怪物と迷宮   作:迷宮の怪物1

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前半はDクラス、後半はCクラスの話となっております。今回は2万字近い文字数となっていますのでご了承ください。

ルビに関するアンケート結果についてですが、予想以上に拮抗していました。なので、今までよりもルビを少なめにする形で続行しようと思います。

よろしくお願いします。


9話

「──以上だ。ホームルームを終了する。週末だからといって羽目を外し過ぎるなよ?」

 

 Dクラス担任の茶柱が本日の終業を告げた。堅苦しい授業から解放された生徒たちでにわかに騒がしくなる中、綾小路は隣にいる堀北の様子を見ていた。昼休みに龍園たちと一悶着あったせいで精神的にやられてしまった彼女の状態を確認するためだ。淡々と荷物をまとめて帰宅する準備をしているあたり、堀北に問題はないのかもしれない。

 

「さっきから人のことをじろじろと見ているようだけど、何?」

 

「いや、大丈夫なのかと思ってな」

 

「大きなお世話よ。あなたに心配されるまでもないわ」

 

 普通の人なら強がりな発言と捉えることもできるが、不必要にぶっきらぼうで強気な態度は堀北にとっての日常。彼女はいつも通りだった。友人が一人もいなかった環境が強い精神力を育んだのだろう。

 席を立ち、鞄を肩にかけた堀北は綾小路のほうを向く。

 

「神崎くんの言っていたことを冷静にもう一度考えてみたけれど、他に良案もないから彼の案を採用することにしたわ。あなたに任せきりというのも不安になってきたことだしね。有力な情報を提供した人に報酬として与えるポイントはBクラスから借りる。Cクラスの条件を考えれば安い出費でしょうし、使える情報が無ければ、そもそもポイントの支払いが発生しないだけだから負担にはならない」

 

 そう言った堀北は睥睨(へいげい)するように目を細める。

 

「ただし、それもあくまで最終手段としての話。神崎くんの案を実行に移すかどうかはあなた次第よ、綾小路くん。もしも上手くいきそうにないなら連絡して。できるかぎり早くね」

 

 自分の言いたいことだけをまくし立てた彼女は相手の返答を待たずに颯爽と教室を出ていった。ひとり取り残される綾小路。彼は溜息をつくと教室を見回す。もうほとんどの生徒は残っていなかったが、いつもなら早々に帰宅する佐倉がいた。

 綾小路は佐倉が話をしてくれない場合を想定して、すでに他の解決方法を考えてはいた。しかし、その方法は賭けに近く、須藤や櫛田、Bクラスに協力を求める大掛かりなものとなり、あまり気が進むものではない。実行するかどうかも定かではなかった。そのため、綾小路はできるかぎり佐倉を待つつもりだったが、どうやら今日中に彼女からの接触がありそうだ。

 綾小路は荷物をまとめると教室を出る。学校の玄関で靴に履き替え、外に出た彼は通学路とは違う道を行く。あえてひと気のないほうを選んで進んでいくと、ちょうどいいと思える建物の角を曲がり、そばにある壁にもたれかかった。少しの時間をおいて曲がり角から人影が差す。そして、綾小路の後ろをつけていた人物がひょっこりと姿を現した。

 

「ひゃうっ、あ、綾小路くん!? いや、これは、そのっ、違くて」

 

 いつ話しかけようかタイミングを窺いながら彼を追跡していた佐倉は想定外の状況に混乱する。あたふたとする彼女を落ち着かせるために綾小路は開いた手のひらを相手の目の前まで持っていく。

 

「大丈夫だ。わかってる。話があるんだろ?」

 

 ゆっくりと紡がれる綾小路の言葉に落ち着きを取り戻した佐倉。

 

「あの……綾小路くんにお話したいことがあって……今日の夜に私の部屋へ来てもらえませんか?」

 

 たどたどしくはあったものの、やっと言いたいことを言えたのか少しの安堵が彼女から垣間見える。聞く人が聞けば誤解を与えかねなかったが、佐倉の言葉を正しく理解した綾小路は不安を与えないようにすぐさま承諾。彼女は部屋番号と時間だけを告げて足早に去っていった。

 

「さて、吉と出るか……」

 

 そう呟いた綾小路は通学路から外れた道を修正しながら帰路についた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ちくたくちくたく。

 

 壁にかけられた大きな時計の休みなく時を刻む音だけが部屋に響く。男女で大きな違いはないワンルームのこぢんまりとした寮部屋に招かれた綾小路は向かいに座っている佐倉が話し始めるのを辛抱強く待っていた。

 

「あ、あの……箕輪くんのことでご相談したいことがあって。1週間くらい前の話になりますけど」

 

 ようやく話す決心がついたのか、佐倉は特別棟で自分の身に何が起こったのかをポツリ、ポツリと話していく。話をしやすいように適度な相槌をうつ綾小路は話が進むにつれて表情が徐々に歪んでいく彼女の様子を眺めていた。泣き出しそうになるのを必死にこらえているように見える。

 

「それで……うぅっ、こわぐで。でも、がくすのもづらくて。一人でどうじたらいいのかわからなぐて綾小路ぐんに」

 

 こらえきれなくなった佐倉は目の縁から涙をこぼす。嗚咽(おえつ)にともなう嘔吐(えず)きによって彼女の喉は麻痺したかのように震えて上手く言葉を口にすることができない。それでも一生懸命に話を続けようとする佐倉を見かねた綾小路は机を回り込んで傍にしゃがみ込む。そして、無意識に彼女の背中をさするために手で触れようとするが、ある考えが(よぎ)り思いとどまった。常識的に考えて異性の身体に無断で触れるのは駄目なのではないだろうかと。

 数秒考えた彼はやはり触れることにした。今の彼女に必要なのはそういう常識ではないと思ったからだ。もし不快であったなら、あとで謝罪しよう。綾小路は気遣うように佐倉をさすりながら口を開く。

 

「佐倉、とりあえず我慢していたものを今ここで全部吐き出そう。話はそれからでいい」

 

 彼の言葉を耳にした佐倉は勢いよく泣き出す。ここ数日間誰にも打ち明けられず、一人でずっと悩み続けた彼女にとって綾小路の優しさは身に沁みた。

 今までためていた気持ちを絞り出すように数分ほど泣き続けた佐倉。しばらくして彼女は冷静になると、近くに異性の顔があり、散々泣いたことで腫れあがった自分の顔を見られている状況に気づいた。

 

「あ、綾小路くんっ。わ、私ちょっと顔冷やしてくるね!」

 

 急いで立ち上がった佐倉は顔を隠すように洗面所のほうへと駆け込んでいった。それを見届けた綾小路はやることもなくなり、部屋を見渡す。すると、棚の上にあるカメラの残骸が目についたので確認するために歩み寄った。もしかしたらデータを復元できるかもしれない。そんな淡い期待を持っていた綾小路だったが、徹底的に破壊されているそれを近くで見た瞬間に期待は泡沫(うたかた)のごとく消え去った。

 彼はポケットに手を入れ、携帯端末を取り出す。ひとしきり操作した後、再びポケットにそれを押し込むと綾小路は佐倉が戻るのを大人しく待つことにした。

 閑寂の中、時計の秒針だけが一定のリズムで音を鳴らしている。そんな無機質さにどこか懐かしさを感じている綾小路。そうしていると、ようやく顔の腫れが治まったのか、佐倉が戻ってくる。

 

「もう大丈夫なのか?」

 

「はい。お待たせしてすみませんでした」

 

 どうやら鬱屈としていた気持ちを全部吐き出せたようで、謝る佐倉の顔は最初よりも幾分かスッキリとしていた。

 

「落ち着いたみたいで良かった。あと、敬語じゃなくていいぞ。同級生だし、クラスメイトだからな」

 

「あ……う、うん、わかった。頑張ってみるね」

 

 とりあえず話の続きをできる場が整ったことで早速本題に戻るつもりであったが、綾小路は他でひとつ気になっていることがあった。寮に備え付けられたデスクトップパソコンが置いてある机の上に大量の手紙らしきものがあったのだ。

 

「少しいいか、佐倉。答えたくなければ答えなくていいんだが、あれは?」

 

 綾小路が指を差すと、つられて視線を移した佐倉の表情が曇る。ややあって彼女はパソコンの前にまで移動すると電源をつけ、あるブログを画面に表示した。

 

「実はもうひとつ相談事があるの。ごめんね……いっぱい相談しちゃって」

 

「いや、それはいいんだ。で、もうひとつの相談は?」

 

「その……信じられないかもしれないけど、わたしアイドルやってるの。あんまり有名じゃないんだけど」

 

 佐倉の話によると、彼女は2年前からグラビアアイドル”(しずく)”として活動しているらしい。それと同時にブログを開設。コメント欄もファンと思われるもので賑わっていた。ブログは始めたときから365日ほぼ毎日更新されていたが、外部との通信を禁止している学校への入学と同時に更新はストップ。3か月前から停止したままだ。ブログが更新されないせいかコメントは減少傾向にあったのだが、それに伴ってあるコメントが目立つようになっていた。

 

『雫ちゃん、この出会いは運命だ』

『いっぱいお喋りできたね』

『愛してる』

『今日の写真は水玉のバングルと上目遣いが可愛くていい感じだ』

『いつも見てるよ』

『カメラの調子はどうかな?』

『誰も僕らを引き裂けない』

 

 一人のファンによる妄想が行き過ぎたものと捉えることもできるが、それにしては内容が具体的で身の毛がよだつような文字の羅列とも言えた。女性が恐怖を感じるには十分な内容だろう。

 この話題に触れたくなさげな佐倉は緩慢に口を開く。

 

「……綾小路くんも見てわかったと思うけど、ストーカーみたいなことされてて。手紙も1週間前から送られてくるようになったの」

 

 1週間前から送られてきたにしては相当な量の手紙だった。綾小路は佐倉の了解を得て、手紙を手に取り、中身を検分していく。そこにはストーカーの住所や連絡先、愛の言葉、カメラの不具合確認、佐倉の身を案じるような言葉がつづられていた。他の手紙も大体似たような内容だ。文体からしても、ブログに不快なコメントを投稿している者と同一人物であることがうかがえる。

 

「きっと今もどこかで見てるんじゃないかなって思うと、気持ち悪くて……」

 

 ストーカーへの嫌悪からか、佐倉は自分の身体を抱きしめていた。

 そんな彼女を目の端に止めながら綾小路はストーカについて考えていた。彼女につきまとっている人物を特定するのはそれほど難しいことではない。コメントや手紙の内容がたしかなら、この閉鎖された学校の敷地内にいることはすでに確定しているからだ。そして、人見知りの佐倉と接触している人物など限られてくる。綾小路は佐倉にストーカーへの心当たりがないか確認することにした。

 

「佐倉はストーカーが誰かわかってるのか?」

 

「……うん、家電量販店の店員さん」

 

 この学校には全国的に有名な家電量販店が敷地内に設けられている。規模は小さいものの、学生が利用する分には十分なものだった。

 佐倉はそこでカメラを購入するときにその店員と接触したとのこと。彼女の趣味は写真での自撮りなのだが、カメラについての知識はあまりなく、購入から設定まで父親や仕事の関係者にやってもらっていたらしい。しかし、この学校に入学してからは誰にも頼ることができなくなったのでカメラ購入について途方に暮れていたところ、件の店員に声をかけられたようだ。

 家電量販店では学生向けに店員が無料で家電の設定をしてくれるキャンペーンを4月から5月に行っていたので、その流れで佐倉はストーカー店員にカメラの選定から購入、そして設定まで全てをやってもらった。それをきっかけにしてストーカーが始まったのだ。

 

「佐倉は学校に相談したくないんだろ?」

 

「……わがままかもしれないけど、あんまり大事にしたくない……から」

 

 今までの彼女の行動や性格を考えれば、簡単に推測できる。おそらく箕輪の件でも目立ちたくないはずだと綾小路は考えた。今回の達成されるべき目標は佐倉を目立たせずに2つの事件を解決すること。言うのは簡単だが、実行することは容易ではない。

 ブログを閲覧したり、手紙を見ながら、しばらく思索を深めていた綾小路は一段落ついたのか、佐倉に目を向けた。

 

「とりあえずストーカーについてだが、一度拒絶の意思表示をしよう。メールか手紙で代わりに俺がしておく。被害者本人が書いてしまうと感情的かつ攻撃的な文章になるかもしれないからな。その後は何もせずに現状維持だ。佐倉は学校が終われば寄り道をせずに帰宅すること。帰り道は堀北に同行してもらうつもりだ。俺だとストーカーを刺激する可能性がある」

 

 同性かつ孤独な帰宅部で格闘術を心得ている堀北はボディーガードとしてはうってつけだ。説得には骨が折れるかもしれないが。

 

「堀北にも佐倉の事情を話すが、いいか?」

 

「……しょうがないよね。できれば綾小路くんだけが良かったけど」

 

「話が漏れることを不安に思ってるなら安心してくれ。俺も堀北も気軽に話をできるような友人はいないし、口も堅いつもりだ」

 

「えっと……」

 

 不安を和らげるための自虐的なネタなのか、真面目に悲しいことを言っているのか。判断のつかない綾小路の表情に戸惑う佐倉。

 そんな彼女に反応せず、綾小路は話を続ける。

 

「ストーカーからの郵便物は触らずにポストへそのまま放置しておいてくれ。俺が確認する。もしかすると危険なものが入ってるかもしれないからな。そして、ひとけのないところには行かない。ストーカーに対して何らかのアクションを起こすのはもってのほかだ。あと──」

 

 話を中断した綾小路はポケットを探り、携帯端末を取り出す。

 

「連絡先を交換しよう。何かあったときは遠慮なく連絡してくれ。もちろん、愚痴でもかまわない。ストレス発散は必要だからな」

 

 佐倉の目の前に差し出される綾小路の端末。彼女がこの学校で唯一連絡先に登録しているのは櫛田桔梗ただひとり。それも、櫛田の雰囲気に流されてなかば強引な形で交換されたもの。そのときに佐倉は別段の感慨も抱かなかったが、今は違う。すでに佐倉は綾小路を信頼していたので彼女にとっても嬉しい申し出であった。

 

「う、うん。ありがとう綾小路くん」

 

 綾小路の連絡先を新たに登録した携帯端末を見る佐倉の頬にはほんのりと赤みが差していた。つづいて綾小路は箕輪について話を切り出す。

 

「そして箕輪の件だが、何もしなくていい。むしろ、しない方がいい」

 

 綾小路の言葉に佐倉は首をかしげた。

 

「理由は被害者である須藤がそもそも問題にする気がないからだ。佐倉には理解できないかもしれないが、男のプライドとか美学みたいなものが絡んでいる。だから、告発しないことを佐倉が悪く思うことは何一つとしてない。須藤のことを考えてくれるなら静かにするのが正解なんだ」

 

 綾小路は苦しんでいた佐倉を表に引っ張り出すことを断念した。写真という証拠を隠滅された状況で彼女に協力してもらったところで、大して形勢が良くなるわけでもなく、いたずらに周囲の目を引くだけだからだ。

 

「ほ、本当に黙ってていいの?」

 

「ああ。何も悪くないどころか、須藤にとってはありがたいだろうな」

 

 佐倉の苦しみの根源は事件を秘匿することで生まれる須藤への罪悪感。当の被害者が告発を望んでいないというのであれば、その罪悪感は筋違いなものとなる。

 完全に解決したわけではないが、ここ数日において佐倉の頭を悩ませた問題がほとんど解消されたといってもいいだろう。肩の荷がおりた彼女は憑き物が落ちたように悲壮感が消え去っていた。ようやく佐倉の辛く孤独な戦いは終わったのだ。

 

「……ありがとう、綾小路くん」

 

 彼女の感謝を聞き届けた綾小路。疲れたような笑みを浮かべた佐倉が映りこむ彼の瞳には妖しげな揺らめきが宿っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 校内の1階にあるカフェ・パレット。学内でも1,2の人気を争うお店は清潔感のある白を基調とした、大きな窓ガラスが開放的な空間を演出するお洒落な内装だ。会話を邪魔しない静かなBGMと適度な空調、他人の目線が気にならないゆったりとしたテーブルの間隔はつい時間を忘れさせるほどに居心地の良さを感じさせるだろう。時間にもよるが、平日でも大抵の場合で席は7~8割ほど埋まっていて、休日の今日はほとんど満席に近いという活況ぶりである。

 そんな賑わいを見せるカフェの奥のテーブル席に伊吹がいた。彼女の目を釘づけにしているのは美しい食器にのせられたチーズケーキと蜂蜜の入っている小瓶。伊吹はおもむろに瓶を手に取り、黄金色に輝く雫をケーキへ垂らす。そして、フォークで食べやすいサイズに切り分けて口へと運んだ。

 すると、濃厚かつ上品な味わいのチーズと癖のない甘さの蜂蜜が絡まり合いながら崩れ、口の中で踊った。チーズの心地よい豊かな香りが鼻腔(びこう)を抜けていき、幸せの刺激を感じた伊吹はプルプルと微かに身震いをしながら頬を緩ませる。至福のひと時を堪能する彼女はご満悦な表情だ。普段の態度とは違い、年相応な少女の顔を覗かせる。

 しばらく余韻に浸る彼女であったが、カチカチと右のほうから聞こえる(せわ)しないスプーンと食器の音に折角の雰囲気を壊され、眉をひそめる。

 

「……ちょっと、みっともないからやめてくんない? あんたのせいでケーキが台無しになるんだけど」

 

 隣に座っている石崎に対して伊吹は注意を促す。しかしながら、彼は目の前のスイーツに夢中で反応する様子はない。

 

犯那殺多(パンナコッタ)……恐るべし。何杯でも食える。さすが、暴走族のチーム名になるだけのことはあるな」

 

 意味のわからない言葉をつぶやき、一人でうなずきながら納得する石崎。一品目を完食した彼はすかさず二品目のパンナコッタに手を伸ばすも、焦りからか、手元が狂ってしまいデザートの入った容器を倒してしまった。

 

「俺の犯那殺多(パンナコッタ)がああああっ!」

 

 石崎の場違いな大きい声にカフェを利用している生徒たちは奇異な目を向けて迷惑そうな表情を隠さない。彼の悲痛な叫びは”同情”ではなく”ひんしゅく”を買ったようだ。隣で恥ずかしさと怒りを必死に押し殺した伊吹は額に手をあて疲れたように溜息を吐く。

 

Oh(オゥ),Panna cotta(パンナコッタ) Nantekotta! (なんてこった!)

 

 石崎の奇行も束の間、夏の暑さを吹き飛ばすような寒いおやじギャグが真正面のアルベルトから聞こえてきた。彼は本当に日本語が不得意なのかという疑念がぬぐえない伊吹。癒される目的でカフェを訪れている彼女はこれ以上自分の体力を浪費させないために、くだらないことを言うなと釘を刺す意味でアルベルトをしっかり睨みつけておく。

 

「──あ?」

 

 伊吹の絶対零度の視線にアルベルトは小動物のように身を縮こませ、目を逸らしながら紅茶を口に持っていく。

 

(みお)ちゃん、このケーキ美味しいですよ。一口どうですか?」

 

 左隣に座っている椎名からの気の抜けるような言葉に毒気も抜かれてしまった伊吹は言われるがままに口へと運ばれたケーキを食べる。が、そうじゃないと気を取り直し、椎名の方へ顔を向けた。

 

「あのさぁ、一緒にカフェに行くのはいいんだけど、なんでこいつらも一緒なの?」

 

「ティータイムを楽しむ友人は多いほうが良いと思いまして。こうして友人とお茶会を開くのは初めてです。楽しいですね」

 

 相好を崩し、ほんのりと上気させた表情を隠すように椎名はかるく合わせた手のひらを口元へ持っていく。素朴で慎ましいながらも美しさを感じさせる彼女の笑顔に、伊吹は自分自身が小さなことにこだわる狭量な人物のように思えた。ささやかとも言える椎名の幸せを邪魔するのは気が引ける。伊吹は手つかずであったコーヒーを砂糖も入れずに喉へと流し込んだ。

 

「龍園くんと箕輪くんもお誘いしたんですけど、断られてしまいました。残念です」

 

 椎名からは言葉ほどに沈んだ様子が感じられない。誘いに応じてくれない可能性が高いことをわかっていたようだ。

 

「まぁ、龍園さんたちはDクラスに仕掛けてる最中だから忙しいだろ。仕方ないんじゃねえか?」

 

 自らの不手際でこぼしたデザートを処理し終えた石崎は空になった容器を恨めしそうに見つめながら返答する。そんな彼とは対照的に、龍園たちが来ないことを知った伊吹は心労が重なることはないようだと安心して体が軽くなった。心なしかケーキを食べ進む調子が上がったように見える。

 

「これ、良ければ差し上げましょうか?」

 

 不意に、音律的魅力を感じさせる澄んだ鈴の音のような声が響いた。4人が音の方へ顔を向けると、そこには浮世離れした雰囲気をまとう(はかな)げな美少女がいる。足が悪いのか、それとも他に原因があるのかはわからないが、細い杖を片手で突きながら立っていた。もう片方の手には石崎の求めてやまないスイーツの入った容器が見える。見知らぬ生徒がいきなり声をかけてきた状況に伊吹、石崎、アルベルトは緊張感と警戒心が混ざり合った空気を漂わせた。椎名だけは喜怒哀楽のどの感情にも当てはまらない淡々とした様子で乱入者を注視する。

 

「ああ、これは失礼いたしました。隣から大きな悲鳴が聞こえてきたものですから、つい。1年Aクラスに所属する坂柳有栖(さかやなぎ ありす)と申します」

 

 軽くお辞儀をする動作ひとつひとつに気品が感じられ、理知的な光を湛えた力強い瞳は心の奥底まで覗き込まれると錯覚してしまうほどに落ち着かない気分にさせる。彼女が学年の中で最上位に位置するAクラスの生徒であることが判明し、Cクラスの面々はますます警戒心が高まっていた。

 

「どうぞ」

 

「あっ、どうも」

 

 坂柳は白魚を思わせる美しい手を差し出し、石崎の近くにそっとデザートを置いた。周囲が非難の視線を投げかける中、自らの悲しみに寄り添って食べ物を恵んでくれる女の子の登場に石崎は淡い感動を抱く。悪いヤツなわけがない、彼はそう思った。彼女に対する警戒心は一瞬で消えてしまう。照れ笑いを浮かべながら気を許す石崎を見ていた伊吹はこの流れをなんとなく嫌い、待ったをかける。

 

「いまどき小学生だって食べ物で釣られないのに、なに気ぃ許してんの? 毒でも入ってたらどうするわけ?」

 

「うぇっ!?」

 

 伊吹の思わぬ指摘に石崎は焦る。

 

「澪ちゃん、それは流石に坂柳さんに対して失礼かと思います」

 

 暴言ともとれる伊吹の発言を椎名はやんわりとたしなめた。

 

「それに毒で石崎くんを害する理由もないですし、何のメリットもないですよ」

「彼女のおっしゃる通りです。騒ぎを起こすだけで、むしろ不利益を被るのはこちら側ですから」

「……たしかに、石崎なんてCクラスの下っ端をやっても何にもならないか」

 

 女子3人の事実に基づく遠慮のない意見は石崎のガラスの心を容易に砕く。

 

「ひどい、ひどすぎる、あんまりだ。俺はただ犯那殺多(パンナコッタ)が食べたかっただけなのに」

 

 悲しい現実に気持ちのやり場を失った石崎は顔を机に突っ伏した。アルベルトが慰めるように彼の背中をさする。

 

「おいおい、茶番やる暇があるなら俺たちを紹介してくれないか、リーダー?」

 

 今に至るまで黙ったまま坂柳の背後に控えていた3人のうち、ひとりの男から声が発せられる。どうやら手持ち無沙汰な立場に居心地の悪さを覚えていたようだ。

 

「ふふっ。すみませんでした橋本くん。なにぶんAクラスでは起こり得ない新鮮なやり取りだったもので」

 

 謝罪を口にした坂柳は連れている仲間を紹介するような立ち位置に杖を突きながらゆっくりと移動し、到着すると体の向きを元に戻した。

 

「それではCクラスの皆さん、クラスメイトをご紹介いたします。右から順に、まずは橋本くん」

 

「よろしく」

 

 軽快な調子の声で挨拶をするのは橋本正義。深めのツーブロックをサイドに入れ、長い金髪を後頭部辺りで束ねている。どこか飄々としたものを感じさせる男だ。

 

「次に、鬼頭くん」

 

「……」

 

 無言のまま佇んでいるのは鬼頭隼。男としては風変りと言えるほどの長髪であり、眉毛もなく刃のように鋭い目は異様な相貌といえた。手がかじかむ季節でもないのに黒い手袋をしている姿がさらに異質さを際立たせている。

 

「そして最後に、神室さんです」

 

「……どうも」

 

 視線を余所に向けながら愛想の感じられない言葉を発する女生徒は神室真澄。ピンクベージュ色の腰まである長い髪を一部分だけ掬い側頭部で束ねている整った顔立ちの少女。先ほどの挨拶といい、居合わせた時から変わらない不機嫌そうな表情は本人のとっつきにくい性格をわかりやすく表していた。

 そうして紹介を終えた坂柳はCクラスに視線を配る。

 

「では、Cクラスの皆さんも自己紹介をお願いできますか?」

 

 紹介されたなら、こちらも紹介するのがマナーというもの。不信感はあるものの、Cクラスも順番に自己紹介をしていく。ちなみに最後まで渋っていた伊吹は椎名に諭され、仕方なく応じていた。

 お互いのやり取りも一段落したところで、伊吹がさっそく本題に切り込んでいく。

 

「で、あんたたち何なの? 何が目的? ふつーに迷惑なんだけど」

 

「他クラスと交流を持つというのも学校生活における醍醐味の一つではありませんか?」

 

 伊吹の疑問に坂柳が答えた。

 

「どうだか。怪しさしか感じないんだけど」

 

「伊吹さんは……とても臆病なのですね」

 

「……は?」

 

「クラス間の競争が前提となっているこの学校で他クラスに一定の不信感を持つことは理解できます。しかし、今は試験が行われているわけではありませんし、常に気を張り続けるというのも非効率なのでは? それに、相手が悪意を持って近づいてきているのであれば、それを見極めて逆に利用してしまえばよいだけのことだと思いますよ。正当な理由もなく、なんとなく怖いから、不安だから遠ざけるというのは”慎重”というよりも”臆病”と言えるのではないでしょうか? 石崎くんはどう思われます?」

 

 突然、坂柳は石崎の方を向いて疑問を提起する。彼としては女同士の戦いに巻き込まないでほしかったが、そうもいかなくなった。石崎は腕を組み、考え込むような姿勢をとる。本来ならクラスメイトである伊吹の味方をするべき場面なのだろうが、坂柳の優しさに触れてしまっている身としてはそうもいかない。しかも、坂柳のほうが正論らしきものを言っているのだから尚更だ。両方からくる圧力で板挟みになりながら、彼は苦しそうに喘いでいた。

 

「えーと、その……なんだ」

 

 なんとも煮え切らない石崎の態度にイライラを募らせる伊吹は彼を無視して話を続ける。

 

「そういうあんたもわざわざ他クラスに接触しにくるなんて臆病なんじゃないの? トップにいるんだったら、小賢しいことしてないで偉そうにふんぞり返ってたら?」

 

「能力に胡坐をかき、研鑽を怠れば、築き上げた地位などすぐに陥落します。トップを維持するということは伊吹さんが考えているよりも優雅なものではないのですよ? ……ああ、すみません。頂の上に立ったご経験のなさそうな伊吹さんに想像を求めることは酷でしたね」

 

 伊吹の煽りを秒で煽り返す坂柳。どうやら言い合いでは伊吹に分が悪そうだ。

 思うようにストレスが発散されない状況に怒りが頂点へさしかかった伊吹はゆらりと立ち上がる。

 

「あんた……杖ついてたら手を出されないとかタカくくってるわけ?」

 

「そうは思っていません。ただ、この状況で手を出すほど伊吹さんが愚かではないと確信しているだけです」

 

「そう。ならその確信を裏切ることになるかもね」

 

 不穏な伊吹の言葉に対して、坂柳の隣に控えている鬼頭がいつでも動けるように態勢を整える。

 そんな相手の様子を見ていた伊吹は睨みつけながらも、実は困っていた。腹を立てているのは事実であり、殴りつけたい気持ちも嘘ではないが、流石に大勢の人がいる場所で本当に殴り合いの喧嘩をするつもりはなかったからだ。もしもやり合うことになれば、自分だけでなくCクラスに迷惑がかかってしまう。かといって、売り言葉に買い言葉で席から一度立ち上がったのに自分から引くことは格好がつかない。ジレンマに陥る伊吹は内心をおくびにも出さず、なおも相手を睨みつける。

 この場になんとも言えない息苦しさを感じた石崎は縋るように椎名へ目を向けた。その眼差しから何を訴えているのか彼女は理解する。椎名はたとえ石崎からの合図がなかったとしても動くつもりであった。調停者が必要な伊吹の状態に気づいていたからだ。

 椎名が坂柳に対して顔を向け、苦言を呈しようとするまさにそのとき──

 

「ヒヒ、こんな茶店で大所帯たぁどうしたよ、揉めごとかい?」

 

 どこかしら物見遊山を感じさせる軽い調子の声が荒れた場を中和させる。

 

「アニキ!」

「箕輪!?」

 

 

【挿絵表示】

 

 

 石崎は喜色をあらわし、伊吹は戸惑いをあらわにする。そこにはこの場に現れる予定のない人物である箕輪がいた。独特な不気味さを漂わせる生徒の乱入にAクラスの生徒たちも視線を注ぐ。

 

「なんであんたがここに……」

 

「ポイントに喧しいのが隣にいたからねぇ。誘いを断ったわけだが、メールをよーく読んでみると奢りって書いてあったもんだからよぉ、こりゃあお呼ばれされないわけにもいかないってなもんでさぁ」

 

 箕輪は伊吹の疑問に答えながらテーブルの上に目をやると、瓶に入った新品のデザートが見えた。不意にテーブルへと手を伸ばす。その行動を見ていた石崎の表情はサッと青ざめるが、彼は何も言えない。箕輪がパンナコッタをつかみ取って口元まで持っていき、傾けて一気に丸呑みするのを断腸の思いで石崎は見つめていた。そんな彼の悲しき視線に気づいた箕輪は空の瓶と石崎とを交互に見比べ、状況を察する。

 

「これ石崎クンのだった? 悪いねぇ、ご馳走になっちゃって」

 

「……いえ、貰いものですから。アニキが喜んでくれたならそれで十分です。それよりもアニキはなんで制服なんですか? 今日休日っスよ」

 

「制服以外の服がないからねぇ」

 

「ええっ!? 買いに行きましょうよ。俺とアルベルトもついていきますから」

 

 石崎の提案にアルベルトも頷く。聞いていた箕輪はいつものように感情の読めない皮肉気な表情で伊吹のほうを見た。

 

「なぁ、伊吹クン。俺がおしゃれな店で鏡を前に服をとっかえひっかえしてたら、どう思うよ?」

 

 箕輪は買い物に気が乗らなかったようで、あえて否定的な意見をする可能性の高い伊吹に話を振る。

 

「……簡潔に言ってキモい」

 

「ヒヒッ、まったく酷い言い草だねぇ。簡潔すぎて思いやりの欠片もないが、まぁそういうこった石崎クン。着道楽する暇があるなら、食べ物のひとつでもつまんでる方が性に合ってる」

 

 断られた石崎は「ずーっと、制服じゃ不便っスよ」と不満気に言葉を漏らすが、それ以上は追及しなかった。

 

「まぁまぁ、こっちも鬼頭が制服だし、おあいこってことでいいんじゃないか?」

 

 箕輪が現れてから蚊帳の外に置かれていたAクラスの一人、橋本が話に割って入る。なにが”あおいこ”なのかはよく分からないが、無理に話をつなげたあたり、静観することに痺れを切らしてしまったらしい。

 

「どうやら待ちくたびれちまったようだな。そんじゃ、あちらさんに話でも聞かせてもらおうか……と言いたいところだが」

 

 箕輪の目がある人物に留まった。彼は顎を擦りながら値踏みするように視線を這わせる。

 

「しかしまぁ、近くで見るとお人形さんみたいだねぇ。そんな小さな体でAクラスの二大派閥の片側をまとめてるんだから大したもんだ、おチビちゃん」

 

 (あざ)けるようにニヤニヤとしたものが箕輪の口端に浮かんでいた。しかしながら、馬鹿にされた当事者である坂柳は何も反応しない。彼女の性質を考えれば、箕輪の言葉に引っかかりを覚えて反撃をしてもおかしくはないが、やや目を見開いたままついに動こうとはしなかった。その代わり、箕輪の侮りを耳にした鬼頭が厳しい視線を突きつけながら即座に前へ踏み出てくる。重心を少し下げた姿勢は臨戦態勢の表れか、彼には隠然たる殺気が滲んでいると言っても過言ではない剣呑な雰囲気があった。

 

「……ヒヒッ、本気かい? こんな場所でやろうっての? 忠犬ぶりも度が過ぎるといけねぇなぁ」

 

 相手を鎮める気が微塵もない箕輪を無視して、鬼頭は嵌めている黒い手袋に手をかける。片方の素手が剥き出しとなり、もう片方の手袋を外すために一瞬だけ彼は視線を落とした。その時、いつのまにか距離をつめていた箕輪が鬼頭の手をつかんでいた。

 

「おい、もじゃ男。その手袋にどういう意味があるのか知らねぇが、よーく考えてから……手を抜けよ

 

 深い眼窩の奥で、ぞっとするような暗い嫌な光を湛えながら箕輪はじっと目を合わせる。

 

「お前さんは抜ける人間なのかもしれないが、俺は手を抜けない人間なんだぁ

 

 そう言うや否や、肌を刺す冷気と錯覚するほどの暴力的な気配が箕輪から漏れ出した。鬼頭はつかまれた腕を動かそうと前後に力を加えるが、岩にくくりつけられたかのように微動すらしない。振りほどくことを諦めた彼は怯むことなく相手を凝視したまま空いている手で握り拳を作り、いつでも打ち込めるように構えた。近距離で視線をぶつけ合う両者の間には隙間がないほど極度に張りつめた重い空気が漂い始める。

 相対する二人を見守っているAクラスとCクラスの面々はこんな場所でまさか争うわけがないだろうとは思うものの、肌をひりつかせる一触即発の様相は万に一つの可能性が現実になるのではないかとも思わせる。口を挟みたくとも、何をきっかけに事態が悪化するかわからない。制服の下で冷たい汗が一筋、背中から流れ落ちていくのを伊吹は明確に感じていた。

 どちらから先に動き出すか、相手の動向を探るように静かな睨み合いが続く。そんな固唾をのんで見守る状況に椎名は局面が争いへと展開してしまうことを防ぐため、恐れずに言葉を口にする。

 

「箕輪くんの失言は彼に代わってお詫びします。そして、Aクラスの皆さんにご忠告しておきますが、こちらから箕輪くんを止めることはできません。なのでAクラスの方に引いてもらうしか争いを回避する手段はないということです。Aクラスにとってこの争いに利があるとは思えませんので、そちらから場を収めていただけると助かります」

 

 膠着した状態を利用して、冷静になる機会を提供する椎名。彼女は制御できない箕輪を無理に説得するのではなく、制御できない事実をあえて相手に伝えることでAクラスを脅し、自分の望む流れへと誘導する。振り上げた拳を下ろすのはCクラスではなく、Aクラスであると。伊吹をからかったことへの意趣返しも兼ねていた。

 椎名の機転に石崎とアルベルトは感嘆の念を抱き、伊吹は複雑な感情がさざなみ立つように揺れ動く。

 

「……」

 

 橋本はチラリと視線を動かした。

 現在のクラス間競争においてトップを走っているAクラスが問題を起こして得られるメリットは何ひとつなく、デメリットしかない。ただでさえクラス内部で対立してエネルギーを割かれているというのに、現在もDクラスに仕掛けているような揉め事を好むCクラスとやり合うのは手間であり、軍事戦略上の愚である二正面作戦を行うようなもの。Cクラスを共通の敵としてAクラスの派閥がまとまれるのであれば、また話は違ってくるが、それも期待できない可能性が高い。むしろ坂柳派が無用な問題を起こしたとして、これ幸いと葛城派に糾弾されるのがオチだ。

 そんなことは他クラスに言われずともわかっていたが、今の鬼頭を止めることは坂柳以外にできない。神室はクラスの一員であるにもかかわらず無関心。表情には出さないが、どうするんだという心情で橋本は何故か今までに動きを見せない坂柳をうかがう。すると、一時的に静止していた動画が再生されるように彼女の口が開かれた。

 

「鬼頭くん、矛を収めてください」

 

 坂柳の一言で何も言わずに握り込んだ拳を解き、手を下ろした鬼頭。それを見ていた椎名は心配そうな顔をしながら箕輪に声をかける。

 

「箕輪くん……」

 

「……ふへっ、冗談だよ、冗談。そう心配しなさんなって」

 

 箕輪はつかんでいた腕を離す。先ほどまでの闘争寸前であった場面など存在していなかった。そう思えるほど箕輪の様子は全くあっけらかんとしていた。

 つかまれていた腕の手を開いたり、閉じたりして問題ないことを確かめた鬼頭は距離をとり、当初の位置に戻る。それを確認した坂柳は落ち着いた佇まいで

 

「少々戯れが過ぎたようですね。お邪魔したお詫びといっては何ですが、ここは私たちがお支払いしておきましょう」

 

 と告げた。彼女は箕輪へと近づき、ポイントを送金する手続きを行う。1万ポイントが振り込まれたことを確認する箕輪。

 

「悪いねぇ、気を遣わせちまったみたいでよぉ」

 

「いえいえ、お構いなく。それではご機嫌よう、Cクラスの皆さん。龍園くんにもよろしくお伝えください」

 

 そう言い残した坂柳率いるAクラスは大人しく引き上げていった。

 AクラスとCクラスの騒動が終息し、何とも言えないしらけた静寂が訪れる。そんな中、不意に静けさを破ったのは意を決した椎名の声だった。

 

「皆さん、これよりデザート食い倒れ大会を開催します。今日は箕輪くんだけでなく、皆さんにご馳走しますね。好きなものをいただいてください」

 

 突然の提案に気圧された伊吹は戸惑いながらも疑問を口にする。

 

「ちょっと、いきなりどうしたの? ひより」

 

「実は以前に龍園くんから報酬として結構なポイントをいただいていたのですが、私ひとりだと使う機会もあまりなかったのでちょうど良いと思いませんか?」

 

 6月頃、賭け試合を行う部活を選出する作業に協力していた椎名は龍園から報酬をもらっていたのだ。ポイントをあまり使わない彼女は今日までポイントを持て余していた。

 

「でもそれは……あんたが貢献して稼いだものでしょ? なにもこんな奴らに振る舞わなくてもい──」

 

 伊吹が言い切る前に石崎が彼女の腕をつかんで強引に引っ張った。

 

「ちょっと、何すんのっ」

 

「バカお前、椎名なりに悪い空気を変えようとしてんだからここは乗るんだよ。ったく、これだから友達いねぇヤツは」

 

 呆れと小馬鹿が混ざった表情で忠告する石崎。その腹が立つ顔を見ていた伊吹は

 

 ──ダンッ

 

 間髪いれずに石崎の足を思い切り踏んづけた。

 

「いぎぃっ!」

 

 足下から急速に立ち昇る刺激に思わず奇声を出してしまう石崎。彼は痛みを誤魔化すためにぴょんぴょん跳ねながら周囲を回る。伊吹はおもむろに椎名へ近づくと石崎を指差しながらこう告げた。

 

「ひより、見て。あいつの喜びの舞」

 

「まぁそんなに喜んでいただけるなんて……提案した甲斐がありましたね」

 

 涙を流しながら跳ね回る石崎の姿を見た椎名は両手を合わせて喜んでいた。

 

Good job(よくやった),Daichi(大地)

 

 アルベルトは遠い眼差しをしながら親指を立てる。

 そんな和気あいあいとした彼らのやり取りを意に介さず、箕輪は去っていった坂柳の方向を見ていたが、隣に並んできた人物が彼の注意を引く。

 

「まさか、あんたが来るなんてね。……でも、まぁ助かった。ありがと」

 

 図らずも箕輪の登場によって、自身の引くに引けない状況を救われる形となった伊吹は彼に礼を言った。

 

「今一つ礼を言われる状況はわからんが、あの伊吹クンが俺に感謝するなんてねぇ。こりゃあ今夜の天気は荒れそうだぁ」

 

「言ってろ。あんたに感謝するよりも私なりのケジメっていう意味合いのほうが強いから。そこんとこ勘違いすんなっつーの」

 

 そう言葉を口にする伊吹の声からは満更でもない調子がうかがえたのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 Cクラスと別れ、カフェを後にするAクラスのグループは杖を突く坂柳の歩調に合わせて緩やかに移動していた。グループのひとりである橋本は先ほどのCクラスとの接触である疑問を抱いていた。彼はその疑問を坂柳へと投げかける。

 

「結局のところ、リーダーの目的は何だったんだ? 別に疑ってるわけじゃないんだが、Cクラスの情報を仕入れるならもう少し粘ったほうが良かったんじゃないか? 毛色の違うヤツも途中から来たことだし」

 

 坂柳は一定のリズムで杖をつき、視線を前へと向けながら返答する。

 

「種をまいていました」

 

「種?」

 

 話が見えない橋本。

 

「知ってか、知らずか、人は種をまいて生きています。その種が瑞々しい果実となるか、身を滅ぼす猛毒となるのか、芽を出さずに終えるのか。人と人とが干渉し合い、状況が常に変化していく中でそれを完璧に予測するのはほぼ不可能でしょう。時間の軸が長くなれば、より複雑に絡んでいきます」

 

「……えーっと、つまり?」

 

 坂柳はかすかな愉悦と恍惚が混じり合った流し目を橋本へと送る。

 

「つまり、退屈しのぎの些細な遊びということです。それ以上でもそれ以下でもありません。他クラスの動向にアンテナを張るのは重要ですが、それよりもまずAクラスに必要なのは組織の意思を統一させることですから」

 

「……なるほど」

 

 納得できるような、できないような、煙に巻かれた感のある橋本であったが、それ以上その話を続けることはなかった。その代わりにもう一つの疑問をぶつける。

 

「話は変わるが、リーダーはあの気味悪いヤツが現れてから穏やかじゃないように見えた。……もしかして知り合いなのか?」

 

 ──カツンッ

 

 地面を突く杖の音がひときわ響いた。坂柳が歩みを止めたからだ。

 なぜ坂柳は箕輪が現れたときに目立った反応も見せずに静かだったのか。それは、彼を間近に見た坂柳の頭の中で数年前の幼少の記憶が唐突によみがえっていたからだ。

 

 幼い彼女の目の前には、恐怖や混乱をあらわにしながらも必死に職務を全うしようとする複数の警備員らしき人たち。壁となっている人たちの隙間から見え隠れするのは無彩色に閉ざされた世界が熱を持ったかのように赤く染まる光景。彼女の耳を支配していたのはグチャリゴキリと繰り返し繰り返し不気味に響きわたる湿り気の混じった異常な破砕音。あたりに強烈な臭気が立ち込める中、佇む一匹の怪物が無邪気な殺意を向けていた。

 

 

まだ……だっ…………りねぇ。ぐっ……いてえ。

 

 

 幼いながらも自尊心の強い坂柳は泣き喚くような無様な真似を晒すことはなかった。しかし、骨の髄にまで突き刺さる純粋な殺意を向けられた彼女は自分の中で新たに生まれた未知の感情を持て余してしまう。どう処理してよいかわからず、混乱と焦燥からか、幼い坂柳の小さな体は自らの意志に反してブルブルと震えだす。彼女はその日、初めて”恐怖”という名の屈辱を覚えたのだ。

 

 脳裏に刻まれたあの日を再び思い出していた坂柳はしらずしらずのうちに杖を掴んでいる手に力をこめる。神室は今まで見たことのない坂柳の雰囲気に目を見開く。まばたきを忘れてしまった瞳が乾燥による刺激を感じて、痛みが走った頃、我に返った神室は困惑ぎみにまぶたの上下運動を再開した。

 

「……あんた、どうしたの?」

 

 坂柳の様子を訝しんだ神室が声をかけた。彼女の声で坂柳は意識を過去から現在へ戻すと、先ほどCクラスと居合わせたときにはできなかった思考を始める。

 普通に考えれば、箕輪勢一と浮かび上がった過去の人物が一致するということはまずありえない。過去の状況を考えれば、この場に存在していることが不自然過ぎるからだ。一体どういった力学が作用すれば生きていられるのか。箕輪勢一を件の人物だと断定することを彼女の論理が否定している。だからといって自分の直感を蔑ろにできるほど、坂柳は自分の能力に疑問を持っているわけではない。

 情報が少なすぎるために、これ以上は思考の海の先を進むことができないと判断した坂柳はとりあえず箕輪勢一という人物を新たな情報として記憶する。情報の処理を終えた彼女は何事もなかったと感じさせる優美な動作で神室に顔を向けた。

 

「どうしたとは? どうもしませんよ、真澄さん」

 

「いや、どうもしないって……明らかにおかしかったんだけど」

 

「先ほども申し上げたとおり何もありません。……もしや真澄さんは私のことを心配してくれているのですか?」

 

「……そんなわけないでしょ」

 

「そうですか、それは残念ですね。友人としては悲しいことです」

 

 全く残念さを感じさせない意地の悪い笑みを坂柳は浮かべていた。疑問には答えてもらえず、一部始終を黙って見ていた橋本は「箕輪……ねぇ」と興味深そうにつぶやく。

 

「ところで」

 

 坂柳は鬼頭に視線を向ける。

 

「どうでした、鬼頭くん。相手の力量は測れましたか?」

 

 坂柳は気づいていた。本気で殴り合いをするかのように鬼頭が振る舞っていたのは相手の反応や強さを確かめるためであると。人目の多い場所で暴力を行使するほど鬼頭は愚かではない。

 

「……強いな。少なくとも膂力という点ではどうしようもなかった」

 

「ひゅー、マジかよ」

 

 口笛を吹きながら驚きを露わにする橋本。Aクラスの中でも体格が大きく、屈指の身体能力を持つ鬼頭がパワー負けするとすれば、Cクラスの黒人ハーフくらいだと思っていたからだ。

 

「おやおや、鬼頭くんにしては随分と弱気なことですね」

 

「……俺は事実を言っただけだ。だが坂柳」

 

 言葉を切った鬼頭は坂柳のほうへゆっくりと頭を回転させる。

 

「お前が望むのであれば、誰が相手であろうと俺が潰す。当然そのための手段は選ばない」

 

 垂れている長い髪の隙間から覗かれる鬼頭の瞳には爬虫類を思わせる冷たさが閉じ込められていた。視線を合わせていた坂柳は満足そうに笑みを浮かべる。

 

「安心しました。そう簡単に暴力を振るわれるような状況にはさせないつもりですが、万が一ということもあります。この世は往々にして運に左右されることも多いですから。その時がくればよろしくお願いしますね、鬼頭くん」

 

 そう告げる彼女の艶めかしい唇はかすかにも皮肉な形に歪んでいた。

 

 

 




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