その日の午後も、療養期間として安静に過ごす春雨。基本的にはベッドの上から降りることなく、身体を治すことに専念する。
たまに誰かに付き添ってもらってまた海風のところに行っては、きっと聞こえていると思いながら声をかけ続けた。春雨だけでなく、薄雲やジェーナスなども加えて。
みんな海風のことを温かく迎え入れる準備は出来ている。海風がどのように壊れているとしても、もうこの施設の仲間だ。
海風自身がそれを拒絶してしまった場合はまた考え直すことになるのだが、ここに春雨がいる時点で海風の選択は決まったも同然と誰もが感じている。
「繭から孵ったら、今度は一緒に楽しく生きていけるわよね」
繭に触れる春雨を眺めながら、ジェーナスがボソリと呟く。まだ耳が聞こえない春雨には届かないが、他の者にはしっかり聞こえる声で。
「勿論。私達は海風ちゃんを仲間として受け入れるよ。元々友達だったけど、こうなっちゃったら尚更だよ。そうですよね、姉さん」
「……私に振らないでくれる。でも、海風も壊れちゃったんなら、私だって多少は気にかけるくらいはするわ。艦娘じゃなく、
相変わらずの物言いではあるものの、叢雲としても海風の今後については気になるところのようだ。悪態の中に、真なる怒りは何処にもない。性質として怒りが節々に出てしまうだけであって、本心はまた違うところにある。
いい艦娘と悪い艦娘の判断が出来るようになるきっかけを与えたのは、紛れもなく海風だ。最初の調査隊の時に対話をしたことで、あの鎮守府の艦娘は信用出来ると理解出来た。海風は特に、叢雲の中では大きな存在となっている。
その海風がこうなってしまったのだ。しかも、海風に深海棲艦化のトドメを刺したのは、叢雲にとっては
「孵化はいつになるんだっけ?」
「早いと今晩には孵るかもしれないわ。遅くとも明後日」
黒い繭が孵化するまでには、1〜3日という時間が必要。これは中間棲姫や飛行場姫も実際に見ているモノ。
例えば春雨はおおよそ3日だった。ここにいる薄雲やジェーナスは2日に近いくらいというほど。叢雲は実際は2日かからない程度。1日と少しで孵化したのは、伊47だけである。
「何か法則とかあるのかしらね」
「その辺りはわからないわ。でも、一応ここで全部見てきた私としては、
伊47が特別早かったのは、艦娘の時の入渠時間が潜水艦の特性上特別早いからではないかというのがジェーナスの予想。この施設で孵化した仲間達を全て見ているからこそ辿り着いた考えである。
リシュリューは特に長かったそうで、キッチリ3日かかっている。それは戦艦であるが故。松と竹はかなり早く、2日かからずだが薄雲やジェーナスよりも早かったとのこと。
ジェーナスの予想は概ね正しそうである。瀕死の重傷を負った状態で繭に包まれ、深海棲艦化した時には傷は全て治療済み。ならば、繭の中で入渠しているようなものなのかもと考えれば、孵化までの時間は予測出来そうである。
海風は全くの無傷の状態で繭に包まれた。入渠の必要がない状態だ。そうなると、傷を癒す必要もなく、ただただ身体を変質させることにのみ時間を使う。ということは。
「……海風、今晩くらいに孵るかも」
そんなことを話している時に、その会話が聞こえていないにもかかわらず、春雨がそれを言ってのけた。
ジェーナスの説が正しいとするのなら、入渠の必要がない海風は考え得る最速の時間で孵化することになるだろう。となると、丸一日が最速。海風が繭と化したのは、昨日の昼である。既に1日は経っている状態。ならば、そろそろ孵ってもおかしくない。
その孵化のタイミングを、春雨が何か感じ取ったようである。動けるようになってから頻繁に繭に触れに来ているため、何か感じるものがあったのだろうか。
「それなら、ハルサメは今日はここで寝る?」
とジェーナスが言っても聞こえていないので、預かってきたホワイトボードに薄雲が書いて春雨に見せた。
「やっていいなら、私、海風と一緒に寝たい……かな」
春雨はそれを望む。1人で繭の隣で眠ると、まず確実に発作を起こしてしまうため、誰かしらに付き合ってもらう必要はあるだろうが、なんとなく今晩が山場だと思えたために、少しだけ我儘を言った。
春雨の意思は誰もが尊重した。そのため、海風の隣で春雨が眠り、同室で中間棲姫が眠るということで手が打たれた。
春雨だってまだ療養中の身。誰かしらの目が届くところにいてもらわなければ困る存在。そのため、中間棲姫がその役目を買って出たのである。
そして、深夜。春雨が直感的に予想していた時間。既に誰もが寝静まった時間であるのだが、不意に春雨は目を覚ました。朝から晩まで療養というカタチで何もせず眠ったりもしてしまったことで、夜中に眠気が失われた。
春雨の耳は、丸一日の安静と栄養のある食事、そしてこの時間までの睡眠で、殆ど治っていた。周囲の音が聞こえる──例えば、中間棲姫の寝息とか──ことで、ようやくいつもの生活が戻ってくると安心した。
目が冴えているため、隣にある海風の繭を見る。勿論、寝る前から何も変わっていない。
大きく存在感のある繭のおかげで、春雨が寂しさを感じることは無かった。それに、隣に海風がいるという安心感もあった。
「海風……まだ頑張ってるのかな。私達は、海風が無事に孵化するのを待ってるからね」
小さく呟き、額を繭に押し当てる。そうすることで、繭の中の海風に近付けている気がするからだ。
今日、話せる時があったら毎回これをしている。早く戻ってきてほしいという気持ちと、そのままでいてほしいという気持ち。海風のことを思い続けながら、その無事を祈って呟き続けた。
そして、その願いが今、成就しようとしていた。
「────」
僅かに、本当に僅かに、小さく何かが
「海風……?」
繭に額を押し付けたまま、春雨はその感覚に集中する。海風がいい方向に向かっているのか、悪い方向に向かっているのか、それを知るために。
「──サン」
微かに、声が聞こえた。それは、春雨の知る海風の声だった。
「春雨ちゃん、落ち着いてちょうだいねぇ。私にもちゃんと聞こえたわぁ」
先程まで寝息を立てていた中間棲姫も、繭の様子が変わったことで目を覚ましていた。施設内を全て管理下に置いているのは伊達ではなく、こんな小さな異変でもしっかりと反応する。真隣にいるのだから尚更である。
繭の中からの声は、中間棲姫にも届いていた。繭が孵ろうとしている前兆としてはよくあることだ。長い夢から覚め、生まれ変わって現実に戻ってくる始まり。
「孵ったら、すぐに処置をするわぁ。でも、私が説明するよりも、春雨ちゃんが説明した方が、海風ちゃんは受け入れやすいと思うのよねぇ」
「了解です。私が妹姫様にしてもらったように、海風を導きます」
「ええ、そうしてあげてちょうだいねぇ」
そうこうしている内に、繭がカタカタと揺れだす。僅かな蠢きを超え、集中していれば気が付くというところから、誰が見ても動いているとわかるくらいに。
孵化まであと少し。その間に、中間棲姫は部屋の電気をつける。夜だからといって、暗い中で目を覚ますのは少し可哀想。
「海風、私がいるよ。だから、頑張って」
春雨が呟いた瞬間、繭の表面にヒビが入った。姉の言葉に応えるように、その存在を求めるように、ヒビはどんどん拡がっていき、そして。
「姉……さん……!」
繭を内側から突き破って腕が伸びた。その手は、春雨を求めていた。
「海風……!」
その手を握って、海風の完全な孵化を待つ。ここまで来たら、後はもう時間の問題だ。
一度崩壊を始めた繭は、あっという間に音を立てて崩れていく。そして中には、見事に深海棲艦と化した海風の姿が現れた。
その姿は基本的には春雨と同じで、本来の海風から色素を薄くしたモノ。髪も肌も真っ白に染まり、瞳も青白く輝いていた。そういったところも、春雨を意識しているのではと思えるくらいに、深海棲艦化の要素が全く同じ。
しかし、艦娘の時から大きく違うところもある。それが右腕。春雨の両脚のように、海風の右腕は綺麗に切り取られているかのように失われていた。先程伸ばした腕は左腕である。
「えっ、あ、私……私……は……」
「ごめんね海風。時間勝負だから、まずはすぐにやらなくちゃいけないことがあるの。繭を掻き集めて、そこに残された手を置いて。その破片を取り込むみたいに、イメージするの」
生まれたてで混乱する海風だが、春雨の言葉は素直に聞く。自分が深海棲艦化していることや、右腕が無くなっていることよりも、春雨の言葉を優先してすぐに実行に移した。
片腕で掻き集めるのは難しかったようで、そこは春雨も手伝う。1人でやらなくてはいけないわけではない。ここは、姉妹による共同作業で迅速にこなした方がいい。
「そう、そこに手を置いて。私もこうやってどうにかなったから」
「こうして……取り込む……イメージ……っひっ!?」
言われるがままに繭の破片に手を置いた海風。その瞬間、破片は泥へと姿を戻し、海風の中へと戻っていく。同時に強烈な衝撃を受け、妙な声を出してしまっていた。
ビクンビクンと震えている海風を支えるように、春雨が回り込んで抱きしめる。これが終われば元に戻れるのだ。耐えてもらわなくてはいけない。
「っあっ、あっ、あっ」
「頑張って。大丈夫。私がついてるから」
春雨の声を聞くことで、海風は身体も心も落ち着かせる。そのせいで破片を取り込む衝撃に対して何の抵抗もなく声を上げてしまうのだが、全く気にしていない。
「っあっ、あぁああっ……」
全て取り込んだことで一際大きく震えた。春雨にも経験のあることだから、この衝撃は理解している。身体中を駆け巡る衝撃は普通ではなく、海風も例外ではない。震えながらも天を仰ぎ見て、何度も何度も痙攣する。
「はふぅ……」
「お疲れ様、海風。これで海風は大丈夫だよ」
こうなってしまえば、海風は侵略者になることはない。心の壊れ方次第ではあるが、艦娘としての心を持ったままの深海棲艦として、心身ともに落ち着いていく。
海風が息を整えている間に、春雨は改めて海風の正面へ。
「姉さん……私は……」
「うん……海風も私達の
事実を突きつけるようで申し訳ないのだが、しかし知ってもらわなくてはいけない。それは、姉である自分が伝えるべきだと感じて、真正面からぶつけた。
「……姉さん、今こんなことを言うべきかはわかりませんが……ありがとうございます」
「んん?」
「姉さんのおかげで、私はこれで済んだんだと、思います」
片方の腕で春雨の手を握る。海風も春雨の温もりを求めるかのようだった。
「私……ずっと暗闇にいたんです。周りが何も見えない、声を上げても誰もいない、真っ暗闇に。それこそ、狂ってしまいそうなくらいに辛かった」
絶望の淵に立たされ、さらに前に進んでしまったことで海風は深海棲艦化した。それを象徴するように、繭の中で眠る間は、真っ暗闇の中に放置されていたらしい。
手を伸ばしても何にも届かず、声を上げても残響すら無い。何も見えず、何も聞こえず、何も感じない。そんな全ての望みが絶たれた空間に、ただ独りにされた。
そんな状態が続けば、誰だって狂う。人間だろうが艦娘だろうが関係ない。意思を持つものが本能的に拒むような空間だ。絶望とは、そういう状態なのだろう。
「でも、そんな真っ暗闇に、一筋の光が差したんです。それに、声も。それがあるだけで、私は、私は自分を捨てずに済みました」
その一筋の光と声というのが、春雨だ。繭の中に聞こえるように呟いたその言葉は、海風にちゃんと届いていた。むしろ、それがあったからこそ、海風はこれ以上壊れずに済んだのだ。
春雨が声をかけていなかった場合、海風は繭から孵っても、何も見ず、何も聞こえない存在になっていたかもしれない。望みが絶たれて、周りを見ることも聞くことも放棄する。ただの抜け殻になっていただろう。
それを回避させたのが、春雨の存在だ。光の先に春雨がいるのだとわかったことで、海風の心は現状維持を選択することが出来たのだ。
とはいえ、繭に包まれた時点である程度は壊れている。それが何なのかは後から知っていくとして、いの一番に壊れたところを見せつけることになる。
「だから、姉さん。本当にありがとうございました。姉さんのおかげで私は、海風は、ここにいます」
「うんうん、よかった。声が届いてて」
「はい。
おや、と中間棲姫が首を傾げる。秘めていた想いを真正面からぶつけているようにしか見えない。
「姉さん、私の道標、いてくれて本当に良かった。愛しています。姉さん」
海風は、箍が外れていた。
海風さんご乱心