カラリ。
珍しく小さな音をたてて、リアは慣れてきたこの教室に入ってきた。
ふと目につくのは、教室の隅っこの席。
その机に伏している銀髪を微笑ましげな様子でリアは見た。
──ハーヤートさん。おはようございます。
くすくす。
微笑んだまま、リアはその銀髪に近寄って、声をかけた。
顔を上げた彼。
その顔を覗き込むように見るリア。
──―彼は 泣いていた。
正しくは、泣いていた、ように見えた。
涙は無かった。
ただ、ただ、悲痛な顔をしていた。
──どう、したんですか?
彼から返事は無かった。
──どうして、泣かないんですか?
そんなに、哀しいのに。
つらいのに。
苦しいのに。
泣かないのは、何故? ────―。
気づけばそこには見慣れた白い天井。
ゆったりと体を起こすと場所は白いベット。
周囲を見回すとそれは自分の家……。
「……ハヤトさん?」
声をかけても、もちろんそこにハヤトの姿なんてなくて。
ほぅ、と小さく溜息をつくと、リアは準備をしていつもより少し早く学校へ行った。
***
とたたたっ。カララっ。
静かに扉を開けて、教室の隅に目を遣る。
そこには、本を片手に、机に足を乗せてるハヤトの姿。
……べつに彼は顔を上げるでもなく。
ましてや、泣いているわけでもなく。
ほっとしながらリアは、後ろ手に扉を閉めた。
「ハヤトさん。おはようございます」
微笑んでそう言っても、
彼は鬱陶しそうに顔を上げて、
眉を跳ね上げるだけ。
「…………」
リアは自分の席に着くと、ぱさりと教科書とノートを開いて、時間が過ぎるのを待った。
斜め後ろの辺りから、ハヤトがリアを見つめていたことなんて、知る由も無く。
放課後。
いつものように団体で帰る人々の中に、ハヤトの姿が見えなかった。
「ん。リア?」
「すみません、ちょっと……ハヤトさんが……」
「……心配ない」
リアの手を引こうとするリュウに困ったような表情を向けた。
心配だ。
朝、夢とはいえ、あんな光景を見せられては。
ハヤトは、無事だろうか。
「あの、大丈夫ですから……先、帰っていてください。お願いします……っ!」
言って、手を振り切ると、駆け出した。
「おいっ…… リアっ!?」
***
リアは、手当たり次第にいろんな教室を回った。
いろんなところへ行った。
様々な学年、クラスの教室。
屋上。
保健室。理科室。美術室。技家室。英語室に、音楽室。
どこにもいないことに不安を募らせながら、リアは体育館の扉を開けた。
今日は部活は無い。
扉が開いているかどうかさえ心配だったがそれは容易に開いて、
目当ての、
銀髪の青年がバスケットボールと戯れていた。
ハヤトは、リアの存在を完全に無視して、
ダン、
と踏み込んだ。
リアの目の前で、華麗にダンクを魅せる。
完璧なフォーム。
網を潜って落ちるボールまでが、華麗に見えた。
ダン、と両足を思い切り曲げて衝撃を吸収して、
ころころと転がるバスケットボールを取ろうとハヤトは屈んだ。
その動作と同時に、まるでぼやくように呟いた。
「んで…… 来てんだよ」
「へ」
「遊んでた、だけだろーが」
うざいんだよ、って視線を投げ掛けられて、
リアは目を瞠った。
驚きの表情から、無表情に戻って、満面の笑みを浮かべてハヤトに歩み寄った。
その頬を伝い落ちる雫を、制服の袖で拭った。
不思議とハヤトは抵抗をせずに。
「──泣いて、いるんですか」
「……て、ねェよ」
リアは困ったように微笑んだまま、ハヤトの頬を伝う涙を拭ってやる。
ハヤトは抵抗はせず、自分より頭一個分くらい背の低いリアを見下ろしていた。
どれくらい時間が経っただろう。
リアは何も聞かず、何も言わず、そばについていてくれた。
ハヤトが地面に座れば正面に座って、涙を拭い続けていてくれた。
お節介。お人好し。馬鹿。
なんとでも言うやつはいるだろう。
でも、お節介すぎたりお人好しすぎたり馬鹿すぎたり。そんな人物は、逆に、
やさしくさえ思えてくる。
得体の知れない人物。──それでもいい。
ハヤトには、目の前のこの人物が、どうも不思議な人物に映った。
「よくわからない人」じゃなくて「お人好しで馬鹿でよくわからない人」だ。
やっとこ涙も止まってきたところで、ハヤトは最後に目に溜まった涙をうっとうしそうに拭った。
顔を上げると、そこにはやっぱり、あの金髪があった。
「……待たせたな」
「いいえ。私が好きで待ったんですよ」
「ひとつ聞く。……なんで、こんなことした?」
普通の人間、っていうのは、
困……る、だろう。
しかもそれが、不良相手だ。まだ「友達」でもなんでもないやつの涙を拭って、泣き終わるまで待つのは、変。
それだけがどうしても気になって、聞いてみた。
そうしたらあろうことか、リアは不思議そうな顔をして、ハヤトに抱きついた。
心臓の音が伝わってくる。
あたたかい。
やわらかい。
「ハヤトさんは、人です。私も、人です。人はひとりじゃあ寂しいって感じるから、だからそばにいたんです」
「……ばかかよ」
おずおずとハヤトが抱き返す手をリアは感じながら、
ほっとしたような笑みを見せていた。
ゆったりと帰路に着きながら、
微妙な沈黙が続いていた。
ハヤト的には、誰にも見せたことのない泣き顔をこんな女(リア)に見られたことは
一生の恥と言っていい程であり沈黙があってもいいのだが、
リアが何故泣いていたのか聞かないのは不思議だった。
聞かなくても問題は無い。
でも、聞かれなきゃ違和感がある。
聞いてもらうことを期待してるのか。──馬鹿馬鹿しい。
そう気づくと、もうそんな思考は吹っ飛んだけれど、
沈黙を破るようにリアが発した言葉に驚かされることになる。
「誰でも、泣いちゃう時とか、泣きたい時はありますから」
吃驚してハヤトは立ち止まった。
少し前を歩いていたリアが、笑顔のままに振り返る。
それ以上言葉を紡ぐことはなく、
行きましょう? と促した。
返事を返そうと口を開けば、
「うっわ……あれって1Dのハヤトじゃね?」
「顔はイイけど、こえーよな……」
「あ、あそこの女子……この間の転校生じゃん」
「うげ、1Dと一緒にいんの? あの女子、頭おかしいぜ」
そそくさと脇を通る同じ高校の男子が、
声を潜めて言った。
陰口なんてものは、意外とよく耳に入る。
ハヤトは苛立ちを覚えた、が、
その苛立ちを受け継いだように、リアが口を開いた。
「頭がイカレてるのは……どちらですか」
俯いたままに、いつもより幾分低い声で言うと、
その男子生徒は立ち止まった。
「貴方達は解ってあげられますか。他人の苦しみや痛みを。解ってあげることなんてできないですよね?」
「は?」
当然のように困惑したような嫌味な笑みを浮かべる。
「それが出来ない人に、ハヤトさんを罵倒する権利などありはしません。謝りなさい」
すぃ、と視線を上げて、睨み付けたリアの視線と、
リアの背後で眉根を寄せているハヤトに圧倒されたのか、
男子生徒はすばやく頭を下げるとさっさと去っていってしまう。
「……行きましょう?」
再度促すリアに、ハヤトはやはり困惑の表情を浮かべた。
「何……なんで、あんなコト言われても平気なンだよ」
「だって……べつに、気にする必要ないですし。……慣れっこですし」
「は」
「──えへへ」
にこりと笑ったリアはそれ以上は言わずに、
前を向いて歩き出した。
ハヤトもハヤトでそれ以上は何も聞かず、
再度沈黙が訪れて歩いていくかと思いきや、
ハヤトが3歩ほど歩いたところで呼び止められることになった。
にっこり、笑いながら、後ろから走ってきたリュウ。
リュウはハヤトの肩を叩くと、ニッと笑って。
ぐしゃぐしゃハヤトの頭をなでまくった。
「なッ 何っ……しやがる!」
「あっははん♪ ハヤトくんってば照っれ屋ー♪」
「リュウさん、先に帰ったんじゃ……」
「いやあー、ふたりの春を見にきたくて?」
けらけら笑うリュウを加えて、3人は帰路に着いたのだった。
──―翌日。
学校に、いつも通りの時間に登校したリア。
いつも通り、が、「普通の人よりちょっと早い時間」だから、まだ校内に人はあまりいない。
この静かな時間が好きだ。
だれにも邪魔されず、何にも何を言われることもなく。
ただ、静かに時が流れていく。
今日もまた、同じような時間を過ごせると思ったけれど、
リアは渋面を作ることになる。
下駄箱を開けたそこにあったのは、水浸しになった己の上履き。
何故、とか考える以前に腹が立って、
沈める為に小さく溜息をついた。
とりあえず来客者ようのスリッパを借り、水浸しの上履きを持って職員室まで上がる。
教頭に事情を説明して職員室の窓辺、光のよくあたる場所に干す。
「……はぁ、」
もう一度溜息をついて、
階段を上がっていく。
──昨日の子たち、でしょうか。
ぼそりと呟くのは、心の中。
──憂さ晴らし……?
ああ、また、いじめられたりするのかな。
そう思うと、自然と足取りは重くなって、
1時間以上かけて目的の教室まで行ったような気さえした。
カラリ、と静かに戸を開けると、
そこにはいつも通り、机に伏して寝息をたてるハヤトの姿。
かわらない。
そう、昨日も今日も、一緒。
水浸しになった上履きなんて、どうってことない──。
そうやって自分を励まして、椅子を引いた。
椅子に、落書き。
主に暴言とか悪口とかが書かれた落書き。
はぁ、ともうひとつ溜息。
──子供ですか……馬鹿みたいです。
他に異常が無いか確かめてみるが、その他子供くさい悪戯は無い様子なので、
気にせず座って今日の準備をする。
斜め後ろの方で、もぞりと動く音。
あ、起こしちゃったかな、と思いつつ、
「おはようございます、ハヤトさん」
と笑顔で振り返った。
教室の隅で、ハヤトは面倒臭そうな表情をして、
「今日は随分と……溜息が多いな」
と言葉を返した。
返事をしてくれる、イコール、おはようと返してくれている。
都合がいいのかもしれないが、リアはそう解釈している。
きょとりとしながら、そんなことないですよ、なんて返して。
「馬鹿。バレバレなんだよ。……何があった」
「いえ、だからその、大したことじゃないので……」
へら、って、笑って見せれば
ハヤトはもうそれ以上追求することはなかった。
行動や態度を見て察するつもりだ。
──ハヤトさんは鋭いから……気づかれちゃいますよね……。
自然と、もうひとつ、溜息。
どうしよう、かな。なんて考えていると、ガラリと乱暴に扉が開けられた。
そこにはミドリの姿。
「ハヤト! ……とリア? ……あちゃばー、ひとりじゃなかったや」
「え、ええ? ミドリさん!? ……そんな……ここって関係者以外立ち入り禁止じゃ……」
「細かいことは気にしなーいの、それより」
へらりと言ってみせた後、ミドリはずかずかとハヤトに歩み寄った。
ちらりとリアの方を見てから、言った。
「メイが──―大変なんだ」
困惑と懇願が入り混じった、低い声だった。