久々に筆をとりました。待っていてくれてありがとうございます!
時間は空いても失踪はほぼないと思ってくださいませ……
男がいた。
その男は紛れもなく強者であった。幼き頃から刀を握り、武功を挙げた名のある侍である父を持ち、体格にも恵まれた。刀を持てば髪の毛一本も触れられたことはなく、敗北の二文字を知らずに生きてきた。正に完全無欠。
そして井の中の蛙。彼がもう少し外の世界に目を向けていたら己の限界を知る機会なんていくらでも見つけることができた。心の底では分かっていたのかもしれない。外に出れば自分は弱者であることを────
「お見合いだと?」
「はい。もうそろそろお相手を見つけられては如何でしょう。お父上も懸念されておいででございます」
「ふん。果たして俺に見合う女がいるのか。この町の女はだいたい見たことがあるが醜女しかいない。というか醜女だらけだ。どうにかならないのか」
「さすがにそれは……」
男は従者の提案を一蹴した。町を歩いているのだ、女は嫌でも目につく。横に目をやれば、こちらを見つめている女が数人いた。だが男は無反応を決め込んだ。女は男の地位に惚れているだけだし、見てくれも彼のお眼鏡には叶わなかったらしい。
(醜女が。気安く俺を見るな。……もうだれでもいいか、美しい女が居ればその都度妾にとってやれば)
「うお」
「わっ」
人は考え事をしたり、イライラしていると視野が狭くなる生き物である。例に漏れず、この男は目の前から来る女に気が付かなかった。
「す、すいませんっ! お怪我は御座いませんか?」
「あ、ああ……気をつけろ」
「はい……失礼します」
「……」
彼の名誉のために言っておくが、彼は一目惚れするような男ではない。少なくとも自分ではそう思っている。しかし彼は目の前の女から目が離せなかった。そそくさと逃げるように去っていく女。男が初めて見る女だった。それもそのはず。彼女には持病があり、おいそれと外に出ていける身体では無いのだ。たまたま今日、とある侍のお陰で体調が頗る良かっただけで、たまたま活気ある町に目を輝かせていたら、たまたま男にぶつかってしまった。それだけである。
「お……い。あの娘の名前はなんだ」
「確か……素山……恋雪だったかと。素流道場の娘でございました。なんとも腹の立つ小娘で御座いますね。侍にぶつかったというのに謝るだけだとは…………どうされました?」
「……なんでもない。帰るぞ」
彼はひくりとわらった。すれ違った清純な乙女。いいものが見れた自分は運がいい。あれこそ自分の妻に相応しい女だ。彼女を妻にすることが出来れば本当の意味で勝ち組となる。
彼はその日、鬼となった。
(……ァ? ……何を俺は)
鬼は微かな微睡みから意識を引き起こす。何かを思い出していた筈だが彼はもう覚えていない。人間だった頃の記憶など殆ど思い出すことすら出来なかった。唯一残った人間らしい感情と言えば恐怖と愉悦だけ。前者は自分をこの体にした圧倒的上位者に対するもの。後者は力を得たことによる全能感からくるものだった。
「足りないモノ……足りないモノ。なにか俺には足りない……あいつが……恋雪が」
肉体が鬼になる前の願望が今の彼を突き動かす原動力になっている。もはや彼にはそれしかない。満たされているのか空っぽなのか。
恋雪を自分のものにする。そうでなければ自分が根底から否定されているようで耐えられないのだ。先日、この町でいちばん強いという誇りを刀すら持っていないただの罪人に完膚なきまでに否定された。しかし今はこの最強の肉体がある。
夜闇に飛び出した彼は素流道場へと向かう。
塀をのぼり、道場の中を見る。そこには今し方花火大会から帰ってきた家族四人が団欒していた。
「狛治!!」
「はい!!」
「お前には道場を継いでもらう!!」
「はい!?」
「この阿呆ぅ! もっと他に言い方があるだろう!?」
「……なん……だあれは」
鬼は一瞬来たことを後悔した。幸せの庭がそこにはあった。笑いに虚飾等一厘たりともない。彼はドス黒い血に塗れた自分の手を見た。血に濡れて浅黒くなった着物も目に入る。行くのも憚られた。
彼らは家族同士だ。ならば自分はなにかと問いかける。同期も家族も全てこの手で殺し尽くした。
──どうでもいい
「邪魔するぜぇ」
御祝いに不幸せを贈ろう。孤独とは自由。自分は鬼なのだから。
(なんだ……こいつは)
対して狛治達は硬直していた。しかし男が恋雪に向けた禍々しい感情。それを機敏に察知した家族は動きだした。悪意と害意に塗れた瞳は恋雪を睨めつけていた。
「狛治! 恋雪を守れ!」
「出て行きなぁ!」
「おお怖い怖い。無理すんなよ、女の癖にっと」
狛治は慶蔵達より数瞬遅れて反応し、恋雪を抱いてその場から離脱しようとしたが、彼はそれを許すはずもない。正面に立って妨害した。
それから鬼は春夏の真っ向からの蹴りを掴んで足首を握りつぶし、庭に向かって投げた。足はあらぬ方向に曲がっている。
慶蔵は一瞬春夏の方に気を取られた。
「春夏!」
「ぐっ……あたしに構うな! 早く恋雪を……」
「逃がさねぇよ」
彼は恋雪を抱き抱えて逃げようとする狛治から、簡単に恋雪を奪った。恋雪の伸ばした手は、狛治の手を掴むことはなかった。
(速い……!?)
「狛治さん!!」
「……恋雪さんッ!!!」
「暴れるなよ。日が落ちたばかりだ、何を焦る必要がある。そこのオマエ、狛治と言ったか、一人で剣道場に来い。妙なマネをしたら、恋雪の首を切り落としてしまうかもな」
そう言って鬼は去っていった。
時間に表せば一分にも満たない。須臾にして家族は幸せを奪われた。
「ぁ……あ゛あ゛あ゛あ゛……くそぉおおお!!!!」
(守ると言ったのに……! なんで俺は!!)
「あれはなんだ……本当に剣道場の跡取りか?」
「……違う。人じゃない。あれは鬼だよ。はぁ、これじゃ多分一生歩けないね」
「今更病人の1人や2人の看病なんてなれてるさぁ……狛治、どこへ行く」
「恋雪さんを助けに行きます」
「行くことは許さない」
「な、なぜです!? 恋雪さんは攫われた! 俺が行かないとあの鬼が恋雪さんに何をするかわかったものではありませんッ!!」
「狛治!!」
「ッ……」
慶蔵は先程の鬼が狛治すら秒でひねり殺せる位に強いことを見抜いていた。だからこそ、春夏を狛治に任せて自分が行くべきだと思ったのだ。鬼本人は狛治を所望しているが、嬲りたいだけなのは目に見えている。
「……慶蔵。さっさと私をおぶって医者に連れていきな。狛治」
「はい」
「そこを動くんじゃないよ」
「行くよあんた。多数決でお前の負けだ」
「……」
春夏は狛治の味方をした。慶蔵はやりきれない顔をした。
「直ぐにこっちも向かう。必ず生きて、戻れ」
そう言うと慶蔵は春夏を抱き抱えて外へ飛び出していった。
狛治はこぶしを握りしめた。怒りから爪が手にくい込み血が流れ出す。
「待ってろクソ野郎! 俺はもう……役立たずの犬じゃない!!」
★
所変わって夜の街。花火大会もとっくに終焉を迎え、人々は冷めない興奮を押さえ付けて戻る日常の為に火照った心と体を休ませている。暗黙の了解として、夜の街を歩いているのは夜盗の類であるということだった。それゆえ、そんなことを知らずに切り殺されたとて文句はいえなかった。
今此処に一人の男がいた。人を待っている様子であったが、程なくしてまた一人男が現れた。ただならぬ雰囲気を双方とも漂わせている。
「……この家族に随分と入れ込んでいるようだが、何が気に入ったのか私にはさっぱりわからん」
「気まぐれ。……というものです故」
「ふはは、貴様にもそのような非合理的な思考が残っていたとは、熟飽きさせない男だ」
男が少し間を開けてから口を開いた。
「鬼を……増やされたのか」
「何を言っている? 私はお前に言われてからというもの、誰一人として鬼にはしていないぞ」
「……は」
「そのことで来たのだ。あの鬼は何か違う。いや、鬼と言っていいのか。当の本人は気づいていないが、
男、巌勝は目を見開いた。人を鬼にする。そのような芸当ができる存在など片手で数えるぐらいしかいない。目の前の無惨もその一人だが、始祖自ら鬼化を禁止しているのでほかの鬼はありえない。
次に珠世だが、断じて徒らに人を鬼にするような者ではない。
残るは一人しかいない。
薫が、妻が鬼にしたのだ。
(恋の病の荒療治にも程があろう……)
「意図して寿命を数刻にしたのかそうでないかは知らん。ああ、黒死牟。別にお前に間引いてもらうまでもない。お前が引導を渡さずともすぐ死ぬ。たとえ、
私が知りたいのは大元だ。あの鬼がどうして生まれたのか、それを探れ」
「承知した……」
上司からの無理難題に慣れてきた黒死牟。しかしながら、今回の件はどう回避しようか思案を始めた。何せ黒幕は妻である。彼方に置いてきたはずのサラリーマンの胃がキリキリと音を立てた。
★
「来てやったぞクソ野郎。恋雪さんを返してもらう」
腐臭が噎せ返るほど溢れているこの場所は、数時間前にこの街一番の剣道場として栄えた所である。だが、跡取りである唯一の息子は鬼となった。そしてこの道場を気まぐれに壊滅させ、門下生達をもの言わぬ肉塊にした。
今ここにある命は三つしかない。純粋に強い命と、暴力的に肥大した命。そして風前の灯となった命。
「くひひっ。まぁそう焦るなよ。時間はたっぷり……ないか。放っておけばこいつは死ぬからなぁ」
「……何をした」
「何したんだろうな? 何をしたと思う? ……なんと!! 恋雪を鬼にしたァ!! これで一生恋雪は俺のモノだ……なぁ恋」
正拳突き。
狛治は目の前の鬼の口から愛する人の名前が吐き出されるのに絶えかねて殴りかかった。
しかし鬼は緩りとした動きで逃れた。この鬼が人間だった頃、一撃で無力化させた経験のある狛治が放った手加減なしの本気。それを簡単に避けたのだ。
「相変わらず育ちが悪いなぁ」
(しかし、目的は果たした)
鬼は避けただけ。ならば狛治は足元で気を失っている恋雪をすくって逃げればいいだけの話。あの侍なら人に戻す方法も知っているに違いない。
「言い忘れていたが、恋雪はいつでも殺せる。なにせ体の中に俺の腕があるようなものだからなぁ……グッと握るだけで内臓なんて粉々よ。
逃げ出したら……分かっているな狛治?」
「……」
「いやな? 捕えたあと俺は思った。本当にこいつは美味いのかと。そこで味見をしてみたのだ、まぁまぁ案ずるな。見ての通り手だけだ。腹がいちばん美味いのは決まりきったことだが、人間は雑魚い。ちょっとしたことで死んで腐り始めてしまう。食った腕だが、それはもう絶品だった。
そこで俺は閃いたんだァ! 此奴を鬼にすればいいと!! 鬼にすれば多少味は落ちるだろうが殺さない限り何回でも食えるッ!!」
「鬼は……哀しい生き物だな」
狛治は怒りを通り越して凪いでいた。目の前にいるのは悪そのもの。滅ぼすべき存在である。命にかけても。ここで目の前の悪を殺すために強く産まれてきたと思えるほど、
駆け出して鬼に肉薄するも、刀の間合いに拳が敵うはずもない。一足一刀の間合いより先に進ませて貰えず、刀傷だけが増える一方。ジリ貧である。力の差は歴然だった。仕方の無いことだ。今の狛治は人間の体である。日輪刀でしか傷を付けられないような鬼の体に拳が効きにくいのは道理である。
「ぐっ……」
「鬼が悲しい生き物だって? 馬鹿言え、お前の方がよっぽど悲しいな。お前の父親も可哀想だな。恋雪もかわいそうだ。可哀想でたまらない。女ひとり守れてすらいない男に思いを寄せているなんてなあ」
狛治は言い返せなかった。受けた傷の痛みが頭を貫いているのはもちろんのこと、鬼の言葉は紛れもなく真実。狛治はそう思っている。誰だって嫌だろう、貧乏ながらも得た子供は盗みを繰り返し、反省もせず人を不幸にしているのだから。
俺は─────
「いやぁ……!! 狛治さん!!」
「ちっ……うるせぇな。口は縫い付けておくべきだったか?」
そうだ、あの時だ────
☾︎
「狛治……手負いの獣はなぜ強いか分かるか?」
ある夏の日。刀を降ろした巌勝を前に狛治は対峙していた。俗に言えばウォーミングアップ。狛治の連撃に対して最小の動きでいなす巌勝と、巌勝の隙をついて攻撃を繰り出す狛治。既に常人には捉えられぬほどの攻防を繰り広げているが、二人とも肺と肉体が離れているかように話している。
「……生存を大前提に置く獣が、瀕死の傷を負ったことで、捨て身で殺そうとしてくるからでしょう?」
「正解だ。では人も……手負いになれば強くなると思うか?」
「いいえ。手傷を負えば動きは鈍るのが人間です。獣のような膂力も体力もない人間が死に物狂いになったところで隙が増えるだけです。隙が増えれば弱くなるも同然」
「違うな。人も手負いになれば強くなる。人も獣もさして変わらん……鬼でさえもな」
突如として巌勝の動きが変わる。型を全て取り払った連撃。振り上げて振り下ろす。その連続。隙は増えたが、避けるので精一杯。焦れば隙を付けずに猛攻が苛烈になるだけ。
「大切なものは目に見えぬ。だが、死に瀕することで見えてくるものがある。息を大きく吸い込んで肺を膨らませ、体温を臨界点に叩き上げるのだ」
「……」
「見極めろ狛治……役立たずの狛犬にはなりたくないであろう?」
☾︎
★
「春夏……」
「ハッキリいわせてもらうけど、あんたの方が強いよ」
「じゃあなんでなんだ? なんで狛治を行かせたんだ?」
「食いつけるかどうかは別ってことさ。あんたは敗北をしらない。というか敗北を敗北としていない。劣る点があれば、違う面で上回ればいい。あんたの戦い方はそういう天性のものだよ
けどね、身体能力で負けに負けちまったらあんたには勝ち目がない。あの侍に拳を当てたことないだろ?」
「そうだなぁ」
「狛治はあるよ。一度だけね」
「……!」
「あたしは、それに賭けてみようと思う」
★
(死に物狂いでみえてくる大切なもの……か)
「……意味がわからない。なにをやっている?」
「通しませんッ! 今度は私が狛治さんを守ります!!」
(恋雪さんの声……何をして……)
「もっと分からなくなった。お前がその小さい片手を広げたところで障害たり得ない。やめておいた方がいい。腹のキズも痛むだろう、失った腕もまだ血が止まっていない」
「……」
「あ、そうか。ハハハッ! そうか! もう痛覚がにぶいんだろう!? 当たりだなぁ! もうお前も俺と同じだ……早く言ってくれよ。
ならばもうここに用はない。俺と行こう恋雪。そうすればそこで転がっている狛治の命は助けてやる。誰にも邪魔されない所で永遠に二人で暮らすんだ」
愛の告白のように聞こえても、先程の会話からしてこの鬼は恋雪のことを食料としか見ていない。食べて治して食べて治しての生き地獄は決まっている。この手をとった先に恋雪の幸せは微塵もない。
それでも────
恋雪は心配そうに狛治に振り返った。
目が合う。潤んだ瞳、覚悟の決まった瞳。好きな人の為なら自らを犠牲に出来る彼女。
狛治は許せなかった。想い人にそんな瞳をさせた自分が、何より目の前の悪鬼が許せなかった。
「ま……ちやがれッ!!」
想像よりも遥かに大きな声が出たことに狛治のみならずこの場にいる全員が驚く。何よりも1番驚いていたのは鬼だった。
(どういうことだ……こいつは死にかけに変わりない。血塗れの死に体だ。なのになんだこの……震えは!?)
鬼は、生前に見た紫の着物を着た侍を幻視した。鬼の全て、全身の産毛に至るまでが目の前の罪人を殺せと言っているのだ。
«
狛治の足元を中心に雪の結晶のような方陣が展開された。否、そう見えたのだ。溢れんばかりの闘気の高まりが臨界点に達する。狛治の頭は思考を放棄していた。ただその双眸で倒すべき敵の隅々まで解析し、勝利の糸口を見つけ続けている。
神経の一本一本、筋繊維の一筋一筋、血の一滴一滴。
今此処に次期上弦の参は産声をあげた。
悪鬼滅殺。修羅が参る。