「……ふぅ、これでよしっと。次は何をしましょうか」
臥せることも稀になった私、素山恋雪は今自分の足で歩けています。これも全て家族と、あのお侍様の薬のおかげです。感謝してもしきれません。
すこしでも恩を返したい。けれど私にあるのはこの不自由極まりない体のみです。ふらっとどこかへ行ってしまうお医者は兎も角、せめても家事のひとつくらいしようとすればみんなして私を止めてしまいます。
何回もお願いすれば渋々家事の手伝いを了承してくれました。簡単なものだけですけど。
これもそのひとつ。洗濯物干しです。やはり家事はいいものです。家族の一員として役に立っている実感があります。
そして今しがた干した道着達の前を通れば、
ふわり。
そうして香ってくるのは狛治さんの香り。
「これは……狛治さんの道着……」
周りを見る。誰もいない。
心臓の音がうるさい。きっとこれは病気のせい。
病気のせいだったら仕方ないです。少しくらいなら……
「っ……だめです私。こんなはしたないこと……」
「あ、恋雪さん」
「ひゃあっ!? ご、ごめんなさい!」
「なぜ謝るので?」
縁側を歩いている狛治さんに見られてしまいましたでしょうか。いいえ大丈夫だと思います。布団で顔は隠れていたのですから。
しかしどうしましょう。最近変です。この胸の高鳴りをお医者様にお話した方がよろしいのでしょうか。
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次の仕事を探そうと思ったら、大方母様がしてくださっていました。なので掃除でもしようかと思いましたところ、父様と狛治さんに止められました。なので自室で横になります。すると疲れがどっと出てきたので驚きました。暫く立てそうにありません。父様達は分かって休むように言ってくれたのでしょうか。
だとするとすごいです。
体を動かさなくなれば、代わりに頭が冴えてきます。
この時間が嫌い。浮かんだ不安が私を憂鬱にさせるからです。
「はぁ……私の体が弱くなければ……」
きっと母様と一緒に買い出しに行けるのでしょう。
きっと父様と一緒に道場で汗を流せるのでしょう。
そして、狛治さんは私を看病することも無くなって自由になるのでしょう。
私の病気は回復傾向にあるとそうお医者は仰っていました。数年前とは比べ物にならないくらい体を動かせている自覚もあります。
それ自体はとても嬉しいのです。しかし看病の必要がなければ狛治さんは出ていってしまわれるのでしょうか。狛治さんの実力は父様の折り紙付きです。ここに来る前ですら一人で十分暮らしていけたらしいでしょうに、親切心故ここに留まってくださっているのでしょう。
「いっその事、仮病……突然悪化したというのはどうでしょう……なんて、私は誰に言ってるんでしょうね。 …………あら?」
ふと横を見ると曇り空ながらも、微かな日光が障子の向こうに人影が映っております。何方かいらっしゃる様子。狛治さん……ではありませんね。あの方は開ける時、律儀に正座をしてくださいますし、一言ことわってくださいます。
だとすると父様、母様。若しくはお医者様の筈ですが……反応がありません。何か息遣いも荒いです。
「────」
「……どうぞ?」
すぅっと微かな音をたてて襖が開かれると、私の予想した方たちでは無い人がいました。
「恋雪、迎えに来たぞ」
「え?」
それも一人じゃありません。何人かいらっしゃいます。……なんでしょう。一番前に立っている人の顔をみると怖気が走ります。目がぎらついて、とてもではありませんが狂気を孕んでいます。
怖い。
怖いです。
「む、迎え? ……なんの迎えでしょうか。そのような話は聞いておりま……」
「早く行くぞ。見つかったら厄介だ」
思い出しました。この人はあの剣道場の息子さんです。お仲間を数人連れて来たようです。『迎えに来た』とはなんなのでしょうか。迎えもなにも私は何も頼んでいないのですが。
本当に怖いです。身の危険を感じます。
「ぇ? ……きゃっ!?」
「焦れったい。早く行くと言っている」
ああ、私はこれからどうなるのでしょう。これも自分勝手にあの人の自由を奪おうと考えた私への罰なのでしょうか。
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体が熱い。足が覚束無いのに、無理やり歩かされ……熱い。私は足を動かせているのでしょうか。結い上げていた髪も、見苦しい程に振りみだしています。みっともないです。
「恋雪、良くなったんじゃないのか? もう少し早く歩いてくれると……その……俺は嬉しい」
「おねがいですから。家に……帰して……くださ……い」
「大丈夫。剣道場はすぐそこだ。落ち着いたら二人でこれからの話をするんだ。もうあんな薄汚れた道場に帰らなくてもいい。おい手伝ってやれ」
全く話が通じません。
横から腕をより強く掴まれます。歩く速さがさらに上がりました。体が揺れて気分が一気に急降下する。吐き気が込み上げてきました。何かを考えることよりも、早くこの吐き気を止めることに意識が向いてしまう。
なんで? 狛治さんに抱えられた時はこんなに体が強ばらなかったのに。
「恋雪の腕以外に触れたら斬り捨てるからな」
「は、はい」
「離して……くれませんか?」
「恋雪が遅すぎるんだよ……ああ、すまなかった。配慮が欠けていたな。おぶって欲しいのならそういえばいいのに。ほら抱えてあげ」
「放し……てっ!」
「…………は?」
今の私に出来る精一杯で抵抗した。ああダメです。今ので余計に気分が悪くなりました。頭が痛い。息ができない。喉の奥で鉛が暴れているようです。
「おい。人が優しくしてれば離して『離して』だと? 調子に乗…………恋雪……?」
「はぁ……はぁ……」
「おいお前、どういうことだ! 病気は治った、そう言っていただろう!?」
「違っ……! 俺は見たんです、家で元気そうに洗濯をしていた所を! まさかまだ治ってないだなんて思いません!」
「ど、どうしよう……!? ひょっとして……このまま死ぬんじゃあないですか!?」
「っ!? ………………か、帰る……ぞ」
「え、いやでも」
「帰るといっている!!」
分からない。分からない。分からない。地面が冷たい。私は死ぬのですか。こんなに簡単に死ぬのでしょうか。
人の気配が遠のくのを感じます。助けを呼びに行ってくれたのでしょうか。まさか。きっと逃げたのでしょう。なんて薄情な人。
「恋雪さん!」
幻聴すら聞こえてきてしまいました。
「恋雪さん!!」
ですが嬉しいです。最後に狛治さんの声が聞けてよかったです。
「恋雪さん!!!!」
「ぇ……は……く……さん?」
「そうです。俺です。大丈夫です。楽になりますから飲んでください。薬です」
「ん……」
ひんやりとした感触とほろ苦い味が今は心地いい。のどのいがいがが薄れて楽になってきました。でもまだ熱い。
なぜ狛治さんがここにいるのでしょう。
「……その刺青。お前、あの道場にいる江戸流れの罪人だな。お前には関係ない。即刻去れ。……おい。聞いているのか。何を飲ませている。俺の質問に応えろ、罪人風情が!」
「……」
「っ! ……いい加減に」
「お前は……今逃げようとしただろう。苦しむ恋雪さんを置いて」
狛治さんの底冷えするような声が怖く感じます。しかし、私を支える手はとても優しく触れていてくれています。私のために怒ってくださっているのでしょう。今はそうやって怒ってくれるのがとても嬉しいです。
「な、何度も言わせるな! お前には関係ないことだ。
それに恋雪の病は治ったはずだぞ、今の今までこうして歩けていただろう? ……そうかわかったぞ仮病だ。そうしかない。恋雪を返してもらおう」
「断る」
「っ……罪人の癖して生意気な」
「知ってるか? 拳じゃ刀に勝てねぇんだよ!」
「そうだ。拳じゃ刀に勝てない。だがあの人に比べたらお前らごとき敵じゃない。向かってくるなら容赦はしない」
抜刀が彼らの答えでした。
あれで人は殺せる。簡単に。狛治さんが死んでしまう。一対一なら分かりませんが、相手は複数。多方向から斬られれば危ないです。狛治さんが危ないのに。私は何も。
「跡継ぎ! 刃傷沙汰になれば……大事になりますよ!」
「師範もあの道場は喉から出るほど欲しい。多少弟子を痛めつけた所で何もしてこない。恋雪を取り返して
…………ぐぼはぁ!? 」
一撃。
いつの間にか肉薄していた狛治さんが剣道場の息子さんのお腹に一発。他の皆様にも何か一撃を入れて昏倒させてしまわれました。
私の目には最初の一撃しか捉えることができませんでした。それはあの方達も同じだったのでしょう。倒れてしまわれました。
なんでしょう。なにか込み上げてくるものが。
「はぁ……はぁぁぁ……」
思わず口に手をあてれば、熱の篭った息が漏れ出てきました。
叫ぶ有象無象は視界に入らない。これはただの発作。そうでなきゃこの胸の高鳴りを説明出来ません。薬で軽くなったのにまた再燃してきました。
玉のような汗も、刺青の入った双腕も、凛々しい横顔も、猛々しい風格も、包まれるような温かさも。全てが輝いて見える。
「帰りましょう。恋雪さん。俺たちの家に」
そう言うと狛治さんはしゃがんでくれます。背中に乗れということなのでしょう。
ああ、どうかお願いだから、やめて欲しい。私ごときに構わないでほしい。分相応でしょう。こんなに強くて優しい人が私みたいな死に損ないに振り回されるなんて。
別の誰かの方が……いえ、なるほど。合点が行きました。狛治さんは誰にだって親切をするのですね。私はその中の1人でしかないのでしょう。
嫌。嫌。嫌。嫌。嫌。
あれ?
「恋雪さん? ……今なにか」
「なんでもないです」
「でも」
「なんでも……ないんです」
強くなりたいです。強くなればきっと……
★
屋根の上に鬼二人。初雪と犬を見ていた。
明星を束ねたような髪と、鮮血に染め上げた瞳を持つ鬼。
腰まで届く黒髪をたなびかせ、六つ目で睥睨している鬼。
女の鬼の方は真っ赤な蛇の目を差している。
「……荒療治だね」
「我ながらそう思う。だが無惨が来る前に二人の仲を伸展させておきたい。危険が伴おうともな」
「ふぅーん。だから道場に忍び込んできた彼奴らを見逃したんだ。それにしても、あれで婚約者同士じゃないって本当かわいい。二人とも自分が想い想われていることに気がついていないなんて」
女が妖艶に笑う。ありとあらゆる男を傀儡にさせるその笑みには獰猛さと幸福が入り交じっていた。血腥く、それでいて自然な笑み。
女は怒っていた。男たちが恋雪を置いて逃げ出そうとした時、滅却せしめようとした程に。
鬼は人よりも人並みの感情を持っていた。
「狛治の方は気づきかけている。恋雪を後押しして狛治に気づかせてやればいいか」
「うーん。どっちかと言えば女の子の方が気づきかけてると思うけどね。
それで、本当に彼は仲間になってくれるの? ああいうのは倒せるけど殺せない類の生き物だよ。攻撃は当たるのに斬っても潰しても起き上がってくるようなね。すごく心強いけど」
「なる。なるにはなるが本来なら彼奴を鬼にするのは無惨だ。それは避けたい」
「それで私ってことね」
「できそうか?」
「私に任せてよ。これで二人目だから。ついでに二人もくっつけちゃう。あ、女の子の方も鬼にするからね。だとすると三人目かぁ」
そう意気込む女の鬼に、男の鬼は不安な顔をした。
★
結果のみ言いますと、今後ともあの剣道場と私達の道場は不可侵になったらしいです。次の日にそれが決まったのですから早いものです。父様が狛治さんを連れて交渉? してきたらしく、私は母様に看病されていただけですので詳しいことはわかりません。
私ももうあの人達とは関わりたくありません。
「花火大会? もうそんな時期かぁ」
私の体調が回復してきたこともあり、先日からまたいつものように家族で食卓を囲むことができています。
話題は自然と差し迫ってきた花火大会になりました。今が好機です。何とかして父様と母様に狛治さんと花火大会に行く許可をもらわねばなりません。
「そうだよ。今年もやるらしいね。いつも通り、屋根の上に登るなりなんなりしてみればいいさ」
「うーん。恋雪の容態も安定してきた。狛治、連れて行ってやってくれないか?」
まぁ! 父様が言ってくださいました。しかも賛成の様子。
「勿論です」
狛治さんはそう言ってくれましたが、今になって反対しだしたらどうしようかと答えを聞くまで安心できませんでした。
どうです母様。二対一ですよ?
「あんた。恋雪は攫われたばかりなんだよ!?」
「旦那に手伝ってもらう。あいつの強さならお前も認めてるだろぉ?」
「あ、俺も巌勝さんに頼もうと思っていました」
「狛治まで……恋雪は」
「行きたいです!」
「春夏。三対一だぞ?」
「勝負なんてしてないよ。はぁ…………うん。私も行くからね恋雪。数年ぶりに家族総出でお出掛けだ」
仕方なさそうな顔をしている母様ですが頬が緩んでいる様子。母様も楽しみにして下さっているのでしょう。
「分かりました母様」
ふふっ。楽しみですね。狛治さん。
しかし狛治さんは何やら思い詰めた顔の様子。どうされたのでしょうか。
★
厄災は静かにやってくる。彼らにとってはただの物見遊山。下々がどう思おうか知ったことではない。
だが災禍に見舞われる者たちにとって厄災は厄災でしかない。人が決して勝てないからこその厄災。彼らは気まぐれで生かされていると言っても過言ではないのだから。
「くそっ! 何であいつが、あいつなんかが」
一人の男がいた。未だじくじくと痛む腹を摩り、悪態をついている。彼は今し方無理やり恋慕する相手を手に入れようとし、拒絶され、女の目の前で恋敵に醜態を晒されたのである。
今まで下に見ていた存在は予想以上に大きく、自分の知らぬ間に好き合っていた。初めに好いたのは己であるのに。
「どうすればいい!? どうすれば恋雪を俺のモノにできる!?」
返す相手はいない。
真夜中。橋の上。人通りも皆無。
化け物に会うのにこれ程うってつけの場面はないだろう。
「おい」
「あ? お前誰だよ」
「質問だが、そこの剣道場の跡継ぎで相違ないか?」
男は腹が立っていた。そして暴力を振るうことを厭わなかった。だからこそ今ここで目の前の不気味な存在を心ゆくまで嬲ってしまおうと思った。
「なんだよお前はっ……!?」
人がいなくて好都合なのは相手も同じであるというのに。
「今質問しているのは私だ」
「うぐっ……離せ! あがっ……あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!」
「『好きなようにしろ』欲望のままに殺せ」
おにがくる。おにがうまれる。おにがきた。
狛治と慶蔵
剣道場と交渉(物理)