです」
「何だって、一体どういうことだい?」
宇田は驚いた声を上げて新一にそう尋ねた。
「詳しい事情はまだ分からないんですが、とにかく敵の正体と詳しい情報を知っているのは確かです。それに俺たちに協力すると言っていますし……」
「でも、敵の組織に居たってことは僕たちのことを狙っていたってことなんだろう? 本当に大丈夫なのかなあ……」
「完全に信用はできないかも知れません。でも、そいつは裏切りをした結果敵から攻撃を受けて大きな傷を負っていますし、今はこちらの仲間ではないにしろ敵でもないということです。それに敵の情報は今の俺たちの身の安全を図るためには絶対に必要なこととなりますし……」
宇田は少し考え込んでいたようだがやがて新一と同じ考えに達したようだった。
「分かったよ、新一君。何とかその人の……えーっと名前はなんていうのかな?」
「喜多です。歳は俺より少し若い位だと思います」
「そうか、喜多君か……何とか喜多君の協力を引き出していい作戦を立てないとね」
「はい」
「じゃあ、新一君また何かあったら連絡頂戴ね」
「はい、分かりました」
新一は電話を切った。まぶしい陽射しにが降り注ぐ目の前の歩道を何人かのOLが通り過ぎていく。新一はしばらくの間、ぼんやりと目の前の情景を眺めていた。