深夜哨戒から戻ってきてグッスリと眠っていた春雨と海風が目を覚ましたのは、ちょうど昼食時。時間にしたら夜に眠るより格段に時間が短いのだが、生活習慣がキチンと出来上がっているのか、明るい中で眠っていると睡眠時間が減ってしまう。
とはいえ、それだけの眠りでもスッキリしていた。特に海風は、春雨の温もりの中で眠ったことによって、それはもう蕩けきっている程に。
「海風、そろそろお昼だから起きようか」
「もう少しこのままで……姉さんの温もりがあまりにも心地よくて、手放したくない気分なんです。妹姫様のボディスーツを着てもらえて、もう本当に幸せで、これ以上無いくらいに至福の時間を過ごせています。最高に気持ちいい夢も見ることが出来て」
「あはは、それはよかった。でも時間は時間だから、そろそろ、ね」
「名残惜しいですが仕方ないですね」
最後に思い切り頬擦りをしてから、海風は残念そうに春雨から離れる。これを許してしまうと、おそらくもうしばらくここから動けなくなる。今日はもうやることはないのだが、それはそれで勿体ない。
離れたところを見計らって、春雨は服をいつもの制服姿に。海風もそれに倣って準備完了。あとはダイニングに向かうだけなのだが、ここで想定外なことが起きる。
「いやぁあああああっ!?」
突然の叫び声。施設中に響くほどの声は、春雨達には
「えっ!?」
「初めて聞く声……もしかして、繭が孵化したんじゃない!?」
施設の中で知らない声が発せられる可能性があるのは、それしかない。一応、このタイミングで実は外部からお客様が来ていたなんてこともあり得るかもしれないが、少なくともこんな
「ベッドルームだったよね。行こう!」
「は、はい!」
春雨達は急いで叫び声が聞こえた部屋へと向かった。
ベッドルーム。そこでは飛行場姫を中心に
孵化したからにはまず真っ先に繭の破片を自身に取り込まなくてはならない。そうして溢れた感情を自らに取り戻して、艦娘としての思考を残したまま深海棲艦化する。
しかし、その少女は恐怖が溢れた存在。今ここで見える全ての風景に
飛行場姫が怖い。見知らぬ施設が怖い。周りに散らばる破片が怖い。何もかもが怖い。最初から理性も何もあったモノではない。
「いい、落ち着きなさい。大丈夫。今ここにアンタに害を与えるモノは何も無い。アタシも、他の子も、全員アンタの味方、仲間よ」
「ひっ、ひぃっ!?」
「大丈夫、信じなさい。時間が足りなくなる」
怖がっている少女に対して、飛行場姫は冷静に手を取る。触れられることも怖がり、悲鳴を上げながら手を引こうとしたが、飛行場姫の声が聞こえた瞬間、ほんの少しだけ震えが治まったように見えた。
繭の中でも聞こえていた声であることに気付いたのはここだった。この少女が心を壊すほどの恐怖を感じた瞬間を悪夢として反芻させられている合間に、何処か落ち着く声が聞こえていたのを思い出す。
その声は、とても凛々しく、それでいて静かに冷静に、自分のことを思い遣った言葉を投げかけてくれていた。恐怖を払拭することは出来ずとも、縋る先としての認識を持つには充分だった。
「ひっ……わ、私、私は、なんで、何を」
「大丈夫よ、大丈夫。でも、まずはやらなくちゃいけないことがあるの。素直に、アタシの言うことをやってちょうだい。大丈夫、怖くないわ」
飛行場姫の声だけは耳に入るのか、震えながらも小さく頷き、その説明を聞く。春雨の時と全く同じ説明をされ、少女は言われるがままに破片に手を伸ばした。
瞬間、今までの恐怖に対しての悲鳴ではなく、取り込まれる繭の破片からの衝撃によって声を上げることになる。
しかし、恐怖に慄いている間に、僅かではあるのだが破片の一部が霧散しているのがわかった。全てを取り込めたとしても、完璧に全てを回収出来たということにはならない。
つまり、若干
「ひぁあああっ!?」
全てを取り込み終わったことで大きく衝撃を受け、ビクンビクンと震えた後に突っ伏す。それを止めるために飛行場姫は少女を抱き締めるように受け止めた。
「お疲れ様。ひとまずは処置は完了。多少はスッキリしたんじゃないかしら」
背中を摩りながら、より落ち着かせていく。繭を取り込んだことで、錯乱するほどの恐怖に苛まれることは無くなったようだが、それでも常に恐怖が燻るのは変わっておらず、飛行場姫に抱かれていても小さな震えは止まらない。だが、悲鳴は止まった。
「いい、もう一度聞いてちょうだい。ここにはアンタの敵はいないわ。みんなが仲間だから。怖くない」
言われても払拭出来ないのが溢れた感情である。叢雲がいつもプリプリしているように、この少女はいつもビクビクしていることになるだろう。仲間に対しても恐怖し、おそらく人見知りのように目も合わせられず、まともに話すことも出来るかわからない。
「落ち着くまでこうしているけど、どうする?」
「う、あぅ……ずっとこうしていて、ほしい、です」
やはり震えが止まらないようで、唯一気が許せそうな飛行場姫に触れ続けていれば、多少は会話くらいなら出来そう。
恐怖を払拭することは出来ず、しかし飛行場姫に若干の依存。繭に語りかけることによって恐怖を緩和するという作戦が上手く行っているようには見えないのだが、実際はこれでも十分に緩和されていた。
飛行場姫の声に反応出来ていなかったら、繭の破片を取り込むことすら出来なかっただろう。そうしたら最後、艦娘らしさも失われ、周囲をただ怖がり、本能のままにそれを排除しようとする存在へと成り果てていた。そうならなかったのは、少しだけでも処置が上手く行っている証拠。
そして、少女は飛行場姫が近くにいれば、ある程度は落ち着けた。逆に、飛行場姫の声が聞こえない場所だと恐怖に怯えることになる可能性が非常に高い。そうならないように、仲間達は怖いものではないと教え込む必要がある。
「まずは服を着ましょうか。流石にそのままは嫌でしょ」
「ふぇ……あ、ぴぁあっ!?」
若干落ち着いてきたところで飛行場姫に指摘され、今度は羞恥心で悲鳴を上げる。
今の少女は孵化したばかりなので当然全裸。身長からしてみればおそらく駆逐艦なのだが、おそらくと感じるのはその豊満な胸である。平均以上はあるが中間ほどの春雨、それ以上のモノを持つ海風といるが、この少女はさらにそれ以上のモノである。
だからか、飛行場姫に教えられてどうにか制服を作ったところ、駆逐艦ならよく着ているであろうセーラー服姿となった。出るところが出ているのでいろいろと大変なことになってはいるが。
「うぅ……着ました……」
「よろしい。じゃあ次。アンタの名前を教えてくれる? アタシは見ての通り深海棲艦……艦娘からは飛行場姫って言われてるらしいけど、ここでは妹姫と呼ばれてるわ」
「……う、潮……です……特型駆逐艦……綾波型の……」
繭から孵化した少女は、駆逐艦潮。艦娘の時からも恐怖によって心が壊れるのも頷けるような控えめな性格であり、後ろ向きというわけではないにしろ、自分から前に立つような性格ではない。それがドロップ艦となると、戦闘の経験が一切無いことでさらに顕著になる。
「潮、ここの施設のことをしっかり教えてあげる。少なくともアンタが怖がることは何一つとして無いことを知ってもらうわ。ここでなら落ち着けるはずだから」
「そ、そんな……こと……。怖い、怖いんです……妹姫さんは、その、落ち着けるんですけど、それ以外は、全部……」
服は着たものの、飛行場姫から離れることはなく、ずっと抱き着いたまま動かない。その身体は常に小刻みに震えており、周囲の環境が全て恐怖の対象となってしまっていることがそれに繋がっている。
やはり、叢雲と同じようなモノ。この世の全て、自分にすら怒りが湧く叢雲のように、全てに対して恐怖を抱くのが潮である。唯一、飛行場姫だけは繭に語りかけていたことで落ち着ける声という認識となったものの、それ以外には慣れるのは難しいか。
「ああ、春雨と海風、おはよう、ちょうどよかったわ」
「はい、妹姫様の言いたいことはわかります。勿論、私達が潮ちゃんの友達になりますよ。その方が楽しく生きられますから」
「ですね。同じ境遇のようなものですし、春雨姉さんが率先して手を伸ばすなら、私も同じように手を伸ばします。仲が良ければ居心地はいいですしね」
春雨が手を伸ばすが、やはりまだ恐怖が先立つようで、飛行場姫から離れようとしない。目も合わせることも出来ず、ガタガタ震えるのみ。
こうなる前に余程怖い目に遭ったのだろう。敵意が全く無い温厚な春雨の表情を見ても、本質として湧き立つ恐怖には抗えない。
「大丈夫、私達は潮ちゃんの仲間だから。同じように繭になって、この身体になったんだよ。仲間というか、同志というか、ともかく友達になりたいな」
そんな言葉に対しても、潮はひっと声を上げて飛行場姫に抱き着く。本当に怖いモノから逃げる子供のように怯えて震えるのみ。
「潮、アンタ何があったの。ここにいる子達は、アンタが思ってるような怖いヤツらじゃないわ。私の仲間なんだもの」
「で、でも、でも、
気になる発言。実際にそれを見た、いや、経験してきたような発言である。
「……潮、嫌なことを話させることになるかもしれないけれど、教えてちょうだい。アンタ、一体何があったの。何があってこんなことになったの」
抱き締めながら頭を撫でて、ゆっくりと落ち着かせるように話す。事情を知っておけばさらに親身になれるはずだ。
しかし、恐怖で心が壊れる程の経験を、本人の口から語らせるというのは酷なこと。ただでさえまともに話すことも難しい潮にそれをやらせるのは難しい。
しかし、飛行場姫からの頼みだからか、潮はポツリポツリと話し始める。
「……私、その、海の上に突然生まれたんです……その時、一緒に生まれた子……姉妹艦の子もいて……」
そういうことも稀にある。ドロップ艦は必ず1人でそこに現れるというわけではなく、偶然にも同じタイミングで2人現れたという事例もあった。
潮はそのタイプだったようで、しかも一緒に生まれたのが姉妹艦。その艦娘の名前は曙というそうだ。
「そこから、その、本能的に、鎮守府を探したんです……2人で……。そうしたら、また姉妹艦の子に会って……。物凄く偶然が重なるなって驚いて……。それで……その子は鎮守府所属だって聞いたので連れて行ってくれることになったんです……」
ここで誰もが理解した。その姉妹艦というのに裏切られたのだと。ならば、鎮守府所属と話したのも嘘だったのか。
その姉妹艦というのは、駆逐艦漣。他の鎮守府では初期艦として運用されることもある、なかなかの実力者。そう話されたので、その時は信用したらしい。
「そうしたら……その、漣ちゃんが突然曙ちゃんに……曙ちゃんに何かを
「それって……泥かしら」
「っ……はい、泥でした。黒い、黒い泥でした。それに呑み込まれた曙ちゃんが……ひっ、何だか、
姉妹艦が泥に呑まれる瞬間を目の前で見せられた。これが恐怖で心を壊すきっかけだ。知っている、信頼出来ると思っていたものに裏切られ、目の前で仲間を狂わされ、よくわからないモノというものに変えられたとなったら、気の弱い潮なら壊れてしまってもおかしくないかもしれない。
「よくわからないモノ?」
「泥が、泥が身体に纏わりついて、顔も全部埋め尽くして……でも曙ちゃんってわかって……。次は私だって見つめられて、怖くて、怖くて、そこから逃げ出したんです……。そうしたら……もういいやって後ろから撃たれて……」
「……そう、もう大丈夫よ。嫌なことを話させてごめんなさいね」
ここまで話すのが精一杯。口移しで注がれたわけではなく、吐き出した泥をそのままぶちまけられたことで、内部からではなく外部から侵蝕されたということだろう。だから、見た目的にはよくわからないものになっていった。
今頃はそれを体内に取り込み、荒潮や鹿島のように見た目だけは艦娘として活動しているだろう。もしくは何処かで改造されて、艦娘すら辞めさせられている可能性も無くはない。
「潮ちゃん、それ、私達にも無関係じゃないの。必ず解決する。そのために動いているんだ。だから、私達のこと、信用してもらえないかな」
「ひっ……」
「大丈夫。私達は絶対に潮ちゃんを裏切らない。約束する。この約束を破ったら、むしろ逆に後ろから撃ってくれても構わない。それくらい自信があるから」
ニコッと笑って、改めて手を差し出す。飛行場姫以外は恐怖の対象となってしまっていても、この春雨の自信満々の笑顔は、不思議と信用出来そうに思えた。
「そうです。春雨姉さんが裏切るわけがありません。大丈夫です。春雨姉さんは救世の女神、潮さんのことも救うために」
「海風ー、ちょっと今はやめよっか」
海風のこのノリも、嘘では無いと信じられるようなモノ。だからだろうか潮の中からは、少しだけ恐怖が取り除かれた。
「……よ、よろしく、お願い、します……」
「うん、よろしくね。大丈夫だよ。ここにいるヒト達はみんな信用出来るから」
飛行場姫の陰からおずおずと手を伸ばしたところを、春雨がしっかりと握手。恐怖でビクンと震えるものの、ほんの少しだけ心を開いたようにも見えた。
孵化した潮が施設の一員となる。まだ恐怖に呑まれて飛行場姫の近くから離れられないが、一歩ずつ一歩ずつ成長していくことになるだろう。
繭の中にいた者は潮でした。そして、黒幕陣営にいるのは漣。曙もあちら側に取り込まれてしまったようです。