或る小説家の物語   作:ナカイユウ

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scene.60 親子①

 1999年11月19日_午後8時30分_三宿_

 

 「よお、お疲れさんクミちゃん」

 「悪いわね紅林さん。撮影を終えてお疲れのときに呼び出す形になってしまって」

 「ええよ別に、そんなんクミちゃんも同じことやし。それにどのみち明日は撮休でワイら“親組”は何もないからな。“お悩み相談”なら24時間いつでもワイに聞いてくれてええで?」

 「誰も“お悩み相談”だとは一言も言ってないでしょ」

 

 11月19日、夜。それぞれ『ロストチャイルド』とは別件の仕事を終えた紅林と杜谷の2人は、互いにとって近所となる三宿にあるバーにやって来ていた。

 

 「だってクミちゃんは普段は男とこんなサシで飲むような真似をするような子やないから珍しいなって、つい思うてさ」

 「確かに自分からはあまりないかもしれないわね」

 

 舞台や映画で何度か共演した経験があり、年齢も近く舞台出身でそれぞれ同じ年にそれぞれがかつて所属していた劇団で舞台役者として役者の道に進んだ芸歴20年の“気の合う友人”同士は各々で自分のカクテルと軽食を頼み、“近すぎない”距離感を保ったまま他愛もない話で先ずはそれなりに盛り上がる。

 

 「大丈夫かクミちゃん?声の仕事のほうも変わらずまだやってるっちゅうのに強い酒なんか飲んで?せっかくの美声やのに」

 「酒なしじゃやってけるわけないでしょ、役者なんて」

 「まぁせやけど」

 「大丈夫よ。自分で限度は分かってるから」

 「クミちゃんは見かけによらず酒豪やからな」

 「紅林さんは酒を飲むと優しくなるわね」

 「・・・それひょっとしてワイのこと褒めとるのか?」

 「当たり前じゃない。私は人が嫌がるような言葉は絶対に言わないから」

 「ほんまか?そらうれしいなぁ」

 

 そしてお互いの身体に良い具合に酒が回り始めたところで、紅林が本題を切り出した。

 

 「・・・ほんで・・・どうしてもワイに話しておきたい“”っていうのは何や?」

 「えっ?・・・あぁ、そうだ」

 「クミちゃんいま完全に忘れとったやろ?」

 「ゴメンがっつり抜けていたわ言われるまで」

 「ワイまで忘れとったら危うく本末転倒やったぞ」

 

 友人からの言葉でこの店に呼び出した本来の理由を思い出した杜谷を、紅林が関西弁で優しく冷静にツッコむ。普段(シラフ)のときは持ち前の明るさと気さくな面倒見の良い性格で現場に流れる緊張感を良い意味で緩和する“二枚目半のオヤジ”としてやや大袈裟に振る舞っているが、酒が入るともう一つの一面でもある人思いで落ち着いた性格が表に出てくる。そういった彼の真の人間性こそ、紅林誠剛という男が同業者や演出家から好かれ慕われ続けている理由の1つだ。

 

 「まああれや・・・役者を20年もやっていれば酸いも甘いも色んなことが身に降りかかるもんやからな・・・困ったときはワイに全部聞いてくれ」

 「もう、大袈裟なんだから・・・」

 

 そんな紅林を微笑ましそうに一瞥した杜谷は、半分ほどグラスに残っているカクテルを一口だけ口の中で回して飲み込んだのを合図に、“本題”を話し始める。

 

 「・・・紅林さんはさ・・・夕野江利(せきのえり)っていう人は知ってるわよね?

 「・・・・・・あぁ・・・・・・“エリちゃん”か・・・

 

 杜谷の言った“夕野江利”という名前を聞いた紅林は、ふと天井を見上げながら昔を懐かしむかのように江利の名前を呟いた。

 

 「ほんまに久しぶりに聞ぃたわ・・・エリちゃんの名前・・・・・・何してんやろエリちゃん・・・

 

 

 

 江利の名前を聞ぃたのは、何年ぶりやろか・・・ある日突然、エイイチに導かれるようにして“第三回廊”のテントにやってきた高校演劇上がりの女の子。噂じゃ新人公演で1人だけ並外れた演技を披露したっちゅうからどれほどの“モノ”を持っとるのか確かめるためにエチュードをやらせてみたら、流石はエイイチが一目惚れするだけの素質の持ち主やった・・・・・・

 

 

 「で?エリちゃんがどないしたんや?」

 

 懐かしい名前を聞いて軽く感傷に浸りながら紅林は問いかける。

 

 「いや、先週くらいに自分の部屋の中を整理してたら結構昔の演劇雑誌が眠っていたのを見つけたわけよ。それでうわぁ懐かしいな~って思いながら何となくページをめくっていたら紅林さんが所属してた“第三回廊”の特集が書かれてて、そこに夕野江利の名前と写真が載ってたってわけ」

 「エリちゃんがいたっちゅうことは82,3年あたりか?」

 「そこまで詳しいことは覚えてないけど、紅林さんもまだいた頃の記事だったからきっとそうだわ」

 「なるほどな・・・あの頃はちょうど“第三回廊(ウチら)”を含めた“第三世代”が一番勢いに乗っとった時期やしな」

 

 第三世代。舞台演劇において1970年代の後半から本格的に活動を始めた世代で、演劇界の重鎮・巌裕次郎を筆頭とする第一世代の思想性や実践性、由良木史也(ゆらきふみや)といった演劇にエンターテイメントの要素を取り入れ思想性の強かったそれまでの小劇場演劇に新しい形を提示した第二世代とも似つかない、言葉遊びやメタシアターなどを駆使した独自の技巧やコンセプトを演劇に取り入れた1980年代における小演劇ブームの火付け役として台頭した劇作家並びに演出家を指す。

 

 中でも舞台演出家として今でも活躍するタツミエイイチによって1979年に旗上げされた第三回廊は、“第三世代における中心的存在”の1つとして数えられ人気を博した。

 

 ちなみに紅林は同劇団出身の俳優にして旗上げメンバーの1人でもある。

 

 「・・・劇団(いえ)は違えど同じく舞台をやっとったクミちゃんなら知っとると思うけど、エリちゃんは第三回廊には欠かせへん看板女優やったしな」

 

 そんな第三回廊で江利がかつて看板女優として活躍していたことを知っている人間は、今では同業の役者の中でも限られた範囲にしかいない。

 

 「そうね・・・私も野瀬(のぜ)先生から“最近のお前は弛んでいるから“この舞台(コレ)”を観て気を引き締めてこい”って言われて渡されたチケットが第三回廊の“ダスト”っていう舞台のチケットで、その時の主演(ヒロイン)が彼女だったわ」

 「へぇ~クミちゃんダスト(アレ)観てくれたんか」

 「観たというよりは“観させられた”感じなんだけどね・・・・・・でも・・・あの舞台で江利さんの芝居を初めて直接見たおかげで“もう一度気を引き締めよう”って思ったわ」

 

 紅林の言葉に乗せられる恰好で、杜谷もかつて所属していた劇団の主宰であり師匠にあたる人から渡されたチケットを片手に観に行った舞台の記憶を懐かしむ。

 

 「・・・あの人の芝居を観ていなかったら、多分いまの私はいないわ・・・

 

 

 

 彼女の芝居を例えるなら何と言えばいいのだろうか。400席ほどの客席と、第三回廊の創り上げた世界観が展開される壇上の間にある現実と非現実の境目が、彼女の芝居によって次第になくなっていった。彼女が役になりきって言葉を発するたびに、“芝居が上手い”の一言では言い表せない真っ直ぐな感情が私の身体に伝わってきた。

 

 ひとつだけ分かったことは、彼女の芝居(それ)は技術と場数を踏んだことで身に付けられる“演技力”ではなく、“本能()”そのものだったこと。あんな芝居を目の当たりにしたのは、生まれて初めてだった。

 

 そして彼女の芝居を観終えた私の心に残ったものは・・・いつの間にか野瀬先生の下で稽古や公演を打っている日々が“世界の全て”だと思い込んでしまっていた自分に対する苛立ちと、まだ自分は“何度でも変われる”という“根拠のない確信”に気付けたことへの喜びだった。

 

 多分、彼女の芝居を観ていなかったら・・・私は“あの2人”と同じ舞台に立てなかった・・・・・・

 

 

 

 「さよか・・・じゃあクミちゃんはエリちゃんによって“救われた”っちゅうことか」

 

 程よく酔いが回り始めた顔で劇団時代の記憶に思い馳せる杜谷に、紅林は穏やかな目で見つめながら優しく“今の場所”に辿り着くまでに人知れず重ねてきたであろう苦労を労う。

 

 「“救われた”ってそんな・・・・・・あぁでも・・・江利さんの芝居を観たおかげで今の私がいるって考えたら・・・そうなるわね」

 

 紅林からの遠回しな労いの言葉に杜谷は少しはにかみながらも言葉を返すと、そのままグラスに残っていたカクテルを飲み干す。

 

 「ほんまに大丈夫かクミちゃん?今日はもうやめといたほうがええで」

 「大丈夫。今日はこれぐらいにするから」

 

 自分よりも倍近いペースでカクテルを口に運んでいた杜谷を紅林は気遣うが、当の本人は“限度は分かってる”と言いたげにドヤ顔を浮かべて最後の一杯を飲み干した。

 

 「・・・・・・夕野くんってさ・・・ひょっとして江利さんの子供だったりするのかしら?

 

 杜谷はカクテルを飲み干すと同時に、いきなり話の本筋から話し始める。

 

 「急に話が飛躍したな」

 「だってそれが聞きたかったんじゃないの?」

 「まぁ・・・それもそうやな(やっぱ酒回っとるんちゃうクミちゃん?)」

 

 その様子に少しばかり戸惑いつつも、紅林は心の中で密かにツッコみながらも飛躍した話を進める。

 

 「最初は“夕野”って苗字を聞いて“あれ?どこかで聞いたことあるような”っていう感じで全然分からなかったけれど」

 「エリちゃんの名前覚えてへんかったんかい」

 「だってもう14,5年も前の話でしょ江利さんが突然表舞台から姿を消したのって?しかも実際に会ってすらいない人の名前なんてそんなのすぐに出るわけないわよ」

 「エリちゃんのおかげで今の自分がおるって言うてたときの“ええ感じの空気”をまずは返してくれ」

 

 こうして夫婦漫才のようなやり取りが展開されつつ、話は続く。

 

 「だけど、ユウト()の感情に直接入り込むように演じる夕野くんを見てもしかしたらって思ったのよ・・・何となく夕野くんの芝居が、あの日の舞台で観た江利さんの芝居と重なるところがあってもしかしたらと思ったら」

 「部屋の中を整理しとったら第三回廊の記事が載っとる雑誌が出てきて、その中にエリちゃんの写真があって確信したと」

 「そう思っていたけど・・・江利さんの写真を見た瞬間に分からなくなったのよね」

 

 確信に迫ったと言いたげな紅林の言葉に、杜谷は首を傾げる仕草を見せた。

 

 「何というか・・・親子って考えたら全然似てなかったんだよね。夕野くんと」

 

 こんなことを話したところで、何にもならないことは分かっている。仕事が休みの日に気分転換で掃除をしていたら戸棚の奥で眠っていた昔の演劇雑誌が偶々10何年ぶりかぐらいに私の前に出てきて、そこに忘れかけていた1人の舞台女優の名前と写真が偶然載っていたというだけの話。なんでこんなものをずっと捨てずに残していたのかは、ほとんど覚えていない。

 

 「せやったとしても偶におるやん、そういう隔世遺伝的な親子は。その証拠にワイのおふくろと8年前に死んだ母方の(ばっ)ちゃんは他人かって思うくらい全然似てへんかったし・・・考えすぎちゃう?」

 

 これで夕野くんと江利さんに何かしらの面影があったならばともかく、雑誌に載っていた21,2歳の彼女の顔は夕野くんとは全然似ていなかった。

 

 「もしかしたら私の考えすぎなのかもしれないけど・・・本当に夕野くんの面影がなかったのよ・・・・・・そうだ、何なら帰りに紅林さんに渡す?どっちもここから徒歩圏内なわけだし私たち」

 「ううん。ワイはエリちゃんの顔はごっつ覚えとるからいらん」

 「どこから湧いてくるのよその自信?」

 

 江利さんの顔を今でもはっきりと覚えている紅林さんは隔世遺伝と言い張るが、それにしても面影が無さすぎた。単純に顔をはっきりと覚えていなかったこともあったけれど、そのせいで芝居をしていない初対面の憬くんを見たときは、そんなこと思いもしなかった。

 

 「・・・まぁそんなこんなで、夕野くんと江利さんのことについて同じ第三回廊のメンバーだった紅林さんなら知っているかなと思って、ちょっと聞いてみたってわけ」

 

 これが単なる隔世遺伝というだけなら、“あんな過去”がなかったら、そこまで大きな問題にはならないかもしれない。けれどもし仮に夕野くんの抱えている “誰にも言えないような何らかの事情”に、“悪い大人達”が目をつけてしまったら・・・夕野くんと江利さんを結び付けてしまった瞬間から、私は一気に不安になってしまった。

 

 「でもそんなことを聞いたところで・・・紅林さんも困るわよね・・・」

 「・・・う~ん、正直に言うとワイはエリちゃんが辞める前に第三回廊を抜けてる身分やから、その辺のことは良ぉ分かれへんねん。すまんな、クミちゃん」

 「ううん、私の方こそごめん。わざわざこんなしょうもないことを聞くために呼び出す形になっちゃって・・・」

 

 “自分の命に代えても守るべき存在”を抱えている人を演じていると、私はいつも“役”の感情につい引っ張られてしまう・・・こればっかりは、いつまで経っても治らない。

 

 「あ~、なんか一段と調子悪いな~今日は。やっぱりあと一杯だけ飲むか」

 

 

 

 “・・・さっきから何をやっているんだろう・・・・・・私・・・

 

 

 

 「・・・・・・憬君が心配か?

 

 江利の話を始めた段階から憬の心配をする杜谷の心情を察していた紅林は、無理やり笑いながらわざとらしく気持ちを誤魔化す彼女の核心についに踏み込む。

 

 「・・・・・・勘の鋭い紅林さんには最初から全部“お見通し”か

 「おう。ワイの勘の鋭さは“折り紙付き”やからな」

 

 何度かの共演経験を重ねながら10年に渡って“友人”として関係を築いてきた紅林にとって、杜谷の役者としての強みでもあり弱みでもある“感受性の高さ”からくる神経質な心を読み解くのは比較的容易いことだ。

 

 無論、そのことは同じく付き合いの長い杜谷にとっても承知のことである。

 

 「・・・もちろん心配になるわよ・・・だって夕野くん、撮影で一回“フラッシュバック”を起こしたくらいだし・・・」

 

 

 

 “『俺が2歳の時まで一緒に暮らしていた父親の記憶(こと)です』”

 

 

 

 本音を言ってしまうと憬くんと江利さんが果たして親子なのかということや、親子の割に顔が似ていないことよりも、私は単純に夕野くんのことが心配になってしまった。

 

 夕野くんが抱えているであろう“家族の事情”に踏み込むことなんて、現実では赤の他人同士の私たちには出来はしない。だけれどそれが彼の将来を“左右”するかもしれないと考えると、どうしても“何かできないか”と考えてしまう。もちろんそれは夕野くんに限った話なんかではなく、同じく複雑な過去を経ているという渡戸くんも同じこと。

 

 「もしも夕野くんのフラッシュバックした過去がきっかけで“厄介”なことがあったりしたらって思ったらさ・・・」

 

 本読みの時点では他の誰よりも理解が浅くてぎこちなかったが、撮影に向けた読み合わせをするたびに見違えるように上達していき、本番の撮影が始まったときにはすっかり“ユウト”そのものになっていた。そして“役に入り過ぎた”が故に引き起こした自分のトラウマさえもあっという間に芝居として吸収して、役の感情に没入しながら自分を俯瞰する術も身に付け始めた。1,2ヶ月という短期間でここまで“自分の芝居”をモノにした役者を目の当たりにしたのは、彼も含めて20年芝居をやってきた中で“2度”だけだ。

 

 だからこそ夕野くんのような“自分の芝居”を持った役者(ひと)が、誰であろうと情け容赦のない “メディアの世界”に飛び込んでいくことが果たして本当の幸せなのか・・・そんなことを考えてしまう。

 

 「・・・ほんまに優しいな・・・クミちゃんは

 「優しいとかそういうことじゃないのよ・・・・・・ただ・・・夕野くんが“本当に生きていくべき”場所は・・・本当に“ここ”なのかって、ふと思っただけ・・・

 

 

 

 “・・・とにかく・・・“アリサ(彼女)”のような運命が夕野くんに降りかかることは・・・・・・絶対にあってはならない・・・

 

 

 

 「・・・・・・人の幸せなんて、そないなもん誰にも決められへん・・・・・・もちろん家族でさえもや・・・

 

 紅林は分かっていた。杜谷がいま、『ロストチャイルド』の撮影を通じて驚異的な成長を見せている憬が、周りの大人達からその“過去”をいいように利用され、それがきっかけで星アリサと同じような運命を辿ってしまうかもしれないということを。

 

 感受性が高く神経質な一面のある杜谷は、互いに舞台での共演経験があり公私共に仲良くしていた“2人の友人”のもとに訪れた悲劇を目の当たりにしたことで、一時は本気で“引退”を考えるほど心を痛めてしまったことがあった。

 

 「やけどそうやって全部を理屈で割り切れるほど・・・・・・ワイら人間は利口な生き物やない・・・

 

 そんな“2人の友人”の顛末で悲しみのどん底にいた杜谷を救ったのが、彼女と同じく舞台出身として切磋琢磨しながらいくつもの修羅場を乗り越えて来た紅林だった。

 

 「・・・ほなどないするかってなったときの答えは

 「誰にもわからない・・・・・だから私たち“大人”がこれから生まれてくる“子供たち”のために正しい道”を造り、その道を“子供たち”が踏み外さないように支えていくしかない・・・

 「・・・・・・せやな

 

 憬の身を我が子のように案じる杜谷が励ましの言葉を遮って独白を言うかのようにひとつの“答え”を声に出したのを見て、紅林は“複雑な心境”に襲われながらもそれをひた隠して安堵の表情を浮かべる。

 

 「・・・ワイもワイのやり方でこれからも戦うつもりやから・・・いまは共に見守ろう・・・

 「・・・大事なのは夕野くんの家族のこと以上に、彼自身が役者としてどうしていきたいかだからね

 

 

 

 “・・・すまんな・・・・・・クミちゃん・・・

 

 

 

 「明日の撮影・・・・・・何なら見届けにいくか?クミちゃんも明日はオフやし」

 「・・・そうね・・・・・・いや・・・やっぱり私は、夕野くんと渡戸くんを信じることにするわ・・・

 「・・・さよか・・・・・・ならワイもクミちゃんと同じく憬君と剣君を信じるわ

 

 そして紅林は、少しばかり悩んだ末に“フラッシュバック”を乗り越えて純粋に“”を楽しんでいる憬のことを信じきる選択を選んだ杜谷を見つめて静かに笑いかけた。

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

 同日_午後8時35分_

 

 「・・・オムライスとか久々だな」

 

 『ロストチャイルド』の台本とノートを読みながら明日に控える撮影に向けた役作りをしていた憬は、江利に呼ばれてリビングに向かうと食卓に並んだオムライスを見て思わず独り言を漏らした。

 

 「そうね・・・前に作ったのは憬が12歳の誕生日を迎えたとき以来だから、2年半ぶりね」

 「もうそんな経つのな」

 「そう。すごい久しぶりでしょ?」

 

 母ちゃん曰く、夕野家では俺の12歳の誕生日以来に食卓に登場したというオムライス。

 

 「・・・つっても、何で今日?」

 

 別に今日は何かの記念日でも特別な日でも何でもない。恐らく考えられるのは、偶にある母ちゃんの“気まぐれ”だろう。

 

 「特に理由はないよ。私の気まぐれってだけで」

 「・・・なんだそれ」

 

 案の定、ほぼ予想通りの返答に俺は申し訳程度の相槌を返して食卓の席に座る。

 

 ただ、明日にはいよいよ入江ミチル演じる“リョウコ”との撮影が控えているという“重要な局面”が待っていることもあり、このオムライスは図らずも“勝負飯と同じ意味”を持ってしまった。

 

 ただ、明日の撮影は“今までで一番の難所”ではあるから嬉しいことは嬉しかった。

 

 「まぁさ、憧れていた人が“事実婚”しちゃったこととかマネージャーからボロクソ言われたは一旦忘れて、明日の撮影に向けて気分を切り替えていこうよ」

 

 そしてまさかあの“入江ミチル”と共演するなんてことを知らない母ちゃんは、得意げな顔で4日前にお茶の間の話題を独占した“一大ニュース”の話題で俺を弄る。

 

 「3日前にはもうとっくに切り替えてるわ。どんだけ引きずってんだよそれ」

 

 

 

 

 

 

 時を遡ること4日前の月曜日、俺的に、というか割とお茶の間全体にとっても衝撃的な“一大ニュース”が日本全国を駆け巡った。

 

 

 

 “芸能事務所スターズ社長にして元女優・星アリサが人気脚本家との事実婚&第一子の妊娠を発表した

 

 

 

 あの“引退会見”以来、すっかり表には出なくなってしまった星アリサの久しぶりの話題は、彼女が事実婚と妊娠を発表したというニュース。さすがに今回ばかりはこのところバラエティーばかりを見ていた母ちゃんも、ワイドショーにチャンネルを合わせていた。

 

 もちろん星アリサのニュースは素直に祝福すべき出来事のはずだったが、俺が初めてニュースを聞いたとき、どういう訳か“ショック”の気持ちの方が上回った。

 

 “・・・嘘だろ・・・

 

 無理はない。ただでさえそれが“事実婚”という選択をとったことに加え、相手はなんと脚本家の月島章人。言うまでもなく、俺が月9でお世話になった人だった。

 

 こんなの・・・“おめでとう”よりも“えっ?”という気持ちの方が上回るに決まっている。

 

 “・・・いやいやいやいや・・・

 

 俄かには信じられなかった。確かに月島はスターズと契約している脚本家だったことは知っていたが、はっきり言ってビジネス以外での星アリサとの接点がまるで想像出来なかったからだ。

 

 “『あの2人って・・・一体どんな関係だったんですか?』”

 

 正月にオンエアが予定されているCMへの出演オファーの関係で事務所に顔を出した翌日の帰り際、俺は菅生に星アリサと月島の話題を思い切って聞いてみた。

 

 “『詳しく話してしまうと色々と面倒なので“限られた範囲”しか教えられませんが、業界のあいだではとっくに知られていた話でしたよ』”

 

 すると菅生は“絶対に外には漏らすな”と言いたげな表情を浮かべながら、小声で俺に“限られた範囲”でその真相を話してくれた。

 

 “『・・・なるほど・・・』”

 

 菅生から語られた真相は、結局のところワイドショーで語られたエピソードと大差ないものだった。元々2人は高校時代にクラスメイトになった頃から互いに顔を知っていたらしく、3年ほど前に脚本・演出と演者として同じ現場で再会してから一気に関係が近づき、そのまま交際に発展したという。

 

 そして事実婚を選んだ理由に関しても同様で、“『お互いに何度も真剣に話し合いを重ねた結果、“結婚”という形に囚われない“自分たちの形”で今後とも公私を共にするパートナーとして新しく生まれてくる命を支えていきたい』”という内容の声明文そのままだった。

 

 ちなみに事実婚をするにあたり星アリサのお腹に宿る第一子の親権は母親である星アリサの元へ行き、一方の月島は同日をもってスターズを退社して一部資本提携という形で映像制作に特化した新たな会社を立ち上げ独立するという。

 

 当然この辺りの話も、ワイドショーでとっくに知らされていた。

 

 “『・・・あの・・・マジで誰にも言わないんでもう少し詳しい話とかってできないですか?』”

 

 ほとんど同じような話をされる形になった俺はつい魔が差して、軽い気持ちで菅生に自分のしょうもない“好奇心”をぶつけた。

 

 “『・・・・・・夕野君は自分の私生活や誰にも言えないような“秘密”が全国ネットで晒されても平気ですか?』”

 “『・・・それは・・・』”

 

 軽い気持ちで好奇心をぶつけた俺に、菅生からの冷たい視線と圧力が突き刺さった。考えるまでもなく、菅生は事の重大さに気付いていない俺の無意識な“無神経”さを指摘していた。

 

 “『嫌に決まってるじゃないですか・・・そんなの・・・』”

 

 冷静に考えるまでもなく、俺はもう芸能人。広い括りで言えば星アリサと同様に自分自身の行動の1つ1つが注目されるような立場だ。もしも今の星アリサの立場が自分だとしたら・・・

 

 “『今の君はそれと同じことをしようとしているんですよ。夕野君』”

 

 きっと彼女も相当悩みに悩みぬいた末に、決断したに違いない。もちろんあの“引退宣言”は、絶対にそれ以上だ。

 

 いまの状況を客観視した俺は、瞬時に自分の無神経さを恥じた。

 

 “『・・・・・・芸能界は一般社会じゃないんです・・・そのことだけは肝に銘じておいてください・・・・・・』”

 

 結局のところ、俺は自分1人の力ではどうすることもできない“大人の事情”によって、自分の芸能人としての自覚の無さを指摘されて終わり、休む暇なく『ロストチャイルド』の撮影と学校で授業を受ける日が交互に続き、今日に至る。

 

 

 

 “『ねぇ?夕野君って芸能人でしょ?なんか星アリサの話とか知らない?』”

 

 

 

 俺的には特に言うほどのことじゃないがついでに言っておくと学校でも星アリサの事実婚&第一子妊娠のニュースは話題になり、かつての彼女と同じ“芸能人”の俺は、こんな感じで普段は滅多に話さないクラスメイトから何度か質問攻めにあった。

 

 “『全然聞かないな』”

 

 とりあえずこの手の質問は全て“全然聞かないor全く知らされてない”の一点張りで乗り切った。

 

 “『そんなことって本当にあんの?』”

 

 それでもしつこく聞いてきた奴には、“大人の事情でバラしたら社会的に殺される”とちょっとだけ誇張して軽く戦慄させた。こうした徹底的な“スルー作戦”によって、どうにか俺は質問攻めの“魔の手”から逃れることができた。

 

 “『まぁ色々あるのが“芸能界”ってやつだよな。知らんけど』”

 

 ちなみに学校の中で一番の理解者(ダチ)である有島は相変わらずの“謎の余裕”っぷりで俺のことを気に掛けてくれた。

 

 

 

 

 

 

 「・・・つっても、何だろうなー」

 「ん?どうした?」

 「芸能界って・・・・・・すげぇ大変なんだな」

 

 そしていま、改めて思う。俺は“とんでもない”世界に飛び込んでしまったということ。

 

 「・・・どこも大変だよ・・・社会って言うのはさ・・・・・・芸能界だろうと普通のサラリーマンだろうと関係なく・・・

 

 特に深い意味はなく思ったことを独り言で呟いた俺に、母ちゃんは自分の椅子に座りがてら答える。“演劇の世界”と“普通の世界”の両方を知っている人の言葉は、やはり説得力が違う。

 

 「・・・俺も母ちゃんを見てるとそう思うわ」

 「ほんとにそう思ってる?」

 「だってよ・・・土日でも普通に働いてる日もあるし」

 

 芸能界に限らず、きっと“普通の世界で普通に生きる”ということも、同じくらいに大変なことなんだろうと今までの母ちゃんを見ていれば“社会経験”がまだないに等しい俺でも理解できる。

 

 「・・・憬も大人になって色んなことを“知る”ようになったら・・・きっと“それだけ”じゃないってことに、気づくときが必ず来るよ・・・

 

 

 

 “『・・・今はまだ受け入れる必要も知る必要もないけど、憬くんもそのうち分かると思うよ。それまで役者を続けていればの話だけど・・・』”

 

 

 

 「・・・だろうな

 

 まだ本当の“大変さ”を知らない俺に“大人”としてアドバイスを送った母ちゃんと、自分自身が十字架として背負っている“覚悟”の意味を聞いた俺に“先輩”としてアドバイスを送った牧の姿が一瞬だけ重なった。

 

 「だろうなって・・・本当に分かってる?」

 

 俺のちょうど向かい側に座る母ちゃんが、“知ったかぶりやがって”と嘲笑うかの如く俺を揶揄う。もちろん俺は、牧が言っていた“女優を続ける為なら“”になっても構わない”という言葉に隠された本当の意味なんて、まだ全然分からない。

 

 「・・・そんなのはまだ分かんねぇけど・・・・・・この世界で生きるためには“覚悟”が必要だってことだけは、 “みんな”が教えてくれたおかげで俺も分かってるつもりだよ

 

 まだ“自覚が足りない”とか、言われることを言われてしまったら“はいすいません”の一言しか返せない立場なのかもしれないが、俺は芸能界という“とんでもない世界”で、俺なりに頑張っている。それだけは確かだ。

 

 

 

 “『・・・どうしてもそれを知りたいというのであれば・・・先ずはあなたの中にある“誰かとの記憶”を、次に“リョウコ(わたし)”と会う時までに “過去”のものにしてください』”

 

 

 

 その“覚悟”を何としてでも、俺は“明日の撮影”で証明しなければならない。

 

 

 

 「・・・・・・私から見たら、憬は憬が思っている以上に頑張ってるよ

 

 女手一つで“唯一の家族”である憬をずっと自分を支えてきた母親の江利は、一人息子の“確かな覚悟”を優しく労った。

 

 「は?・・・何だよいきなり?」

 「それより早く食べないと冷めちゃうよ、オムライス」

 「・・・おう」

 

 いきなり自分に向けられた母親らしい優し気な感情に戸惑いながらも、憬はまんざらでもない心境で“勝負飯”のオムライスを口へと運んだ。




日によってモチベがジェットコースターのように上がったり下がったりする現象をどうにかしたい。
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