春雨は初めての激情に突き動かされ、その熱に浮かされながらも暴走を続ける。どれだけ暴れても、どれだけ壊しても、その怒りはまるで晴れることはない。その怒りの源となっているもの、漣と曙が目の前からいなくならなければ、この熱は冷めない。
それに、海風と戦艦棲姫が敵対していることも怒りに繋がる。これは
艦娘としての誇りなどとうに消え、自らこの道を選び、獣となる。そしてそんな手段しか取れない自分自身に怒り続ける。故に、この怒りは止まることを知らず、時が経てば経つ程に増す一方。
「アァアアアあああぁああアァアあぁあっ!」
吠える。吠えるほどに怒りはさらに表に出る。耐えられない程の熱量はマグマとなり溢れ、手の甲から撒き散らされる。
深海棲艦となってから、春雨は二度目の感情の溢れを経験することとなった。その結果がこれだ。激しい暴走を引き起こし、本来溢れていた寂しさが吹き飛ぶ。怒りに感情全てが支配され、それこそまさに深海棲艦と言わんばかりの変貌を遂げた。
ただでさえ、春雨からは程遠い軽装となっているのに、怒りが溢れるほどさらに変化、いや、
流石にこの時は恐怖もあってか、海風は春雨から離れていた。ずっと腕を掴み続けていても、体内で泥の蒸発の熱を与えられ続けるのみ。漣が無事に移動出来ている上、春雨自身が変貌のためにその場で動かなくなっているのだから、触れているだけでキツいとなれば、わざわざそのままでいる必要もない。
「ダメ、やっぱり砲撃出来ない……!」
離れ際に春雨を始末しようと主砲を構えるが、やはりトリガーは引けなかった。春雨の近くにいると、攻撃という行為が一切出来なくなる。魚雷も放つことも出来なかったし、右腕を刃に変形させたら途端にまた溶け出した。
ただ溶けるだけなら、春雨の怒りの熱量としてもいいかもしれないが、攻撃行為全てを封じるというのが理解出来ない。しかも、その状況で春雨は一方的に攻撃をしてくるのだから余計にわけがわからない。
「なんて厄介な……辿り着く力の一種なんでしょうか」
いつもなら褒め称えてマシンガントークに発展しているのだが、今の海風には春雨のその力は疎ましいものでしかない。姉がこうなっていることも気に入らないというくらい、侵蝕される前と比べれば正反対にされてしまっている。
「アァアっ、あぁああアアぁああっ!」
その声が聞こえたからか、また吠えたかと思いきや、新たに生やした脚で海面を蹴って海風に襲いかかる。最愛の妹であろうが、今の春雨にとっては怒りを発散するために破壊するもの。これがまだ侵蝕されていないのならば話は変わるのだろうが、今の海風は春雨にとっては敵。怒りの中で割り切ってしまったことで、海風ですら攻撃対象になっている。
近付かれるということは、尚更攻撃無効が響く。漣や曙のようにブーストが利かなくなるわけではないにしろ、出来ることが回避しかなくなるのは、最終的にはジリ貧だ。
「その怒りの炎で勝手に燃え尽きてくださいよ! 迷惑なんですよ姉さんは!」
確実に言わないような言葉を投げかけるが、海風はわかっていない。そういう言葉を聞かせれば聞かせるほど、春雨の怒りはより深いモノになり、力を増していくのだから。
瞳の真紅の焔がさらに燃え上がり、その手を海風に伸ばす。当然海風は回避しようとするのだが、ここで海風自身に異変が起きた。
「なっ」
「アァああっ!」
その瞬間、春雨の手は海風の顔面を捉えていた。別に向かってくる春雨に恐怖を感じたから動けなかったわけではない。直前まで回避しようとしていたし、むしろ、普段よりも大きく避けるつもりでもあったため、海面を力強く踏み締めていたくらいだった。
なのに、春雨が手を伸ばしたことで海風の身体は途端に動かなくなった。力が抜けたわけではなく、どちらかといえば金縛り。意思とは裏腹に、身体がいうことを聞いてくれなかった。
「な、なんで……身体が、う、動かなく……っあぁあっ!?」
再び海風の体内の泥が蒸発していくような熱が発生。締め付け以上のダメージが入っていく。触れて侵蝕しようとするものに対する当てつけのような苦痛を与えていった。
「このっ、ふざけんな!」
そこに割って入ったのは曙である。海風を囮のようにして、その後ろから主砲を放っていた。先程も魚雷で海風諸共春雨を始末しようとしただけあり、仲間が捕らえられていてもお構いなしである。
そしてそれは当然、春雨の怒りを買う。撃とうとした瞬間、グルンと胴を回して曙を睨みつけた。紅く燃える瞳に見据えられた瞬間、曙は意識していなくとも身体が萎縮したような感覚を得る。その結果、砲撃はまともに出来ず、あらぬ方向へと飛んでいった。
「なっ、何よ、これ……!」
「なら漣の出番だい! ちょりゃーっ!」
その隙を見逃さず、漣も魚雷を放つ。今回は悪意の塊を格納することはなく、避けられないくらいに密集させ、直撃せずとも大爆発を起こし、いくらあの春雨でも木っ端微塵になるだろうと画策して。海風も巻き込まれるが、漣の中では所詮この現場で手に入れたばかりの戦力。失われても大したことでは無いと内心思いつつ。
「朧も入るよ。確かにアレはまずいからね」
そして朧参戦。叢雲の監視下ではあるが、仲間を救うためという名目を守るために、漣の魚雷に合わせて砲撃を乱射した。こちらも相変わらず海風のことなんて何も考えていない砲撃である。
何はなくとも、春雨だけは始末しなくてはならない。そのためには手段は選んでいられないし、犠牲も問わない。だからこそ、まるで躊躇は無かった。これが捕らえられているのが漣や曙でも、朧は同じことをしていただろう。
「あああぁああアアぁアァアアア!」
対する春雨は、海風を盾にするようなこともせず、怒りに任せて行動を開始。脚を生やしている状態でも並ではない速度を発揮し、魚雷も砲撃も回避して3人に突っ込む。無論、海風の頭は掴んだままである。
その様に、漣や曙だけでなく、朧も否応なしに恐怖を感じた。いくら深海棲艦といえど、他人を片手で掴んだまま、まるで速度を落とさずに突っ込んでくるなんてありえない。
「私が動きを止めます!」
その突撃を食い止めるため、今度は薄雲が乱入。春雨のよくわからない力が及ばないであろう場所から鎖を振り、こちらも海風諸共縛り付けた。それにより、漣達3人への接近は未然に食い止められる。
「っぎっ、あぁあああっ!?」
海風はそうされたことで掴まれている頭以外にも春雨と密着することになり、全ての場所で劫火のような熱を感じることとなった。体内の泥が蒸発し、しかし内側では増殖し、無限地獄が始まる。
しかし、泥の蒸発する範囲が数倍に増えたことにより、苦痛と同時に違う感覚も生まれる。何かから
増殖は続けるものの、海風の体内の泥の容量が、少しずつ減ってきている。春雨の
「アァアアアッ!」
縛られている春雨は当然その持ち主を睨み付ける。漣達と同様、その真紅に燃える瞳に見据えられた瞬間、薄雲もゾクリと恐怖が生まれる。
そして、しっかり捕らえているはずの鎖がドロリと溶け出し、拘束がそのまま解かれた。鎖も艤装であるのだから、こうなって当然。ここまで見ていたわけではないため、薄雲は驚きを隠せない。
「え、ええっ!?」
当然これにより春雨の標的は薄雲に変更。漣達は当たり前のように薄雲を囮にして、その場から離れていた。
春雨が最も近い者を狙い続けると勘付いたようで、誰か1人を
しかし、そんなことが許されるわけがない。少なくとも、朧だけはここから逃げ出せない理由がある。今でも監視が続いているのだから。
「で、でも時間は稼げてる。今のうちに撤退を」
「させると思ってんの?」
もう完全に逃げ腰の漣の真後ろ。朧と薄雲を監視している叢雲が、逃げさせるどころか春雨の方に押し出した。槍の柄で突き飛ばしただけ有情。絶対に逃がさないという意志の下、春雨に匹敵するかもしれない怒りをぶつける。
「誰のせいでこうなったと思ってんの。責任を取るのはアンタ達の仕事よ。死んでも春雨の暴走を食い止めろ。むしろ死ね」
「アンタ、今そういうこと言ってる場合じゃ」
「アイツに殺されるか私に殺されるか選ばせてやるっつってんのよ!」
曙に突っ掛かられるが、容赦無く叢雲はその槍で曙を打ち付ける。その目は冷たく、見下した顔。
「ったぁ!? 何すんのよ!」
「アンタ達みたいなクズでも、少しは役に立ちなさいよ! ヒト様の平和を勝手に脅かしておいて、予想外のことで制御出来なくなったら他人任せで逃げ果せようなんて都合のいいことがあると思ってんの!? 世界の誰もがアンタ達を許したとしても、私が絶対に許さない。ほら、さっさと行って、無様に散ってこい! 今ここで私が殺さないだけありがたいと思え!」
曙の腹に槍の柄を押し当てたかと思いきや、それを怒りの力で巨大化させ春雨に強引に突撃させる。
「ちょっ、アンタぁぁ!」
「次はアンタよ」
叫ぶ曙を無視して、叢雲は次はお前だと及び腰になっている漣を睨み付け、槍ではなく脚で蹴り押す。
「な、何すんのさ!」
「敵には何をしてもいいでしょ。さっきもあのバカに言ったけど、殺されないだけマシだと思いなさい。逆の立場ならアンタ達はニヤニヤしながらこういうことするわよね。だから私がやってやってんの。ほら、立って突っ込め。ゴミはゴミなりに根性見せて、責任を取れ!」
漣を蹴り上げた後、そのまま春雨に向けて突き飛ばす。流石に吹っ飛ばされるようなことはないにしろ、叢雲の剣幕に少なからず慄いていた。
春雨のみならず、叢雲も悪意の塊による侵蝕が効かないとなると、完全な実力差になる。朧も従うしかないと首を横に振ったため、漣はギリッと歯軋りをしながら春雨を見据える。
「ああもう、やってやる、やってやらぁ! これでもご主人様の
と意気込んだところで、薄雲を蹴り飛ばして追い討ちを仕掛けようとしていた春雨の視線が曙と漣に向く。やはりそこでどうしても萎縮してしまうが、今回はそれだけではすまない。回避しようとする気持ちはあっても、身体が動かなくなった。
「うぇっ!?」
「な、なんで、身体が動かない……!?」
春雨に見つめられると不可解なことが起き続ける。最初は艤装の不調から始まった。砲撃が定まらなくなり、勝手に溶け落ち、今は艦娘本体にすら影響を齎す。
今春雨に最も近い位置にいる海風にはさらに強い影響が発揮される。縛られたことによって頭から手が外れたが、逃がさないと言わんばかりに代わりに首を絞めるように拘束している上に、春雨の意識の範囲に入っていることで身体も動かすことが出来ず、密着していることで体内の泥が次々と蒸発していくために苦痛が酷くなった結果、もう悲鳴を上げることも出来ずに白眼を剥きかけていた。
蒸発の速度が増殖の速度を上回ったことで海風の中の泥が失われていく。地獄の業火に焼かれながらも、泥が僅かになったことで苦痛は減り、ただ激しく消耗させられる。
「っあ、あぁああっ!?」
そして、一際大きな苦痛の悲鳴を上げた後、ついには
春雨の憤怒の焔がどんどん増していることが理由。泥の蒸発の速度も上がり、海風の中に巣くう寄生虫を全て燃やし尽くしたのである。
全て失われれば、春雨から与えられる苦痛は失われる。気を失う直前くらいまで持っていかれたことで、海風はもう息も絶え絶えである。
「う、あぁ……ね、姉……さん……」
生半可な苦痛では無かったが、泥の侵蝕を春雨のお陰で脱却することが出来たのは確かだ。怒りに狂いながらも、春雨の心の底からの望みは全員の救出。泥を失わせることが願いだ。それが達成されたこととなる。
今までの行い、姉を苦しめるために嬉々として煽っていた自分が嫌で嫌で仕方なく、自死を選びたいほどの絶望に苛まれつつある状況にあるが、力を振り絞って姉に声をかける。
しかし、もう理性も何もかもをかなぐり捨てている春雨には、海風の声も届かない。名前を呼ばれたことで反応はするが、海風がもう元に戻っていることには気付けない。
「ッア、アァアああああっ!」
何を思ったか、絞め続けていた海風を解放したのも束の間、再び顔面を掴み上げて放り投げた。首がどうにかなってしまいそうだったが、なんとか耐えて着水。ゴロゴロ転がりながらもどうにか膝をつき、立ちあがろうと踏ん張る。
「姉さん、姉さん! 私は……海風は! 姉さんのおかげで、元に戻れました! だから……っ」
今の見た目ではわかってもらえないだろうと、すぐさま制服姿に戻る。いつもの海風であると示して、春雨に正気に戻ってもらおうと、発作に耐えながら力を振り絞る。
春雨への敵対の心なんて何処にもない。今までの自分に反吐が出る。そして、春雨と叢雲以外の者に対して敵意を振りまく。もう泥の影響なんて何処にもないと、言動全てで伝えた。
「だから、その怒りを治めて、ください!」
「アァア、あぁっ、うみ、かゼェ……アァアアアぁああアアァアっ!」
海風に目が行き、元に戻ったことを確認したことで暴走が止まりかけたのだが、一度溢れ出した怒りは簡単には止まることはなく、マグマがより一層溢れ出す。
自分すら焼き尽くしかねないほどに溢れたそれは、春雨の両腕を包み込んで装甲となる。見た目は義脚に近しいものだが、繭の中で生まれ変わるように海風の右腕のように本当の腕を溶かしているかのようだった。
あの艤装が完成してしまったら、春雨は両脚どころか両腕すらも失うことになるだろう。それだけは許されない。海風の絶望はさらに拡がる。
「ダメ、ダメです、姉さん、そんなことしちゃ、ダメですっ!」
その声は春雨には届かない。例え海風であっても、今の春雨には何も届かない。
しかし、その声は別の者には届いた。突如春雨が空中に舞い上がった。
「えっ……!?」
そこにいたのは、2人の少女。まるで戯けるように踊りながら、春雨を吹っ飛ばしたにもかかわらず、恭しくお辞儀する。海風はその姿、その仕草を知っている。
「すまない、もっと早く来ることが出来れば良かったのだが、手間取ってしまった」
そして、その2人の少女、道化を操る、いわば
「『観測者』……様……」
「春雨を取り戻しに馳せ参じた。力を貸そう」
戦場に現れたのは『観測者』。春雨の暴走を止めるために、中立を謳う者達が戦いに参戦した。