そんなこんなで旅をすることになった二人。数日かかる隣町の寺までに山あり谷ありの難所である。夜叉は飲まず食わずでも問題ないが、育ち盛りの子供1人連れていくのだから行程は休み休みでなければいけない。
童磨の着物は血に汚れていたのもあり、簡素なものに着替えた。そして子供が山を越えるためには準備が必要である。季節も真冬と来れば入念にしなければならない。
宿で一晩過ごし、ふたりが出会って初めての朝、それは起こった。
「夜叉ちゃーん。はい……る…………よ」
襖を開ければ、胸と腰に簡素な服を着た夜叉が今から着物を着る直前だった。
因みにこれらの下着はかなり昔に巌勝が前世の知識から作り出したものである。もちろん製作過程で薫と一悶着あった。主に情報源について。
「……む」
「……………………」
童磨は頭をガツンと殴られた音がした。物理的なものに慣れてはいる。しかし精神的な衝撃は初めて。くらくらとよろける。今の今まで性的な興奮は知らずに生きてきた。子供の作り方は知っているものの、何に興奮するのか童磨は理解不能。そうやって女で破滅する信者を哀れんでいた。もし自分が信者の立場なら欠片も揺らいだりしないし、手を出すのも以ての外。
(……って思ってた過去の自分を殴りたくなった)
浮き出た鎖骨。形がよく、決して小さくは無い膨らみを押し上げる下着。肩紐が張っている。薄く筋の入った腹部は括れ、体の半分を占める足は傷一つなく伸びている。童磨の視線は自然に吸い込まれた。逸らそうとしても欲望が勝る。それは有り体に言えば、性癖の壊れる音。
「わ!? ごめ、こめんなさい!!」
「……別に見られても減るわけではないから構わ……なんだその顔は」
「んー? 夜叉ちゃんは所構わず裸を見せる露出狂か何かかな?」
「なんだと餓鬼」
「童磨だよ。忘れたのなら覚えて」
「わかった餓鬼。黙って襖を閉めろ。でなけりゃ目を潰す」
分かってないじゃん……と、言う前に童磨は襖を閉める。旅をしていて嫌という程分かったのは、不機嫌な時の夜叉は手に負えないこと。彼女はやると言ったらやる女である。
「……」
童磨は何事も無かったかのように笑って廊下を歩き……
……そしてへなへなとしゃがみこむ。何せ心臓の鼓動と呼吸が合っていない。ぺたぺたと顔を触って高い体温に驚く。平静を装っている筈が、全く装えていない。脳裏に浮かんだ夜叉の下着姿が焼き付いて離れないのだ。忘れようと、記憶からかき消そうとするほど思い出してしまう。
「わ……や……」
恍惚とした笑みを手で覆い隠す。これではまるで変態。見てしまった罪悪感、見ることが出来た幸福感、見てはいけなかった背徳感。
(マズイ。あれは、あれはもはや毒だ)
「なんだ。私の体に興奮したのか」
「うわぁああああああああ!?」
突如、童磨の顔のすぐ横にしゃがみ込んだ夜叉が現れた。着替えも済んだようでいつもの着物を着ていた。羞恥心に顔を手で覆った童磨。純粋な反応に夜叉は悪戯心を刺激される。
「いつの間に……」
「外面は十程度とはいえ、内は立派な大人か。ませているな」
「あ、いや。ち、違う」
ここまで取り乱した童磨を見ることが出来て、夜叉は満足した。
「くくっ。まぁいい」
「……ってか何その格好」
夜叉は傘を頭に紐付け、蓑を背負っている。ずんぐりむっくりな体型。そして童磨一人は入りそうな風呂敷を抱えていた。
「何も……ただの山登りだが」
夜叉がそう言い放った瞬間、ギシギシと雪の重みで屋根が軋む音がした。そして大勢の男達が二人のいる廊下を走り抜けていく。
「まずい。屋根の雪を下ろせ、潰れてしまうぞ」
「ええい、男を呼んでこい! 十人じゃ足りん!」
「吹雪で外に出られません!」
忙しなく通過していく彼らを童磨は一頻り見送った。そして笑っている夜叉を見据え、嫌な予感から目をそらす様に踵を返した。先程の興奮は既に吹き飛んでいる。
「へぇ、楽しんでね」
「おおなんと偶然か。喜べ、お前の分がある」
夜叉が掲げたのは一回り小さい傘と蓑。童磨に拒否権は初めからなかった。
★
童磨の胸ほどまで降り積もった雪。当然歩くのすら儘ならない。しかしここに人外あり。夜叉は脛で雪を押しのけ、足裏で踏み固めて道を作りながら行進していた。そうすれば唯の道と変わらない。彼はその後をただ歩けばいいのだ。
休みながらもそうやって歩くこと一刻。
「はぁ……はぁ……」
童磨は膝に手を着いて乱れた呼吸を整える。対して息一つ切らしていない夜叉は雪道をすり足で歩いていたというのに余裕の表情。
「何? なんでこんな所に連れてきたの?」
「お前の体力づくりというのもあるが……さぁ、見てみろ」
顔を上げれば、眼前に広がるは雄大な景色。幾つもの山嶺が天を突いて聳え立つ。隣町の寺へは山が隔てているからこそ、ついでにと登ることにしたのだ。
天に星が流れている。紫に光る星。錆色に光る星。堕ちて輝きを失う星。自らを燃やして輝く粒は折り重なり、ひしめき合う。隙間は暗黒に塗られていた。満天の星空が煌めいている。
夜がその質量を以てのしかかる。誰もが言葉を失い、ただ魅入られるしかない絶景がそこにはあった。
「……きれいだろう。ここに来るのは数回目だが、何度観ても美しい」
夜叉は見蕩れていた。太陽を拝むことは叶わぬ身なれど、星影の抱擁が彼女の内を満たす。
対して童磨はというと、何も感じなかった。信者の話の中には星空もあった。あったのだが、いざ見てみればそうでも無い。変に期待した分落胆も大きい。彼にとって絶景は唯の風景足りえない。
「……」
(……絶景ね。こんなもんか。なら城も、海も、果てはこの世界も全部……)
童磨はその辺の岩に座り込む。火照った体にはひんやりとした感触が心地よかった。
「オレはここでちょっと寝るね」
「む……そうか。私は彼処で星を見ている。上着は?」
「暑いから置いてく。さっさと休みたいんだ」
「そうか……ならいい」
眉を少し下げて悲しそうな顔をする夜叉。彼女はもう少し童磨が何か感じてくれると思っていた。しかし夜叉の喜ぶように美辞麗句を並べ立てた口も、疲れで開かない。今の童磨には罪悪感を感じる余裕すらない。もう星空はどうでもよかった。彼は達成感という、初めての高揚に浸りながら休むことにした。
「よいしょっと」
夜叉から少し離れて平らな岩に寝そべる。そうすると張っていた足にじんわりとした痛みが広がる。相当疲れていたようだ。えも言われぬ快感に童磨は少し口角を上げた。
確かに夜空は綺麗だろう。その輝きは父親が溜め込んでいた石に似ている。しかしそれだけ。
童磨は分からなかった。
あの父親はこの星空を見てもあの石ほどの価値は感じないだろう。夜叉はあの光る石を見ても眉一つ動かさないだろう。その違いはなんなのか。自分は父親にとって宝石だった。しかし自分は夜叉にとっての星空になりたい。
(オレには何が足りてない? この星空にあって宝石に無いもの……)
何かを示さなければならない。自分の存在理由となるなにかを。でなければ数日後に今生の別れとなってしまう。夜叉は金銭には無関心。男を宛てがうのは色んな意味で論外。
施されて生活し、対価として肯定する。そんな人生を歩んできた童磨だが、今回は真逆。童磨は肯定された。しかし相手は何も求めない。
そうして考えていると体がぶるりと震えた。いつの間にか時間が経っていたようだった。
起き上がる。考えるのはあと、風邪を患えば失望させてしまうかもしれない。旅の途中で置いていかれれば全て御破算。まだ体温が下がりきらないうちに山を降りた方がマシだとおもった。
上着を取りに、そして下山の意志を伝えるために夜叉の座る所へ向かう。
童磨が見つけた夜叉は長い足を投げ出し、後ろに手を着いて空を見ていた。夜叉らしからぬ子供のような座り方。童磨は少し呆気に取られた。
「あぁ、本当に綺麗だな。うん。変わらない。夜は、月はいい。太陽と一緒……暁もみれればもっといいがな。
変わっていく世の中、変わらなければいけない世の中でも……変わらないものがあってもいい。そうは思わない? 君も」
「っ……」
砕けた声。素なのだと童磨は思った。夜叉は口調が変わっていることを自覚していない。
童磨は見た。
目に焼き付けた。
山なんてどうでもいい。風景に高揚し、頬が染まっている夜叉の横顔から目が離れない。幾億の星が輝く夜空はただの背景に成り果てた。風の唸る音しかない世界、二人だけの世界。邪魔ひとつ入らない。心の底から永遠を願う。
「うん……すごく綺麗」
この瞬間、童磨は産声をあげた。
口の端から言葉がこぼれる。失望されないように、期待されるように考えてから話す癖のついた童磨が無意識に言葉を話す異常事態。
互いに視線も心も、奪われる先は違えど込められた色は同じ。
「ああそうだろう。そうだとも……っと」
童磨は不意に夜叉に抱きしめられる。両手を掴まれ、目に布を巻かれた。
「ねぇ」
「しっ……黙っていろ。私がいいと言うまで布は外すな」
人影が山の崖を登って現れる。痩せ細り干からびた皮膚を持つ鬼である。特徴的なのは頭部。蠅の頭を取ってつけたような二つの大きな複眼と百足を模した口。
「お。ちょうどいいくらいのニンゲンがイルじゃねぇか……キッキッ。こんなガキなら俺でも喰えるゼ」
口の端から涎が溢れる。常人なら目をそらす様なおぞましい姿。
「悪いが、こいつには指一本触れさせん。回れ右して元来た道から去れ。というか落ちろ」
「キッキッキ。同族か、引っ込んでイロ。腹が減って仕方ナイ。俺は手間をかけずに殺せる子供が好きだ。味もいい。そうやって楽して強くなればあの方から血を貰い出世デキル。豪雪で人の数が減ってイタからちょうどいい。そいつを殺して下山スルとする」
夜叉に向かって躙り寄る鬼。なぜか鬼に向かって一歩踏み出す童磨。
彼女は手で制した。童磨はそれを無視して進む。外すなと言っていた布も解いて捨てた。夜叉の手に当たろうがお構い無し。鬼と夜叉との間に立って鬼を見据える。異形を見ても彼はおぞましいとは思わない。
彼は知っている。本当に怖いのは心の歪みだと身をもって知っているのだ。
「おい下がれ」
「んー?」
「下がるんだ」
「……オレには名前があるんだよ。知ってた? だれがつけたんだっけ? 怖くないよオレは」
「……童磨。後で覚えてろ。お前には危機管理能力が欠けてる」
────大丈夫
そういって振り返れど、夜叉はいなかった。
二人のいる山は少し特徴的である。山道の方は緩やかだが、反対側は崖と見間違うほど急な斜面なのだ。更に鬼は崖の方から現れた為に崖を背にしている。
つまり、落としてくれと言っているようなもの。
目前に立つ童磨の延長線上に鬼がいる。彼が夜叉の方へ振り向く速度に合わせて背後に回り込みながら鬼に肉薄した。童磨には夜叉が突然消えたように見えた。童磨の目はかなりいい。但しそれは人基準で比べた時。
「崖登りお疲れ様」
放たれた鬼の膂力。
驚く鬼の顔面に拳を叩き込む。頭蓋が陥没し、首の骨が軋み、筋が連続して絶たれる音を聞きながら鬼は落ちていった。死にはしないが再生には時間がかかるだろう。
「ギャァアアアアアアアアァァァ!!!」
情けない叫び声が朝の山々に木霊する。夜叉が崖を見下ろすと血飛沫を迸らせながら鬼が落下していくのが見えた。途中で岩にぶつかり首がちぎれとんだ為に、再生はより遅くなるだろう。
「気分爽快」
夜叉はぐっぐと大きく伸びをした。あの鬼は母を通じて鬼殺隊に報告することに決めた。好きな景色が汚されるのは彼女の望むところではない。
ふと、童磨が足にしがみついてきた。衝撃で体が揺れる。彼は泣いていた。
「やっぱり怖かったな……」
「なぁ、やめろ……見てるこっちが辛くなる」
「なんのこと……?」
「その嘘泣きだ。涙というものはな、心の底から感情が揺さぶられた時に流すものなんだ。笑って、悲しんで、苦しんで、怒って流すものだ。だがお前は心が揺れていない。気持ちが微塵も揺らいでいない。だから。今すぐ。やめろ」
「へ?」
ひゅっと涙が引っ込んだ。夜叉の指摘は図星。彼女の目にはおためごかしの百面相は効力を発揮しない。感情の昂りは肉体に影響を与える。脈拍の上昇はもちろんのこと、特定の血管も膨張と収縮を始めるのだ。
「オレの本心が分かるの?」
「生まれつき人の感情には敏感だ。特に血の流れにはな。だから無理して感情を作るな。それをするなら私以外……私とあと数人以外にしろ。少なくとも私の前では偽るな」
「はぁーい」
感情の偽りは夜叉には効かない。逆を言えば、先程童磨が夜叉を見て綺麗だと言ったのは偽りない本心だという証拠。紛うことなき感情の芽ばえ。しかし童磨は気が付かなかった。
「先程も言ったな。お前には危機管理能力が欠けていると。だが反省も後悔もしていないな」
「うん。いいね、オレのこと分かってきたじゃん」
「はぁ……ならば、体を鍛えろ。歳若いうちに鍛えれば後々得をする。遥かに格上相手に怯まないのは豪胆で勇敢だ。誰にでもできることでは無い。但し格上過ぎれば蛮勇となる。今みたいにな」
「ふーん。じゃあ夜叉ちゃんを守れるぐらいに強くなるね」
「……やってみろ。できるものならな」
童磨の言葉に夜叉は威圧を込めて答えた。彼女が追いかける背中はまだ遠くとも、追いつかせてやる気など毛頭ない。自らは月から生まれ、太陽に育てられた巨星。越えられるわけが無い、越えさせるわけが無い。
「っていうかさっきの生き物なんだったの」
「鬼だ」
「鬼?」
「人を食う、人間よりも欲望に忠実な生き物だ。寿命は無いから殺すしかない。殺すのもひと手間いるがな」
「ふーん」
夜叉は吐き捨てるように言った。彼女はああいう鬼を自分と同族とは思いたくない。自分はあの屑鬼とは違うと自負していても、第三者からすれば同じ穴の狢だと言われても仕方ない。同族嫌悪とはよく言ったものだ。
童磨は興味無さそうだったが、夜叉は聞いてみることにした。
「………………お前は、どう思う? あのような化け物が存在することを」
「……鬼ってああいうのしか居ないの?」
「いや、鬼が生まれる理由は二つある。自分で鬼になったか、誰かに無理やり鬼にされたか」
「んー。無理やり鬼になったんなら、仕方ないんじゃない? 誰かに引導を渡されるまでそういう生き方を決められたようなものだからね。って考えるとオレって鬼みたいだね」
童磨は茶化すように笑った。
「……なら、自分から鬼になった人はどう思う? 醜悪だと思うか?」
ひゅるりと風が吹いた。
童磨は夜叉が人では無い、つまり鬼だということに勘づいている。しかし夜叉は童磨に正体を勘づかれているとは知らない。
崖を見下ろす夜叉の表情は後に立つ童磨には分からない。心做しか声は微かに震えを帯びている。彼女はなにか言葉を欲している、これは童磨の得意分野だった。しかしそうでなくても答えていただろう。
「ううん。そうは思わない。結局決めるのは自分の心だからね。いい人が鬼になればいい鬼になるし、悪い人が鬼になれば悪い鬼になる。見た目が鬼か人かなんで案外どうでもいいんじゃない?」
すらすらと言葉が出てくるのは彼にとって本心であるから。童磨の知る鬼は夜叉のみ。夜叉が悪い鬼とはどうしても思えなかった。
「そうか」
夜叉は鬼の血がついた拳を布で拭き、崖に捨てた。赤黒い染みが付いたの布は風に吹かれて鳥のように落ちていく。彼女はしばしそれを眺めていた。
「下山するぞ」
彼女はそう言うと山を下り始めた。童磨の返答に何を思ったか彼には分からなかった。それでも間違ってはいなかったと彼は思う。
心做しか、上りよりも休憩は多かった。