或る小説家の物語   作:ナカイユウ

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ハッピーバースデー、景ちゃん。


scene.39 兄弟

 「・・・ってところかな。役者になる前の思い出は」

 

 自分の過去を平然とした口調で一通り話し終えた渡戸は、その場で深呼吸をするように地面に目を向け一息を入れると、いきなり憬の方に顔を向けて唐突に問いかける。

 

 「俺の過去を一通り聞いて、憬はどう思った?」

 「・・・いや、どうって・・・」

 

 渡戸からの質問に、憬は斜め上を見上げながら思い悩む。

 

 「・・・剣さんは本当に強い人だな、って思いました」

 

 考えに考え、自分の見解を答える。両親からの虐待、転校先での差別、そして父親との決着を経て手に入れた自由。

 

 「あぁそう」

 

 もちろんここに至るまでは俺たちを見守るように数歩下がったところに立っている村澤(あの人)のおかげでもあるが、何よりこれだけのドラマよりドラマなほど壮絶な経験をしながら腐らずにここまで立ち直れた渡戸の精神力(メンタル)は、尋常なものではない。

 

 「・・・多分違いますね・・・」

 

 だが俺の答えは、自分でもビックリするぐらい“手応え”がなかった。目の前で黄昏ながら突っ立ったまま雑草を見つめる渡戸の素っ気ない反応が全てを物語っていた。

 

 「・・・もっとシンプルに考えてみろよ」

 

 こんな感じに無駄に考え込み過ぎて悪循環に陥り始めた憬に、渡戸は敢えて目を合わせずに明後日の方角に目を向けながら助言を送る。

 

 「そもそも俺たちは何しにここに来た?

 

 渡戸からの助言で、憬は過去から一旦離れて考えを原点に戻す。

 

 

 

 “互いのことを知りながら役と自分との共通点を見つけるんだよ

 

 

 

 渡戸の過去があまりに壮絶で忘れがちになりそうだが、俺たちは互いに役に近づくために互いの思い出の場所を巡っている。だとしたら考えるべきなのは、渡戸とショウタの共通点。

 

 “『何があっても俺たちは家族だ。そうだろ?』”

 

 渡戸の生い立ちは複雑な環境で育ったことこそ共通しているが、勉強が出来て友達も普通にいて物語の後半で恵里すらも知らされていなかったユウトと毅の秘密が明かされて宮入家に亀裂が入っても、“『何があっても俺たちは家族だ』”と家族を想い鼓舞していくショウタと、一見すると対照的だ。

 

 “ショウタはどちらかというと、剣さんというよりお兄さんに近い”

 

 勉強もスポーツも万能で周りをまとめ上げるリーダー的存在な兄と、その兄の背中を追いかけ失敗と後悔を繰り返しながらも1人の人間として成長する不器用な弟。渡戸の生い立ちやこれまでの様子を見るに、彼はショウタというよりどちらかというとユウトに近いタイプだ。

 

 “剣さんが殴ったことを後悔したり、壮絶な過去を乗り越えられたのは、お兄さんと同じように “自分のために生きたい気持ち(感情)が心の中にあったから”

 

 でもそれはあくまで器用不器用な話であって、根本にあるものは同じ優しさだった。兄と同じように、自分の人生を他人への憎しみのために使いたくないという共通意識があったからこそ、弟は“過ち”を二度起こしながらもそこで自暴自棄にならずに踏み止まった。

 

 そして弟は兄と同じく自分の為に生きることを決めて、兄と同じく“優しく強い”1人の男になった。

 

 

 

 「お兄さんがどんな人かは俺には分からないけど・・・剣さんの話を聞いて、今の剣さんはお兄さんと同じ “優しく強い人”だって俺は思いました」

 「・・・俺が兄ちゃんのように“優しく強い”?・・・例えば?」

 

 自分なりにシンプルにまとめた答えを、渡戸は更に掘り下げる。

 

 「例えば・・・」

 

 再び思考を巡らせると、唐突にさっきのひったくりの少年が頭に浮かんだ。自分をイジメる奴を見返すために“デカいこと”をやろうとして渡戸に捕まった、あの少年。

 

 「・・・映画を観終えた時にひったくりを捕まえた時・・・とか」

 「うん。それで?」

 「剣さんが必死で追いかけて捕まえた後、そのひったくりを説得したじゃないですか?」

 「あぁ、したな」

 

 ひったくりの少年を捕まえた後、渡戸は彼を警察に通報するどころか説得した末に見逃した。ここに来るまではどうして渡戸は彼を逃がしたのか俺は分からなかった。

 

 「あの時に剣さんが敢えて見逃したのは、きっとお兄さんと同じ“経験”をずっと重ねてきたからだと思います」

 

 “自分のしたことを後悔できるってことはそれだけ自分とちゃんと向き合えてるっていう証明だよ

 

 “お前はお前を虐める連中よりずっと強い

 

 「そうじゃないと、剣さんの言葉にあのひったくりは耳を傾けなかった」

 

 ここに来て、渡戸の抱えている過去を通じて、その真意が分かり始めた。

 

 

 

 “暴力とか人を陥れるようなことに手を出す人間には、必ずそこに至るまでの“きっかけ”があるんだよ

 

 

 

 どんな凶悪な犯罪者だろうと生まれてきた時はみんながみんな純粋無垢な子どもだったように、生まれついた悪人なんてこの世界にはいない。あの少年だってひったくりになりたくてなったわけじゃない。

 

 大切なことは、後戻りが出来なくなる前に周りの誰かが手を差し伸べるということ。兄弟(ふたり)は同じ“苦しみ”を共有して他人(ひと)の“痛み”というものを知り、互いを支え続けた。

 

 「だから、剣さんはお兄さんと同じ “優しく強い人”です」

 

 

 

 だから、兄弟はこうして“1つ”になれた。

 

 

 

 「・・・俺さ、自分の役が決まった時からずっとショウタの考えていることが分からなくて悩んでいたんだ・・・・・・俺はショウタ(兄ちゃん)とは真逆の人間だし・・・他人の感情に入り込む才能もないから、ずっと掴めないままだった・・・でもこうやって他人に自分の過去を話して、“弟”から自分がどう視られているかを言われて、少しだけ近づくことができた・・・・・・感謝するよ。憬」

 

  “優しく強い”に対する答えに渡戸は耽るように言葉を紡ぎ、自分でも分からずにいた答えを教えてくれた俺に向けて満足そうな笑みを浮かべて感謝を伝えた。

 

 “・・・兄ちゃん・・・”

 

 その今までで一番柔らかく優しさに満ちた渡戸の表情(笑み)を視た瞬間、台本の中にいる“ショウタ”の姿が頭の中でリンクした。

 

 「・・・あの・・・」

 

 “・・・じゃあ俺は?ユウトに近づけたのか・・・?”

 

 「・・・実は俺・・・父親の記憶がないんですよ・・・」

 「・・・・・・その話、聞かせてくれないか?」

 

 俺とユウトの共通点。それは互いに親の記憶がないということ。物語の展開上、ユウトは母親から首を絞められたことを思い出す。だがそんな記憶すら俺には残っておらず、父親と過ごしていた記憶はモザイクがかかっているように曖昧で、時間が経つにつれて思い出せなくなってきている。

 

 ドラマの撮影の時は、()るべき感情の“お手本”が目の前にいたから主人公の感情を通じて美沙子を失った時の直樹の感情を理解することができたが、今回は訳が違う。

 

 似たようなシーンを演じる役者の感情を盗んでも何も思い浮かばない。手本もなければ経験のしようもない完全なる未体験かつ理解不能な状況。

 

 「考えれば考えるほどユウトと俺の共通点が少ないことに気が付いたんです」

 

 似たような経験をしていながらも、全く異なる生い立ちを歩んできた。ある時、俺は母親に“父親がいない理由”を母親に聞いたことがあった。それも一度ではなく何度かだ。

 

 

 

 “父親は最初からいない

 

 

 

 帰って来た答えはいつもそれだった。そして家族が母親しかいない状況に不幸を感じていなかった俺は、当たり前のこととしてそれを受け入れてしまった。

 

 「だから、ユウトのように離れ離れになった親のことを思い出す“トリガー”が、俺には残さていないんです」

 

 だから俺には、首を絞められた先のユウトの感情()が分からない。だったらどうする?

 

 

 

 “いっそユウトと同じように誰かから首を絞められたら思い出せるんかな

 

 

 

 

 「・・・いっそユウトと同じように誰かから首を絞められたら思い出せるんかな・・・・・・いや、何でもないです」

 

 心から漏れ出した独り言を、俺はすぐになかったことにする。当たり前だ。そんなことで感情を思い出せたら俺たちはこんなに

 

 「じゃあやってみるか?

 「・・・・・・えっ?」

 

 突如として放たれた渡戸からの言葉に、俺は完全に頭が真っ白になった。

 

 「悪く思わないでくれ」

 

 そんな言葉が目の前から聞こえた時には、渡戸の両手が俺の首元に強く当たっていた。

 

 「!!?」

 

 首元に渡戸の両手がかかったことを認識すると同時に、凄まじい重力が喉元にかかり息を吐くことすら出来なくなる。

 

 “ヤバイ”

 

 これが“死への恐怖”なのか分からないが、一瞬で本能的に“ヤバイ”と判断した俺の身体は自分でも驚くほどの力で渡戸の両手を振り払おうとするが、首元を締め付ける両手は岩のように動かない。

 

 “俺・・・死ぬのか・・・?”

 

 「・・・・・・ッエホッ!ゴホッ!」

 

 そう思い込んだ次の瞬間、岩のように重い重力に押し付けられていた喉元は解放され、俺は溜まっていた空気を一気に吐き出すがその量が多すぎて思わずむせ返る。

 

 「どうだ?何か思い出せたか?」

 

 そんな“死にかけ”の俺に、渡戸は能天気な言葉を投げかける。

 

 「・・・思い出すどころか危うく死ぬとこでしたよ・・・」

 

 当たり前だが、こんなことで父親の記憶が蘇ることはなかった。

 

 「だろうな。こんなことで思い出せたら俺たち役者はこんなに苦労しないだろうよ」

 「っていうかひどくないすか・・・いくら役作りっつっても少しは手加減とかしないんすか・・・・・・マジで殺されるかと思ったわ」

 「あぁ、それは本当に悪かった」

 

 役作りとはいえ人の首を絞めてもどこ吹く風な様子の渡戸に、思わず言葉遣いが荒くなる。1つだけ言えるのは、渡戸は本気で俺の首を絞めてきたことだ。

 

 「・・・言っとくけど本当に死を覚悟しましたからね、俺」

 

 動悸で跳ね上がる心拍数を何とか呼吸で抑えながら、俺は言葉を返す。

 

 時間にして2秒ほどだったが、その2秒間が恐ろしいくらいに長く感じ、あの瞬間だけ俺は本気で“自分の死”を錯覚した。

 

 「本気で首を絞められたくらいじゃ他人の記憶なんて思い出すことは出来ない・・・でも、これで首を絞められた時の“トラウマ”は憬の心の中に植え付けられたはずだよ」

 「・・・トラウマ・・・」

 

 そしてあの瞬間は、直後に発した渡戸の言葉通り俺の中に“トラウマ”として植え付けられた。

 

 「ユウトがリョウコのことを思い出したトリガーは、首を絞められたトラウマだからな」

 

 ユウトが何故クラスメイトに首を思い切り絞められた瞬間にフラッシュバックを起こしたのか、それはリョウコに首を絞められたという記憶がトラウマとして潜在意識に残り続けていたからだった。一旦は防衛本能によりその記憶は奥深くに封印されていたが、類似した状況に出くわした時にその封印が解かれて、ユウトは再びあの日の記憶を思い出した。

 

 「憬・・・お前は他人()と全く同じ“経験”をしなければ(他人)の感情が分からないと思っているだろうけど・・・そんなものは今のように“体験”して“感覚を掴め”さえすれば大丈夫だ」

 

 他人から本気で首を絞められたことで“トラウマ”を手に入れた俺を渡戸は鼓舞してみせるが、依然として疑念は消えない。例えばそう、昨日飲んだ缶コーヒーだ。

 

 「でもそれだと、昨日のコーヒーと同じようにまだ」

 「そこから先は演出家がどうにでもしてくれるさ」

 

 “ユウトが飲んだ”コーヒーの味がまだ掴めない俺の主張を、渡戸は遮りなおも話を続ける。

 

 「もし役作りだけで他人の全てが喰えるとしたら、演出家なんていなくても作品が作れちまうからな」

 

 “「・・・私ってさ、人を愛せないんだよね・・・」”

 

 『1999』の時には決して上手いとは思えなかった蓮の芝居は、『HOME』を通じて見違えるほど上手くなった。

 

 “「あぁ・・・結局ここまで来るのに10年もかかっちまった」”

 

 演出家要らずの実力を持つ早乙女(カリスマ)も、月島と会うまでは“顔だけが取り柄”だと叩かれていた過去があった。

 

 「・・・でも俺たち役者はそんなに器用で賢い生き物じゃない。他人の感情を喰ったとしてもそれを感情として化けさせるには自分1人の力じゃ絶対に無理だ。そんな不器用な役者(俺たち)1人の(たにん)に導くのが、演出家(カントク)だ」

 

 

 

 “「美沙子っ!!!」”

 

 そして俺も、果たして2人のように化けることが出来たのかは分からないが、月島(演出家)が正しい方角へと導いてくれたおかげで、俺は最後まで直樹を演じ切ることができた。

 

 

 

 「難しく考えんなよ。出来もしないことを無理に間に合わせようとすんなよ。そんなもの、撮影を通じてドクさんたちと一緒に作っていけばいい話だ。せっかく “自由”を手に入れたんなら、もっとシンプルになって“今”を楽しもうぜ

 

 悩める後輩を鼓舞し終えた渡戸は、被っていたキャップを憬の頭に被せ、キャップ越しに頭を一回ポンと叩く。

 

 “台本と睨めっこをする前に、先ずは周りの人間を視ろ

 

 渡戸からの助言で、本読みで國近の言っていた言葉に隠された“もう一つの意味”が分かった。

 

 台本というのは自分自身のことで、自分で自分の足りないところを見つめ返すよりも、とにかく周りを見渡して役者以前に1人の人間としての見地を増やせということ。

 

 感情を理解するという技術的な部分は当然のことだが、複数人が1つのスクリーンに集結する作品は周りと協力し合いながら作って行かなければならない。演じているのは自分1人じゃない。役者(ひと)の数だけ()り方があって、その一つ一つが“これから”に繋がるヒントになる。故にこの世界には正解や取扱説明書は存在しない。

 

 だからこそ・・・

 

 

 

 “『役者になったからには、とことん自由にいこうじゃないか』”

 

 

 

 「そうですね・・・役者になったからには、とことん自由に()って行かないとですね」

 「・・・あぁ。それが俺たち役者の特権だからな・・・一緒にドクさん(カントク)を驚かせてやろう」

 

 キャップの下で覚悟を決めた表情を浮かべた憬に、渡戸が右手を差し出す。

 

 「もちろん芝居で」

 

 言葉を一言だけ付け足し、憬も同じように右手を渡戸に差し出して、2人は握手を交わす。

 

 

 

 「もう大丈夫かい?」

 

 役作りをしている2人を少し離れて見守っていた村澤が歩み寄り、声をかける。

 

 「はい。取りあえず今日やれることはこれで全部やりました」

 

 声をかけてきた村澤に、渡戸は憬の頭に被せたキャップを取り自分の頭に再び被せながら答える。

 

 そんな村澤を見て、憬はあることを思い出した。

 

 「・・・そう言えば村澤さんはなんで剣さんが俺の首を掴んだ時に俺たちを止めなかったんですか?」

 

 憬の言葉通り、村澤は渡戸が本気で首を絞めた時も更地の境界線でずっと見守っていた。

 

 「昨日の夜に剣くんから今日のことは全部聞いていてね、夕野君が役作りで悩んでいることやここに来て夕野君の首を絞めることも既に知ってます」

 「・・・よくOKを出してくれましたね。マジで俺が殺されたらどうする気だったんですか?」

 

 だがそれは、事前に昨日の夜に村澤の携帯電話にかかってきた渡戸からの電話で事情の全てを把握していた。

 

 「ただ流石に最初は耳を疑いましたよ。あくまで今回は“役作り”の一環だという“てい”で引き受けただけだからそこはよろしくお願いしますね、剣くん?」

 「もちろんです。こういうことは本当の最終手段なんで」

 

 とはいうものの、渡戸の“首絞め予告”は役作りで本気ではやらないことをこと細かく本人から聞き出した上で、村澤は了承している。

 

 「ただ・・・私は俳優さんが“1番自由な生き方を選んだ人たち”であること以外は全然分かりませんが、今のお2人を見ていると、本当に生き生きと俳優を楽しんでいるというのがこっちにも伝わってきます」

 

 そんな役作りの協力者でもある村澤の言葉に、“兄弟”は2人揃って何とも言えない表情で互いに明後日の方角を向く。

 

 

 

 “まるで2人とも本当の兄弟みたいだ

 

 

 

 「2人とも俳優はやっていて楽しいですか?」

 

 心の中で独り言を呟いた村澤が、2人に素朴かつ核心をつく質問を投げかける。

 

 

 

 「楽しいです」「楽しいです

 

 数秒の沈黙を経て、隣同士で立つ2人が全く同じ答えを全く同じタイミングで村澤に答えた。

 

 「あっ・・・」

 「・・・・・・」

 「ははっ、それはまたなによりですね」

 

 そして互いに言葉がハモり恥ずかしそうに全く同じタイミングでそれぞれ反対側に目線を反らす2人に、村澤が微笑ましく声をかける。

 

 「・・・私から見たら兄弟にしか見えないですよ。君たち

 「いや、今のはちょうどタイミングが重なっただけなんで。なぁ憬?」

 「えっ・・・あぁそうです、学校とかでたまにある“アレ”が起きただけですよね剣さん?」

 「アレって何?」

 「いやだから、アレはアレっすよ」

 

 村澤から言われた最上級の“誉め言葉”に、憬と渡戸は最大級の照れ隠しで心の声を誤魔化した。

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

 「改めて聞くけど俳優の仕事は順調かい?」

 

 思い出の場所である実家の跡地を訪れた後、渡戸は先に憬を帰して村澤と2人で施設内の一室でテーブルを隔てて話をしていた。

 

 渡戸は舞台役者として都内に引っ越し芝居漬けの日々を送るようになってからも、年に1度は必ず施設を訪れ、こうして村澤と1対1で近況報告や他愛もない話をかつて父親との最後の再会を果たした“この部屋”でしている。

 

 「それはもう、“さっきの通り”ですよ」

 「さっきの通りってどういうことだい?」

 「そのままの意味です」

 

 村澤の問いかけに渡戸が抽象的な表現で答えると、その意味を瞬時に理解した村澤は微笑ましい表情で笑いながらそれに答える。

 

 一時ではあるが、一切の愛情を注がなかった肉親の代わりに個別対応職員として親同然に面倒を見ていた村澤にとって、渡戸の心情を読み取るのは容易いことだ。

 

 「・・・でも剣くんがまさかあんな大胆なことをするとは私も思わなかったよ」

 「あはは・・・そのことに関しては心配をかけました」

 「ほんとに電話で“夕野くんの首を絞める”と剣くんが言った時は一瞬本気で焦りましたから」

 「そう言いながら本当は最初から分かっていたんじゃないですか?」

 

 もちろん今回の役作りで事前に施設を訪れ自分の所へ挨拶に来ていた渡戸の言葉が本気ではないことを一瞬で察した村澤は、敢えて渡戸に再度忠告を送る。

 

 「それはそうだけど・・・さっきも言ったけどこういうことはあんまりやらないように頼むね?」

 「当然ですよ。俺は巌先生(あの人)とは違うので」

 

 その忠告に、渡戸は“冗談”を交えて答え、

 

 「・・・そうだね。剣くんは剣くんですからね」

 

 その答えの意味を分かっている上で、村澤が渡戸に“自分らしく頑張れ”の意味を込めた言葉を送る。

 

 

 

 

 

 

 渡戸家の“呪縛”から解放されたあの快晴の日から1週間後、俺は村澤さんと共に、村澤さんの知り合いが音響として携わっている舞台を観るために下北沢の劇場を訪れていた。

 

 村澤さん曰く、ここで“お芝居”をしている人たちは地球上で一番“自由”な生き方を選んだ人たちだということだった。

 

 「お前・・・・・・やけに“臭う”な・・・

 

 そんな人生初めての劇場の中、公演開始の5分前に用を済ませ再び自分の客席に戻ろうとトイレを出たところで、黒いハットを被った無精ひげの中年男がすれ違いざまに俺に向けてそう言った。

 

 「・・・えっ?・・・俺ってそんなに臭ってます?」

 

 その男の言葉の意味が分からず俺は咄嗟に自分の両腕の臭いを嗅いでみるが、そんな様子の俺に男は、

 

 「俺が言っているのは“感情”の話だ」

 

 と少しだけ呆れ気味に話した。

 

 「感情・・・・・・ですか?」

 「あぁそうだ。感情っていうものは臭うもんだからよ。子を抱く母親からは花のような匂いがするように、今にも死のうとしている奴からは腐った臭いがするもんさ」

 

 目の前にいる男の言っている感情の意図が今一つ理解出来ない俺に、男は“感情”とは何かをぶつけて来た。もちろんこの時の俺は演劇の“え”の字も知らないばかりか、舞台すら何なのか全く分かっていなかった。

 

 「・・・じゃあ俺の(にお)は?」

 

 何が何なのかよく分からないまま自分の“感情(臭い)”を聞いた俺に、男はこう答えた。

 

 「その答えを知りたければワークショップに来い。チラシはパンフレットの中に挟んである」

 

 そう言うと男は止めていた足を再び動かし、シアターとは真逆の方向へ歩き出した。

 

 「・・・あの・・・!」

 

 今まで感じたことのなかった説明のつかない只ならぬ雰囲気に、気が付くと俺はその男を呼び止めていた。

 

 「・・・・・・名前は?」

 

 「・・・俺はついこのあいだ家族に逃げられたばかりのしがない“ろくでなし”だ・・・・・・お前の中に“自由”になる覚悟があるなら・・・いつでも相手してやる

 

 名前を聞くと男は振り向くことなくそれだけ告げて、そのまま劇場を後にした。

 

 

 

 これが、巌先生との出会いだった。

 

 

 

 

 

 

 「しかし運命は分からないものですね。まさかあの日に舞台を観に行ったことがきっかけで剣くんがこうして俳優になるとは・・・」

 

 2人は気が付くと運命を大きく変えることになった一日の話に花を咲かせていた。

 

 「はい。もしあの日にあの場所で演劇を観ていなかったら・・・俺はここまで“自由”になれていなかったと思います」

 

 あの日から3日後、履歴書も参加費も不要のワークショップに向かった渡戸はその場でオーディションに参加させられ、いきなりW主演のうちの1人に抜擢されることになるのだが、そのことに誰よりも驚いていたのは無論、本人だったことは言うまでもない。

 

 「“巌先生”に感謝ですね」

 

 あれから5年の月日が経ち、自らの足で自由を手に入れた15歳の少年は更なる自由を求め“イマ”という時間をあるがままに生きる役者(おとな)になった。巌裕次郎という演出家に出会ったおかげで、自分を犠牲にするように生きてきた1人の男は“自由に生きる”素晴らしさを知った。

 

 「そうですね・・・確かに巌先生(あの人)がいたからこそ、今の俺はいます。でも・・・あの日の俺が自分の足でワークショップに行けるようになれたのは、この俺に“きっかけ”を与えてくれた村澤さんのおかげです」

 

 だがそこに至るまでの運命の歯車に乗ることが出来たのは、紛れもなく村澤の存在無くしてあり得ないことだった。

 

 「・・・村澤さんがいなければ俺はここまで“自由”になれませんでした・・・・・・・本当にありがとうございました・・・

 

 渡戸は被っていたキャップを取って椅子から立ち上がり、村澤に今までの思いの籠った感謝を述べて深く一礼する。

 

 「・・・私は何もしていないですよ・・・剣くんは自分の力で立ち上がり、自分の力でここまで歩いてきた・・・それが全てです・・・・・・私はただ・・・そんな剣くんのことを見守っていただけですから

 

 

 

 一人前の役者(おとな)として強くなったかつての“子ども”からの感謝に、村澤はあの時と同じ優しさで答えた。




前書きで誕生日を祝っておきながら、祝われた張本人の出番は一行もないという・・・・・・はい。
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