怪物と迷宮   作:迷宮の怪物1

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処女作です。よろしくお願いします。


Cクラス支配編
1話


 桜が咲き誇り、きらめく陽光の中を穏やかな風が吹く。雲一つなく晴れ渡る空は、まるで神様が新生活の門出を祝福しているかのようでもあった。

 東京の埋立地に日本政府が創設した、国の未来を担う若者を育成するための教育機関である東京都高度育成高等学校。そこは希望する進学、就職先をほぼ100%実現できるということで全国的に名高い。今日はその入学式である。

 

 新しき出会いに期待や不安を抱えているであろう若人たちが学校の門をくぐっていく。その中で、一人だけ雰囲気にそぐわない男が校門前に立っているのが見えた。

 無精ひげを生やし、草臥(くたび)れたサラリーマンのような佇まい。学校の制服を着用しているが、独特の汚らわしい雰囲気のせいで実際の年齢よりも老け込んで見える。そして、十人いれば、九人を不快だと感じさせるようなニヤつく表情を浮かべていた。男の名前は箕輪勢一(みのわ せいいち)

 

 彼はおもむろにポケットの中に手を入れ、取り出したチョコ菓子の包装を乱雑に破り、クチャクチャと音を立てながら食べ始める。口寂しさをいくらか紛らわせると、彼は歳月を重ねて記憶も薄らいできた前世についてぼんやりと意識を向けていた。

 

 前世での箕輪は警視庁の密葬課(みっそうか)という部署に配属され、組織にとって都合の悪い人間を排除する血生臭い職務を遂行していた。組織の歯車として数え切れないほどの人間を殺害してきた彼の人生を多くの人は不幸と考えるかもしれない。本人さえも幸せだったかどうかは判断がつかない。

 ただ、虐待を受けていた幼少の頃と最後の戦いの不本意さを除けば、少なくとも彼にとっては合わないというわけではなかった。そして、何の因果か前世の業を背負ったまま、この世に生まれ変わってしまう。

 彼がこの学校へ来た理由は単純だ。流されるままに試験を受けた結果、高度育成高等学校の門をくぐる資格を得たというだけの話。高尚(こうしょう)な動機や向上心など一切存在しない。

 前世でねじ曲がった性質はどうやら今世でも同じらしいと箕輪は食べ物を口に含んだまま、笑いらしいものを口端から漏らす。そうしているうちに食べ終え、ごみをポケットに突っ込むと、校舎に向かって歩き始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 面倒で長いだけの入学式を終えた生徒たちは各々(おのおの)が指定された教室へと戻っていく。箕輪も指定されたクラスへと帰っていた。

 彼の所属はCクラス。担任の教師が来るまでやることもないので箕輪はざっと教室を見回す。クラスメイト達の大半はこれから充実した学校生活を送るためか、初々しさを見せながらも隣人との交流に精を出していた。そのうちの何人かに鋭い気配を放っている者が存在するが、前世で血に塗れた道を歩んできた箕輪にとっては特に気になるようなものでもなかった。

 

 子供の戯れに興味のない箕輪は机に肘をつき、手に顎を乗せながら暇を持て余す。傍から見ても箕輪の手持ち無沙汰な様子は明らかだが、彼の高校生には見えない異様な風貌(ふうぼう)と不謹慎な笑みは周りから自然と人を遠ざける。彼の暇が終わりを告げたのは担当の教師が教室を訪れてからであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 坂上数馬(さかがみ かずま)

 教壇に立つ教師はそう名乗った。眼鏡をかけ、痩身で神経質そうな担任教師は資料を配布する。生徒たちに行き届いたことを確認した彼は学校生活について説明を始めた。

 

 坂上の話によると、東京都高度育成高等学校ではクラス替えは存在せず、3年間同じクラスであり、担任の教師も変わらない。外部との連絡は断たれ、3学年全員が学校の敷地内に存在する寮での生活を義務付けられている。

 外からの持ち込みもできなくなっており、現金の代わりにプライベートポイントなるものが生徒たちに配布され、敷地内の売店や施設で使用可能。この学校においてポイントで買えない物は存在しない。これをSシステムと呼ぶ。1ポイントで約1円の価値がある。新入生全員に初回10万ポイントが配布された。これからは毎月一日にポイントが振り込まれるとのことだった。設備環境についても学校生活で何ひとつ不自由なく過ごす事ができるように整えられているそうだ。

 

 話を聞いていた生徒たちは至れり尽くせりの楽園のような待遇に沸き立ち、これからの学園生活に思いを馳せていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 坂上から解散を告げられた後、交流を深めるために連れだって遊びに行く人たち、これからお世話になる学校を見て回る人たち、まっすぐ寮に帰る人たちで、教室に残っている人はほとんどいない。学校初日のため、残る理由もないからだ。

 単に人混みを避けるため、しばらく居残っていた箕輪もようやく帰るのか席を立つ。

 

「おい」

 

 帰ろうとした矢先に横合いから声をかけられる。箕輪は身体を出口へと向けたまま、視線だけを動かして横目で確認する。そばに立っていたのは長めの茶髪に制服を着崩し、品行方正とはお世辞にも言えないような男だった。

 

「何か用か? 小僧」

 

「小僧か……お前が高校受験を何度も失敗した哀れで珍しいおっさん浪人生だったら、その言葉も納得だな」

 

 不良少年は生意気な笑みを浮かべ、返す言葉で悪態をつく。相手にすることを面倒に思った箕輪は空腹を感じていることもあり、早々に話を切り上げる。

 

「何もないなら、ここでおじさんとさよならだ」

 

「まぁ、待て。お前に聞きたいことがある」

 

 先ほどまでの人を揶揄(やゆ)するような鳴りをひそめた不良少年は問いかける。

 

「俺の地元はお世辞にも治安が良いとは言えない地域でな。まぁ、クズの展覧会みたいなもんだ。そこで色んな奴を見てきた。……が、お前みたいなのは初めてだ。なんだお前は?」

 

 少年は目を細め、得たいの知れないものを見定めるように怪訝な表情を浮かべた。

 

「ひひッ……なるほど、鼻は利くみたいだねぇ。だがよぉ、質問が抽象(ちゅうしょう)過ぎていけねぇなぁ。哲学じゃあるまいし」

 

 さきほどまでは押し売りに来た訪問販売者を追い払うような態度の箕輪だったが、彼の表情はニタニタと軽薄なものに変わる。

 

「あぁ、ところで、お前さんの名前は?」

 

「龍園だ。お前は?」

 

「箕輪。……で、さっきの質問に戻るが──」

 

 箕輪はあさってに向けていた身体を不良少年のほうに向きなおし、初めて目を合わせる。

 

 

 ──俺のことが理解できなくて、不安で怖いよぉぉ~って、解釈でいいんだな?  

 

 

【挿絵表示】

 

 

 笑みを浮かべ、言葉を発した箕輪の目にはあらゆる(くら)い事象を孕む、禍々(まがまが)しくも鈍い光が宿っていた。龍園はその目に吸い込まれるかのような錯覚を覚え、気圧(けお)され、反射的に後退しかける。しかし、それを彼のプライドが許さなかった。その場に何とか踏みとどまる。

 

「クク……おもしれぇこと言うじゃねぇか。お前に冗談の才能があるとは思わなかったぜ」

 

 自らを鼓舞するよう嗜虐的(しぎゃくてき)な笑みを浮かべ、挑発した。

 

「本来はもう少し後になる予定だったんだが……ありがたく思え、お前は特別だ。ついてこい」

 

 そう言うと間を置かずに、龍園は扉のほうへ向かう。空腹に意識が向き、誘いに応じるか否かを考える箕輪。そうして食欲と興味を天秤にかけた結果、興味に傾いた彼は遅れて龍園の後をついていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 場所は変わり、二人は学生寮の裏手にいた。辺りに人の気配は無く、何が起ころうとも、第三者が介入してくる可能性は低い。良くも悪くも誰かの助けは期待できないということだ。

 箕輪と龍園は互いに距離を置き、向かい合っていた。

 

「ここなら誰の邪魔も入らねぇ」

 

「ひひッ……いいのかぁ、邪魔が入らなくて?」

 

 戦意が高まる龍園に対し、箕輪は余計な言動をはさんで挑発的に刺激する。

 

「あ? まずはその舐めた態度をわからせてやらねぇとなぁ」

 

「おぉ、怖い、怖い。おじさん怖くて小便が漏れそうだよぉ」

 

 二人の間に剣呑(けんのん)な空気が漂い始める。

 

「龍園クン、だったかな? 君の予定とやらが何なのか、さっさと教えてくれないか?」

 

「優しく言ってる間に舐めた態度を変える気はねぇようだな。……まぁいい、どのみち教えるつもりだったからな」

 

 龍園が対話に応じる姿勢に変わり、幾分(いくぶん)か空気が和らぐ。

 

「入学案内と一緒に配布された学校のルールが載っている資料は知ってるな? 俺はそれを事前に頭に叩き込み、今日早めに学校へ来た。色々と調べるためにな」

 

「ほぉ、不良にしては立派な心掛けだねぇ」

 

 箕輪の茶化すような言葉に龍園は眉間に皺が寄るも、一々それに反応していては話が進まないと無視を決める。

 

「……で、担任の話を加えて、この学校には違和感を感じる点がいくつかある」

 

 そう語り始める龍園の考察はあくまでも彼の経験と常識から学校を認識した結果、生じてしまった理想と現実の食い違いについてであった。

 

「まず、何の実績もない高校性に3年間毎月10万ポイントなんてありえねぇ。将来的に大成する可能性を鑑みたとしても、そういうのは学費だとかの必要な経費に援助されるはずだ。生活に必要なものは一律にチケット制を採用して支給すれば済む話。そのほうが管理する学校側にとっては計画的に無駄なく費用を抑えられる。それを生徒が自由に使っていいお金として配られることが不自然だ。

 そして、無料の商品の存在がその不自然さを後押しする。どんな馬鹿でも毎月10万ポイントが配られることになれば、足の出ないポイントの使い方ってのを学ぶ。仮にそんなことも学べない無能な生徒が出てくるとすれば、この学校の謳い文句は誇大広告の嘘ってことだ。つまり、無料の商品が存在するのはそれがどうしても状況的に必要になる生徒が出てくると考える方が自然だな」

 

 ある程度は筋の通った話と感じたのか、箕輪は顎をさすりながら黙っている。

 そんな彼を見据えていた龍園は親指である方向を指し示した。

 

「……お前はまだ確認していないだろうが、この学園の敷地内は数多くの施設が存在する。娯楽施設もな。小さな街を形成していると言っても過言じゃない。

 ポイントさえあれば、贅沢な学校生活を送ることも可能だろう。だが、一方で無料商品の生活を余儀なくされる者もいるはず。まさに社会の縮図だ。

 つまり、物やサービスが平等に支給されないような作りになってる時点で資本主義による競争社会のようなものがこの学園にも存在していると推測できる。

 よって10万ポイントは一定じゃない、何かしらの要因で上下するはず」

 

 格差を生み出す階級構造こそが競争の源泉になる。全員が10万ポイントを無条件で毎月受け取れるような恵まれた環境では競争心が発揮されにくい。ゆえに、その厚遇が実力主義を標榜しているこの学校にそぐわないのは自明の理。

 推測ではあるが、自分の考えにどこか確信めいた自信を持っている龍園は迷わずに次の話へと移る。

 

「監視カメラの多さも異常だ。監視カメラってのは本来犯罪の抑止を期待するためのものだが、ここでは少し違うらしい。

 この学校は閉鎖的で生徒たちが外に出ることはまずできないが、その逆である外から内に入ることも難しい。不特定多数の出入りが制限されていると言える。中に入ってくる業者やここで働いているヤツも学校側が厳選しているはずだ。

 そんな状況で外部からの犯罪を抑止するためだけの目的であの数の監視カメラを設置するわけがない。内部の犯罪抑止ということもあるだろうが、カメラの設置場所を考慮すれば、おそらくは生徒を学校側が徹底的に監視するという目的の意味合いのほうが大きい。

 そして、その監視カメラの多さは裏を返せばそれによって関知されない問題に寛容であると捉えることもできる。仮に生徒同士で問題が発生したとき、当事者による自己申告の水掛け論だけで適当に済ませるような学校なら、この数の監視カメラはいらない。

 つまり、徹底的に白黒つけるってわけだ。白黒つけるということはカメラに映っていないものについては判断しないことになる。それがさっき言った寛容さというわけだ。もちろん、その寛容さは他に証拠がなければの話だがな」

 

 普通の人間であれば監視カメラの存在にそこまでの考えを巡らせることはまずないが、龍園は普通ではなかった。彼の育った環境と培った経験がなせる特技と言えるのかもしれない。

 

「まぁ、他にも腑に落ちない点は色々とあるが、要するにこの学校は謎が多く、普通ではない。

 普通ではないということは、この学校の生徒の実力の測り方も単なる勉強や運動だけじゃない可能性が高い。それに備えて、俺は動いてるってわけだ。ぬるま湯に浸かりながら何の備えもせず、疑問を疑問にしたまま見て見ぬふりをする奴は食われるだけの弱者でしかない」

 

 話をしているうちに、降って湧いた10万ポイントという大金や不自然な環境に何の疑問も持っていないクラスメイトを思い出した龍園は憮然とした表情をしていた。

 

「おそらく、この学校の戦いは集団戦がメインになるはずだ。優秀な人材を社会に輩出することが目的であるなら、集団を率いるにしろ、所属するにしろ、組織に属することが前提になる。ということはいくら個人で能力があっても組織でうまくやれない奴など不要。おのずと個人よりも集団に重きを置かれることになる。そして、この学校でわかりやすい集団単位はクラスだ。よって、俺はこれからクラスを支配するために動く」

 

 先ほどとは打って変わり、龍園は恐れ知らずの自信に満ちたような笑みを浮かべ、為政者が演説しているかの如く両手を大きく広げる。

 

「その手始めに俺は暴力を従える。何を取り繕ったところで、所詮この世界は暴力を中心に廻っている。暴力が最もわかりやすく、手っ取り早いからだ」

 

 矢継ぎ早に言葉を並べ、どれほど話をしたのだろうか、呆れた目で見ている箕輪を余所に長々と饒舌(じょうぜつ)に話す龍園。

 呆れを通り越してしまい、ある種の感心すらしていた箕輪は乾いた笑い声を漏らす。そして、懐に手を入れ、常備されているチョコ菓子を取り出し、口の中でかみ砕く。

 

「ひひッ……おしゃべりだねぇ、龍園クンは。政治家でも(こころざ)しているのかな?」

 

「クク、まぁ最後まで話を聞けよ。俺だってこんなに喋る自分自身に驚いてるんだ」

 

 なかなかに悪くない気分の龍園ではあったが、彼は気づいていない。目の前の相手に対して感じている無意識の不安が口数の多さになって表れていることを。

 

「そうかぁ、新しい自分を発見できて良かったねぇ」

 

「ほざけ、話を戻すぞ。俺がさっき言った推測の続きだが、この学校は世界の真理を理解している。つまり、暴力の余地を残してるってことだ」

 

 そう言い終えると、龍園は体勢を低くし、再び剣呑な空気をまとう。箕輪は食べ終えた菓子の包装を乱雑に握りしめ(ふところ)にしまいこみ、ぼそりとつぶやいた。

 

「ヒョロヒョロの蚊蜻蛉(かとんぼ)

 

「あ?」

 

 箕輪の言葉の意味がわからず、聞き返す意味で龍園は反応した。しかし、その反応に箕輪は返答せず、つぶやきを続ける。

 

「こっから何が始まるか、予想はつくがぁ──こっちが負ける要素はありませんわ」

 

 首元に手を当て、肩を回しながら、口唇(こうしん)をひき歪め、箕輪は凶悪な笑みを浮かべた。

 感じたことのない相手の怖ろしい気配に先手を取られることを嫌った龍園は勢いよく飛び出す。拳を大きく振りかぶり、フッと息を吐きざま、相手に放つ。回避してくれと言わんばかりにその動きは大袈裟だったが、それは相手のタイミングをはずすためのフェイク。すぐさま龍園はコンパクトな打撃に切り替え、連続で繰り出し、相手に反撃の暇を与えない。

 龍園の弾幕ともいえる執拗な拳の嵐。明らかに喧嘩慣れしていることがうかがえる動きだった。だが、箕輪は余裕をもって避けていく。そして、タイミングを見計らい、飛んできた拳をがっちりと掴んだ。

 即座に反応した龍園は掴まれた拳を振り払おうとするが、意志に反して身体の動きが止まってしまう。

 

「このままだと……右腕がなくなっちまうぞ? ほらぁ、外してみろ」

 

 抗うことのできない万力のような力で少しずつ、ゆっくりと腕が捻り上げられていく。箕輪との筋力差に振り払うことを諦めた龍園は力を逃がすため、たまらず捻られている方向に体を回転させた。

 

「おい、足元がお留守だ」

 

 出来の悪い教え子を諭すような口振りの箕輪は掴んでいた手を放し、無防備な龍園の足元を引っ掛けながら、強引に真上へ蹴り上げた。

 浮遊感に襲われた龍園の身体は風車(かざぐるま)のように勢いよく一回転すると地面に墜落。しばらく冷たい大地に身体を預けたまま彼は動けない。片足で容易く一人の人間が宙返りさせられたという事実が龍園の心で波となり、彼の現実感を飲み込んで崩壊させていく。

 

「どうしたぁ、もうお家に帰る時間か?」

 

 置物状態で倒れ込む龍園に対する箕輪の安い挑発。だが、冷水を浴びせられ火の勢いが弱まった龍園の心を燃やすにはちょうどいい燃料だった。

 

「ちょうど身体が温まってきたところ……だっ!」

 

 跳ねるように素早く体勢を立て直した龍園は目潰しのために握りしめていた土を相手に投げつけるよう勢いよく振り向く。次の瞬間、龍園の視界に広がったのは真っ暗な闇だった。

 それは、動きを読んだ箕輪が上着を龍園めがけて投げつけていたことによるもの。策が読まれ、(はば)まれ、視界が一瞬遮られたことにより、龍園に思考の空白が生まれる。そして、その空白は致命的な隙を生み出す。

 

「いくぞぉ、龍園クン」

 

 ──ドォンッ

 

 空気を切り裂き、ブレザー越しに放たれた箕輪の拳が弧を描いて龍園の鳩尾(みぞおち)に叩き込まれた。

 

 拳が衝突した刹那、龍園の体は紙切れのように薄っぺらく舞い、視界に映る景色は上下左右不規則に流れながら猛烈な勢いで前方に飛んでいく。肺の中の空気は一気に押し出され、体を地面に打ちつけながら転がっていく。ようやく回転が止まっても激痛によって横隔膜が引きつき、新鮮な空気が吸えない。肉体が酸素を求め、悲鳴をあげる。全身が鉛のように重たい。四肢の神経細胞に信号が上手く伝わらない。

 龍園が自らの置かれている状況に意識を回すことは困難であった。うずくまる彼を見ながら、箕輪はやれやれといった様子で額に手をあてる。

 

「おいおい、勘弁してくれ。軽く撫でただけだぜぇー」

 

 玩具を弄ぶかのように彼はそう言い捨て、うずくまる男に悠然と歩み寄る。眼下に苦しむ龍園をとらえた箕輪はしゃがみながら相手の耳元でささやく。

 

「まぁ、殺しはしないから安心しな。今からゆ~っくりと締め落としてやる。気持ちいいぞぉー」

 

 気味の悪い笑みで歪んだ表情の箕輪は、まるで赤子を抱き上げるかのような、それが自然とも言える動きで二本の(かいな)を相手の首に走らせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 龍園という男は小学生の頃に相手を屈服させる快感を覚え、中学生の時には恐怖を知らないがゆえに心が折れるということがなく、どんな相手も最終的に降伏させれば勝利できるということを学んだ。卑劣、非道な手段で陥れられても、学習してやり返し勝利を掴んできた。

 その経験の積み重ねか、龍園は倫理的、道徳的に問題のある方法を躊躇なく実行できたが、心の奥底で感情の揺らぎは存在した。これまで自らの前に立ちはだかり、倒れていった幾多の相手にも同じことが言えた。

 だが、この男の目は何だ? どれとも違う。この相対している男は理解できない。黒い澱みからかき集めたような狂気だけが存在していた。自分とは違うステージに目の前の男は立っているのか? 

 抗うことのできない膂力(りょりょく)で締め上げられている中、必死に抵抗しながらも龍園は思考していた。そして、この新たなに生まれた自身の知らない感情に戸惑いながらも、龍園は考え続ける。

 

「お疲れ様だぁ、龍園クン」

 

 ──意識が途切れる、その瞬間まで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 日が落ち、あたりが暗くなった頃に龍園はゆっくりと目を覚ました。

 

「フゥー、ようやく居眠り小僧のお目覚めか」

 

 そう呟いた男は壁にもたれ掛かりながら、チョコ菓子を(むさぼ)っていた。

 前後の記憶が曖昧で状況を把握できないのか、龍園はしばらく静止したままであった。そのうち、ようやく思い出したのか、彼は緩慢な動きで身体を起こすとふらつきながらも立ち上がる。

 

「お前、今まで何人殺してきた?」

 

「……なんだってぇ?」

 

「殺しの経験があるのか?」

 

「それ聞いてどうすんの? 殺してないと言えば、お前さんは納得するのかぁ?」

 

 わかりきっていると言わんばかりの箕輪の返答に、短い時間で考えを(めぐ)らせた龍園は空虚な笑みで箕輪の意見を肯定する。

 

「たしかに聞く意味はないな。どちらにせよ、お前に対して俺は手も足も出なかったという事実があるだけだ」

 

 龍園は短い時間のやり取りで気づく。ついさっきまで自分自身が知りえなかった感情こそが恐怖であると。並みの人間なら生物の本能によって精神が恐怖に支配されたかもしれないが、龍園自身は恐怖というものに盲目的に囚われているわけではなかった。むしろ、何年も完成していなかったパズルのピースがはまったような、それでいて不思議と新鮮な感覚があった。

 

「それで……プライドを叩き折られたお前さんは布団に(くる)まりながら寮にでも引きこもるってぇわけか?」

 

「クク、笑わせるな。別に負けたのは今回が初めてじゃねぇ。自分(てめぇ)の暴力に自惚(うぬぼ)れんなよ」

 

 龍園はこれまでに今回のような圧倒的な敗北と恐怖の経験はなく、大いに戸惑った。自分が今までに屈服させてきた相手も似たような感情を抱いていたのではないかという思いを巡らせもした。そして、束の間の思考の後に結論が下される。

 

 ──だからどうした。

 

 こんなところで挫折して立ち止まっても無意味。これからもやるべきことは何ひとつとして変わらない。道の先に多くの困難が立ちはだかるのなら歓迎しよう。龍園翔が誰よりも高く飛翔し、次の高みへ到達するための糧として。

 (うそぶ)く龍園を目の端にとめながら、箕輪は満更に虚勢でもないことをどこかに感じていた。

 

「てめぇを手駒にする予定だったが、今回は()めだ。一学期中にお前の弱点を探って暴いてやる。首を洗って待っとくんだな」

 

 そう吐き捨て、(きびす)を返す龍園の背中越しに箕輪は声をかける。

 

「まぁ、条件次第じゃあ、お前さんの暴力ってやつになってやってもいいぞ」

 

「……口だけが一丁前の張り子のトラを(あわ)れんだか? 恵んでもらうつもりはねぇ、断る」

 

「ほへぇ~、つれないねぇ。ここはどうだい? お互いに駆け引きはやめにしようや」

 

 もたれ掛かっていた壁から離れ、箕輪は龍園との距離をつめる。

 

「実はおじさん困ったことがあってねぇ~。それを解消してくれるなら手駒になろう。圧倒的な暴力、欲しいだろぉ?」

 

 龍園は無言のまま、(あご)を突き出し、先を促す。

 

「俺の条件は俺の食費を龍園クンが負担する。ただそれだけ」

 

「食費だと? それのどこが憐れみじゃねぇのか説明してみろ」

 

 箕輪の言葉にやはり同情だと感じたのか、龍園の視線が鋭くなる。

 

「そう熱くなりなさんなって。俺に必要な摂取カロリーは成人男性平均の5倍。つまり、食費も5倍。これが馬鹿にならん負担になるわけだ」

 

 相も変わらず軽薄な態度を崩さない箕輪に対し、何か裏があるのかと心中を見透かすように圧迫感を持った視線を龍園は向けるが、彼は少しも揺らがない。推し量ることは困難なようだ。

 しかしながら、昼食や夕食を共にすればすぐにバレてしまうような嘘をつくメリットが見当たらない。本当のことだと龍園は結論づけた。

 

「冗談言ってるわけじゃなさそうだな。……その摂取カロリーはお前のふざけた身体能力に関係があるのか?」

 

 龍園は箕輪との戦いにおいて普通では説明のつかないような膂力(りょりょく)を思い起こし、やや暴論ではあるが、身体能力と摂取カロリーという事象を結び付けた。

 龍園が自分の推測を言い終えると僅かな間をおいて、ぱちぱちと締まりのない音が静かにあたりへ響く。いまひとつ捉えどころのないニヤつく表情で、箕輪は手を叩いていた。

 

「流石、龍園クン。頭いいじゃない」

 

「その気に障るような言い方はやめろ」

 

 不愉快そうに龍園は顔をしかめる。

 

 箕輪の体格は特別大きいというわけではない。体重など重く見積もっても70キロほどにしか見えない。大量の摂取カロリーが必要であるという彼の言い分に龍園が疑いを持ったのも当然のことだと言えた。だが実際、箕輪の体重は──100キロを軽く超えている

 

 原因はその男の遺伝子、DGF‐8ミオスタチン関連の異常にあった。ミオスタチンの異常を持つ人間は世界にも少数ながらいるが、彼の異常はその中でもさらに特別なもの。通常、筋力や筋量に比例するはずの筋肥大が見られなかったのである。その特異な異常が引き起こされた結果、彼が手にしたのは高密度に圧縮され、天与の強度と伸縮性も兼ね備えた筋骨。箕輪の肉体は大袈裟(おおげさ)に肥大しなくとも、圧倒的な力と頑強さをその身に蓄え続けていく。

 そして、生まれてから全くトレーニングをせずとも休みなく発達し続けてしまう天性の筋骨は、いわばその巨躯によって滅び去った太古(たいこ)の生物より進化した姿──

 

まさに超人

 

 昔話で語り継がれた超人伝説の正体は彼のような存在なのかもしれない。

 しかし、その規格外の肉体は超人的な身体能力という恩恵を彼に与える一方で、その生命維持のために莫大なエネルギーを必要としていた。常人であれば、食物によるエネルギーの摂取がなくとも3週間ほどは生存できると言われているが、彼の場合は1週間も耐え切れないだろう。箕輪にとっての食事の価値は並みの人間を大きく上回り、文字通りの生死に直結する重大な問題であった。

 

「俺は金が欲しい、お前さんは暴力が欲しい。対等な取引だろ?」

 

 しばらく、顎をさすりながら考えていた龍園はゆっくりと箕輪に顔を向ける。

 

「お前から持ちかけた取引ってとこが気に食わねぇが、それを差し引いても余りある暴力だ。だが、計画の目途が立つまでは食費を節約しろ」

 

「……はぁ~。いきなり暴力の前借とは気が滅入るねぇ、まったく」

 

 話が終わりかけたとき、ふと思い出したように箕輪は口を開く。

 

「おっと、もうひとつの条件をうっかり忘れてたなぁ」

 

 龍園は眉根を寄せながらも、箕輪の目を見て無言で話を促す。すると、箕輪の気安い雰囲気は消え、その目にはどす黒い渦が巻いていた。

 

「もし、俺に知らされていない計画や罠によって、俺が被害を受けたときは──」

 

 

お前の身体に刻むことになる、報いをな

 

 

 龍園は一瞬、自分の首元に死神の鎌をあてがわれているかのような幻影の感にうたれる。しかし、瞬きひとつした後に命を握られるような張りつめた空気は霧散していた。

 

「気をつけろぉ」

 

 そう忠告する箕輪は数瞬前と同じ飄々(ひょうひょう)とした様子。龍園は興奮と恐怖がない交ぜになっている心情をおくびにも出さず、不敵な笑みで答える。

 

「安心しろ。計画の全貌は話す。でなきゃ不測の事態に対応できないからな」

 

「そうかい、それなら安心だ。龍園クンがやさしいから、おじさん助かるよぉ」

 

「……ちっ、ふざけた野郎だ」

 

 ようやく話を終えた二人は文句を言い合いつつも、満更でもない雰囲気でこの場をあとにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜も深い窓の外から弱々しい月の光が差し込む。電気もつけず、月明りだけが頼りの自室で龍園は椅子に腰掛けていた。

 人というのは身形(みなり)にしろ、態度にしろ、多少の差はあっても(つくろ)って飾りつける。時には善人を装い、時には強者を騙り、時には弱者を演じる。それがどういう飾り付けなのか、だいたいの人間を龍園は見抜けた。Cクラスの教室に次々と入ってくる新たな同級生を見ていても理解できた。いくらかのクラスメイトに目星をつけ、やることもなくなった頃、ある男がやってきた。

 

 その男が教室に足を踏み入れたとき、臭いを嗅ぎ取った。嗅いだことのない猛烈な異臭だ。生徒たちが集う教室という場所にその男の存在はふさわしくない。強烈な違和感を抱いた龍園だが、周りを見渡しても、それに気づいたような人は見当たらない。

 突如、興味が龍園の中で膨れ上がる。好奇心を止められなかった彼は自ら動き出した。結果、かなりの痛みと屈辱をともなったが、手に入れたものは想像以上に大きかった。

 しかしながら、手に入れたそれは禍々しく、持ち主を破滅させる可能性を秘めている。怪しい光に吸い寄せられて飛び回る羽虫の末路を辿(たど)るか、ひとたび(こす)れば全てを蹂躙する魔人のランプの使い手となるかは龍園次第。

 

「やってやるよ」

 

 紆余曲折(うよきょくせつ)を経て、成立した怪物との契約が迷宮(がくえん)に何を(もたら)し、どのような影響を与えるのか。その答えは誰であろうと知る(よし)もなかった。




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