或る小説家の物語   作:ナカイユウ

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誰かに向けて言うわけではありませんが、すいませんでした。


scene.31 ブラック&フラペチーノ

 「お邪魔しまーす」

 

 約束の時間である15時ジャストに中庭で合流した百城を、俺は22階にある2LDK(自宅)に案内する。本音を言うと近場のカフェ辺りで話を聞きたかったが、不特定多数から注目され最悪の場合“写真を撮られる”というリスクを考慮した結果こうなった。

 

 幸か不幸か俺の住んでいるマンションは芸能人を含め各界の有名人と呼ばれる人たちが少なからず住処にしている“巣窟”のような場所のため、そこら辺の高級物件よりも徹底的に対策が練られているという点も結果の1つだ。

 

 「さすが人気小説家さん。良いところに住んでいますねー。それに掃除もよく行き届いているみたいで、感心しちゃいますよ」

 「そりゃどうも」

 

 玄関で靴をきちっと揃え来客用リビングに足を踏み入れた百城は、ショールーム並みに綺麗にしたリビングを見渡して天真爛漫なままに褒め称える。

 

 「他の部屋も見ていいですか?」

 

 生意気でませた言動はあまり好みではないが、玄関に入る時に「お邪魔します」と挨拶して靴をきっちりと揃え、不用意に他の部屋を覗こうとはしない辺り、どっかの黒山(誰か)とは違い礼儀作法は弁えている。きっと星アリサ(あの人)から口うるさく言われて矯正されているのだろう。

 

 まぁ、これくらいは常識的に考えると誰でも出来て当然の範囲ではあるのだが。

 

 「浴室なら見てもいいぞ」

 「それよりあっちの部屋は見せてくれないんですか?」

 

 仕方なくバスルームを案内しようとする俺に、百城はリビングの奥にある二つのドアの方に顔を向ける。

 

 「悪いが向こうの部屋は駄目だ」

 

 ちなみに俺は書斎と寝室には人を入れないということを決めている。特に書斎に至っては絶対だ。

 

 「えっ?もしかして何か“やましいもの”でも隠しているの?」

 

 そんなことなどつゆ知らずの百城は天使と悪魔が同居した笑みを浮かべ平然と問い詰めてくるが、この程度の子供騙し(騙し)では俺は揺るがない。

 

 「それは百城さんのご想像に任せるよ。生憎俺はリビング以外に他人が足を踏み入れることを許さない主義なんでな」

 「もー、そんな塩対応じゃ女の人からモテないですよ?夕野さん?」

 「モテなくて結構」

 

 天使のような笑顔を浮かべながら、百城は小悪魔のような台詞を吐く。確かに天使と悪魔は紙一重という言葉は、あながち間違ってはいないのだろう。

 

 「・・・まぁいいや。夕野さんがどういう人なのかっていうのは分かってきたし」

 「どういうことだ?」

 

 少しばかりリビングを見渡すと、天使のような笑みを浮かべたまま振り返った百城が尚も問い詰めるが、この後に彼女は意外な一言を俺にぶつける。

 

 「夕野さんって、普段あんまり掃除しない人でしょ?」

 「・・・何故そう言い切れる?」

 

 確かに俺は今日のように来客が来るとき以外は週1回程度しか掃除はしないし、そもそも普段は“ここまで”綺麗にはしない。

 

 「だってここのリビングだけ不自然なくらいに綺麗すぎるんだもん。いかにもお客さんが来るから大掃除をしたって感じで」

 

 理由はただ一つ、掃除はめんどくさいからだ。そんな思いをしたくなければ毎日やれと言われてしまえばそれまでだが、掃除だけは毎日やる程の気力が起きない。

 

 これでも人並みには綺麗にしているつもりだが、軽く見渡しただけで百城は掃除が完全に行き届いていないことを見抜いた。

 

 「・・・随分と勘が鋭いんだな。あとそれは思っていても口にしないほうがいいと思うぞ」

 

 “それにしても、この勘の鋭さは何だ?”

 

 あるいはこの異常なまでの勘の鋭さこそが、彼女が主演女優として作品に華を添え大衆を魅了し続けていられる為の原動力になっているのだろうか。少なくとも“勘が鋭い”という利点は、役者にとっては大いなる武器でもあるからだ。

 

 だが相変わらずこんなに近くにいるというのに、俺には依然として百城の本性が見えないままだ。現に今リビングにいるのは近いけど果てしなく遠い、届きそうで届かない“偶像”そのものだ。

 

 「別に勘なんて使ってないよ、ただリビングの清潔感が私の部屋の感じと凄く似てるってだけだから」

 

 初めて目の前で目にしている天使に対して疑心が拭えずにいる俺に、千世子は小生意気に白く綺麗に整った歯を見せながら笑う。恐らくこの笑みもあくまで“天使”の感情であって、彼女ではない。

 

 「似てる?どういう意味だ?」

 

 だが疑問をぶつけた瞬間、俺を見つめる百城の笑みがほんの僅かながら変わった。

 

 「私も“夕野さん”と同じで家にいるとついつい掃除をサボっちゃうところがあるから、パッと見ただけで分かっちゃうんだよね」

 

 果たして今の言葉が百城の本心なのかは断言できないが、それまで全く視えなかったはずの言葉に乗せられた“感情”というものが、ほんの少しだけ視えた。

 

 “憶測だが、彼女は俺に対する“警戒心”を解き始めている“

 

 「意外だな・・・てっきり俺は家に帰っても“完璧主義者(天使)”かと思ってたよ」

 

 そう心の中で予測した俺は、わざとらしいリアクションで百城の言葉に答える。

 

 「フッ」

 

 すると百城は視線を斜め下にそらして右手で口元を隠す仕草をしながらクスっと笑う。

 

 「何がおかしい?」

 

 馬鹿にされる前提で言ったとはいえ本当の意味で心の底から馬鹿にして笑っているのがすぐに分かったから少しだけ腹が立ったが、それと引き換えに同時に百城の “本性”が徐々に見え始めてきた。

 

 「いや・・・自分の(うち)にいる時もずっと“天使”のままだったら心が疲れ切って死んじゃうよ。一応こうやって外にいる時はイメージを崩さないように心掛けてるけど、私だって例えば外だと牛丼はちまちま食べてるけどおうちの中じゃかきこんで食べるし、掃除だって時間とか気持ちに余裕がある時以外は“ルンバ”とかに任せちゃってるからね。あぁもちろん、体型とかスキンケアには気を遣っているけど」

 

 馬鹿にしたように笑いつつ、プライベートの暮らしぶりを俺にカミングアウトする。話を聞く限り、芸能人としてのプロ意識の高さが反映されているところもあれば、そうでないところもあるようだ。

 

 いや、裏を返せばそれだけオンとオフを切り替えられているということだろうか。

 

 「・・・ってところかな?夕野さん?」

 

 比喩表現として牛丼という彼女のイメージからはかなりかけ離れた食べ物をチョイスしたことはさておき、少しずつではあるが百城千世子の人物像は見え始めて来た。

 

 “せっかく時間を割いた・・・1つでも多くのヒントを手に入れる”

 

 「・・・役者というのはオンオフを切り替えられないと遅かれ早かれ精神に異常をきたし、やがて“破綻”する・・・だから“天使”が牛丼を食おうが家の掃除をロボット掃除機に任せようが何も不思議なことではない・・・あんたのおかげで思い出したよ。所詮役者なんて生き物はカメラの前や舞台の上から離れればただの一般人(人間)と何ら変わらないってことに」

 

 分厚い天使のベールを少しづつ解き始めた千世子の目を真っ直ぐに見つめ、憬は本性を剥き出しにするかのような表情と口ぶりで心の声をそのまま千世子に伝える。

 

 「・・・やっぱり面白い人だなぁ・・・夕野さん」

 

 その言葉に千世子は目の前に立つ憬を真っ直ぐに見つめ、感情を生き写しながら答えた。

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

 「それより座らないのか?」

 「えっ?いいの?」

 「当たり前だろ。来客を招き入れておいて最後まで席に座らせない(あるじ)がどこにいる?」

 「じゃあ、お言葉に甘えて」

 

 部屋に入ってから数分、千世子は憬から半ば諭される恰好でようやく来客用のソファーにきちっとした姿勢で座る。その上品な佇まいはソファーの上の壁に飾られた絵画と合わさって、それまでの天真爛漫な普段の雰囲気からはかけ離れた独特な空気感を醸し出している。

 

 「何が飲みたい?紅茶だったらすぐに出せるぞ」

 

 キッチンに向かった憬は湯を沸かし始めながら千世子へ注文を問う。

 

 「そうだなー・・・・・・せっかくだから夕野さんの“おススメ”で」

 「おススメって・・・そんなもんあるわけないだろ」

 「じゃあ、一番自信のあるもので」

 

 千世子が数秒ほど考えるような仕草をした末に出した注文に、憬は思わず困惑する。

 

 “・・・思った以上にめんどくさいガキだな・・・”

 

 そんな憬には自慢げに言える程ではないが、以前あるお客に出して絶賛された拘りの自信作が1つだけある。

 

 「・・・アイスコーヒーでいいか?」

 

 少しばかり悩んだ末、あまりお勧めは出来ないと言いたげに憬は自慢のコーヒーを勧めると、千世子は即答で「うん、いいよ」と答えた。

 

 「その代わりこれから俺が作るのはブラックだぞ。それでもいいのか?」

 「全然OKだよ」

 「ホントか?炒ってる途中で 『やっぱり“コーヒーフラペチーノ”が良い』なんて言っても受け付けないからな」

 「もしかして私がブラックの飲めない“お子様”だと思ってる?」

 

 天使を彷彿とさせる声色をそのままに、千世子は棘のある口調で問い詰めるように憬に言葉をかける。

 

 「思っていたらどうするつもりだ?」

 

 “まぁ、実を言うとブラックを飲んだことは一回もないんだけどね・・・”

 

 「夕野さんが私のことをどう思っていようが構わないよ・・・法律上だと私はまだ未成年の“お子様”だから」

 

 千世子からの曖昧かつ複雑怪奇な答えに憬はバツの悪そうな顔をすると、

 

 「・・・別に俺はあんたのことをお子様だとは一言も言ってないし思ってもいない。ただ単に俺の身体が甘いものを受け付けないからそんなものを頼まれたところで出せないってだけの話だ」

 

 と長めの捨て台詞を吐いてそのまま自前の器具を取り出して黒山から絶賛されたブラックコーヒーを淹れ始める。

 

 「甘いものが食べられない人って本当にいるんだね」

 「あぁ、地球上を探せば幾らでもいるさ」

 

 “そりゃあ地球の規模で探せばいるに決まってるでしょ”

 

 「そっか。でもなんか可哀想」

 「・・・・・・」

 

 私の言葉が少々気に障ったのか、夕野さんは投げやりに答えたのを最後に私の言葉など全く聞こえないかの如く会話のキャッチボールを無視してブラックコーヒー作りに集中し始める。

 

 リビングはショールームのように清潔だけど、玄関周りや廊下は“並み程度”なところから特別に綺麗好きという訳ではなさそうだ。きっと気が向いた時や誰かが部屋に上がって来る時ぐらいしかちゃんと掃除をしない人なんだろう。私も掃除や片付けが得意な方じゃないからリビングに入った瞬間にそれは分かった。

 

 一方で清潔にされたインテリアは全体的に白と黒のモノトーンを基調にシンプルかつモダンな雰囲気で、全体的に無機質だがバランス良く洗練されている。私的にはあまり落ち着ける感じの部屋じゃないけれど、特に不快感はない。

 

 「ねぇ?」

 

 ただ一点だけ目につくところがあるとすれば、ソファーの上に飾られた一枚の絵画だ。

 

 「この絵はなに?」

 

 私の頭上で鎮座する、全てを跡形もなく飲み込むような恐怖に満ちた禍々しい炎で埋め尽くされた一枚の絵画。無機質なモノトーンで全体的に統一されているインテリアと相まって異彩を放っている。

 

 「3年くらい前に知り合いの小説家から貰った絵だ」

 

 私の言葉に、夕野さんは淡々とした口調で答えた。知り合いから貰ったという名前の知らない画家の描いた炎。

 

 「・・・この絵をわざわざリビングの一番目立つところに飾っているのは何か理由(わけ)はあるの?」

 

 単に置き場所が無かったから仕方なくここに飾った、という訳ではなさそうだ。

 

 「逆に聞くけど百城さんはこの絵を見てどう思った?」

 

 姿勢を正し目線をキッチンのほうに向けたまま、千世子は頭上の絵画がこの部屋に飾られている理由を憬に問うが、返って来たのは逆質問だった。

 

 「正直に答えて欲しい」

 

 “この絵はなぜ綺麗なのか・・・”

 

 千世子は頭をフルに回転させて考える。

 

 モノトーンの空間のど真ん中に鎮座するように、1つの禍々しい炎が何色とも似つかない残虐かつ危険な香りを充満させている。その炎は部屋中に今にも燃え移りそうで、想像するだけで得体の知れない恐怖感が襲い掛かってきそうだ。

 

 もしも炎がこの部屋全体を灼熱の海に染め上げた時には、自分たちを含めて洗練されたインテリアも聖域である書斎も跡形もなく塵になって消える。文字通りただただ炎に飲み込まれていくだけだ。

 

 

 

 “綺麗さっぱり・・・”

 

 

 

 「・・・この部屋一体に真上の炎が燃え広がったら、それはそれで“綺麗”かも」

 

 逆質問から約2秒、千世子は絵画の解釈に辿り着く。果たしてこれがこんなところに絵画が飾られている理由としてなのかという保証は本人にもない。

 

 「綺麗か・・・これじゃあせっかくの落ち着いたインテリアが台無しになるとは思わないのか?」

 

 千世子が導き出した1つの答えに、憬は尚も疑問をぶつける。

 

 台無し。確かにこれだと統一性のあるインテリアは一気に台無しになるのかもしれない。

 

 「でも意図的にここに飾ってあるってことは、夕野さんにとっては“これが綺麗”ってことでしょ?」

 

 インテリアにはその人に隠された人間性を垣間見させてくれる鏡のようなところがある。と、映画の宣伝を兼ねて出演したある番組で専門家の人が言っていた。

 その理論で行くと禍々しい炎の絵画をよりによって最も対照的な空間に堂々と飾る二面性が、“夕野憬”という人間を如実に表しているということになる。

 

 「・・・あぁ。俺にとってはな」

 

 だけどあの映画に映っていた夕野さんと、目の前のキッチンでコーヒーを淹れている夕野さんは 、“全くの別人”だ。

 

 “・・・夜凪さんみたいな人を想像していたんだけど・・・全然違ったな・・・”

 

 少なくとも、あの映画の夕野さんの横顔には裏表なんて一切なかった。常に自分がどう視られているのかを頭に入れながら “仮面”を被り“天使(主演)”を演じる私とは真逆の芝居をしているのに、夜凪さんとは違って実際に会って見たらカメラの中にいたはずの夕野さんの本性(姿)はまるで視えてこない。

 

 

 

 “・・・これぞ百聞は一見にしかずか・・・合ってるかわからないけど・・・”

 

 

 

 「・・・ふ~ん」

 

 憬に聞こえるか聞こえないかぐらいの声量で相槌を打つと、千世子はソファーから立ち上がりキッチンのカウンターへ向かい、カウンター越しに憬の淹れているブラックコーヒーを眺める。

 

 「夕野さんはハンドドリップでコーヒーを淹れるんですね」

 

 フィルターに挽いて粉状になったコーヒーを入れて蒸らしの工程に入った憬に、千世子が話しかける。

 

 「わざわざ手間のかかるやり方で淹れているのにはこだわりがあるの?」

 「特に拘りはないよ。ただインスタントに満足できなくなったってだけで」

 「インスタントじゃ嫌だって言ってる時点で十分こだわってると私は思うけど?」

 「こんなのは拘りのうちに入らない。俺からしてみればこの程度の工程は普段の自炊と何ら変わらん。料理っていうのは自分の手を使って作るからこそよりおいしくなるからな」

 「おぉ~名言頂きました」

 「あまり大人を揶揄うな」

 

 カウンターに両手を置いて寄りかかるような姿勢で話しかけてくる千世子の相手をしながらも、憬は慣れた手つきで小さな「の」の字を描くようにポットでお湯を注ぎコーヒーを抽出する。

 

 「ところで百城さんは普段料理するのか?」

 「う~ん、することもあるにはあるけど包丁とか怪我するようなモノはなるべく使わないようにしてるよ」

 「刃物が怖いのか?」

 「いや、そういうの自体は全然大丈夫だしどうしても使わないとって時は普通に使ってるよ。でも万が一それで指を切ったりなんかしたらスポンサーにも迷惑がかかるから、余計に気は遣うことになるけど」

 「指先の一本ぐらい最悪このご時世なら編集でどうにかなるだろ?20年前じゃあるまいし」

 「私は常に“百城千世子”でなくちゃいけないから、かすり傷すらも負うことは許されないんだよ」

 

 直接的な言葉にはしなかったが、“百城千世子でなければならない”と畳み掛けるように言う彼女に、並々ならぬ“美学と覚悟”を見た。

 

 考えても見れば、百城は今や事務所(スターズ)になくてはならない広告塔だ。街を歩けば必ずと言っていいほど彼女の顔が入った広告が目に留まり、テレビをつければ1日1回以上は必ず彼女の出演しているCMが流れている。

 

 言い換えればそれだけ女優・百城千世子の価値はスポンサーにとっては魅力的で、それに比例して影響力も膨大なのだろう。

 

 「・・・そうか。人気女優は大変だな」

 

 故に少しの怪我が何千万、不祥事やらの大騒動を巻き起こした暁には低く見積もったとしても数億円レベルの損害がついて回るというリスクを背負うことになる。

 

 「うん、人気者は大変だよ。どこに行ってもスポンサーがついて回ってくるし、分刻みのスケジュールなんてザラにあるし、忙しすぎて偶には1日中家でゴロゴロしたり、友達と時間を忘れるくらいまで遊びたいなってふと思いながら眠りにつくこともあるし」

 

 そんなリスクを17歳という若さで背負い続けている彼女は、やや自嘲気味に笑いながらもどこか余裕そうな口ぶりで答える。

 

 「夕野さんも俳優だった頃はそうだったでしょ?」

 

 そんな俺にも、かつては今の百城千世子と同じように分刻みでスケジュールをこなしていた時期が確かにあった。

 

 「・・・一番忙しいかった時はそうだったかもしれないな。でも、今のあんたと同じように“余裕”だったよ」

 

 故に身体に降りかかるストレスは凄まじいものだったが、芝居がそれらを全て忘れさせてくれたおかげで精神力だけは普通に保てるぐらいの余裕があった。職種に限らず、人はある一定の限界値を超えて忙しくなると疲れという感覚を通り越し、不思議なことに精神()は普段以上に元気になるものだ。

 

 そして人は極限の状態になればなるほど、驚異的なパフォーマンスを発揮出来るようになる。特にアスリートや芸術家(アーティスト)として生計を立てる人間はその最たるものなのかもしれないと、今になってみれば思う。

 

 

 

 “無論それは、身体と心が限界を“超え過ぎなければ”の話であるが”

 

 

 

 カウンター越しに会話をしているうちにコーヒーを淹れ終わり、憬はドリッパーを外してサーバーに氷を入れてかき混ぜながらコーヒーを冷やし、それをグラスに注ぐ。

 

 「少しばかり待たせたか?」

 「ううん」

 

 ガラス製のセンターテーブルにブラックのアイスコーヒーを入れたグラスを置き、2人はテーブル挟んで互いのソファーに座る。

 

 「俺は何も混ぜないで飲んでいるけど百城さんはどうする?ミルクなら用意できるけど?」

 「私もこのままで大丈夫だよ」

 

 こうして少しばかりの手間をかけて淹れられたブラックコーヒーは、確かにパッと見ただけで普通のインスタントコーヒーとは色合いが明らかに違い、味の質も1ランク上だというのが分かる。

 

 「そうか。万一口に合わなかったらミルクを足してもいいぞ」

 

 砂糖もなければミルクもない、正真正銘のブラックコーヒー。見るからに“お子様”はお断りの渋く上品な香りが鼻にかかる。

 

 「いや、このままありがたくいただきます」

 

 断りを入れて生まれて初めてのブラックコーヒーを口へと運ぶ。明らかに口当たりの強そうな見た目に反してソフトな苦味が口の中に広がり、それに続いてコーヒー本来の深みとも言える独特で強烈な苦味が混ざり合い、双方が絶妙なバランスとなって身体の中へと流れ込んでいく。

 

 “やっぱり私は、フラペチーノの方が好きかな”

 「うん。ちょっと苦いけど美味しい」

 

 氷で冷やしていたことによって若干癖が抜けていたこともあったのか、初めてのブラックコーヒーは“想像していたよりは”すんなりと口の中に溶け込んだ。きっと好きな人にはとことんハマるような味なのだろう。

 

 今の私にはイマイチしっくりこないけど。

 

 「・・・美味しいか。こういうことを言うのは悪いけど俺にはあまりそう見えないが・・・美味しく感じられているならそれでいいよ」

 

 そんな私の思考を感じ取ったかは分からないが、どういう訳か夕野さんは美味しいと答えた私を疑っているように言葉を紡いでくる。

 

 「そんなに私が不味そうに飲んでいるように見える?」

 

 そう言い終えて私は夕野さんのコーヒーを再び口へと運ぶ。もちろん全然飲める範囲だけれど、これが美味しいのかと聞かれたら答えには困るぐらいには苦くて、はっきり言って私の口には合っていない。

 

 でもその感情に“仮面”を被せて、私は夕野さんに目を向ける。

 

 「・・・飲めないことはないけれど口には合わないって顔をしているな」

 「えっ?何でそう思うの?」

 

 だが夕野さんは私の仮面を数秒と足らずに暴いてしまった。もちろん相手はかつて実力派として一世を風靡した役者であることは想定済みで、私を本気で探ろうとしている相手に応えるように平然を装いながら私は“天使”を演じ続ける。

 

 「“”を見れば分かる・・・どんなに表情筋で感情を作り上げても、眼だけは嘘をつけないからな・・・」

 

 その瞬間、コーヒーを口に流し込みながら私の眼を真っ直ぐ見据えるハイライトの入った紅の瞳が、別の人格に入れ替わるかのように一瞬だけ揺れ動いた。

 

 「・・・笑うべきときに笑い、涙を流すべきときに涙を流す。それを即座に具現化させて巧く立ち回る・・・中にはそんな芝居を役の感情を一切掘り下げない上っ面の芝居だと言う連中も一定数はいるが、それを高次元で実現させる百城さんの技術(テクニック)は役者として尊敬に値するよ。それに役の感情を掘り下げる反面、当事者の精神(メンタル)に直結するリスクを併せ持つメソッド演技よりも汎用性は高く、演出側からしてみれば最低限の指示だけでそれなりのものが再現できるわけだから需要も高いだろうし、そういう器用な賢さも役者にとっては重要な武器だ・・・けれど俺にはあんたの姿があまりに綺麗すぎて、近くにいても何も視えなかった・・・」

 

 さっきまでのどこか無愛想な感じは何処へやら、相槌を打つ暇すらないほど夕野さんの口は饒舌になる。

 

 それと同時に、ここまで全く視えてこなかった夕野さんの人物像が少しずつ見えてきた。

 

 「これでようやく分かったよ・・・・・・なぜ百城千世子の姿が“全く視えなかった”のか・・・」

 

 “何であんたは外に出ても、そうやってずっと“天使”を演じ続けている?”

 

 「・・・それはどういうことかしら?夕野さん?」

 

 分かっている。私は女優時代のアリサさんや小説家になる前の夕野さんのような“ホンモノ”じゃないということ。私と入れ替わるように事務所(スターズ)から去った“あの人”を目指すように育てられた、模造品(レプリカント)であること。

 

 「あんたの眼だよ。どんなに計算して表情を作ったところで所詮は計算に過ぎず、そこに“本当の感情”は存在しない。だからカメラが回って涙を流そうが真実しか表現できないその眼に映されているのは“空虚な感情”・・・どおりで姿が“視えなかった”わけだ。そもそも本来人間が持ち合わせているはずの感情がそこに存在しない以上、どんなに探っても “本当の顔”は永遠に分からないままだからな・・・スクリーンに映るあんたのように」

 

 分かっている。今の私に残されている天使(女優)としての寿命が、永遠ではないということ。

 

「そんな素顔を排して己の感情を捨てた“偽りの芝居”を極め続けた果てが、 “スターズの天使”として大衆から愛され続けている今の百城千世子(あんた)ってところか・・・」

 

 そして気付いてしまった。どんなに足掻いても私は“彼ら”のような役者(ホンモノ)にはなれないということ。

 

 「・・・いやすまん・・・あんたの努力を“偽りの芝居”で片づけるのはさすがに言い過ぎたな」

 

 

 

 全てはスクリーンの向こうの憧れだった人が“『役者に向いてる』”と言ってくれたあの日から始まった。

 

 寝ることも忘れるほど没頭して作り上げ続けたこの仮面の強度が上がれば上がる程、結果は数字として表れ、他人の目に怯え生きづらさを感じていた世界の景色がガラリと変わっていった。

 

 私のような人より少し器用なだけの普通の女の子でも、努力を続ければ主演になれるということを思い知り、それを結果で証明し続けた。

 

 

 

 “女優は天職だと思った

 

 

 

 「ううん。夕野さんの言っていることは正しいよ。少なくともあなたの中にある役者像が“ホンモノ”の芝居をする人たちだとしたら、私のお芝居は紛れもなく“ニセモノ”だからね」

 

 

 

 “・・・ありがとう・・・”

 

 そうして出来上がった仮面ごと私のことを好きになってくれた“友人”を通して初めて見た、モニター越しに映る仮面を外した自分の横顔。今までカメラに映っていた“百城千世子”とは到底思えない、ぐしゃぐしゃで不細工な素顔。

 

 でも案外、仮面が剥がれ落ちた私の横顔も綺麗だった。

 

 「だけどさ、“ホンモノ”のほうが“ニセモノ”より優れていると誰が決めつけられるの?」

 

 

 

 “『私はもっともっとずっと!お芝居を続ける!!』”

 

 

 

 「・・・そうだな・・・百城さんの言う通りだ。そんなものは誰も決めることが出来ないし、決められる権利もない・・・だから天使としての地位と名誉を手に入れてもなお、あんたは化け続ける選択肢を選んだ・・・・・・本当の百城千世子(あんた)は “天使”なんかじゃなくて1人の “女優”だからな・・・」

 

 

 

 “私の芝居はもっと上手くなる・・・夜凪さんの芝居を盗んだから”

 

 

 

 「それじゃあ・・・・・・あなたはどのように私を化けさせてくれるの?

 

 

 

 千世子はゆっくりと仮面を外すように、天使のベールに包まれていた素顔を曝け出した。

 




どれだけたくさんの過ちと後悔を、この先僕は繰り返していくのだろう・・・・・・

どうも、戦争とウイルスとヒステリックにキレる人が嫌いなダメ人間です。

このところは大人数がいるという空気感をどうやって文字だけで表現すればいいのか悩みに悩みまくってます。

ということで、今日はこれ以上書くことが思いつかないのでこれで失礼します。
















あの稲葉さんが声優デビューってマ?
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