サイレンの音が聞こえる。遠い潮騒のような引いていく音ではない。
まどろみの中、
高度育成高等学校の学生寮は中程度の防音性があり、隣室の騒音を軽減できる。一定以上の大きな音でないと外から彼女の耳にまでは届かない。そして、学校は本土から離れた人工島全体に敷地が広がっている。
つまり、けたたましいサイレンの音が聞こえてくるということは学校の敷地内に用向きがあることを意味していた。
伊吹のまどろんだ意識が徐々に覚醒していく。
──朝早くから、学校にどのような用件があるというのだろうか
いくつかのサイレン音が重なっていることから緊急走行をしている車両が複数であることはわかる。災害や大事故でもないかぎり、警察である可能性が高い。もしかすると、高度育成高等学校始まって以来の大事ではないだろうか。
ここまでで伊吹の頭は完全に眠りから覚醒していた。
「……まったく」
もそもそと枕から顔を上げる伊吹。もとから愛想のない端正な顔を忌まわしそうに歪め、不満が滲んだ言葉をもらした。
言いたいことは色々とあるものの、個人的な理由でサイレン音を迷惑だと主張するのはクレーマー以外の何物でもない。それに愚痴を零したところで消えてしまった眠気が戻ってくるわけでもない。そう考えた彼女は早く起こされたからには何が起きたのか自分の目で確かめなければ割に合わないと、普段より早めに寮から出ることを決めた。
横になったままで伊吹は思いきり手足を伸ばす。思わず吐息が漏れる。ベッドから抜け出した彼女は雑に衣服を脱ぎ捨て、下着姿になると、一気にカーテンを開け放った。遮るものが何もなく、降りそそぐ優しい光は伊吹のなめらかな肢体の縁に沿って輝いている。しばらく日光浴を堪能した彼女は浴室へ直行し、シャワーを終えると朝食の用意にとりかかった。
そんな中、携帯端末が突然震える。
確認するとクラスメイトである椎名からの連絡だった。内容は一緒に登校しようというお誘い。普段は偶然出会わないかぎり、通学路を共にすることはなかった。それが今日にかぎって朝早くに誘われたことを考えると、椎名の目的は同じかもしれない。
断る理由がない伊吹はエントランスで待ち合わせすることを承諾。手際よく登校の準備を進めていき、服装を鏡でチェックし終えた彼女は玄関で靴を履いて鞄を持つとドアノブに手をかける。
ゆっくりと扉が開かれた。
学生寮全体が浮足立っているかのような騒がしさが耳に届く。時間帯を考えると妙なことであった。やはり他の生徒たちも今朝にあったサイレンが気になっているらしい。
エレベーターが混んでいることも予想されたので彼女は階段を選んだ。女子は学生寮の上層に部屋があり、階段で下りるのは少々大変なのだが、体力のある伊吹にとって苦ではない。テンポよく階段を下りていき、1階に到着した。辺りを見回すと、登校する時間には早いというのに人が多くいる。
人口密度が高く、いつもより狭いと感じられるエントランスを歩きながら椎名を探すために首を振る伊吹。そうしていると、いきなり背後から声がかかった。
「伊吹、こっちだ!」
無駄に大きな野太い声はどう考えても女性のものではなかった。嫌な予感を感じながら伊吹は後ろを振り向く。予感は当たっていたらしく、椎名のそばには石崎とアルベルトの姿も見えた。伊吹は少々重い足取りで彼らへと歩み寄る。
「遅いぜ、伊吹。事件はここで起きてるわけじゃねぇぞ!」
「Exactly (その通り)」
どこかで聞いたような言葉を満足気に言い放つ石崎と、調子を合わせるアルベルト。二人の芝居がかったそれに妙な腹立たしさを覚えるが、鬱陶し気に無視しただけの伊吹は椎名に顔を向ける。
「おはよ」
「おはようございます、澪ちゃん」
「……もう聞くだけ無駄かもしれないけど、一応聞いとく。なんでこいつらが?」
「澪ちゃんを待っているときに偶然会ったんです。おふたりも目的は同じようなので一緒にどうですかと誘ってみました」
どうやら伊吹と同じく石崎とアルベルトも今朝のサイレン音が気になっているようだった。
「目的って、何があったか見に行くってこと?」
「はい。不謹慎かもしれませんが、少し興味がありまして。澪ちゃんは大丈夫ですか?」
「大丈夫。もともと私もそのつもりだったし、ちょうど良かっ……たとは言えないかもね」
歯切れの悪い言葉を漏らす伊吹は視線を横にずらす。その様子を見ていた石崎は不敵な笑みを浮かべ、人差し指をキリッと立てながら左右に振る。
「おいおい、俺たちにそんなこと言っていいのか、伊吹」
「……なに? なにかあるなら、勿体つけないでさっさと言いなさいよ」
「へッ、俺たちはもうすでに問題が起こった場所を特定してるぜ。お前らは場所わかってるのかよ?」
石崎の予測通り、伊吹は場所を特定できていない。というよりはそもそも問題にしていなかった。どうせ野次馬が集まって人だかりができていることが予想できたので、それを見つければ何とかなると楽観的に考えていたからだ。
正直なところ、伊吹にとっては大して重要な情報でないように思えたが、それでも無駄に歩き回ることを回避できるのならそれに越したことはない。
「へぇ、たまには役に立つじゃん。で、その情報はどこから?」
「そりゃあお前、俺の豊富な人脈にかかれば──」
「ありました」
得意げに指で鼻をこすりながら発言する石崎を遮ったのは椎名であった。
「学内のネット掲示板に情報がありました。信憑性は不明ですが、場所は社員寮の近くみたいです。石崎くんもこれを見たんですよね?」
「……ま、まぁな。中々やるじゃねぇか、椎名」
見栄で膨らみ始めた石崎の自尊心という名の風船は椎名の鋭い針の一刺しで急速に萎んでしまった。心なしか、肩を落としているように見える。
そんな彼に容赦なく、伊吹は冷ややかな視線を向けていた。
「ホント、たいした人脈」
「うるせぇなぁ。いいだろ、少しくらい良い気分にさせてくれてもよぉ」
「馬鹿なの?」
「ハイハイ、俺が悪かった。……ったく、そんなだから友達少ねぇんだよなぁ」
最後のほうで石崎は小さな悪態を漏らした。耳聡く聞きつけた伊吹は彼のくるぶし目掛けて足を振る──が、空振りに終わった。
「へへッ、そう何度も同じ手を食うかよ」
得意げに笑みを浮かべる石崎。対して、自然とこめかみに怒張した血管が浮き上がる伊吹。
出し抜いたことで気を良くした彼は伊吹の不穏な気配を感じたこともあり、
「ほら、さっさと行くぞ。俺についてこいっ」
そう告げると寮の出口まで駆けて行った。後ろ姿を恨めしそうに伊吹は見送る。
「仲良いですよね」
隣にいる椎名が伊吹の顔を覗き込んでいた。さきほどまでの二人のやりとりを眺めていたこともあり、彼女はやわらかな微笑を浮かべている。
「冗談はやめて」
嫌そうな素振りを見せる伊吹をよそに、椎名はもう一方の隣に目を向けた。
「アルベルトくんはどう思います?」
「We're friends」
「はい、私たちは仲良しですね」
二人の堂々とした素直な会話に伊吹はどこか気恥ずかしさを覚え、顔を隠すようにそっぽを向く。
「……さっさと来ないと置いてくから」
言うや否や、伊吹は寮の出口へと歩き出す。
残された椎名とアルベルトは顔を見あわせて苦笑し、先へ進む彼女の背中をゆっくりと追った。
そこは敷地内で働く教員や従業員が生活している社員寮のすぐ近くだった。
現場は"KEEP OUT"と書かれた黄色のテープで規制線が張られ、制服警官たちが立ち並び、捜査員と思しき人たちが忙しなく動いている。少し離れたところに集まっている警察車両も赤い回転灯を光らせ、ものものしい雰囲気であった。
一般人と思しき人たちが規制線を越えていく場面も見られるが、おそらく社員寮の住人だ。警察官に声をかければ入れてもらえる。もちろん無関係な人が立ち入ることはできない。現場を上から見ようと考えたのか、ある生徒が社員寮に入ろうとしているのを警察官に止められていた。
ズラリと並ぶ野次馬は生徒たちがほとんどで、現場を遠巻きに囲んでおり、好奇心を顔に張りつけている。新たに到着する生徒の姿も見えることから、時間とともに数が増えていくことだろう。
「来たはいいけどよぉ、なんもわかんねぇな」
むっつりと不満そうな顔で石崎は言った。尋常でない現場の空気に興奮していたのは最初だけで、彼の野次馬的興味を満たすほどのものは見当たらなかったらしい。
「そうでもありません、石崎くん。あちらのほうにブルーシートで覆われている場所が見えると思います。事件か事故かはわかりませんが、おそらくシートの下には亡くなられた方がいらっしゃるはずですよ」
沈痛な面持ちで見つめていた椎名はそっと目を閉じ、両手を合わせる。隣で見ていた石崎も慌てて真似するように両手を合わせた。
腕を組みながら、二人の様子を眺めていた伊吹はつぎに遺体のある現場へ視線を移し、少しだけ表情を険しくする。
「……事故だったらいいけど、事件だったとしたらヤバくない? まだ殺人犯が敷地内にいる可能性高いでしょ」
伊吹はおぼろげに感じていた懸念を示した。
彼女の言葉を聞いていた石崎は今回の出来事を伊吹が怖がっていると考え、胸の中に小さな悪戯心が湧く。さらに恐怖心を煽ってやろうと、悪そうな顔をしながら彼は
「もしかしたら、俺たちの近くに殺人犯がいるかもしれないぜぇ」
と言った。
突如、風切り音とともに石崎の短い前髪が揺れる。
彼の目の前には上段に足を振りぬいたことがわかる姿勢で技を終えた伊吹がいた。まったく反応できなかった石崎は呆気にとられたようで、口が開いている。
「だから何? 襲ってきても返り討ちにすればいいだけ」
素っ気なく言い捨てた伊吹には何の気負いも見えない。本気で撃退するつもりのようだ。
「あっ、危ねぇだろっ!」
「そうですよ、澪ちゃん。いくら武術の経験があるからといって、凶器を持っているかもしれない相手は危険すぎます」
自分に向けて放たれた蹴り技の危険性ではなく、伊吹の身の安全を心配する椎名に”そっちかよ”とガックリうなだれる石崎。頭脳明晰な彼女がときおり見せる斜め上の視点についていけない彼は同意を求めるようにアルベルトに顔を向けると、それを察したのか頷きを返してくれた。
「相変わらず血の気が多いみたいだなぁ、伊吹ちゃんは」
どこかで聞き覚えのある軽薄な声がかかる。目を向けると、つい最近、揉め事になりかけたAクラスの橋本と鬼頭がいた。途端に敵意を剥き出しにする伊吹。彼女の様子に橋本は苦笑いしながら、Cクラスの顔ぶれを確認すると、少しだけ落胆の色を見せた。
「あれ、今日は箕輪くんはいないわけ?」
「アニキはいねぇよ。いつも一緒ってわけじゃねぇし、お前らだってそうだろ」
石崎が答えた。
「まぁ、確かにそうだな。龍園くんか箕輪くんがいれば良かったんだけど、残念」
「龍園さんたちに何の用だ」
「なぁに、顔をつないでおこうと思っただけさ。他クラスと違って、AクラスとCクラスは協力し合う余地が残ってるからな」
利害関係を考慮すれば、BクラスとDクラスが組めるように、AクラスとCクラスもまた組むことができる。もっとも、その関係もクラス替えが起きれば、途端に解消される程度のものでしかない。
「だからさぁ、そう睨むのはやめてくんないかな、伊吹ちゃん」
問いかける橋本に表立った反応を見せない伊吹。先ほどから向け続けている警戒するような険しい目つきが変わりそうな気配はない。
彼女の様子に警戒の棘を抜くことはできそうにないと橋本はあきらめる。しかし、自分たちが一方的に悪者扱いされるのには少し納得がいかない。
「まぁ、こないだの件でそういう態度になるのも無理はないかもしれないけどさ、伊吹ちゃんにだって原因があるんだぜ。坂柳の前で遊んでくださいと言わんばかりに隙を見せるから、な」
「あ?」
あえて気に障るような言葉を選んだ橋本に、想定通りの反応を見せる伊吹。拳を握りしめる彼女だったが、その固くなったものを解くようにそっと誰かの手が覆いかぶさった。
「橋本くん……でしたよね。もう終わったことを蒸し返すのはやめていただけませんか?」
頑なな伊吹にこれ以上意固地になって視野を狭めてほしくない椎名は言葉こそ丁寧なものの、話を続けさせるつもりはないという強い意志を感じさせる口調であった。
それを言うなら伊吹の態度も同じようなものじゃないのか──そう思った橋本だったが、幼稚な思考だとすぐに一蹴する。そもそも、今回の目的は相手に協力し合えることを認識させるため。心象を悪くして良いことなど一つもない。突っかかるのはやめるべきだ。
打算を終えた橋本は目尻を下げ、申し訳なさそうな表情を浮かべる。
「ごめん、ついムキになった。俺が悪かったよ。おわびと言っちゃなんだが、興味深い情報をひとつ提供しよう。あれについてだ」
橋本が親指で指し示したのは規制線が張られた現場。一生徒でしかない彼が持っているという情報にCクラスの4人は疑問を抱く。
しかし、同時に強い興味を隠せない。
なぜなら、警察が今回の件について部外者に詳細な話をしてくれるわけがなく、この場でただ眺めていても新しい情報が入ってくる可能性はほとんどないからだ。
悪くない反応に橋本はかすかに頬を緩ませ、話を始める。
「これは俺の部活の先輩から聞いた話なんだが、どうやら遺体を直接ご覧になったらしい。先輩は早朝にジョギングが日課で、いつも走っているコースがあるわけなんだが、今日に限ってなぜか変更。そして、運が悪いことに遺体とご対面というわけさ」
愛嬌のある笑みで肩をすくめてみせる橋本。話に一拍を置き、焦らす彼に石崎と伊吹は早く続きをと急かす。先ほどまでの敵対心は一体どこへやらと思うが、彼らのご機嫌を損ねないために話をすぐに再開した。
「死体を見るなんて経験は特定の職業でもないかぎり、普通はない。もちろん普通の先輩はその状況に混乱して、その場から逃げた。だから、まじまじと遺体の様子を見れたわけじゃないんだが、それでも一目にわかるくらい酷い状態だったみたいだ。辺りは血だらけで、頭は潰れて中身が露出、手足は折れ曲がってるときた」
惨たらしく変わり果てた遺体でも想像しているのか、全員が眉をひそめて不快さを露わにしている。
「性別は遺体の大きさと服装から男なんじゃないかって先輩は考えてる。で、ここからは俺の推測だが、遺体の発見場所と状態を考えると、飛び降り自殺か、落下の事故だと思うね」
「事件の可能性はないってわけ?」
「まぁ、誰かに突き落とされたってのも考えられるから、ゼロって断言はできないだろうが、こんなところで事件を起こすのは賢くないだろ。事故か、自殺って考えるほうが自然じゃないか」
伊吹の疑問は予測の範囲内であったらしく、即座に橋本は答えた。”こんなところ”という言葉にあまり得心がいっていない様子の伊吹はやや渋い顔をする。アルベルトや石崎も同じ表情だった。
そこで、橋本の意見に同調するように頷いた椎名が話を補足する。
「この学校の環境を考えると、殺人を実行するのはかなりリスクが高いと思います。人の出入りも制限されているので、被害者の身元の割り出しが容易ですし、そこから周辺の人間関係を探るのも難しくないはずです。なにより、監視カメラも多いですから、この状況下での殺人はよほど衝動的でもないかぎり、ないと言ってもいいかもしれませんね」
「なーんだ、じゃあ心配ないのか。よかったな、伊吹」
茶化す気が満々の表情で石崎が寄ってきた。ジロリと横目で彼を睨みつけた伊吹は無言で肘を相手の脇腹に軽く振りだす。
ぐえっ!? と苦悶の声があがった。
痛みはそれほどでもないが、思いがけない衝撃によって、石崎は無意識に間抜けな声を出してしまう。耳を赤くした彼は恥ずかしさを誤魔化そうと、やり返して得意げな伊吹に恨みがましい視線を送った。
「まぁ、なんにせよ、俺たちがここで話してることは憶測に過ぎない。あとは警察様が無事に解決してくれることを祈るだけだ。あぁ、それと、この話はオフレコな。先輩もあんまり言いふらして警察の耳に入って事情聴取みたいなことになるのは勘弁みたいだから」
「私たちに話されたことは大丈夫なんですか?」
「これは俺の誠意だから問題なし。他のヤツには話してないから他言は無用で頼むぜ」
椎名に対して、橋本は人好きのする柔和な笑みを浮かべる。
部活の先輩も話す相手は慎重に選ぶべきだったなと伊吹は呆れていた。椎名はというと、入部して数か月ほどで先輩から信頼を得ている橋本の手腕に感心していた。
「俺たちはともかくよぉ、そこにいる鬼頭ってヤツは大丈夫なのか? 話聞いてただろ。そいつのせいで話が広まって、俺たちのせいにされるのはごめんだぜ」
「あぁ、鬼頭ね。心配ない。その証拠に、今まで一言も喋ってないだろ。無駄な話はしないヤツなんだ」
石崎に返答した橋本は顔を上げて、アルベルトに目をやる。
「そういう意味じゃ、アルベルトも同じように信用してるぜ」
「Not very happy (あまり嬉しくない)」
アルベルトは頭を左右に軽く振る。橋本に信用されても仕方がないのか、鬼頭と同類扱いが不服なのか、それとも両方なのかはわからないが、歓迎していないことは確かだ。
悪かったよ、と彼の腕を親しげにポンと叩いた橋本はふと視線をずらす。すると、その先に見えたのは社員寮の玄関から出てきた、ある人物だった。
「我らが担任のお出ましだ」
橋本の漏らした言葉を聞いた、この場の全員が彼の向いている方向に目をやった。それと間を置かずして、自然と背筋が伸びる威厳に満ちた声が四方に響き渡る。
「この場にいる生徒諸君、私は1年Aクラスを担当している真嶋だ。もうすでに各自に連絡が届いている頃だと思うが、口頭で連絡事項を伝える」
拡声器を口元で構える男性は堅物の教師で有名な
真嶋は話を続ける。
「まず、今日の午前中の授業については休講となる。寮で待機だ。決して遊ぶ目的で出歩かないこと。そして、その後についてはまた各自に追って連絡がいくので、しっかりと確認をするように。では、警察の方々の邪魔にならないように、すみやかに解散しなさい」
話は終わったようで、真嶋は顔の前から拡声器を下ろした。しかし、一歩もその場からは動かない。生徒たちが解散するのを最後まで確認するために。
野次馬と化していた生徒たちは指示に従って、ぞろぞろと解散に動く。これ以上見ていても仕方がないうえに、ひそかに期待していたものを拝むことはできなかったからだ。真嶋の解散宣言はちょうどいい契機となった。
「さぁて、寮に帰って二度寝でもするかな。行こうぜ、鬼頭。じゃあな、Cクラス」
橋本はそう言って締めくくると、鬼頭とともに歩き出した。
遠ざかっていく2人の後ろ姿を黙って眺める4人。しばらくして、何気なく顔を見合わせると石崎が声をあげる。
「俺たちも帰ろうぜ」
彼の促す言葉に反論があるはずもなく、全員が寮のほうへ足を向ける。
何もすることないし、もう一回寝ようか──伊吹がそう考えていると、背後から風が吹いてきた。彼女の短めの綺麗な髪がたなびく。それと同時に後頭部に違和感を抱く。
頭の後ろへ手をやった伊吹は何かを掴みとると、顔の前まで持ってきた。確認すると、お菓子のゴミだった。彼女の頭の中で、ある人物のことが思い出され、少し顔をしかめる。
「おーい」
後ろから声がかかった。振り返ると、制服を着た警察官が小走りでこちらに寄ってきていた。息を少し切らした警察官は到着するなり、伊吹の渋い表情から怒っていると察して、すぐに謝罪の言葉を口にする。
「いやぁ、すまない。これ自分のゴミじゃないんだけど、本当にごめんね」
言い訳がましい謝罪であったが、話を長引かせるつもりのない伊吹は受け入れた。ゴミを回収した警察官は軽くおじぎをすると、来た時と同じように小走りで立ち去っていった。
「澪ちゃーん、帰りますよー」
大きな声で椎名が呼びかける。珍しいなと思いながら、伊吹は「わかってる」と返事をして、ようやく帰路についた。
ひとけのない廊下を男が無言で歩く。
他に人影が見当たらない理由はまだ午後の授業が始まるには早い時間だからだ。午前中が休講となり、このまま臨時的に終日休みになると期待していた生徒たちの思いとは裏腹に、午後から授業は開始される。全国屈指の名門校はカリキュラムが狂うことを最小限にとどめたいのだろうか。全校集会が開催されることもない。
ある扉の前まで来た男は立ち止まった。金属製の表札には”生徒会室”と書かれていた。
ノックもせず、いきなり扉のドアノブに手をかけると、一気に開け放つ。
ひとりは頑丈そうな机に肘をつき、手を組んでいる生徒会長の堀北学。もうひとりは口を半開きにして、信じられないといった表情をしているお団子頭の可愛らしい女の子、生徒会書記を務める
2人の姿を視認したはずの男はというと、挨拶をすることもなく、何事もなかったように我が物顔で室内を闊歩する。
歩み寄ってくる男に何の敬意も感じられなかった橘は生徒会室という聖域を汚された気がしていた。嫌悪で顔が険しくなる。
「君っ、ノックもせずに入室するなんて、マナー違反ですよ!」
橘の咎める声に、チラリと目をやる男。だが、それも一瞬のことで、視線はすぐに生徒会長のほうに戻された。ほとんど無視に近い行動に、橘は怒りを募らせる。
「聞いているんですかっ、君に──」
「橘」
追及するために口を開いた彼女の動きが止まる。隣から制止する声がかかったからだ。
「彼とは前に一度、礼儀について話し合っている。改めないのは彼の自由だ。もっとも、その自由が将来的に自分の首を絞めることになろうとも俺は知らないがな。矯正してやるほど、俺は優しくない。だから好きにするといい、龍園」
「わざわざ忠告か? お優しいことだな、堀北」
常と変わらない冷静さを保つ堀北に、挑戦的な笑みを浮かべる龍園。
先輩に対するものとは思えない礼を欠いた彼の言葉遣いに橘は憤るが、先ほど堀北に止められたことを思い出してグっとこらえる。
「で、用件はなんだ? つまらない話をするために、わざわざ俺を呼ぶほど生徒会長様は暇じゃないだろ」
龍園が催促すると、堀北は無言で封筒を差し出した。訝しげに受け取った龍園はじっと渡された物を見つめる。そして、少ししてから視線を堀北に向けた。しかし、反応は何もなく、説明をする気もないようだ。
「なんだこれは?」
「ある人物からお前に渡すように頼まれた物だ。中に何が入っているのかは把握していない」
「……誰だ?」
「差出人不明の荷物は受け取れないというのであれば、その旨を伝えておこう」
龍園の二度目の問いかけに、相手は応じる素振りを見せない。答えになっていない返答を最後に堀北は口を閉ざす。自分のすべきことはすでに終えたと言わんばかりだった。
──バンッ
部屋の静けさを破る音が鳴る。龍園が机に手を強く叩きつけた。
突然の大きな音にビクッと肩を震わせた橘は心臓が早鐘を打っていることを自覚する。堀北は表情を崩さず、微動だにしていなかった。
「力づくで聞いてやってもいいんだぜ?」
そう言った龍園の瞳には鋭い光が宿っていた。
彼の様子に本気かもしれないと感じた橘は敬愛する生徒会長を心配そうにうかがう。たとえ暴力沙汰になったとしても、武道の有段者である堀北が一方的に打ちのめされるとは思わない。ただ、場所がまずかった。相手に非があっても、この場で暴れられると堀北の生徒会長としての品位を問われかねない。
彼女の心配をよそに、龍園と視線をぶつけていた堀北はおもむろに瞼を閉じた。
「疑問がある」
「あ?」
「なぜ、封筒の中身を確認しない?」
目をひらいた堀北は力強い眼差しで目の前の相手を射抜く。
普通の人間なら、あまりの迫力と圧迫感に目を逸らしてしまうが、龍園は視線を外さなかった。堀北がどう出るのか、黙って様子を探る。
「普通であれば、まず中身を確かめるはず。だが、お前はしなかった。それは封筒の中身に見当がついているからだ。そして、封筒を突き返さないのはよほど重要なものが入っているとも考えられる」
「それで? だから何だ」
「この場で封筒の中を確認しないのは、万が一にもここで露見してしまうような望ましくない状況になることを避けるため。違うか?」
堀北の問いかけに答える素振りを見せない龍園。しかし、彼の口元にはうっすらと笑みが浮かんでいるように見えた。
「さきほど、お前は差出人について尋ねていたな。教えてやる義理はないが、ここでお前に譲歩し、差出人の正体について明かしてもいい。ただし、こちらも封筒の中身を確認させてもらう。俺の推測が間違いなら、問題はあるまい。対等な交換条件といこうか」
形の上では条件をお互いにやり取りするという意味でたしかに対等だ。しかし、立場や内容が同等であるとは言えない。
堀北の推測通り、封筒の中身について龍園はだいたいの予想がついていた。そして、それは生徒会長に知られて良いものではない。当然、交換条件など飲めるはずもない。
「これでもまだ不十分だと、幼子のように駄々をこねるのであれば、こちらも対処しなければならない。暴れるというのなら勝手にしろ。だが、今日とあの日とでは状況が違うぞ」
堀北が言っているのは箕輪の不在についてだ。先日、夜の公園で箕輪に止められた拳に龍園が反応できていなかったことを彼は見抜いていた。たいていなら、箕輪という逸脱した暴力に注意を引かれ、周囲への観察がおろそかになってもおかしくないが、堀北という男は怠らなかった。龍園の力量を正確に見抜いていたのだ。
龍園の目論見は潰える。いや、目論見というほどのものではない。もともと無理があった。脅しでどうにか上手くいけば、儲けもの程度の考えでしかない。仮に暴力を振るったところで、前回と真逆の結果になることは良く理解している。箕輪にも忠告されていた。暴れたところで何の利益もなく、損なだけだ。
安い脅しが通用するほど、生徒会長は甘くなかった。
「……ククッ、どうやらお前のことを甘く見ていたようだな。評価を上げてやるよ、
「まだ入学してから4カ月ほどだが、俺もお前のことはある程度評価している。粗さは否めないがな」
「一言余計だ」
封筒を携えた龍園はそう吐き捨てると、話は終わったとばかりに、扉のほうへ身をひるがえし歩いていく。それを黙って見送る堀北と橘。
不意に龍園が歩みを止めた。肩越しに振りかえった彼は堀北に問いかける。
「生徒会に入った1年Bクラスの一之瀬、お前はどう見る?」
「まだ入ったばかりで仕事ぶりなど評価できない。だが、能力はあるだろうな」
「そのわりには面接に落ちてたらしいが?」
「適性があっても、適正であるとは限らない。面接では俺が落とした」
堂々とこたえる堀北に少しも悪びれた様子はない。上に立つ者はときとして冷酷に切り捨てる判断も必要ということだろうか。
「誰が拾った?」
「副会長の南雲だ。さきほどからの質問といい、生徒会に興味でもあるのか? そうであるなら俺が席を用意しても構わないが」
「会長っ!」
龍園と堀北の会話に橘がたまらず割り込む。その声には抑えきれない否定の意が含まれていた。
無視した龍園は堀北と会話を続ける。
「おいおい、冗談だろ?」
「冗談だ」
涼しげな顔で堀北は戯れであることを肯定した。
「……チッ、冗談のセンスはねぇようだな」
再び背を向けた龍園は今度こそ振り返ることなく、荒々しく扉の音を立てて部屋を出ていった。
彼の姿が扉の向こう側へ消えたことを認めた橘は結果的に何事もなく終わり、ホッと胸をなでおろす。
「あれが噂の龍園翔くんですか。噂通りの横柄な人でしたが、さすがにこの場所で暴れるほど短絡的ではなかったみたいですね」
3年Aクラスの同級生二人だけになった空間であっても、橘は丁寧な言葉づかいをやめない。生徒会の書記という公的な立場で仕事をしているためだ。もちろん、生徒会長を立てるためでもある。
安心する橘に、堀北は目を向けた。
「橘、重大なリスクを理解していても、それを度外視する輩は存在する。自分の杓子定規で相手を理解した気になるのは危険だ」
「……申し訳ありません、浅慮でした。以後気をつけます」
堀北に忠告された橘は自分の未熟な考えを恥じつつ、彼の言葉を噛みしめるようにゆっくりと力強くうなずいた。
彼女の様子を確認した堀北は机の上で肘をついて手を組んだまま、閉じられた扉にふたたび視線を戻し、じっと見つめる。
堀北は1年のCクラスとDクラスで起きている問題を把握していた。生徒会として審議に立ち会うことになるからだ。そして、審議は本日に執り行われる。何も起きなければ、Dクラスに抗う余地などないだろう。
「争いの結末、見届けさせてもらおうか」
つぶやいた堀北の顔にはかすかな笑みが浮かんでいた。