荒潮はもう少し検査があるということで、タブレットの前から姿を消したのだが、深海棲艦を見る目が敵でも味方でもなく
中間棲姫ですらも呆気に取られるそのテンションは、春雨について語る海風と比べても勝るとも劣らない。むしろ、海風よりも広い範囲にその感情を向けているため、その思いは余計に強いようにすら見えた。
深海棲艦のことを悪く見ていないことは、施設にとっては非常にありがたい。このタイミングでのドロップ艦となると説明が非常に面倒臭いことになる上に、艦娘によっては否定的になる可能性だってあった。最初から友好的ならば話をする必要すらなく、むしろ是非とも施設に行かせてほしいとまで言っている始末である。
しかし、荒潮の存在は、どう考えてもジェーナスにとっては地雷である。本人は全てを忘れてしまっている挙句、その時の内容を思考を変質させるきっかけとなる夢として、
対するジェーナスは、それを刺激されると確実に発作を起こす。嫌な思い出を穿り返されて、号泣から錯乱、最悪な場合はまた自死すらも視野に入れてしまう。
荒潮に対して怒りや憎しみが向くことが無い代わりに、自己嫌悪がとんでもない勢いで加速することになるだろう。それだけは避けたい。
「えぇと……提督くん、1ついいかしらぁ」
『いや、言わずともわかる。荒潮を施設に向かわせるのは、流石にすぐには出来ない』
中間棲姫が話す前に、提督がその回答を伝えた。荒潮とジェーナスは今のテンションのまま合わせるのは確実にダメだ。せめてジェーナスが許可を出すまでは無理。画面越しでもかなり厳しいと言える。
実際、荒潮はドロップ艦、一切の練度を持たない、いわば
『ドロップ艦は、しばらくは鎮守府内で訓練し、ある程度の練度となって初めて実戦に投入するようにしている。なので、荒潮が施設に向かえるのは、少なくとも今すぐではないよ』
「それなら安心だわぁ。ジェーナスちゃんには話をしておくわねぇ。今はあまり顔を合わせない方がいいと思うから」
『ああ、同感だ。荒潮はさておき、ジェーナスには最低限の心構えが必要だろう。流石に今の彼女の心境で元凶と顔を合わせるのはよろしくない。こちらでもどうにか制御をしておく』
提督もその辺りはちゃんとわかってくれているので安心である。問題は、荒潮の独断専行を食い止めることのみ。とはいえ、練度が無いようなものである荒潮を食い止めるのは実に簡単なことである。
「ちなみに……荒潮ちゃんに真実は伝えるのかしらぁ?」
失われた記憶を伝えるかどうか。これは結構な問題点である。荒潮自身が何故こうなっているかを自覚することで、施設に対する感情は一変するだろう。罪悪感は確実に出てくる。
だが、それでもこの愛を失わなかった場合、荒潮の中で感情がどうなってしまうのかは誰にもわからない。それこそ、
そうなったら最後、荒潮から泥が溢れ出すかもしれない。愛する者達を傷付けたというのは、それだけ心に強いショックを与えるだろう。
『正直なところ、今は保留にしてある。いつかは知る必要があるかもしれないが、それが今かと言われたら何とも言えないんだ』
「そうねぇ……。最後まで知らない方がいいかもしれないし、この施設に来れるようになったら真実を知ってもらうのもいいかもしれないわねぇ」
『ああ。だから、今は保留だ。僕だけでなく、大将にも話をするつもりでいる』
こればっかりは1人で決められることではない。そう判断した提督は、荒潮の件も含めて悪意の塊への対策について大将と話す場を設けるとのこと。
陸で行われることに口出しは出来ないため、中間棲姫は全てを任せる方針。だが、もし機会があれば3人での会談を開きたいとも思っていたりする。又聞きばかりではあちらも面倒くさいだろう。
『結論を纏めよう。泥──悪意の塊の対策は、ある程度出来た。既に侵蝕されている者に対しては投薬によって治療が可能だ。次はそもそも侵蝕されないようにする手段を開発している。艦娘と深海棲艦を判別するセンサーは既に完成しているため、次は深海棲艦と泥の判別が出来るようになるところだ。それも明石は午前中には出来ると話している』
それも驚くべき進歩だった。荒潮1人を鹵獲出来たことで、対策が次から次へと出来上がっていく。
しかし、その結果の1つが荒潮の
『悪意の塊への対策が完成次第、こちらからまたそちらに部隊を派遣しよう。同じモノがそちらにあるべきだと思う』
「ええ、そうあってくれるとありがたいわねぇ。泥を感知するとか出来るかわからないもの。どうなるかわからないけれど」
中間棲姫は泥に関しては感知出来る可能性はある。何せ、その悪意の塊は本来
『ではそういうことで、今はコレで終わろう。荒潮の検査がそろそろ終わるのでね』
ここでまた荒潮が通話の中に入ると、話が長くなるどころか、いろいろと大変なことになりかねないので、一旦終了。
通信が切れたところで、中間棲姫はふぅと息を吐いて苦笑する。あれだけ強すぎる好意を向けられたことが無かったので、大分焦ってしまったと。
中間棲姫のみならず、画面内に納まっていた全員に対してハートマークを飛ばし続けていたのは、今までになかった。春雨だけは近しいものを間近で見ているが。
「無傷で治療されたことはいいことですよ。でも、ジェーナスちゃんにはどう伝えましょう」
これが一番重要。実際は包み隠さず鎮守府の状況を全員が共有するべきなのだが、そもそも話せるかどうかというのもある。しかし、話さないと進まないというのもあるため、どうやって話すかというところに落ち着く。
「……今まで通り、嘘も何も無く、真実を知ってもらうことにするわぁ。ジェーナスちゃんだって、開き直ろうと頑張っているんだもの」
ここで中間棲姫は決断。ズルズルと先延ばしにしてもいいことはないため、漁から帰ってきたらすぐに話すということにした。
充分開き直っていたところでもう一度突き落とすようなことは言えないため、早ければ早い方がいいだろう。
漁が終わるのはお昼前。哨戒をしている3人はまだ戻ってきておらず、昼食の用意は春雨と海風がやっていたのだが、そのダイニングにジェーナス達が入ってきた。
「そこそこ釣れたよ。全員分は行けたかな」
「わ、いい具合ですね。じゃあ夕飯はこれを使いましょうか」
白露が釣果を見せている中、ジェーナスも小さく息を吐いていつもの席に座った。いつもの快活さはやはり薄れており、表情もあまり明るくは無い。
釣りの最中も、どこかぼんやりしているというか、心ここにあらずという感じだったらしい。どうしても思い詰めてしまうところがあるようだ。
「ジェーナスちゃん、少しいいかしらぁ」
そんなジェーナスを見て、少しだけ抵抗はあったものの、だからこそ先延ばしは出来ないと改めて思い、中間棲姫は話しかける。
その声を聞いて、一瞬耳から抜けそうになったようだが、ハッと気付いて中間棲姫の方を向いた。やはり浮かない表情。
「なぁに、姉姫。大丈夫よ、私は開き直るって決めたんだから」
「あの時のドロップ艦、荒潮ちゃんが目を覚ましたそうよぉ。しかも、あちらの尽力で侵蝕から解き放たれていたわぁ」
荒潮、というかドロップ艦という言葉が耳に入った瞬間、ビクンと震えた挙句、表情が固まった。手も震え始める。
「そ、そう……良かったわ。侵蝕が無くなったってことは、もう……もう、おかしなことにはならないってことよね。喜ぶべきことよね」
「ええ……ただ……ねぇ。荒潮ちゃん、あの時のことを全部忘れてしまっているみたいなのよぉ」
自分がやられたことを後悔なり反省なりしているわけでもなく、全てを記憶から消して生きている。それをジェーナスがどう思うか。ここが問題である。
中間棲姫はさらに続ける。ここからはもっと辛いことを言うことになるかもしれない。
「でも、当時のことを夢に見たらしくて……そこからいろいろな後遺症が重なって……その、とんでもない性格になってしまっていて」
「姉姫はアラシオの今を見たのね。どんな感じだったの……?」
「私達
中間棲姫にしては歯切れの悪い言い方に、ジェーナスはいろいろ察した。
「そ、そう、なんだ。もしかして……夢で見た私に会いたい……とか言っているみたいな」
「まさにその通りよぉ。ただ会うだけじゃなくて、あえて本人がそのまま言っていた通りに伝えるのだけど、深い仲になりたい、くんずほぐれつしたい、だそうよぉ」
ジェーナス、再び硬直。自分のトラウマを作った相手が、自分に対して明確な
実際、荒潮は夢の中で出会った色白の女の子──つまりジェーナスに対して、強すぎるくらいの愛情を持っているのは間違いない。実は悪意をもって侵蝕したときの記憶なのだが、それ自体を忘れてしまっているため、その全てが美化されて今に至っている。明石の薬の効能により快楽に呑まれてしまったことも、思考回路がそうなってしまった一因であるのは言うまでもない。
その表現が異常で過剰でも、純粋な恋心からあの言動が出たに過ぎないのだ。何もかもを飛び越しているのは考えものだが。
「……私は……その……」
「今でこそ鎮守府からは出てくるようなことは無いとは思うのだけれど、もしかしたら顔を合わせる機会が来るかもしれないわぁ。それに、私達はコレで鎮守府と繋がっているんだもの。画面越しに対面、なんてこともあるかもしれないわぁ」
コレとは当然タブレット。先程もそれで荒潮の様子を確認したのだから、また同じことが起きるかもしれない。ただでさえ荒潮が施設の深海棲艦達に興味津々であるため、通信中に突然割り込んでくるという状況がある。
その時にジェーナスは通信の場にいなければいいだけの話なのだが、毎回確実にそういうことが出来るかはわからない。
「……ううん、何度も言うようだけど、私は開き直るって決めたんだもの。アラシオが何も覚えていないのは、正直……その、何でって思っちゃったけど、嫌な思い出は覚えていない方がマシなのは私だって理解しているわ」
まだ手は震えているが、ジェーナスは正しく現状を理解している。荒潮は何も悪くない。悪いのは荒潮を最初に侵蝕した悪意の塊だけだ。今の性格になってしまったのも、その侵蝕から解き放とうとした結果なのだから、否定するモノでは無い。
いわば、自分の我儘で現状を進ませないようにしてしまいかねないと思った。だから、ジェーナスは我慢する。
しかし、中間棲姫はその感情を即座に看破する。
「ジェーナスちゃん、本心を言ってもらえると嬉しいわぁ。ジェーナスちゃんはそういうことが言える権利があるんだもの」
見透かされたような発言に、ジェーナスはまたビクンと震える。中間棲姫の前では隠し事は出来ないと、すぐに悟った。
「……私としては、アラシオには会いたくない。顔も見たくない。アラシオが私にLoveの気持ちを持っているとしても、私はそれに応えられない。嫌い、大嫌い」
ジェーナスにしては、かなり強い拒絶の言葉。好きか嫌いかで言えば、嫌いの方に行くのは仕方ないこと。
それを言葉にしたことで、ジェーナスは少し涙目になっていた。負の感情を持つこと自体が自己嫌悪に繋がるのだから、もうこれは殆ど発作に近い。とはいえ、当たり散らすなんて初めてのことなので、ジェーナスは変に感情が昂ってしまっている。
「でも、でもね。私が大嫌いなのは、その私を好きって言ってくれるアラシオじゃない、私を滅茶苦茶にしたアラシオなの。だから……だから、アラシオだからって毛嫌いするのは、違うって思うの」
震えを振り払って、涙もゴシゴシと拭いて、強い瞳で中間棲姫を見た。その表情は開き直ろうとする意志を持っていた。
「……そう、それなら、次の機会に荒潮ちゃんと話してみる?」
午後はジェーナスが哨戒に向かうため、やるのなら明日の午前中くらいになるだろう。その時に荒潮と画面越しの対面をするかどうか。
「……考えさせて。私も、覚悟を決めるときが来ると思うから」
「ええ、好きなだけ考えてちょうだい。嫌だと言っても、誰も何も言わないわぁ。それがジェーナスちゃんに与えられている権利なんだもの」
ジェーナスは荒潮と向かい合うつもりではいる。開き直るためには、これを乗り越えなければいけないとすら思う。
しかし、それが上手く行くかはわからない。嫌悪感を表に出してしまうかもしれないし、泣き出してしまうかもしれない。
今、ジェーナスも決断の時。
ジェーナスと荒潮、お互いに持っている感情があまりにも噛み合わないため、対面すら難しいかもしれませんが、ジェーナスは開き直るために選択します。これは逃げても誰も文句は言いません。