その艦娘──春雨は、ボロボロになりながらも夜の暗い海を駆けていた。背中に背負った艤装からは煙が上がり、定期的に火花を散らす。稀に小さな爆発まで起きていた。
本人も身体の至るところから血を流し、海を駆ける脚には力が入らずフラフラ。本来の速力など出すことが出来ず、いつ止まってしまってもおかしくない程だった。
「う……うぅ……姉さん……姉さん……」
泣きそうな声で姉を呼ぶが、反応はない。むしろ周りには誰もいない。春雨はたった1人で戦場から撤退していた。
彼女の姉達は、先程までは一緒にいた。しかし、想定を超えた敵の出現により、なすすべなく無残に散った。春雨の目の前で。
春雨は姉達の死に際の顔が忘れられなかった。死の恐怖に歪んでいるようなことは無かったが、悔しそうに、しかし明日を繋ぐために、彼女に最後の望みを託して逃がそうとしてくれていた。頼んだぞと、死に行く者の濁った瞳で。
しかし、残念ながら彼女も重傷を負ってしまった。簡単には逃してもらえない。姉達が命を懸けたにもかかわらず、敵のその手は、彼女に届いてしまっていた。その場で死ぬことは無くとも、いつ死んでもおかしくない程にまでやられている。
だからだろう、瀕死の春雨を追ってくることすら無かった。春雨は振り返ることが出来なかったが、あの時、あの敵は春雨の背中に向けて笑みを浮かべていたことだろう。
「……ごめんなさい……姉さん……春雨は……もうダメかもしれません……」
何も無い海の上、独りごちる。その声は暗闇に吸い込まれるように消え、誰の耳にも届くことはない。
しかし、謝罪の言葉は嫌でも出てきた。せっかく逃してくれたのに、志半ばで力尽きてしまいそうだ。鎮守府には妹達も残しているのに、姉の最期を伝えるためにも戻らなくてはいけないのに、脚がすぐにでも止まりそうだった。
痛い。疲れた。寒い。目が霞む。辛い。もう終わりたい。楽になりたい。負の感情ばかりが湧き上がる。それがいけないことだとわかっていても、折れた心ではその感情は止まることが無い。
「……ケホッ……」
少女が小さく咽せると、口から血の塊が吐き出された。それはベチャリと海に落ちた後、そのまま何も無かったかのように掻き消える。それを見た彼女は、いよいよ死を覚悟した。
もう自分が今、何処にいるかもわからない。本当に鎮守府に向かっているのかも判断が出来ない。何も無い、本当に何も無い海の上。この消耗し切った身体では、方向感覚は疾うの昔に壊れてしまっている。
事実、彼女の向かう先に求める物は無かった。望まぬ場所であてもなく彷徨い続けるだけ。その間も消耗は止まらない。
「……誰も……いない……」
死を間近にして、強烈な孤独感に苛まれた。一緒に戦っていた姉達はもういない。呼んでも誰も来ない。手を伸ばしても届かない。もし助かったとしても、あの姉達とは、二度と逢えない。
艦娘という種族である都合上、同じ顔の別人はいるかも知れないが、それは当然この春雨が慕っていた姉達とは違うモノだ。むしろ、姉が死んだことを否が応でも思い出すことになって、余計に心が痛い思いをするだろう。
それを考えてしまった瞬間、何処にそんな力があったのだろうと思えるほどに身体が動いた。止まっていたら孤独感に押し潰されてしまいそうだった。
だから駆けた。縋れるモノがあると信じて、ガムシャラに駆け抜けた。心の何処かにそんなことはもう無いのだと理解していても、その脚を止めることは出来なかった。
「誰か……誰か……誰かいませんか……! 敵でも味方でもいい! 誰か……」
敵の存在にすら追い縋った。自分の死に際を見届けてくれるだけでいいと、介錯してくれても構わないと、春雨は霞む目を凝らして、機能を失っていく耳を澄まして、その存在を求める。
無論、反応は何も無い。叫び声も暗闇に溶けていく。夜なのも悪い。光すらも無いため、孤独感をより引き立たせてしまった。
結果として、体力はさらに消耗することになった、底力と言えば聞こえはいいが、それは滅びに向かう最後の輝き。少女は最後の力すら振り絞ってしまった。
しばらく進んで止まってしまったら、もう1歩も動けない。背中の艤装がうんともすんとも言わなくなった。海の上に立つことも、そろそろ出来なくなるだろう。
そうなったら本当の終わり。ただ沈むだけ。何も無いこの海のど真ん中で、たった1人で散っていく。その姿を仲間に知らせてくれる者は、ここにはいない。
「もう……ダメ……」
死を悟った少女は、海面に膝を突き、ガックリと項垂れる。そうしてしまったことで、脚だけではなく身体全てがピクリとも動かなくなってしまった。指先1つ動かない。そのせいで、最後まで握りしめていた壊れた主砲も、海の底へと落としてしまった。
「……怖い……怖いよ……死にたくないよ……」
見る人が見れば、戦乙女の端くれたる艦娘なのに往生際が悪いと嘲りそうだが、力を持ち、死と隣り合わせの戦いに身を投じていたとしても、春雨の見た目はそのままずばり女の子。身体に心が引っ張られるのはどんな生物でも同じであり、春雨も例に漏れずに見た目の年齢通りの精神構造をしていた。
純粋で、大人しく、真面目。本来なら戦いには向かないような性格。だが、世界を侵略者の手から守るため、勇気を振り絞り続けたのだから、最期にこんな言葉が出ても誰も責めやしない。そもそも責める者すらこの場にはいないのだが。
「寂しい……寂しい……独りは嫌だ……どうせ死ぬなら、誰か……誰かに看取られたかった……」
再び孤独感が舞い戻ってきた。死の恐怖よりも、誰もいないことの恐怖の方が強くなっていた。
あの戦場で自分も死んでいたらまだ良かったのにと考えてしまう程に、春雨は追い詰められていた。それは、本来持ち得なかった狂気を生み出してしまいかねないくらいに。
「嫌だ……独りは嫌だ……嫌だ……ハハ……寂しい……こんな終わり方なんて……アハハハハ……」
そして、春雨は壊れた。孤独に耐え切れず、恐怖に耐え切れず、心が壊れた。自暴自棄から堪らず笑いが溢れてしまった。
「ハハ……ハ……」
しばらく笑った後、ついに笑う力も尽きた。ただ心が壊れ、孤独のまま死ぬ。笑い声すら無くなると、この空間にあるのは虚無だけだった。
「ハ……は……?」
ここで春雨は自分の異変に気付いた。もうピクリとも動かない手が、少しだけ動いた。しかし、何かがおかしい。身に着けていた手袋の向こう側、手の甲に、チリチリと痛いような痒いような、しかし不快ではなく、むしろ心地よいと思えるような不思議な感覚。
その隙間から見える素肌。そこから
当たり前だが、春雨にはそんなものを手袋の中に入れるような趣味は無い。そもそもが初めて見るモノ。
その泥は、少女の体力が失われれば失われるほど、その面積を増やしていく。死にかけだからか、もう手袋から溢れ出し、そのまま腕を包み込もうとしていた。
「なに……これ……」
不思議と泥に塗れていく自分の腕を見ていると落ち着いた。姉達から思いを託されたのにもかかわらず、何も出来ずに死んでいくことを、より無様に演出してくれているのだと、壊れた心が落ち着いていくようだった。
艦娘として戦いの中で死ぬのではなく、得体の知れない泥で死んでいく。それも、たった独りで。それが実に滑稽で、もっともっととその侵蝕を望んでしまう。
「アハ……こんな死に方……惨めな私には……お似合いかも……」
望んだ途端、泥はより早く拡がっていく。身体全てを包み込むまではそう時間は必要が無かった。
手袋から溢れ出した泥は腕を包み、肩から服の中へ。胸も、腹も、脚も、あっという間に呑み込まれていく。
その過程で、少女は全てを失った。今身につけている衣服も、戦うための艤装も、そして、艦娘としての尊厳も。
「う……アア……もういいや……これで……終ワレル……」
最期の言葉を口にした瞬間、泥は口内にも拡がり、春雨の
その状態でも、手の甲が発端となった黒い泥は滾々と溢れ続け、春雨の身体を覆い、体内で暴れ狂う。溢れた先から塊、さらにそれを上塗りし、ついには人の形すら失われ、全てを包み込む球体となる。
春雨は真っ黒な
繭となった春雨は、海中でも死ぬことは無かった。しかし、外から内まで余すところなく侵し尽くした黒い泥は、春雨自身の
春雨は
生まれ変わろうとしている春雨には、その身体に起きていることが何も自覚出来ない。痛みもなく、むしろ心地よい眠りの中、知らず知らずの内に本来の在り方から反転させられていた。
その中で春雨は、その心地よさから幸せな夢を見ていた。姉達と鎮守府で共に生活し、寝食を共にする夢。今はもう失われた、幸せだった現実。
それは死の間際の走馬灯と感じても無理はない。しかし、今の春雨には、何ものにも代え難いくらいに縋り付きたい光景。孤独で心が壊れたのだから、姉の温もりは春雨にとっては強すぎる程の癒しであった。それが夢だとわかっていても、いや、むしろ夢とわかっているからこそ、永遠にここに居座りたいと思える程に。
しかし、その夢も長くは続かない。生きている限り、目覚めの時は必ず訪れる。幸せな夢は、すぐに現実と違わなくなる。
姉達と共に出撃し、強大な敵と立ち向かい、そして自分以外の全員が次々と散っていく光景を夢の中でも見せられた。今度こそはこうはならないと力を尽くしても、やはり結末は同じだった。1人、また1人と姉が散っていき、再び強すぎる孤独感に苛まれる。
「嫌だ……嫌だ……独りは嫌だ……」
現実だけでなく、夢でも同じことを呟くようになった。溢れ出した感情は泥となり、夢の中ですら春雨に纏わり付く。
現実と夢がリンクする。表も裏も、何もかもが塗り潰された。
「嫌だ……嫌ダ……嫌ダァァ!」
その叫びに呼応するように、春雨の目の前にヒビが入った。夢の終わり、目覚めの時。同時に繭にもヒビが入り、まるで卵が孵るかのように崩れていく。
そこから現れたのは、身体の全てを真っ白に染めた春雨だった。外の空気を感じ取り、閉ざしていた目蓋をゆっくりと開くと、今まで真紅だった瞳は青白く輝く深海の瞳へと変化していた。
「っ……あ……私……私は……」
追い縋るように腕を伸ばしたことで、自分の身に起きたことが理解出来た。真っ白に染まった腕。結んでいた髪も今は解けており、髪の色も変わったことが目に飛び込んでくる。
まるで、今まで自分が戦ってきた深海棲艦と同じ。自分は深海棲艦になってしまったのだと自覚した。
そう気付いた瞬間、壊れた心が真っ黒に染まっていくかのようだった。身体に合わせて心までも侵略者になろうとしていた。春雨にそれを止める力はなく、嫌でも受け入れてしまう。
「あ、ああっ……私……私ぃ……」
「落ち着きなさいな」
頭を抱える春雨に、何者かの声が届く。声の持ち主の方を向くと、今の春雨と同じような髪も肌も真っ白な女性がそこにいた。
今までに顔を合わせて戦ったことがないタイプの深海棲艦。しかし、その存在を春雨は知っている。鎮守府で名前も聞いたし資料も確認した。
コードネーム『飛行場姫』。それが人類が決定したこの深海棲艦の名である。
「落ち着いてアタシの言葉をよく聞きなさい。アンタはまだ
飛行場姫からの言葉に、春雨は小さく頷いた。訳がわからない状態ではあるが、この言葉は疑わずに従うべきだと、本能的に理解した。むしろ、この深海棲艦は自分よりも上位のモノであるとも。
「周りの繭を集めて、その上に手を置きなさい。そして、それを取り込むイメージを持つの。いい? 繭はアンタ自身から
心が歪んでいく中、飛行場姫に言われた通りに周りに散らばる黒い破片を掻き集める春雨。そして、これもまた言われるがままに手を置き、破片の山を取り込むイメージ──手のひらから吸収するような、そんな感覚を想像した。
瞬間、破片は次々と泥へと姿を戻し、春雨が想像した通りに中へと取り込まれていく。その衝撃は激しく、春雨はくぐもった声をあげてしまうが、飛行場姫は耐えろの一言で一蹴。
「アタシ達みたいな
今の春雨に、飛行場姫の言葉をちゃんと聞いている余裕なんて何処にも無かった。自らが生み出した泥を取り込んでいくのに必死だった。壊れた心が修復されるような感覚ではないのだが、少なくとも黒く染まり歪んでいく感覚は失われていた。
そして、その全てを吸収し切ったことにより、今までで一番大きな衝撃が身体を駆け抜けた。呼吸が止まる程の一撃に天を仰ぎ見て何度か痙攣した後、大きく息を吐く。
「っはぁぁぁ……」
「はい、お疲れ様。多少はスッキリしたでしょ。全部ぶっ壊したいとか、人間に恨みとか、何にも無いわよね?」
余裕が無いようではあるが、春雨は小さく頷いた。
飛行場姫の言う通り、今の春雨の心は黒く染まり切っているわけではなく、艦娘としてのそれも持ち合わせた不思議な状態だった。
身体は誰がどう見ても深海棲艦なのだが、だからと言って侵略者に成り果ててしまったわけでは無い。人間に害を与えたいという気持ちは一切無く、むしろ中身は艦娘のままであると言っても過言では無かった。
「どうせ聞かれると思うから先に説明しておくわ。アンタは繭の状態でここに運び込まれたの。で、こういうことにそれなりに理解があるアタシ達が保護したってわけ」
息も絶え絶えではあるためか、言われても簡単には理解出来ない春雨。それを察したのか、小さく溜息を吐いた飛行場姫が、続けて話した。
しかし、それを聞いても春雨には全く理解が出来なかった。
「ここは、アンタみたいな
この春雨は、題にもある『溢れた艦娘』となります。手から泥が溢れてましたけど、それは一体何か。それは次回以降で。