或る小説家の物語   作:ナカイユウ

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西先生。そして、宇佐崎先生・・・・・・次にくるマンガ大賞2025コミックス部門第1位おめでとうございます!


scene.117 寂しがり屋

 「ごめん・・・・・・俺、杏子さんのことが好きだから・・・」

 

 

 

 

 

 

 「あれ?もう起きてたの?」

 

 水曜日の朝の5時。映画の撮影がある関係で早く起きてシャワーを浴びてきた静流が、それよりも一足早く起きてテレビをつけることもなくリビングのイスにただ座っていた私へ声を掛ける。ちなみに私は完全にオフの日だけど、なんだか早く目覚めてしまってそのまま寝付けなくなって諦めて起きてしまった。

 

 「うん。ちょっと早く目覚めちゃって」

 「何か悪い夢でも見たの?」

 

 そのことを伝えると、静流はまだ私が理由を言っていないのにエスパーの如く私が悪い夢を見たことを言い当てて、ちょうど真向いのイスに座って優しく微笑みかける。

 

 「ここまで読まれちゃうともうホラーじゃん」

 「それぐらい蓮の考えてることが分かりやすいんだよ。()()()()と同じくらい」

 「いちいち一緒にしないでくれるかなそこまで私はバカじゃないし」

 

 人の些細な感情を読み取る力が異常なレベルで高くて、この感受性の高さが静流の芝居に生きていることは知っているけれど、ここまですぐに言い当てられてしまうと割と本気で恐い。

 

 「言っとくけど思いっきり顔に出てるよ?“嫌な夢を見てすこぶる気分が悪い”って気持ちが」

 

 真向いのイスに座って両手で頬杖をつき、静流は優しい笑みを浮かべたままパッチリとした青紫の瞳で私の感情を凝視して容赦なく掘り下げて行く。

 

 「・・・多分、今まで見てきた夢の中で()()()()なやつだった」

 「そっか。だったら夢で良かったね」

 

 お見通しなのが分かった上でとりあえず今まで見てきた夢の中で一番最悪な夢だったことを明かすと、静流は夢の中身を聞くことなくそう言ってもう一度私へ微笑みかける。当然、最悪な夢の中身なんて静流はおろか他の人に言えるわけがない。

 

 「ホントだよ・・・あんなにひどい夢なんて久々かも・・・

 

 

 

 夢の中で、いつもの屋上に憬を呼び出した私は自分の想いを打ち明けて、そして憬に振られた。そもそもどうして私が憬なんかに告白しているんだって時点でかなり謎な夢だったけど、よほど夢の中で感情移入していたのか、目が覚めた私は枕が濡れるほどの涙を流していた。

 

 「・・・・・・最悪」

 

 目が覚めて今までの出来事が全部夢だったことに気付いた瞬間、あっという間に涙は引っ込んだ。だけど心の中はハンマーで殴られたみたいなダメージを食らっていて、横になって目を瞑っても今度は夢ごときにメンタルがやられている自分にイライラして全然気分が落ち着かなくて、カーテンの向こうの空が明るくなり出したことに気が付いて、私は寝るのを諦めた。

 

 「こんなわけわかんない夢が出てきたの、絶対堀宮さんのせいだ・・・」

 

 そもそもなんで私が憬なんかに・・・そりゃああいつは人のことをちゃんと中身まで見てくれる良い奴だし、あいつの言葉には嘘が全くなくていつも真っ直ぐだからこっちも素直に受け止められるし、そういう人が親友として同じ世界で頑張っているから、私だって頑張れている。

 

 

 

 “『お前こそ照れてんじゃねえかよ』”

 

 

 

 でも・・・だからって()()は違うじゃん。

 

 

 

 「今日って蓮はオフの日だよね?」

 「うん」

 「だったら6時までもう一回寝たほうがいいよ。体力温存も仕事のうちだし」

 「あのまま眠れてたらここにいないっつーの」

 「眠れないとしてもベッドの上で目を閉じるだけでも全然違うよ」

 「それは静流の場合でしょ」

 

 テーブル越しで向き合ったまま、悪夢のせいで1時間以上も早く起きてしまった私のことを心配して自分の部屋に戻って休んだほうがいいと静流は促す。ついさっきの夢に加えて、このところは()()()()()()()()もあってか明らかに心の余裕がなくなっている。きっとあんな夢を見たのも、そのせいだ。

 

 「にしてもいつもは大事な撮影がある前の日もぐっすり眠れてる蓮が珍しいね」

 「・・・そうだね」

 

 “・・・こんな撮影(ドラマ)とは何の関係もないプライベートの諍いなんかに翻弄されてる暇なんかないのに・・・”

 

 「何か飲む?」

 

 何とか平然でいようとしてもつい苛立ちが言葉に乗ってしまう私を見て、静流はイスから立ち上がってキッチンのほうへと歩きながら私に飲み物を聞く。

 

 「・・・ホットミルク」

 「おっけー」

 

 返って来る雑な感じの受け答えと声色から、結構マジでやられていることを察せられたことを私は理解する。というか、いまの私だと静流はおろか憬だって“イライラしてるな”って、ものの数秒で気付かれてしまうんだろうな。

 

 「・・・ごめん」

 「何が?」

 「いや・・・朝から感じ悪くて」

 「そうやってイライラを発散するのはいいことなんじゃない?役者だって人間だから、カメラの前で大嫌いな人を一発ぶん殴ったくらいじゃ心がスッキリしないことなんて幾らでもあるし」

 

 半ば八つ当たりな態度を取っていた自分に気付いて謝ると、冷蔵庫から牛乳パックを取り出しながら静流はこんなことは幾らでもあるとまるで気にも留めていない口ぶりで返して、ホットミルクの準備をする。

 

 「静流の言うことって何でこんなに説得力あるんだろうね?」

 「()()じゃない?」

 「自分で言うんかいまぁ実際そういうところもあるけれど・・・)」

 

 言葉の説得力すなわち芸歴・・・なのは人それぞれだとして、静流は約2年もずっと同じ部屋で一緒に生活しているのに、いまの私みたいに弱っているところを一度も見せたことがない。もし女優(やくしゃ)をこれからも続けていくとして欲しいのは演技力もだけど、何より一番は静流のような心強さだ。

 

 「静流は大丈夫なの?朝ご飯の準備とか?」

 「同時進行でやるから問題ないよ」

 

 

 

 静流くらいの()()()が私にあったなら、こんなにも心が乱されることはなかったはずなのに・・・

 

 

 

 「はい。おまちどうさま」

 

 電子レンジのタイマーがキッチンのほうから聞こえてすぐ、静流がオレンジ色のマグカップを両手で持って私の前に差し出す。今更だけど初夏の季節にホットはどうなんだろうって自分ながらに思いながら、静流が入れてくれたホットミルクを口へ運ぶ。

 

 「・・・はぁ」

 

 元から若干温まっている身体に、熱いホットミルクがほのかな甘味と共に身体の芯へと染み渡っていく。言ってしまえばただカップに牛乳を入れたものを温めただけなのに、人が入れてくれたものってだけで何だか少しだけ美味しく感じて、それに比例して気分も少しずつ落ち着きを取り戻していく。

 

 「ところでドラマの撮影は順調?」

 

 なんて静流が入れてくれたホットミルクで機嫌が戻り出したタイミングを狙いすましていたかのように、キッチンで自分用の朝食を用意する静流がさり気なくドラマの話題を振る。

 

 「まあね。いい感じにバチバチしてて楽しいよ」

 「やっぱりバチバチしてるんだね」

 「やっぱりって静流は知らないでしょ?」

 「風の噂でちょいちょい聞いてるからね。“メインキャストとそれ以外が対立してる”とか」

 「さすがに対立まではしてないけどね」

 

 誇張もされた風の噂だからあくまで信憑性はそれほどだけど、基本的にバチバチとした空気の中でやっているのは事実で、私が受けたオーディションが出来レースだったという真実も今や噂になって芸能界(このせかい)では大抵の人は耳にしているってくらいには浸透している。

 

 「けど・・・こういう経験は後にも先にも二度とないと思うから、何が何でもモノにして次に繋げたいって思ってる

 

 そこに至るまでには色んな要因があって、もちろん中にはとても受け止めきれないほどの理不尽もある。だけどそういう痛みや苦しみも全部血肉にして、絶対にチャンスを掴んでやると私は決めている。

 

 そのためだったら、何回も涙を流すようなことになっても厭わない覚悟はあるつもりだ。

 

 「・・・蓮は本当に()()()だね

 

 悪夢を見てしまうくらいには追い込まれている状況すら糧にしようとしている私を、静流は“前向き”だと言う。その言い方が、何だか私には含みがあるように聞こえた。

 

 「当然でしょ。じゃなきゃ役者は務まらないし」

 「その割にはいまの蓮は何だか自分を必要以上に追い込んでいるように私には見えるんだけどね?

 

 その予感が頭をよぎった直後、何気なく返した言葉を遮るように静流がトーンを変えずにピシャリと言い放つ。強く言ったわけでもなく本当にいつもと同じさり気ない口ぶりなのに、静流の一言で穏やかだったリビングにピリッとした緊張感が走りした。

 

 「・・・何で言い切れるの?」

 「夢は人の深層心理がそのまま反映されるものだから。あと、目がちょっとだけ腫れてる」

 「えっ嘘?」

 「鏡を見れば誰でも分かるよ。ついさっきまで蓮が泣いてたって」

 

 静流から目が腫れてると言われて、私は急いでバスルームの洗面台へと向かい電気をつけて鏡に映る自分の顔を見る。

 

 「うわ・・・」

 

 鏡に映った自分の顔に、思わず絶句の声が零れる。少なくともこんな顔のまま撮影現場に行ったら監督にこっぴどく叱られるのが目に見えて分かるくらい、目の前の自分(わたし)はひどい顔をしている。

 

 

 

 “『あたしさとると付き合ってるから』”

 

 

 

 ジャー_

 

 ふと頭の中をまた搔き乱そうとした堀宮さんの言葉を、夢で流した涙で腫れた両目と顔を水で洗いながら身体の外へと流す。

 

 「私はただ普通に芝居したいだけなのに・・・なんで・・・

 

 水を止めて、届くはずなんてない自分の気持ちを排水溝へと吐き出す。あれが堀宮さんなりの役作りだといっそのこと受け入れてしまえば、どれだけ純粋な気持ちで演技をしたいと思い続けている心がラクになるだろう。けれども私はそこまで割り切れるほど利口じゃないし、素直にそれを受け入れるほど単純じゃない。私の親友を利用し続けているとなれば尚更で、水族館で打ち明けられたあの日からずっと顔を見るたびに、カットが掛かるたびに、あの煌びやかで綺麗な顔を思いっきりぶん殴りたくなる。

 

 「・・・落ち着け。私が感情的になってどうするんだ

 

 だけど堀宮さんの演じる雅は対峙すると本当に雅がそこにいるみたいに思えるほど役作りが完璧で、カメラが回っている間だけは嫌なことも全部忘れて同じ弓道部の親友同士でいられるのもそれだけ堀宮さんの演技が上手いからで、ここまで私が凪子を演じられているのは他でもなく()()()()()()()()だ。

 

 「・・・・・・

 

 雅をあそこまで完璧に演じ切れているきっかけが憬で、1ミリたりとも悪いなんて思わず役作りの道具も同然に利用していることを知っているのに、ライバルになることはおろか明らかに堀宮さんからずっと助けられている自分の現状が、腸が煮えくり返るくらい悔しい。

 

 

 

 どうして堀宮さんがここまで手段を択ばないのか、どうしてそういうやり方で役を作るのか、共演者として理解できないままの自分も・・・

 

 

 

 「顔洗ったら落ち着けた?」

 

 洗面所の外から聴き慣れた少し鼻にかかった甘い声が聞こえて、我に返って濡れた顔をタオルで拭く。

 

 「・・・ねえ静流。自分が演じる役のためなら平気で友達のことを傷つけるような人って、どんな役者(ひと)だと思う?」

 

 限界ギリギリで踏み止まりながら芝居をしていることを察しているその優しい声に、私は正直に自分の心の内を明かす。はっきり言って堀宮さんのことは殴りたくなるくらい嫌いだけど、あの本性があの人の全てじゃないってことだけは私だって知っていて、芝居に対する情熱はまごうことなく本物だから、心のどこかではまだ分かり合える部分があるんじゃないかなって微かに期待すらしているチグハグな自分。

 

 「うーん・・・それは私でも答えを出すのはさすがに難しいかな。明確な答えっていうものなんてないし」

 

 私からの問いかけに、バスルームの入り口に立つ静流は少しだけ困惑した様子でこう返す。そりゃこんな答えのないようなことを朝からいきなり聞かれたら、芸歴で10年先輩の静流だって答えに困る。

 

 「ごめん。変なこと聞いた」

 

 さっきから自分でも何やってんだろうって話だ。勝手に悪夢にうなされて、勝手にイライラして静流に八つ当たりな態度を取って、こんなザマだから私は駄目なんだって、本当に思う。

 

 「・・・これはあくまで一個人の持論ぐらいの感覚で受け止めて欲しいんだけど・・・そういう役者(ひと)は“寂しがり屋”なんだって私は思う

 

 ドラマの撮影が始まってから何度目かの自己嫌悪に陥って答えを聞くのを諦めようとしたところで、静流がポツリと呟く。

 

 「寂しがり屋?」

 「だって普通に考えてさ、生まれたときから“友達なんかいらない”なんて思ってる人なんて誰もいないじゃん。果たしてその役者(ひと)()()()()()()()()()()()()()()()は置いとくとして、もし本当に役作りのためなら人間関係を壊すことも厭わない人がいるとしても、きっと小学生くらいのときまでは普通に蓮みたいに友達を大切にできる心があったと思うんだよ・・・ただ芸能界にいると色んな目で見られるじゃん私たちって」

 「うん。そうだね」

 「特に子役から芸能界に入った人で多いのは芸能人になったせいでクラスのみんなから腫れ物扱いされるようになったり、嫌がらせとかイジメにも遭ったり・・・もっとひどい場合だと親がどうしようもないくらいの毒親だったりとか・・・そういう環境にいると()()()()が自分のことを認めてくれないプライベートから自分のことを認めてくれるカメラの前とか舞台の上になっていくから、物心がついたときには持っていたはずの普通の感覚が段々と麻痺していくからなりふり構わなくなって・・・だけど自分のことを傷つけてきた人に“私のことを認めて欲しい”って思う気持ちだけは根深く残り続けるから、蓮が言うように役作りっていう大義名分で自分の承認欲求を正当化しようとする・・・もちろん元から常識外れな生き方をしてる役者(ひと)もいるかもだけど、大半はそうなんじゃないかな」

 「・・・静流もそうだったの?」

 「私は物心がつく前から芸能界にいるから当てはまらないよ

 「相変わらず説得力すごいわ

 

 呟きから始まった静流なりの長めな持論。それは堀宮さんみたいな役者の大半は“寂しがり屋”だということ。

 

 「ていうかごめん。めちゃくちゃ長く喋っちゃった」

 

 最後にややわざとらしく両手を合わせて締めくくって、申し訳なさそうに静流が笑う。あくまでも自分は当てはまらないって言うけれど、まるで自分自身のことを言っているかのような説得力を私は感じた。

 

 「ううん。だいぶこれからの参考になった」

 

 もしも仮に静流がいま言った持論が堀宮さんに当てはまるものだとしても、憬を役作りの道具にするやり方には全く同情なんかできない。

 

 「とにかくそういう人が周りにいたら、“ただの寂しがり屋”なんだって思っておけば多少は気が楽になると思うよ」

 

 だけど同時に、静流の持論(ことば)を通じて堀宮さんが()()()()()だと考えてみたらほんの少しだけ腑に落ちた。少なくともあの人がふと見せる優しさが嘘だなんて、私は思わない。

 

 

 

 “『蓮ちゃんもいっぱい泣いて、泣いた数だけ立ち上がって、誰にも負けないくらい強くなればいいんだよ・・・』”

 

 

 

 ああいう()()()だって持っているのに・・・どうして堀宮さんは平気であんなことをするんだろう・・・

 

 

 

 「・・・あぁでも、芸能界の先輩として敢えて言うなら()()だけは肝に銘じておいて欲しいかな」

 

 ようやく悪夢にうなされて目覚めてからずっと気が立っていた心がいつもの落ち着きを取り戻して冷静になってきた私へ、静流は最後にこう付け加えた。

 

 「私からすればそういうやり方でしか役を作れない人は同じ役者としてまだまだ“ひよっこ”だよ・・・・・・もちろん、“そういう役者に振り回されるような人”もね

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

 2001年6月13日_

 

 「起きろ~夕野っち。もう朝飯できてんぞ~」

 

 夢と現実が混ざり合う曖昧な意識の向こうから新井の声が聞こえてきて、視界がゆっくりと現実へと引き上げられていく。

 

 「・・・やっべぇやらかした」

 「今日がオフで良かったな」

 「あぁ。本当な」

 

 何となく聞こえてきたその言葉から、寝坊したことを自分で理解してベッドの上で横になっている身体を起こして目覚ましを確認すると、時計の針は7時15分を指していた。新井の言う通り、今日がオフなのは不幸中の幸いってところだ。

 

 「ここんところ多いよな。お前が寝不足なの」

 「おう・・・実は役作りがあんまり上手くいってなくてさ、ドラマの撮影が始まってからずっと悩んでんだよ」

 

 ベッドから降りる俺へ、新井が少しだけ心配そうに寝不足気味なこの身体を気遣う。思えばドラマの撮影が始まってからずっと、俺は終わりのない浮き沈みを繰り返すかのように純也の役作りで悩み続けている。

 

 「そこに加えて、映画の仕事が一本決まって2ヶ月後にはクランクイン」

 「良かったじゃん。仕事貰えて」

 「そりゃ俺を選んでくれるのはありがたいよ・・・ありがたいけど、いま演ってる役ですら全然納得いってない中で違う役を作っていくのはやったことないから。てことを考え出したら寝つきが悪くなった」

 

 それに加えてほぼ急転直下で決まった、新進気鋭の映画監督がメガホンを取る短編映画への出演にして、俺にとっては初の主演という重要な仕事。同い年であること以外は生まれた環境も置かれている状況も何もかもが違う2人をどうやって演じていくか。自分のものではないふたつの感情をどうやってこの心の中で飼い慣らしていくか。同時進行という形で2人を演じるという経験をしてこなかった俺にとっては今までにない壁のようなもので、それでも時間は待ってくれないから自分の中で役を作っていかないといけない。そうやって全く異なる他人の感情を落とし込む作業をやり出してからというもの、随分と寝つきが悪くなってしまった。間違いなくこれは、心がダメージを負っている証拠だ。

 

 「まあ食おうぜ。“腹が減っては戦はできぬ”と言うし」

 「・・・おう」

 

 そんなこんなで寝不足気味で頭が回らない俺へ、新井は“とりあえず食おう”と手招きして、俺もそのままついて行って下へと降りる。

 

 「おはよう夕野くん。よく眠れた?」

 

 人が少なくなり出した1階の食堂のスペースへ向かってカウンターへ足を運んで棚の上に置かれたコンソメスープ、トーストと野菜の付け合わせ&オレンジ、野菜ジュースの朝食を手に取っていると、厨房にいる寮母さんが笑顔を浮かべながら俺に話しかける。

 

 「すいません。寝坊しました」

 「全然大丈夫よ。俳優さんのお仕事は不規則なものだから寝坊できるときに寝坊するぐらいがちょうどいいんじゃない?」

 「あははっ、でもこれを機に気を引き締めます」

 

 寝坊したことを詫びる俺へ、寮母さんはそんなこと全く気にしていないと言わんばかりに優しく微笑む。もちろん人に余計な心配はさせたくないから、実は寝不足だとは言わない。

 

 「ていうか新井はもう食ったの?」

 「おう。食べ終えてから起こした」

 「悪いな、朝から」

 

 テーブルの席に新井と一緒に着いて、スクールバスの時間が30分後に迫っている手前で早速朝食のトーストを口へ運ぶ。

 

 「ちゃんと噛んで食べとけよ」

 「さっきからお前はオカンか」

 

 いつもより少しハイペースに寮の朝食を口へ運ぶ俺を見て、左隣に座って野菜ジュースを飲む新井がまた気遣う。朝から心配を掛けられて“オカンか”とついツッコんでしまったが、こういうときに特に共演者ではなく()()()()()として自然体で接してくれる新井(こいつ)の存在は、役作りで悩んでいる俺にとっては何気に救いだ。

 

 

 

 “『サトルがレンちゃんに抱いてる感情(それ)は、“友情”なんかじゃない』”

 

 

 

 心の奥で知らずのうちに溜まり込んでいた感情(きもち)に気付いてしまってからの俺は、何でも話せるはずの親友ともどこか自然体でいられなくなっているから・・・

 

 

 

 「・・・役作りの話を聞いて思ったんだけど・・・実在すらしないフィクションの人間をさもそこにいるのが当たり前みたいに演じるのって、シンプルに()()()()()()()()してるよな俺たちって

 

 遅れて朝食を食べる俺の横で、新井が呟く。

 

 「あぁ言っとくけど俺は夕野っちとは違ってそういう芝居はまだ出来てねえけどな?」

 

 呟いた刹那で、自分は大したことないと慌てて新井は謙遜して野菜ジュースの余りを飲み干す。

 

 「いや、俺からしたら新井(おまえ)のほうが全然すげえよ。役作りとかで悩んだり弱音吐いてるところとか一度もないし」

 「ポジティブなのが唯一の取り柄ってだけよ」

 

 とんでもないこと。すっかり他の誰かを演じるという生き方が当たり前になってしまった今となってはその感覚すら忘れかけていたけれど、確かにそうだ。普通に過ぎ去る一日の中で自分を保つだけでも精一杯で大変なことなのに、会ったことはないどころか実在しない架空の人間の人生を役者は生きなければいけなくて、それを普通だと受け入れられなければこの世界では生き残れない。

 

 「夕野っち的には全然腑に落ちてない感じだけど、だからって出来ないことに目を向けて寝れなくなるくらい詰めるより、いま出来るベストな演技が出来たら今日はこれでいいやってくらいの心意気で演ってみるのもいいんじゃね?」

 

 役者として、メインキャストとして俺に求められているのは、自分が選ばれたことをドラマに関わる人間全てに納得してもらえる()()()()()()()()()()()()()だ。それは完璧な芝居を演り切ること以上に難しいものだ。

 

 

 

 “『もしも今日の読み合わせでさとるが純也の気持ちをちゃんと掴めたとして、それで週末の本番で完璧に演じ切れるとしても、それが作品にとっての正解だとは限らない・・・逆にもし今日がダメで、週末になっても自分の中でまだ掴みきれていない部分が残っていてダメなままだとしても、ダメだからこそ見つけられるものもあって・・・ダメだったときの自分の演技がむしろ作品にとっての正解だったなんてことも起こりうる・・・・・・それが芝居の本質だって、あたしは思ってる』”

 

 

 

 「・・・確かに。一理あるかもな

 

 “肩の力を抜け”という意味合いを込めたアドバイスに、俺は頷く。こういうときの心の持ちようの余裕の違いに、芸歴がまだ浅い俺と子役から芸能界に身を置いている人たちとの差をしみじみと感じる。

 

 「“自分の中で本番で完璧に演じ切れたとしてもそれが作品にとっての正解とは限らない”って杏子さんも言ってたし・・・割とそうなんかな?」

 「杏子さんって堀宮杏子?」

 「おう」

 「あの堀宮杏子がいうなら多分正解だな」

 

 初めての読み合わせに向かう道中で共演者の先輩から言われたことを告げると、新井は心底納得した様子でその持論に乗っかる。当然これが俺にとっての正解かなんて分からないし、堀宮本人にとってもそれが正解だって言い切れる保証は無い。

 

 「“多分”、か」

 

 これといった正解がないからこそ、自分の中でも作品の中でも完璧に演じ切れたときの感動がある。だとしたら、こんなふうに悩み続ける時間も経験値になっていくというのだろうか。

 

 

 

 “『期待してるよ。7月のドラマ』”

 

 

 

 「今日久々に部活に顔出すつもりけど・・・一回役のことも何も考えないで練習しようかな」

 「おう、いいんじゃね?てかそれなら思い切って部活休んで遊び行かね?」

 「いや、役作りとか抜きで割と陸上は好きなんだよ俺」

 「マジかちょっと意外だわ」

 「俺も最初は全然興味なかったけど、役作り目的でやり始めたらちょっとずつタイムが早くなったり跳べる距離が伸びていくのが思いの外気持ち良くてさ」

 「お前ってどこ行っても成功しそうだな」

 

 とにかく今日はオフだから芝居のことは極力考えないで一日を過ごそうと心に決めて、俺は朝食を食べ終えてすぐに部屋へと戻って歯磨きと支度をした。




“正解”がないからこそ_



それはそうと、世陸ロスがエグい。
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