黒い繭が施設に保護されたことは、堀内鎮守府に所属する艦娘全員に知れ渡った。今はその黒い繭に悪い影響を与えないようにと、調査隊の派遣も控えることにしている。
施設側ですら、艦娘から感情が溢れて泥に包まれる現象が何なのかがわかっていないのに、それ以上にわかっていない艦娘達が向かうのは、流石にやめた方がいいと提督が考えた結果。対話ならいつでも出来るし、幸いにも直に向かったのはつい最近。
「状況は逐一教えてもらうつもりだが、こちらから関わり合うのは控えた方がいいだろう。ただでさえ溢れた感情が『恐怖』だというのなら、僅かなズレで目も当てられないことになりかねない」
繭に包まれているのだから、外で何が起きているかなんて中の者には伝わらないはずなのだが、身近にずっといた春雨の声を、中の海風が聞いたという証言もあるため、何がどう作用するかわからない。
艦娘達が周囲にいるからこそ良い影響を与える可能性もあるのだが、当然悪い影響になる可能性だってある。どう転んでも良いというのなら調査隊を向かわせるのだが、そうで無いのなら触れない方が確実。
「『恐怖』ってことは、相当酷い目に遭ったってことですよね」
お茶を淹れながら五月雨が話す。溢さないようにとやたらと慎重なのだが、提督の言葉に反応したことで集中力が途切れかけていた。若干ハラハラする展開だったが、お茶は溢さなかったので一安心。持ってくる時にも気をつけるように注視。
「ああ。大将が調べてくれているが、その子はおそらくドロップ艦だ。右も左もわからないような状態で襲われたら、少し気弱な者ならば恐怖に呑まれてしまっても仕方ないことだろう」
「余程想定外が無いと、そこまでにはならないと思いますよ。例えば……」
「例えば?」
「……信じていたヒトに裏切られたとか」
言っていて気が滅入ったようで、今のは無しと手を振る。
裏切りが恐怖に繋がるかはさておき、何かあったのは確かだ。そして、龍驤がドロップ艦を侵蝕していたという情報も入っている。ならば、もしかしたらその艦娘というのが、犠牲者の顔見知りだったのかもしれない。それか、実は複数人がドロップしていて、自分以外がやられたか。
どうであれ、心が壊れる程の恐怖を感じたのだから、龍驤が今現在やっていることは相当なことであるとわかる。勿論、鎮守府の面々のみならず、施設の者達も、
「我々は孵化してから考えればいいだろう。話せるようなら理由を彼女達が聞いてくれるはずだ」
「ですね。でも、まともに話が出来ますかね……」
「どうだろうか。妹姫が側に居続けるつもりのようだが、それで海風のように溢れた感情を塗り潰してしまえば、まともに生活は出来るようになるかもしれない」
それが正しいかと言われれば何とも言えないのだが、生活出来ない可能性があるよりは、確実に生活出来るようになってもらっていた方が良さそうではある。それが心をより歪めることになったとしても、背に腹はかえられないと考えるか。
施設の者達ではなく、大塚提督なら真っ先に推奨しそうだと苦笑する。彼ならば、最もマイナス面が少ないところを優先する。恐怖に慄き動くことも出来ないような者より、歪んでいても話が出来る方がマシだと。
「難しいところだ。何もかも忘れていればいいが、そんなことは無いだろうからね」
「その時の記憶だけ無くなってるなんて都合のいいことは無いですよね……絶対悪い方向でおかしくなってますよ」
奇しくも、情報共有より前に姉妹姫が話していたことを提督と五月雨も話していた。泥が溢れたことで記憶を失い、そして一緒に恐怖そのものを失っていたらどうなってしまうのか。
「……確か、繭が孵化した時、その破片を取り込ませる……という話だったな」
「はい、私もそう聞いていますよ。万が一こちらで繭を見つけちゃった時の対処法を聞いてますから」
「取り込んだことで、溢れた艦娘は艦娘としての心を取り戻す。取り込まなかった、取り込めなかった場合は、最初期の叢雲のように完全に壊れた状態となる。これもわかっていることだね」
ふむ、と考えるように腕を組む。
溢れた感情が泥となっているのなら、あの繭は
「あえて泥を取り込まなければ、恐怖は失われるのかもしれない」
「でもそうすると、
「おそらくはな。あちら立てればこちらが立たぬとはよく言ったものだ。全部いいとこ取りはさせてもらえない」
妙案といえば妙案ではあるが、それこそどうなるかわからないような手段だ。なるべくなら避けるべき。
「本当に、あの泥っていうのは何なんでしょうね。春雨や海風からも溢れてるわけですけど」
「感情が溢れた結果が泥だとしたら……黒幕の泥も全く同じように生成されているのかもしれないな。深海棲艦が溢れたら、器と中身が分離する……なんてことがあったりして」
「艦娘と深海棲艦が似たような存在なら、深海棲艦だって溢れることはあるかもですよねぇ」
今は考えてもキリが無さそうである。それを知るのは黒幕だけ。ただでさえ、溢れた艦娘達ですらその辺りはよくわからないのだから、むしろ考えれば考えるほどドツボにハマっていく。
「今は彼女らに任せて、僕達は出来ることをやっていこう。敵意を拒む力を貫く手段の開発を優先だ」
今鎮守府が出来るのは、繭についてではない。何としてでも黒幕を撃破することにある。
施設の者達を手を煩わせず、特に最も力を持たないミシェルの力を借りなければならない状況は避けたいため、その手段をどうにかして見つけなければならない。
「明石さん……大丈夫ですかね」
「大淀が監視しているから大丈夫だと思うが、一応見に行っておくか」
話している内に不安になったか、提督と五月雨は工廠へ。
今頃明石は現在進行形で研究と開発を続けていることだろう。しかし、無茶をするのもわかっているため大淀が制御役として常に隣にいるのだが、それでも不安になってしまうのは明石が明石たる所以。
工廠の奥、明石の研究部屋。大淀と共に今回の敵への対策を日夜研究しているのだが、今は珍しく行き詰まっていた。
「あー! ホンットにわかんない! 物が無い状態での研究がこんなに難しいなんて!」
「いや、物が無いから難しいんでしょう。治療薬だって、泥が確保出来たから完成したようなモノでしょうに」
「そうだけど! そうだけどもさぁ!」
頭を抱える明石を見て、溜息を吐きながら紅茶を用意する大淀。明石の頭を回転させるため、砂糖を少し多めに。
「なんなのさ特性って。目に見えないけど敵対する相手を拒む空間? 見えてないんだから作用しないでしょ!」
「そうかもしれないけど、深海棲艦はそういうものだって考えるのが」
「いや、違う。今までの成分解析から、深海棲艦は艦娘と殆ど同じってことはわかってるの。だから、この特性だって絶対解析出来る。目に見えないっていう考え方が多分間違ってる」
大淀との対話形式で考えを纏めて、次へ次へと繋げていく。1人で研究するよりは確実に捗り、自分とは違う見解を混ぜ合わせることによって新たな道を探り、引き寄せる。
「じゃあ、見えないだけでそこにあるってこと?」
「それが一番妥当じゃない? だって、泥だって調べてみれば目に見えないくらい小さい微生物の塊みたいなものだったわけだからさ……え、そういうこと?
辻褄は合うが、だとしてもそれが何をしたら敵対する者を拒むなんて作用になるのかがわからない。
考えられるのが、知らない間に散布されている泥が付着し、真っ直ぐ進んでいるように見えて実は逸れているという動きをさせられるということ。そして範囲から離れたら付着していた泥が剥がれてまた元の位置に戻る。
これもある意味
泥がそもそも魂を侵蝕して自分の思い通りに洗脳するということを考えれば、この特性も泥の延長線上にあると言われれば納得出来る。一定の空間に微生物が漂っていると言われると、それはそれで恐ろしいものがあるが。
「だったらあの眼鏡で見えるはず。それに、開発した波長を使えば掻き消せるかも」
「ある程度の塊になっているから消せるというのは考えられない?」
「うっ……確かに。泥は群衆になってるから波長が効くけど、目に見えない空気みたいな状態だと、感知すら通用しないか。でも敵対する者にだけは作用して、しっかり仕事だけはすると。無茶苦茶すぎるでしょ!」
答えには近づいているのだが、対策がまだ出来ないというのが現状。そしてそれが確実に通用するかと言うのもわからない。
むしろ、中間棲姫のように優しい洗脳ならば、敵対する者を拒むだけで済むが、黒幕はそんなことでは終わらない。見つからない挙句、その一切見ることの出来ない微生物のような泥が入った時点で、ゆっくりゆっくりと侵蝕されていく可能性だってある。
そうなると、その空間に入ること自体がアウトだ。おそらく完全に密封しているはずの防護服越しでもすり抜けてくる程に小さく、時間をかけることで終わりに近付くという最悪な空間。
「なら、感知出来る範囲をもっと強くする?」
「限界はあるよ。それを超えられたら、何処までやっても空間が見えない。それで飛び込んじゃったらアウト」
眼鏡で見えるのはあくまでも泥。微生物1体1体を見ているわけではなく、塊になっていること前提の感知である。確認したわけではないが、泥を顕微鏡で見てもそれが見えるかどうかわからないレベルなのだから、それを見えるようにするのは流石に無理。代わりに体内に含まれていても見えるようにしているのだ。
というか、1体1体見えるようにしたら、情報量が多すぎて眼鏡が壊れる可能性すらある。
「だったら、遠くからその空間が見えるだけというのは」
「まずはそれかなぁ。空間ってことはある程度敷き詰められてるって考えるのが妥当だよね。なら、例えばセンサーがその空間の先が見えなくなってる場所を見えるようにしてみる……かなぁ」
泥を見るように、
「まずはそれからにしよう。狂わされる空間が見えるようになれば、次に繋がるからね。うん、そうしよう。万里の道も一歩から、だよ」
「そうね。時間はあまり残されていないかもしれないけど、焦っていくつも飛ばすことは出来ないから」
「そうと決まれば、まずは眼鏡の改良からだね。範囲を拡げればある程度は変わるかな……試してみなくちゃわかんないか」
方針は一応決まったようである。とはいえ、まだまだ難所は続く。
「調子はどうかな」
ここに提督と五月雨が入ってくる。ちょうど方針が決まったところなので、明石がニコニコしながらいつものマシンガントークで説明を始めた。この調子なら、まだ先に進めそうである。
対策はゆっくりとだが確実に開発されていく。こうしている間にも、裏側では龍驤が勢力を拡げているのはわかっているが、だとしても、一歩一歩進んでいかねばならない。
最終的に勝つために。
明石の頭を回すために大淀がいる。ストッパーではあるけども、ブースターでもある。