白露の声は深夜まで続き、日が変わるくらいのタイミングで途切れた。その声のせいで誰も眠れていなかったのだが、無くなったら無くなったで不安になる。その声が聞こえる限りは白露が生きていることを意味するわけで、それが無くなった途端に生死不明となってしまう。
ずっと気にしていた春雨は、いつもの仲間達とベッドルームにいた。5人でベッドで眠るのには流石に無理があるのだが、温もりのためにぎゅうぎゅう詰めの状態である。叢雲はとても迷惑そうにしていたものの、薄雲に引っ張られて結果的にベッドの端に寝かされている。
「声が……止まった……?」
春雨も例に漏れず眠ることが出来なかった。そして、声が聞こえなくなった瞬間に不安に押し潰されかけ、モゾモゾと動き出す。
「姉さん……やっぱり不安ですか」
春雨の隣には当然のように海風が陣取っていた。その海風も、白露の呻き声が聞こえなくなったことには不安を覚えている。
「……海風、姉さんのところに行ってみようか。姉姫様と妹姫様がずっと看ててくれてるから、大丈夫だと思うけど……」
「はい、姉さんがそれを望むなら、私はお供します」
春雨と海風がベッドから出ようとすると、勿論他の3人もそれについていくと起き上がった。
白露のことが心配なのは何も妹達だけではない。薄雲やジェーナスだって、自分と同じように深海棲艦化した駆逐艦というだけでも仲良くなりたい。叢雲は仲良くなりたいという気持ちは微塵も無いが、自分を殺した相手がここで死なれては困るという気持ちが大きい。
「こんな夜中だけど、私達も行きましょ。シラツユが無事なところを見に行かなくちゃ!」
「うん……ありがとうジェーナスちゃん。姉さんはきっと無事だよね」
どうしても不安は拭えない。その目で無事であることを確認しなければ、春雨は確実に発作を起こす。それに、気になって眠れないだろう。
そのため、5人揃って白露が眠っているであろう部屋へと向かうことにした。叢雲は大分渋い顔をしていたが。
夜の暗がりの廊下を歩く足は少しだけ速くなる。特に春雨は義脚であるため、嫌でも少し大きめな足音が出てしまう。
それに気付いたか、白露の部屋の前を陣取っていた戦艦棲姫が、そちらの方に手を振った。夜も深いので艤装を展開してベッド代わりにしていたため、艤装の方も小さく手を振っていた。
「貴女達は来ると思ってたわ」
「明るいうちから度々来てましたからね」
「ええ。声が聞こえている間は来るなって言ってるのにね」
戦艦棲姫自身は治療を手伝えることは無かったため、治療中に誰も部屋に入らないように見張っていた。実際、春雨は何度も部屋の前に来ては帰れと追い返されている。
待つしかないと思っていても、どうしても手持ち無沙汰になってしまう。そして心配は積もる一方だ。そのため、暇さえあれば部屋の前に行っては、何も変わっていないものの声だけは聞こえる白露のことを思ってトボトボ帰るのみだった。
「今回はいいわよ。処置が終わったようだから」
「良かった……じゃあ、入らせてもらいます」
扉の前から艤装が動き、真っ先に部屋の中に入る春雨。しかし、その部屋の中の匂いで顔を顰めてしまった。自己再生をしながらも流し続けた血が、ベッドの上を汚し続けていた結果、あまり広くない室内はその匂いで埋め尽くされていたからだ。
大きな戦いの後などでこういう匂いを嗅いだことはあるが、艦娘は入渠することでどうにか出来てしまうので、ここまでのものはなかなか無い。少なくとも、春雨達の鎮守府でここまでの大惨事になったことはまず無かった。
「姉さんは……」
ここまでの匂いがすると、最悪を考えてしまう。いくら深海棲艦が傷の治りが異常に早くても、これだけ血を流していたら致死量に達してしまっているのではないかと。
「春雨ちゃん……」
白露の側にいた中間棲姫が春雨の声に振り向く。なかなか見られない随分と疲れた表情。農作業をしていてもここまでの顔は見せない。
それほどまでに、白露の治療で消耗したということに他ならない。実際は白露の根性を見守りながら、不衛生にならないように身体を綺麗にしたりするのみではあったのだが、目の前で苦しむ姿を半日見続けるというのは、精神的に辛いところである。
隣の飛行場姫も、ひとまずは落ち着いたと言わんばかりに大きく溜息を吐いた。中間棲姫と同様に、大分疲れている。
「姉さんはどうですか……声が聞こえなくなったということは、眠ったのかなとは思うんですけど……」
「ええ、今はようやく眠れたわぁ。ついさっきまで激痛を耐え続けていたんだもの。ゆっくり眠らせてあげましょうねぇ」
ベッドで横になっている白露は、先程までとは打って変わって安らかな寝顔だった。布団もベッドも血塗れではあるが、今は起こしてまでそれを取り替えてやるのは酷だということで、そこは翌朝にやることにしている。
「もう安心よぉ。峠は越えたわぁ」
叫び続けたおかげで、ついに命に別状が無いところまで来たらしい。あとはゆっくり休めば健康体になれるだろうと、中間棲姫が保証した。それで春雨はようやく安心出来る。
「この子、恐ろしいくらいの根性ね。長い時間ずっと激痛に耐え続けて、それでも挫けないでいたわ。アンタ達のためにも死んで堪るかってずっと言ってたわよ」
結局腹の中に艤装を作り出すというとんでもない治療は、白露の心持ちのおかげで無事終了した。あんなことをやったら、まず痛みで気を失う。そうでなくても気が狂う程の痛みに半狂乱になって暴れ出してもおかしくない。
しかし、白露は声を上げ続けるだけで終わらせた。消耗しすぎて身体を動かすことが出来なかったというのもあるのだが、気を失わずにこの時間まで耐え続けた。飛行場姫も感心する程の根性である。
「最初の時は、気を失ったらそのまま目を覚まさなくなる可能性もあったからアレだけど、それでも正直驚いてるわよ」
「本当にねぇ……とても頑張ってくれたわぁ」
安らかに寝息を立てる白露の頭を優しく撫でる中間棲姫。この程度では目を覚まさないくらいの熟睡だった。まだ傷の痛みは残っているだろうから、今はぐっすり眠って回復させてやるべきである。
姉としての根性を見せなければ、古鷹が言っていた通りにもう長くはなかっただろう。それこそ、施設に到着する前にその命の灯火は消えていた可能性は高い。
「この白露の傷は、春雨がやったの?」
飛行場姫の言葉に、春雨の身体が強張る。白露が長い時間激痛で苦しんだのは、春雨の渾身の一撃が綺麗に入ったからだ。
「……は、はい」
俯いてしまった春雨。それを見て海風がその手を握った後、飛行場姫に敵意を剥き出しに。姉を困らせる者は許さないと言わんばかりに睨み付けるが、飛行場姫は何も責めていないと続ける。
「完璧な太刀筋だった。これ以上ない、最高最善の一撃だったわ」
激痛に苦しむ白露の身体を拭いてやっている時、改めてその傷を観察していたらしい。それは飛行場姫のみならず、中間棲姫も確認していた。その時に、この切り傷は
その切り傷に、ほんの僅かにこびりついていた
そこから感じ取ったモノは、悪意、敵意、殺意──ありとあらゆる『負の感情』だった。白露を歪ませ、本来の性格を塗り潰し、ただの暴虐の使徒へと変貌させたのは、確実にこれだとわかるくらいだった。
そして、それを身体から外に出すためには、今回の春雨の一撃が本当にちょうどいい傷だったらしい。これ以上浅かったら、泥が外に出ることなく白露は元に戻っていなかった。これ以上深かったら、泥は出ていたかもしれないが白露の命も無くなっていた。この今の傷が、白露が耐えられて、かつ泥が外に出るギリギリのラインだと、飛行場姫は判断した。
「直感的にこの深さって読み取ったのかしら。だとしても、これは神業よ。深くてもダメ。浅くてもダメ。ズレててもダメ。
「そうねぇ。容赦なく行ったから、こんなに傷の塞がりが早いのよねぇ。あまりにも傷が綺麗で驚いてしまったもの」
最近の春雨の直感は目を見張るものがあったが、こんなところでも発揮されていたらしい。その力も、白露に一度耳を潰されたことによって覚醒しかけている力だ。
直感的に何かを感じ取ったり、虫の報せを受け取るだけでなく、起こしたことが最善になるところまで来た。深海棲艦化によって春雨に目覚めたその力は、まだ詳細までは掴めないが、第六感だけでは言い表せないくらいになりつつある。
「とにかく、白露ちゃんはもう無事よぉ。明日の朝になれば元気に目を覚ますはずだから、安心して眠ってちょうだいねぇ」
「はい……良かったです」
ここまで聞いて、心底安心した様子。先程は俯いたものの、今はしっかりと白露の顔を見ることが出来た。
艦娘の時から知っている、気持ちよさそうな寝顔。痛みすら感じていない、身体を休めているものの顔である。
「それじゃあ……姉さんをよろしくお願いします」
「ええ、だから今は寝ておきなさい。不安も無くなったでしょ」
「はい……それでは」
白露の命が助かったことで安心したか、春雨も眠気に襲われる。このままなら気持ちよく眠れそうであるため、駆逐艦達はそそくさと白露の部屋から撤収した。
春雨達が去っていった後、中間棲姫と飛行場姫は軽めに部屋を掃除しつつ、先程の白露のことを改めて話し合っていた。
「あんな泥……初めてねぇ。1つの感情じゃ無かったわぁ」
「繭は溢れ出した感情だけなのよね。なのに、白露の中に入ってたのは、1つどころか数え切れないくらいの感情だったんだっけ」
「ええ……しかも、あれは確実に
今の白露を見ればわかることだが、泥によって狂わされていたのは間違いない。
中間棲姫が知る限り、泥は心が壊れて内側から溢れるものであり、外から入れられるようなものではない。入れられるにしても、泥が生成されるのは心が壊れた時限定だ。好きに出すことなんて出来るものはいない。
ならば、その常識そのものが間違っていると考える。ここにはいないだけで、好きに泥を出すことが出来るものが存在し、他者にそれを注ぎ込むことによって意のままに操る、ないし、性格を変貌させて同志に仕立て上げることが出来てしまう者が存在するのかもしれない。
考えれば考えるほど謎は多いが、まず確実に言えることは、白露を変貌させた者は、この世界に対して強い負の感情を持っているのだろう。繭にならずに泥のまま溢れ続けているくらいに壊れている。
「何処のどいつよ、そんな迷惑なことをやらかす輩は」
「さぁ……でも、前例が出来てしまったのだから、注意するべきよねぇ」
施設に関係ないこととは言えなくなってきている。白露を匿うのは何も苦では無いのだが、それによって平和が壊されたら堪ったものではない。
「……
「あのヒトって……まさか」
中間棲姫が頷く。
「ええ、『観測者』よぉ」
「あのヒト、呼んで来てくれるようなヒトじゃないでしょ」
「そうかもしれないけれど、頼ってみるのは悪いことじゃないでしょう?」
この黒い泥について、彼なら知っているかもしれない。しかし、頼れるものでもない。
久々に出てきた名前、『観測者』。前回顔見せしたのが27話目なので、実に約100話ぶりの登場。