或る小説家の物語   作:ナカイユウ

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chapter 4-3.???
scene.100 シンプル


 タッ_

 

 俳優の仕事と並行させながら、もう何度この動きを練習したのか数えられないくらいにはやってきた、“6・6・6”のリズム。

 

 “6”

 

 6歩目で第1マークを左足で踏み込み、12歩目で踏む第2マークにかけてここまで加速したリズム、スピード、歩幅をキープ。フォームを意識しながら練習を重ねること、2か月弱。もちろん俳優業と両立させながらこなしていることもあってフルというわけにはいかず時間は掛かったが、王賀美先輩から指摘されていた自分の癖は消えて、ようやくこの身体に“純也の癖”が染み付き始めてきた。

 

 “12”

 

 キープしたまま踏み切り動作への体勢を作り、再び左足から12歩目で第2マークを踏む。やっていることは初めてこのトラックを走ったときと変わらず、“6・6・6”のリズムを心の中で刻んで跳ぶという空中動作に至るまでのルーティンに過ぎない。だけれどこうして淡々とリズムを刻み踏み切り板へと左右の足を踏み込み走っている今でもはっきりと感じる、初めてこの40メートルの直線を走ったときと比べて自分の足が確実に速くなっているという感覚と、あまり意識しなくともこの身体が“6・6・6”をちゃんと刻めるようになったという進歩。

 

 “16、17”

 

 16歩目を踏み込んで、“2歩前を大きく、1歩前を小さく”するように17歩目を踏み込む右足にぐっと力を入れて、最後に大きく助走をつける。良くも悪くも全てが決まる18歩目。

 

 “18”

 

  前に跳ぶのではなく、身体を上空へと上げるイメージで左足にグッと力を入れて押し込み、反動でジャンプをするイメージで、跳ぶ。ここまでは俺の中では今までで一番上手くいっている。だけど、本当に肝心なのはここからだ。

 

 

 

 “『夕野がいまやろうとした“はさみ跳び”は上級者がやるようなフォームだ。そいつを基本動作のコツが掴めたばかりの“ホヤホヤ”な奴がトライしたところで、バランスとテンポが崩れて失速するのは当然だ。ま、そもそも“はさみ跳び”をするにはスピード自体がまだ足りてないって話だけどな』”

 

 

 

 初めて純也と同じ空中動作で跳んでみたら、踏み込んで身体が宙に浮かんだ瞬間に大失速して、そのまま砂場に尻餅をついた。王賀美先輩曰く、俺がやろうとしている“はさみ跳び”は上級者向けのフォームらしく、そもそもあのときの俺にはあの跳び方をする以前にスピードが足りていなかった。

 

 「・・・っ」

 

 左足で踏み切り板を踏み込んだ身体は、ここまでの勢いそのままに宙へと浮かぶ。そして浮かんだこの身体を少しでも前へと跳ばすために、空中を漕ぐように素早く左足を前に出す。ここで大切なのは、空中を漕ぐことを意識しながらもあくまで前へ前へと身体を押し進めるのではなく、18歩目で踏み込んだこの勢いに身を任せるつもりで、風を読みながら空を飛ぶグライダーのように上手く全身の力をコントロールしながらも左足を出して、その要領で右足を更に前に出して、最後に長座の姿勢をとってここまでの勢いをなるべく落とさずに跳躍距離を稼いで、伸ばした両足から砂場に着地する。言葉にするのは簡単だが、ゼロの状態からこれをモノにするのは中々に難しい。

 

 

 

 『誰よりも速くゴールして、誰よりも遠くに飛ばして、誰よりも長く跳べた人が勝つ・・・・・・陸上以上にシンプルなスポーツはないって、あたしは思う』

 

 

 

 と、原作の劇中で亜美はそう言っていたけど、その“シンプル”さの裏には数えきれないほどの過酷さがあると、俺は走り幅跳びを始めて感じるようになった。じゃなかったら、たかが助走をつけて遠くに跳ぶだけのスポーツでこれだけの苦労はしない。もちろん亜美もその裏側を全部ひっくるめた上でそう言っていた。そしてある意味、言い換えれば役者だってそうだ。ただ自分じゃない誰かを演じるだけの、傍から見れば至って“シンプル”な単純作業。

 

 

 

 でも、そんな単純作業(しばい)を文字通りの“単純作業”で済ませるような人間はこの世界では生き残れるはずはなく・・・生きる居場所すらも与えられない。

 

 

 

 “・・・いける”

 

 勢いに身を任せるように両足を使って空中を漕ぎ、両足を放り出すように前へと伸ばし、足から砂場に着地して、その反動を使って身体全体の力を前方へと持っていき尻餅をつかないように耐えながら、身体を斜めの体勢にして左側から砂地に落とし込む。

 

 「・・・きた」

 

 着地した勢いのまま、受け身を取る要領で立ち上がる。跳んで左足を前に出したときから、“いける”という手応えは感じていた。その一歩間違えれば慢心にもなり得る手応えを信じて思い切って跳んでみた。

 

 「俺からすれば飛距離はハッキリ言ってもう少し欲しいが、ゼロからのスタートの割には“良き”ってところか・・・」

 

 陸上部に所属する純也が専門としている種目・走り幅跳びをやり始めて、ようやくコツを掴んではさみ跳びで安定して跳べるようになった俺を、王賀美先輩は相手が芸能人だろうと一切気を遣わない基本厳しめな評価をクールに下す。

 

 「ただ課題だった空中動作(フォーム)はかなりサマにはなったと思う。俺が監督だったら“2回”でOKにしてやるよ」

 「ありがとうございます(2回”ってのがちょっと気になるけど・・・)」

 

 そんな“霧生学園“随一”の走り幅跳びのスペシャリスト”から認められるぐらいには、どうやら俺は純也と同じフォームが“サマ”になってきたらしい。とはいえ飛距離的には陸上部の基準だとまだまだらしいが。

 

 「ともかくこれでどうにか間に合いそうだな、明日の本番」

 「はい。実際に跳ぶのは再来週の撮影からですが、王賀美先輩のおかげで間に合いました」

 「けど(かた)が出来たからといって油断すんなよ。寧ろ大事なのは感覚を掴んだ後だ」

 「もちろんそのつもりです」

 

 今日は5月18日。いよいよ『ユースフル・デイズ』の撮影開始(クランクイン)が明日に迫る中で、何とか俺はこのフォームを形にすることができた。もちろんあくまで合格点に達したというだけで改善点はまだまだあるから、ここから実際にカメラの前で跳ぶことになる再来週の撮影に向けて、合間を縫って更に仕上げていくだけだ。

 

 「ところで夕野・・・“誰よりも速くゴールして、誰よりも遠くに飛ばして、誰よりも長く跳べた人が勝つ・・・陸上以上にシンプルなスポーツはない”って言葉・・・お前なら分かるよな?」

 

 練習着に付着した砂を払い砂場から出た俺に、王賀美先輩は劇中に登場する台詞を交えて問いかける。

 

 「はい・・・支部大会が1週間後に迫る中で亜美が雅と新太のことでナーバスになってスランプ気味になった純也に向けて言った台詞ですね。原作は読破してるので分かります」

 「ハッ、さすがメインキャストだな」

 

 その台詞はまさに、亜美の言っていたことを引用したものだ。もちろん原作の中でも印象的な台詞のひとつではあるけれど、観ていなくても聞いたことがある名ゼリフとかではなく、読んでいなければ伝わらない程度にはマニアックな言葉。

 

 「というか、王賀美先輩って『ユースフルデイズ』読んでたんですね?」

 「まぁな。読み始めたのは霧生に入ってからだけど、一応俺も読んでるぜ」

 

 当然ながら人を見た目で判断してはいけないのは重々承知しているつもりだったが、まさか恋愛漫画に1ミリも興味がなさそうな雰囲気しかないこの人が読んでいたというのは俺の中では割と衝撃的で、つい驚きの感情が表に出てしまった。

 

 「そんな意外に見えるか?」

 「あぁいえ、意外といっても悪い意味じゃないです」

 「結局意外に見えてんじゃねぇかよ」

 「正直ギャップは感じてます。全然漫画の話とか聞かなかったんで」

 「陸上やってるときは陸上の話しかしねぇのは当たり前のことだろ」

 「確かにそうですけど・・・

 

 案の定そこを当の本人からツッコまれ、少しばかり微妙な空気になる。もしかしなくとも悪いのは俺だが、やっぱりこの人は時々俺に対して特にこれといった意味もなく当たりが強くなるから、ちょっと絡みづらいところがある。もちろん面倒見が良くて普通に良い人だから、そこまで気には留めていないが。

 

 「まあでも、こんなふうに周りの連中から意外に思われるのは慣れてるから気にすんな。弟には“こんな女しか読まねぇ漫画読んで楽しいのかよ”って言われたこともあったしな」

 「それはそれで偏見がすごい・・・っていうか王賀美先輩って弟いたんですね?」

 「おう。7つ下のな」

 「7つ下・・・まだ小学生なんですね?」

 「あぁ。可愛げなんざ1ミリもねぇクソ生意気な小4のガキだけどな」

 「結構弟くんに容赦ないんすね・・・まぁ、あの漫画を“女しか読まねぇ”って断言してる時点で大概っぽいけど・・・)」

 

 もちろんこの流れで聞かされた王賀美先輩に弟がいたというのも初耳だった。ただこの人のイメージ的に兄弟だとしたら兄のほうだろうなという潜在意識があったからか、そこまで驚きは感じなかった。

 

 「ちなみに弟くんの名前って何ですか?」

 「それ聞いて夕野にメリットはあんのか?」

 「いや、特にメリットとかはないんですけど、ここまで来たら気になって」

 「はぁ・・・つっても言い出したのは俺だからな・・・」

 

 それにしても弟の話をするときの王賀美先輩は、笑ってこそいないが表情が普段より幾分か穏やかに見える。口では7つ下の弟のことを“クソ生意気”とこき下ろしながらも、溜息交じりに斜め下を見つめる眼の感情は全く本気じゃない。悪く言いながらも何だかんだで弟のことを大事に思っている面倒見のいい人柄がそのまま表れたその眼を視て、きっと喧嘩はすれど仲は良いんだろうなというのがこっちにも伝わる。

 

 「“陸上”の“陸”の字を取って、(りく)。これが弟の名前だ

 

 バツが悪そうに溜息をつきながらも、王賀美先輩は俺に弟の名前を教える。そんな弟の名前は、“王賀美陸(おうがみりく)”だという。

 

 「と言っても、陸上は関係ねぇけどな」

 

 ちなみに名前の由来は“陸上”ではないらしい。

 

 「“”・・・・・・カッコいい名前ですね」

 「別に普通だろ。それよりお前の身体がフォームを覚えてるうちに3回目行くぞ」

 

 名前を聞いたそのままの気持ちを正直に伝えると、王賀美先輩こと兄の(がく)は“大した名前じゃない”と言いたげにスタートラインに戻るように俺を促す。その感情に“満更でもない本音”の誤魔化しが入っているのは、こうやって話しているだけで伝わる。

 

 「それからもう1つ、夕野に言っておくことがある

 

 照れ隠しで促された俺を、王賀美先輩は矢継ぎ早に呼び止める。もちろん芸能人ではなくあくまで“陸上選手”であるこの人にはこの人の事情があることは知っているから、呼び止めてまで伝えたいことは何となく予想は出来ていた。

 

 「夕野は明日からドラマの撮影に入り、部活に顔出すどころか学校で授業をまともに受けるような時間(ヒマ)もきっとなくなる・・・そして俺はここからインハイ予選に向けて最終調整をしなけりゃならない・・・

 

 

 

 “『俺は“ロングジャンパー”の意地にかけて、生意気なド素人のお前が“本番”までに形だけでもまともに跳べるように鍛え上げてやる』”

 

 

 

 「だから、俺がお前に走り幅跳びを教えられるのは今日で最後だ

 

 お互いにそれぞれ“初めてメインキャストに選ばれた若手俳優”と“2年連続のインターハイ出場が掛かった走り幅跳びのエース”として背負っているものがあるが故に、衝突とまでは行かないものの我の強さが拮抗したやり取りをすることもあった。

 

 「そうでしたね・・・王賀美先輩はインターハイ出場が掛かっているから、これ以上は邪魔できませんね」

 「邪魔出来ないのはお互い様だろ?戦う場所は違えど、明日からが“本番”なのはどっちも変わらねぇ」

 「この間の都大会は“本番”じゃなかったんですか?」

 「“都大会(あんなの)”は俺からすりゃただの“前座”だ」←※あくまで個人の見解です

 「おぉ、さすがはインターハイ経験者・・・」

 「馬鹿にしてんのか?」

 「いえいえ、尊敬って意味です」

 「気にするな今のは冗談だ

 「そうですか、よかった・・・冗談にしては眼が怖ぇんだよこの人は)」

 

 だけどそれ以上に、こうやって“芸能コースのお客様”ではなく普通に“陸上部の一員”として練習メニューをこなす日々を通じて普通の学校での部活動の日常に触れた経験は、部活動に属したことのなかった俺にとっては今回の役作りにおいて大きな収穫になった。こればかりは専門のトレーナーとのマンツーマンでは糧にすることが出来ない、貴重で有意義な時間だった。

 

 「さっきも言ったが、ユースフルデイズには“陸上以上にシンプルなスポーツはない”って言葉があるが、陸上はシンプルだからこそ奥が深く、試合結果が全てだからこそ恐ろしくもある・・・・・・違っていたら謝るが、夕野がやってる“芝居”ってやつも、同じようなものなんじゃねぇのか?

 

 目の前に立ち、真っ直ぐに俺の眼を見て王賀美先輩は問いかける。奇しくもその問いは、俺が役者になってから心の中で思い始めたことのひとつと全く同じものだった。

 

 「そうかもしれないですね・・・俺がやってる芝居っていうのも、言ってしまえば自分じゃない誰かを演じるだけの“シンプル”な単純作業みたいなものです・・・・・・だけど、違う誰かを演じることを“シンプルな単純作業”で片づけてしまうような役者(ひと)は、演技の世界では生き残ることは出来ないと俺は思っています・・・

 

 スポットライトの裏で、一体どれだけの人が表舞台に立つことを諦めたのか、どれだけの人が落とされたのかは全く想像出来ない。そんな世界で俺は事務所に入れるか否かを賭けたオーディションで落選して、それから程なくして得体のしれないプロデューサーにいきなり拾われる形で別の事務所に入って“敗者復活”という形で思わぬチャンスを得た。そして“最初のチャンス”として一番初めに受けたCMの仕事は誰かの“代役”で、その誰かは名前すら知らない。そんな何もかもが異端で常識なんて全く通用しない理不尽な世界で色んな役者(ひと)たちと出会ってきた3年間を経て俺が辿り着いたのは、こんな世界でずっと生き残っている人たちはみんな“命を賭ける”ほどの思いで芝居と向き合っているということ。

 

 「少なくとも俺は他人を演じるとき・・・・・・他人に“感情(こころ)”を預けて芝居をしているんで

 

 芸能界然り、スポーツ然り、結果が全ての世界で“勝者”になるためには並大抵の努力じゃ通用なんてしない。今日の試合で勝てたとしても明日はどうなるのかは分からないから、俺は純也と同じように今日も明日も役に近づくために努力をし続ける。

 

 

 

 “『初めて見たかも・・・こんなに弱ってる憬』”

 

 

 

 もちろん。蓮へと芽生え出した整理の出来ない“この気持ち”も道連れにして・・・

 

 

 

 「ハハッ・・・やっぱ何も知らねぇ“パンピー”が知ったかぶって憶測立てれるほど単純な世界じゃなさそうだな、芸能界は・・・」

 

 俺からの答えを聞いた王賀美先輩は、一旦視線を明後日の方角に逸らしてクールに笑いながら自虐的に返す。

 

 「けど、お前がどれだけ俳優って生き方に命を賭けてるか・・・これだけはハッキリと伝わった

 

 そして再び視線を俺のほうへと向けて、真剣な眼差しで今までで一番穏やかな表情を浮かべて静かに笑う。

 

 「頑張れよ。夕野憬

 

 初めて見る優しく温かな笑みから、シンプルだけどこれ以上ないくらいに背中を押す言葉を貰う。自己肯定感を高めるどんな名言よりも心に伝う、“頑張れ”の一言。

 

 「はい・・・王賀美先輩も、大会頑張ってください

 「・・・おう

 

 王賀美先輩からのエールに、俺は後輩としてのエールを返して最後の練習に臨んだ。

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

 2001年_5月18日_赤坂_

 

 「お疲れちゃん。草見くん」

 「お疲れ様です」

 

 5月18日、夜の7時。ドラマ『ユースフル・デイズ』のクランクイン前日、僕は上地さんから誘われる形で赤坂にある高級寿司屋に来ていた。

 

 「ところで草見くん。君はこういう店に来るのは初めてかい?」

 「当然です。何なら僕の人生において全く無縁な場所だと思っていましたよ」

 「あははっ、本当に草見くんの感性は素晴らしいね」

 「今のどこに感性を褒める要素がありました?本当に底が知れないなこの人は・・・)」

 

 そもそも舞台演劇一筋でひもじいまでには行かなくとも色々と節約しなければまともに食えない環境で日常を過ごしているような僕が、何故このような“場違い”な店で1回の食事で2,3か月分の食費代ほどは掛かるであろう“”をご馳走してもらうことになったのかは、第2話の脚本を完成させた昨日に遡る。

 

 

 

 “『どうせ話すなら美味しいものでも食べながらお話しでもしないかい?これでも君には本当に感謝してもし切れないくらい感謝しているんだ』”

 

 

 

 簡潔に纏めるとするならば、土曜から始まる撮影に関する“相談”をしたいと上地さんに連絡を入れたところ、“せっかくだから美味しいものを食べながらお話ししよう”という話になり、最終的に赤坂にある上地さん行きつけだという高級寿司屋で落ち合うことになった。もっとも僕としては電話越しにただ1つだけ“要求”を伝えて手短に終わらせておきたかったから、劇団のみんなが知ったら小一時間は問い詰められる羽目になるであろうこのような待遇は実のところ望んでなんかいない。ただし数多さんだけは“そうか”の一言で済ましてくれる可能性も、恐らくゼロではないのだろうが。

 

 「さあ、遠慮せず座って座って。ここは君の“特等席”さ」

 「“特等席”ってただのカウンターじゃないですか(心なしかちょっと座り心地いいけど・・・)」

 

 とは言いつつ鮨の奢りに加えて帰りの車をタダで手配されてしまった手前で断るとこれからの“交渉”に支障が出る可能性が非常に高いので、あまり気は乗らないがプロデューサーの我儘を飲むことにした。

 

 「大将。いつもの4万円コースを2人分で」

 「はいよ」

 

 こうして僕が予約されていた席に座ったところで、上地さんの合図で大将が先ずは煎茶の入った湯呑を差し出し、1人4万円するというコースの一品目を無言で握り始める。今更気にしてもどうにもならないが、上地さんが相変わらずのお高いブランドのスーツ姿なのも相まって、余計に自前の長袖黒Tシャツで店に入った僕の場違い感が際立っている気がする。

 

 「では改めて、僕らと素晴らしいキャスト達が作る新しいドラマの成功を願って」

 

 そして挨拶がてら湯呑で軽く乾杯をしてドラマの成功を誓い、大将の淹れた煎茶を口へと運ぶ。恐らくこれはとても美味しい煎茶であろうことは口当たりの良い独特な苦味で分かるのだが、如何せん舌が肥えているわけではない僕にはこの煎茶の良さを全て理解することはできない。無論、とても美味しい煎茶なのだろうというのは伝わったということは付け足しておくが。

 

 「さて、乾杯を終えたところで君からの“相談”を聞くことにしよう」

 「今日は随分と話が早いんですね?」

 「だって草見くんって僕が遠回しに話を引っ張っちゃうと要求がエスカレートしそうだから」

 「大きなお世話ですよ

 

 こんな具合に4万円のコースに含まれる煎茶を一口飲んで湯呑をカウンターに置いたところで、左に座る上地さんはいきなり僕に“本題”を切り出す。随分な偏見を言われたことは今は置いておくとして、いつもならやや大袈裟な言い回しで話を引っ張りがちなこの人にしては珍しいことだ。

 

 「あぁその前に、僕からも“交換条件”として君にひとつお願いしたいことがあるんだけど、いいかな?」

 「もちろん構いませんよ。僕がそれを断れば今日の“相談”を無かったことにするつもりなのは読めていますから」

 「さすが草見くん。理解が早いから本当に助かるよ」

 「それはどうもです」

 

 とはいえさすがに“タダ”では済まないらしく、上地さんは僕に“交換条件”を提示する。当然、こうなることも予め予測済みだから、全く驚きはない。

 

 「さて、単刀直入に言うと僕から草見くんへの要求はただ1つ・・・何が何でも、今回のドラマを“脚本家”として成功させること・・・・・・これだけ

 

 そんな上地さんの口から明かされた交換条件は“何が何でも今回のドラマを成功させる”という、あまりにも抽象的で、あまりにシンプルな条件だった。

 

 「・・・本当にそれだけでよろしいのですか?

 「うん、構わないよ。草見くんが“絶対”に約束を守ってくれると言うのならね?

 

 それだけでいいのかと問いかけた僕に、上地さんは軽く二つ返事をするかのような口ぶりで笑いながら答える。少なくとも“絶対”という言葉にはとてつもないほど重みが込められているのは、にこやかな表情とは裏腹に色々な思惑が複雑に交錯しているのが垣間見えるギラついた視線で感じ取れた。

 

 「さあ、選択肢は2択だよ?草見くん

 

 意見を返す隙も与えず、上地さんは矢継ぎ早に選択を迫る。この人と劇場から住処のアパートへの帰り道で会ったのは3か月前。相変わらず、僕には上地というプロデューサーが企んでいることや、全くの“畑違い”な僕に目を付けてここまで我儘を聞いてくれる理由が、今一つ理解できない。

 

 「無論、“イエス”でお願いします

 「うん。いいね

 

 

 

 だけど、そのことを聞くのはもう少しだけこの人と信頼関係を築けてからにしようと僕は直感した。

 

 

 

 「はいお待ち。こちらヒラメの握りになります」

 「うん、ありがとう」「ありがとうございます」

 

 “交渉成立”とほぼ同時に、大将の握った4万円コースの最初の一貫(ネタ)が手前のカウンターに用意された大理石の長皿の上に添えられるようにそっと置かれる。素人目で見ても、明らかに回転寿司で提供されているネタとは鮮度といい見た目の尊厳さといい何もかもが違うのが見ただけでも分かる。謎に悔しさが湧いてきたが、これは間違いなく美味い。

 

 「では、ヒラメの食べごろを逃す前に聞かせてもらいましょうか。草見くんからの“相談”とやらを」

 

 だけど今は、あくまで左に座るこのプロデューサーとの“交渉”がメインディッシュというわけだ。無論、そのつもりで僕も“アングラ”の世界で生きる貧乏人には不釣り合いな店に出向いている。それに交換条件を提示されて受け入れた今、こちらとしても好都合だ。

 

 「じゃあ、僕からも単刀直入であなたにお話します・・・・・・明日の撮影、僕にも立ち会わせてください

 

 無条件で“要求”を受け入れてくれることを確信した僕は、一か八かで詳細を省いて上地さんに文字通り要求だけを伝えた。

 

 「OK。何なら好きなだけお邪魔をしても構わないよ・・・もちろん、必ず約束は果たしてもらうことになるけどね?

 「はい。誠にありがとうございます

 

 思い切った僕からの提案に、上地さんは指を鳴らして二つ返事で了承した。




クランクインを前に、思惑は巡る_



ユースフルデイズ編・第三幕、本日よりスタートです。例の如くサブタイトルは???のまま進みますが、よろしくお願いします。
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